朝と夜の間の話
朝と夜の間の話
部屋にいても、剣士二人が打ち合う音は聞こえた。
いつもより激しく響く金属音が感情的な気がして、あの剣士さんに珍しいこともあるのねと
本の頁をめくる手を止めて思った。
前の島で購入した歴史書はそれから程なくして読み終えてしまったのだけど、
一応部屋を出るのは音が止んでしばらく待ってからにした。
扉を開けて、芝生の甲板を進む。
ダイニングの入口の前で、ブルックが遠くを見つめて佇んでいることには最初から気付いていたが、
あえて声をかけるのは彼の隣に並んだ時にした。
「ブルック」
横から声をかけると、彼はさも驚いた風に私を振り向いた。
彼の真っすぐを見据えた視界には、どうやら私は入っていなかったらしい。
何をしているの?と続けて聞いた。
本当は何をしていたの?とも聞きたかった。
けれどどちらの答えも得られずに、目の前の彼は俯いて、右手をさすりながらヨホホと言っただけだった。
少しの間、沈黙。
二人の間には、カサリカサリと彼が自分の指を愛おしそうに撫でる音が聞こえるだけで。
様子を伺っていて、気付く。
あぁ彼は、笑もうとしているのだ。
きっと嬉しいことがあったのに、何かに邪魔されて笑えない。そんな風。
その様子があまりに弱々しくて、痛々しくて、
思わず考える前にブルック、と彼の名を呼んでしまった。
彼が白い、顔をあげる。
夕焼けを一身に受けて、まるで燃えているみたい。
その炎の中で、彼はただただ哀しい目をしていた。
『夜が、来てしまいますね』
ブルックは、そう言った。
一気に彼を邪魔している“何か”が何なのかわかった気がする。
思い出すのは、彼と出会ったあの日の
まるで押し潰されてしまいそうな憂鬱さをはらむ霧の灰色。
夜も朝もない、あの魔の三角地帯で50年もの孤独と闘っていた彼を捕らえていたのは、
きっと圧倒的な重さを持った暗闇なのだ。
彼は救われたはずだった。奪われた影を取り返し、新たな仲間のいる船に乗って。
でも、そう簡単に変われる筈が無いのよね、と思う。
心を厚く覆った雲は、すぐには晴れないことを私はよく知っている。
「そんなに怖がることないんじゃないかしら」
できるだけ優しく言った。彼の雲が、少しでも早く晴れることを願って。
ここは太陽の船。いずれきっとあなたの暗闇も明けるはず。
私ですらここで救われたのだから。
「夜は確かに暗いけど、それは決して闇では無いのよ」
自然、声が凜と張った。
これは、私がこの船の仲間達に教えてもらったことだ。
夜に太陽は確かに昇らない。
でも星は出る。月も浮かぶ。
心細くとも光はずっとそこに在る。
見えないことを失ったと考えてしまうのは余りに短絡的で、
ただただ自分を追い込んでしまうだけ。
真っ直ぐ立って上を見上げれば、夜は決して闇ではないのだ。
「不安なら、今日夜をよく見てみるといいわ。」
あなたを遮る霧はもう、ないのだから。
ブルックは、右手を優しく握ったままじっと私のことを見つめていた。
その目はまるで夜中に恐い夢を見て、安心を求めて母親に縋る子供のようで
(私より遥かに長い時間を生きている彼を子供に例えるのはおかしいかもしれないが)、
仲間としてはやくそこから抜け出せればいいと強く思う。
手なら貸せるのよ、いくらでも。
「…そうですね、今日しっかり見てみることにします。なるべく真っすぐに」
彼は言い切ってから空を仰ぐ。
夕日は半分ほどその身を海に沈め、すでに夜を引き連れている。
少しずつ広がる藍色が、ブルックにも美しく感じられていればいいのに。
「夕御飯、そろそろですかね。今日のメニューが楽しみです」
いつもの口調に戻そうとしたその言葉はまだ力無くて、スカスカとしていたけれど
あなたならきっと大丈夫、と私は心の中で呟いた。