どんなに深い眠りについていても、

 どんなに長い間闇の中を彷徨っていても、

 目覚めるのは一瞬だ。




 ギィィ…と甲高い、耳障りな音が地下室に響く。
 古い棺桶が開く音だ。
 そこから伸びた手は、一度棺桶の中に戻ると底に手をつき、ゆっくりと身を起き上がらせる。
「……ッ!」
 彼は立ち上がろうとしたが、200年間も眠っていたその体に力が入らず、
 ドサッと石造りの床に倒れこんだ。
「…はあッ……」
 大きく息を吐き、彼は床を這いずりながら階段を登った。
 激しい空腹感―食物を欲している時の空腹感ではなく、血液を欲しているときの―だけが、彼を突き動かす。
 やがて彼は、城の外へ出た。
 そこには、目が眩む程の赤いバラが咲き乱れていた。
 しかし、それは彼が近寄っただけでシオシオと枯れ落ちてしまった。
 精気を吸れてしまったのだ。
「……まだ…足りない………」
 そう言って、少しだけ回復した彼は、背中の翼を大きく広げた。




 多くの人が通る道を、スマイルは上機嫌で歩いていた。
 この街を越えれば、旅の最終地点の町に着く。
「んん〜!すっかりこの辺も変わったねぇ〜♪あの時は木しかなかったのに…」
 と言いながら、彼は懐かしそうに目を細めた。
 そう、この街は彼の出発地点。
 ユーリと最後に別かれた場所であった。
 昔は緑でいっぱいの道だったのに、今は立派な建物が建っている。
 そして、元は森だった場所には別の町―スマイルが旅の最終地点にしようとしている町―がある。
 その先には、はやり森があるのだが、その町からはユーリ城が見える程、森は切り開かれているのであった。
 全く、時の流れとは怖いものである。
 そんな事を思いながら、彼は早く次の町に着くように足を速めた。
 しかし、その軽快な足取りは、ある地点でピタッと止まる。
「………あれ?」
 彼が止まったのは一件の花屋。
 そこには色とりどりの花が(温室栽培しているのか、多少季節外れな花もある)咲き誇る、
 ごく普通の花屋である。
 しかし、その花屋にはどこか違和感があった。
「…何か足りない…何が足りないんだろ?」
 スマイルは、その違和感の正体を探すべく、そこに入った。
 すると、すぐに「いらっしゃい!」と店のおばちゃんが愛想よく声をかけてくる。
 その声にスマイルは「こんにちは」と挨拶すると、店内を見回した。
 案の定、違和感の正体はすぐに見つかった。
(そうか!バラが無いんだ!)
 今は、どこの町でもバラが満開な季節である。
 前の村の花屋には、店内に収まりきらないの程のバラの花が並べられていたのだ。
 ところが、この店には一輪もそれが見当たらない。
 バラの花の他にも、水仙等の花も無い事に気付いた。
「ああ、ごめんなさいね。今バラの花全然無いのよ」
 しばらく空っぽのバラの花の容器の前に立っていたら、おばちゃんが声をかけてきた。
「おばちゃん、何でバラが無いの?」
「それがね、何でか昨日の晩にみ〜んな枯れちゃってねぇ。バラだけじゃないよ。香りの強い花全部ね。何か植物の病気でも流行ってるのかねぇ?」
 おかげで商売上がったりだよ、と言って彼女は苦笑いを浮かべた。
「へぇ〜、大変ダネ」
「でもね、病気にしちゃ変なのよねぇ。うちって温室もやってるから、病気には気を付けてるんだけど…。でも、香りの強い花ばかり狙うのって、何だか吸血鬼みたいね」
「…吸、血鬼?」
 ピクッと、スマイルの顔色が変わった。
「ええ。ほら、吸血鬼って香りの強い花の精気を吸うじゃない?あれみたいにさ。ああでも、一度にこんな大量に吸う吸血鬼なんかいないか」
 いや、と、スマイルは頭の中で彼女の言葉を否定する。
 確かに吸血鬼は血液を摂取する変わりに、花の(主にバラの)精気を吸う事がある。
 しかしそれでも、一度に大量に摂取する必要はない。
 満月時でも、バラ三輪もあれば事は足りる事だ。
 だが、長い眠りから覚めた時だけは別だ。
 数十年間眠り続けた体は、目覚めた時は極度の栄養不足状態になる。
 だから、満月時以上に血液を欲するのだと、昔ユーリから聞いた事があった。
 もしかしたら、という考えが、スマイルの脳裏に浮かぶ。
「おばちゃん!これって、隣の町でも起きてるの!?それから、この街でまだ無事な店教えて!」
「えっ?…ええ、隣町のバラも全滅したらしいわよ。それから、えーと・・・確かこの街の一番南にある花屋は、まだバラが置いてあったような……」
「ありがと!!」
 それを聞くや否や、スマイルはその花屋を飛び出した。




 彼女の言った通り、その店ではまだバラの花が置いてあった。
 店の人に聞くと、このバラはこの街から少し離れた場所で栽培しているらしい。
 スマイルは、その花屋の店長にその場所を聞くと(バラが次々に枯れていく原因を調べるためと言ったら、快く教えてくれた)、急いでその場所へと向かった。
 もしそこにまだバラの花が咲いているなら、それを求めてそこにユーリが来るかもしれない。
 そう思って、彼は走った。

 しかし、彼の予想は意外な形で外れた。

 それは、少し森に入った、緑の濃い場所にあった。
 辺たり一面に広がるバラの園。
 深緑の葉に、真っ赤な花弁がよく映える。
「…よかった…まだここは無事だ」
 一瞬彼はほっと息を吐いたが、次の瞬間、その目は見開かれた。
 一面のバラのその空間の中に、明らかにバラではない物が混ざっていたのだ。
 漆黒を思わせる黒い服と、白銀に輝く髪、そして、明らかに人間ではないと主張しているような赤い翼。
 忘れるはずがない。今一番会いたい人物がバラの花に抱かれるように倒れているのだ。
「ユーリ!!」
 スマイルは、走り過ぎて疲労と痛みを訴える足を叱曹オて、ユーリの元へ走った。
 途中で幾数本もあるバラの棘に服を引き裂かれたが、そんな事を気にしている余裕は無い。
 そして、なんとか彼の元へ辿り着いたスマイルは、その場にしゃがみ、うつ伏せに倒れていた彼を抱き起こした。
 しかし、死人のように白い顔をして、目を閉じたままぐったりと動かない。
 冷たい汗が、スマイルのこめかみを流れる。
 一瞬、死んでいるのではと思い、彼はユーリの左胸に耳を当てる。
 そこに、確かな鼓動を聞き取り、とりあえず生きていると確認した。
「ユーリ…」
 彼は、もう一度彼の名を呼んだ。
 その声に反応したのか、微かにユーリの指が動く。
 そして、ゆっくりと薄く彼の目が開いた。
「ユーリ!気が付いた!?」
 意識を取り戻したユーリを見て、スマイルは嬉しそうな声を上げる。
 しかし、ユーリはスマイルに焦点を合わせようとせず、虚ろな目でただ自分の周りにあるバラの花を見つめていた。
「……ユーリ?」
「……」
「ユーリ?…ねぇ、ユーリってば!!」
 ガクガクとユーリの体を揺すってみるが、やはり彼はバラから視線を外さない。
「……――…」
「…えっ?」
 ふいに、ユーリの口が動いた。しかし、声は発せられていない。
「…何?…聞こえないよ?」
「…何故……精気が吸えない………?」
「え?」
 ユーリはのろのろと右手を持ち上げた。
 そこには一輪のバラの花が握られている。
 ギュッとそれを握る手に力が入り、棘が刺さったのか、血が流れ落ちた。
 しかし、バラはほんの少し色あせただけで、枯れる気配を見せない。
 その行為が無駄と知ると、彼は力なく腕を下ろした。
「…やはり…吸えない……私は…こんなに、飢えているのに……」
 スマイルは、ハッとなってユーリを見た。
 彼は一度に花の精気を吸いすぎたのだ。
 一度に大量に精気を摂取した事により、彼はもうそれを受け付けられない体になっていたのだ。
 だが、ユーリはそれでは追いつかないくらい衰弱しきっている。
 今自分に出来る事は……
 スマイルは、首元の包帯を解いた。
「ユーリ、ボクの血を吸ってよ!!」
 花の精気が摂取出来ないのなら、自分の血を吸わせるしかない。
 それが今彼が思い付く、最善の方法だった。
「……血…?」
「そうだよ!ホラ、早くしないと死んじゃうよ!」
 そう言って、スマイルは自分の首筋にユーリの顔を近付けさせた。
 しかし、ユーリは彼の首筋を見るだけで牙を立てようとはしない。
「……なん…で…?」
 掠れた声でスマイルは呟いた。
「…何で!何で何もしないのさ!!」
 悲痛な叫びがその場に響いた。
 彼の眼から溢れた涙が、頬を流れ、ユーリの服に落ちる。
「…ユーリ…何か言ってよ……」
「……ない…」
 再び、ユーリの口が動いた。
「…えっ?…ユー、リ…?」
「…お前を…傷付ける事は…出来無い……」
「ユーリ…ボクの事が解かるの…?」
 スマイルはユーリの顔を見た。ユーリは今度は真っ直ぐ彼を見ている。
 そして、ゆっくり左手を上げるとスマイルの頬に触れ、涙を拭いてやった。
「…スマイル…私は、次に会う時には…笑顔(スマイル)が似合う、男になれって…言ったはずだ……何故、そんな顔を…している…?」
「ッ!…バカッ!!そんな事言ってる場合じゃないでしょ!」
 叫ぶように言って、彼はユーリを強く抱きしめた。
「…スマイル……」
「…ユーリぃ…もう、バラの精気は吸えないんでしょ?…ボクの事はいいからさぁ……血、吸ってよ…じゃないと…ユー、リ…本当に……」
 最後の方は、ほとんど声になっていなかった。
「……貧血に…なるぞ…?」
「かまわないよ!…だから、さ…?」
 更に、ユーリの口を自分の首筋に近付けさせる。
「…死んでも、知らんからな…?」
 そう言い、ユーリはスマイルの背に腕を回す。
 そして、少し躊躇した後、ユーリは思い切って彼の体に牙を立てた。
「くっ、ああぁっ!」
 途端に激しい痛みが走る。
 その激痛の為、思わずユーリの背に回している手に力を込めそうになったが、代わりに自分の腕を掴んだ。
 やがて痛みは消えたが、徐々に手足の先が麻痺していくのを感じる。
「ッ…ユーリ…ぃ!」
 スマイルの位置からユーリの顔は見えない。
 ただ彼は、規則的に喉を鳴らしているだけだった。
 だが、血を吸われ続け、スマイルの体にも限界が近付いて来た。
 しかし、今ユーリの体を引き離す訳にはいかない。
 彼は目を閉じ、ただひたすら血が無くなっていく感覚に耐えた。

 そして、沈黙した時間が、しばらく続いた。





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