もう、見捨てられるのは、こりごりなんだ。 春に 目が醒めた。 ひどい量の汗だ。 それでいて、決して暑いわけではない。むしろ季節はまだ、ようやく春になろうとしているときなのだから。 …夢を見た。もう、何度も見てきた、あの夢だ。昔から、幾度となく見てきた、あの夢。 最近は見ることなんてなくなっていたのに、あの人と特別な関係になってからというもの、ひっきりなしだ。…原因の検討は、ついている。 そう、把握はできるものの、なんだか、自分がひどく小さくて、情けないちっぽけな存在に見えてきて、彼――ルビーはこの夢の話を、あの人はおろか、誰にも話していない。…話せるわけが、ない。 「…っ」 右のこめかみにある、大きな古傷が、悲鳴をあげた。あの夢を見たあとは、大抵、痛みだす。この痕は、あの娘を守った証でもあるが、やはりまだ、己のキャパシティを超える重みがのしかかっている。 …でも、一番傷ついているのはあの娘だ。あの娘と会うと、無意識なのだろうが、自然と不安気な視線が、帽子をかぶっているのに、右のこめかみに集中してくるのだから。 それなのに、あの人ときたら、一度、帽子とったところ見たことがないなあ、とか言いだして、無理やりひっぺがそうとしたのだから、タチがわるいこと、この上ない。 「ダイゴさん…」 正直、彼から告白を受けたときは、吐き気がした。 それは彼が自分と同性だとか、そういうのではなくて、何も知らないくせに、『自分を好きだ』という彼の心が、わからなくて、わからなくて、見えなくて。ましてや、彼はあのデボン・コーポレーションの御曽司だ。自分よりも、はるかに『大人』の存在なのだ。なんで大人が、それも彼ほど輝いていてまぶしくて、強くてたくましい存在が、ちっぽけな子供の自分を好きだというのかが、さっぱりわからない。 あの人はまだ、ボクの醜さなんて、これっぽっちも知らないのだ。本来なら、きっぱりと断ってしまえばよかったのに、どうしてあの時のボクは、それができなかったのだろう。…どうして、「いいですよ」なんて言ってしまったのだろう。……こんなに、苦しいのに。 「いたっ……う」 傷の痛みがじんじんと、どくどくと生き物のように広がっていく。 おかしいな…今日はなんだか、いつもに増して、痛いというか…苦しい。重い。重く荒い吐息が、口から漏れる。 幼い瞳に焼きついた、あの広くて大きい背中が、脳裏から離れない。 「行かないで、父さん…」 ふと、無意識に漏れた声に、一気に顔の温度が上がる。 な、何を言ってるんだ、ボクは……いや。わかってる、本当は。 もう、大切な人に置き去りにされるのが、怖いのだ。 もう、大切な人の背中を見るのが、怖いのだ。 …もう、大人が自分を置き去りにしていくのが、 「…っ!」 赦せないのだ。 傷が、どくん、と硫酸をかけられたときのように、 いや、ボーマンダの爪が、 いや、あの娘の脅えた眼が、 とにかく、 ひどくひどく、痛い、重い。 …ふと、何故かダイゴから告白されたときの情景が、よみがえってきた。 いきなり、話があるとか呼び出されて、来てみれば、初めて彼と会った場所、あの海だった。 彼ときたら、妙にしどろもどろしていて、だらしない大人だなあ、何だか知らないけれど早く用事済ませてくれないかなあ、と正直苛立たしかった。 …だから、 「君のことが好きなんだ」 …そう、言われたときの瞳の強さとのギャップが、忘れられなくて。不覚にも、一瞬嬉しくなっただなんて、言えない。 もう、裏切られるのはたくさんだ。 あれだけ、愛情をこの小さな身体に注いでおいて、背中をむけられるのは、もう。 …それ、なのに。どうして、あのときのボクは、 「…いいですよ」 「……へ?」 「だから。お付き合いしてさし上げてもいいですよ、って言っているんです」 「…ほ、本当かい?!」 「嘘です」 「……え」 「…何、子供の一言一言に顔色変えて振り回されているんですか。情けないですね」 「ちょ、え、いや、えっと、え???」 何やら妙に困惑気味の大人を見て、子供はぷっ、と噴き出した。 「Cute!」 「へ? …キュート?」 「だって、大人なのに、ボクの一言一言に振り回されてるなんて…かわいい」 「…う。正直、それは複雑だなあ。…だいたい、」 いきなり、またあの強い瞳で、ルビーを貫いた。 「大人だろうが、子供だろうが。…大切で、好きな人の一言一言が気になって仕方がないのは、誰だって、いつだって、変わらないと思うんだけれど」 それはとても、まっすぐで、純粋で、でも、とてもとても、強い瞳だった。…とてもとても、まぶしかった。 「!!」 再び、大きくうねった痛みに、意識を戻された。 痛い、 痛い痛い痛い痛い痛い痛い、 痛い。 えっと…痛み止めの薬……こんなにひどいのは、久しぶりだ…えっと…どこだっけ…まだ昔の、あったっけ…。朦朧とした意識で、痛み止めを探そうと、ようやくベッドから這い出したけれど、すぐにぺたん、と腰の力が抜けてしまった。 こんな姿、あの人に見られたくないな…。 いや、それ以前に。情けないことを言ってしまえば。 …たすけて。 「ルビー君、大丈夫?!」 …はい? あれ、なんでダイゴさんがボクの部屋にいるんだろう。…おかしくなって、幻でも見ているのだろうか。 …いや、この際。いや、むしろ幻だからこそ、都合が良い。 「ダイゴさんも…いつかは、ボクを見捨てるんですか?」 「……え…?」 自分でも、驚いていた。…ボクは、何を言っている? でも、一度言いだしたら、止まらなくなっていた。 「あのときの父さんのように、ボクを見捨てるんですか?」 「ルビー君…?」 「ダイゴさんも、大人だから、ボクを見捨てるんですか?」 「な…にを…」 「大人って、都合が悪いと、愛していたものでもあっさり見捨ててしまうものなんですか?」 「ル」「……もう、」 「大人の背中を見るのは、たくさんなんです」 幻が、何も言わなくなった。 急激に、自分が情けなくなった。 …ボクは、何を言っているのだろう。 幻が相手とはいえ、これではただの、八当たりじゃないか。 この人は、父さんじゃないのに。 そもそも、父さんがボクを置いていったのも、ボクが悪いからなのに…。 「僕には、お母さんがいなくてね。今の君よりももっと小さい頃に、僕と父さんを置いて、天国へ行ってしまった」 幻が唐突に、信じられないことを言った。ルビーは目を見開いて、幻を見つめていた。幻は、目を伏せて語り出した。 「最初はよくわからなくてね。でも、お母さんが僕を置いて、遠く遠くへ行ってしまったのはわかった。…もう、決してたどりつくことが出きない、遠くまで」 苦しそうな、笑顔。それだけで、すべてが伝わった。 彼が今までに背負い続けてきた、いや、今もなお、むしろ、一生背負い続けなければならない、喪失と痛みと苦しみを。 …ああ、そうか。 この人も、ボクと同じ…いや、もっと重い、死というものを、小さい頃から背負ってきていたのか…。 「最初は母さんを、それはそれはもう、恨んだっけなあ。どうして、僕を置いて遠くへいってしまったの、って。父さんに八当たりして、困らせたことも何度もあった」 目を細めて、幻は言う。 「一度、どうして母さんは僕を産んだの?って、父さんに問い詰めたことがあってね。…僕を置いていくくらいなら、こんな辛い思いをさせるくらいなら、どうしてって」 君にだから言えることだよ、と苦笑してつけたして、幻は言う。 「そしたら…いつも困った顔しかしていなかった父さんが、温厚な父さんが、思いっきり僕を殴ったよ。そして、怒鳴った」 また、あの強い瞳で見つめてきた。 「『母さんも、好きでお前を置いていったのではない』って」 『好きで置いていったのではない』 ああ、そうだ、父さんだって、好きでボクを置いていったんじゃない。…わかってる、今はもう、それだって、痛いくらいにわかっていた、はずなのに。 「今、思えば…幼い僕を置いていかなければならない、母さんの方が、もっともっと、辛かっただろうにね」 ああ…そうだ…そうなんです、父さんも、辛かったんです…。 「その…君のお父さんのことを、僕はまだよく知らないのだけれど……君がそれだけ傷ついているってことは、それだけ大切なお父さんなんだよね? …大好きなんだよね?」 幻の言葉に、自分でも驚くほど素直に、こくん、と、頷いていた。気がつけば、自分の目尻から涙がぽろぽろ流れていた。 うんうん、と、幻も頷く。 「辛かったね。頑張ったね。…でも、僕の前くらいは、頑張らなくていいんだよ?」 優しく、幻の指が、痕を撫でる。 「僕は、君を見捨てたりなんて、しない」 その一言がきっかけだった。 うわああああん、と、大声を出して、情けないとかもうそういうのはどうでもよくて、幻の胸にしがみついて、 泣いて、泣いて、泣いて。 あの日からずっとずっと、抑えていたものが、ヒカリの洪水のように溢れだして流れていく。 幻はそれを堰(せ)き止めることなどせず、すべてを真正面から抵抗することなく、受け入れた。 とてもとても優しくて、すこしだけ心が痛んで、でも何よりも、嬉しかった。 「…ふう」 泣き疲れたのか、子供はすやすやと、安らかな呼吸で寝ていた。 その顔を複雑に見つめる大人が、一人。 「まったく…本当に、放っておけないんだから。嫌な予感がして、仕事放り出して来てみれば…」 困ったような、でも幸せそうな笑顔だった。不意に、ピピピと、小さく機会音がなりだした。手首にはめてある腕時計型のポケギアからだった。 「申し訳ない。すぐに戻るから、もうちょっと耐えてくれるかい?」 手首に向かって、話かける。その顔は仕事で部下たちに見せる顔と同じだった。少しだけ硬い表情。 だが、会話が終わったとたん、また元の…愛しい人に見せる柔和な表情に戻った。 「…さて、と。僕も大人に戻らなくちゃ…ルビー君」 子供に向かって、彼は言う。 「その…前はむりやり帽子を取ろうとして、申し訳なかった。傷痕、見られたくなかったんだよね。…ごめん。…僕なんかでは力になれないかもしれないけれど…辛いときがあったら、遠慮せず僕を呼んで。それと、」 眠る子供の耳元で、自分の愛しい人の耳元で、彼は一言だけ、囁いた。 「愛してる」 夢を見た。 それは、辛い夢ではなくて。 春の日差しのような、あたたかい、あたたかいヒカリのユメ。 向けられた、背中。 その背中は、とてもあたたかく見えました。その背中の行く先が、たくさんの光で溢れていたから。 あの人は、春をボクにもたらしてくれました。 END 表題と一部のイメージは、谷川俊太郎氏の詩から。 色々と自分の中でくすぶるものをあれこれぶつけたような小説でしたが、なんとか書き上げられたのもある方のアドバイスのおかげです、心から感謝します。 ダイゴさんはどうやってルビーの部屋に侵入したのかとか、そもそも何でダイゴさんがルビーの家を知ってるのかとか、色々突っ込みどろこがあるとは思いますが、そこはまあ、いろいろ補完してあげてください。 ※お手数ですが、ブラウザバックでお戻りください。 |
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