アリスあなたとお茶を一杯



アリス、あなたとお茶を一杯



嵐のような昼食の時間が過ぎて、クルーはみんな膨れた腹を抱えて外に出て行った。
俺とブルックの二人を残して。
凪を迎えた穏やかなキッチンで、俺は後片付けをし、奴は静かにティーカップを傾けるお決まりの光景。
変わったことなんて何もなかった。そこまでは、何も。


今日ブルックに出したのは、この俺が前の島で2時間かけて選び抜いた品だった。
本当はレディー達に一番に飲んでいただきたかったのだけど、
アイツはアイツで
『今日は新しい茶葉なんですね。味も香りも素晴らしい一品です!』と、
正当な評価をしてくれたから、まぁ良しとしよう。

もう一杯どうだ?と聞けば、それは嬉しそうに頷くので
少し気分がよくなって、茶葉の入った缶を手に取った。
キュポン、と軽い音の後にふわりと品のいい紅茶の香りが鼻をくすぐる。


ブルックは、紅茶のお代わりをもらおうとカップの中の残りをズズズッとすする。
早速注意しようとブルックの口元に視線を向けたときに、気がついた。


「…そのカップ、欠けてんな」
「ヨホ、」


彼の手にあるカップは遠目に見ても年季の刻まれた渋い白色で、
しかもあまりいい保存状態ではなかった。
ひびは入っているし、このガイコツの男の体と同じように
見たところすぐにでも壊れてしまいそうな脆さを感じる。
そう言えば、コイツが紅茶を飲む時はいつも決まってこのカップを使っていた気がする。
今まで気にならなかったのが不思議なくらいだ。

この船で食べることに関して全ての権限を握っている自分には、食材を載せる食器だって管轄内だ。
料理は味覚だけで味わうものではなく、視覚だって立派な要素の一つなのだから、
自分としてはカップだって紅茶の味を一番引き出す最高の物を用意したい。

「それじゃ飲みにくいだろ。今別の…」
「いえ、結構です」


自分としてはごく自然に出た言葉だった。
職業意識があったにしろ、そこまで大袈裟なものではなく軽い軽い親切のつもりだったのに。
いやにきっぱりと断られた。しかもブルックは言ったあと気まずそうに俯いてしまった。
触れられたくない傷に、触れられてしまったように。

急に変わってしまった空気は不可解で、仕方なく元凶の男にあわせて沈黙する。
アイツは俯かせた頭を少しソワソワと左右に動かしている。
何とか変わってしまった空気を打破できるジョークの一つも考えようとしているのだろうか。
それは、させたくなかった。


「何で、だよ」
「…」
「なんか理由でもあんのか?」


また少し、沈黙が落ちる。
自分を見る視線に真剣さを感じて、ブルックは観念をしたようだった。
それでも彼の空虚な眼窩は、なるべく言葉にしやすいような傷の浅い所を探した。

「このカップは、私の前の船から持ってきたものです」
「…」
「前の船で何かを飲むとき、私はいつもこのカップを使っていました。」

ブルックの、船。
言っては悪いかもしれないが、風雨と無情に流れた年月にさらされて
彼の骸骨の体にふさわしいほどボロボロになってしまった、あの船。
はじめてこの男に出会った時、確かにコイツはこのカップで何かを行儀悪くすすっていたなと思い出す。

「持ち出してきたのは、楽器の他に、これだけなのです。
 まぁ使えるものなんて大して残ってなかったんですが。ヨホ」
「思い出の品、か?」

「……」

ブルックは、ほんの少し静止した。
そして、飲む気もないのに紅茶のカップを傾け、頷いてしまおうかと、逡巡したように見えた。


「違うだろ」
「……」
「何か、別の理由があるな」

これは、賭だった。
足元の、薄氷に一歩踏み出すような緊張感。

「聞かせろ、全部。今更だろ」

聞いては、いけないことかもしれない。
触れては、いけない傷かもしれない。
それでも手を伸ばした。
すでにカップが離されて閉じてしまった口がこれきり開かなければ、俺の負けになる。


長い長い瞬きほどの間をとって、ブルックは小さく口を開いた。

「独り、でした。」
「…」
「あの船で私は、いつも独りだったのです。
 哀しかった。寂しかった。
 思い出すのは何時も、幸せで賑やかだった過ぎし日のことばかりだったのです」


仲間の声、太陽の光、波の音。
そして、朗々と響くブルック自慢のバイオリン。
霧の中で闇の中で、ブルックは擦り切れるほど思い出していたのだろう。
それがまるで触れるようなリアルに感じられるまで。


「闇の中で眼を開けても、そこが闇であるのと同じように
 現実感の無い世界で現実でないことを思い描けば、心はどんどん麻痺して行きます。
 私は私が独りでないと、空想をすればするほどそこに引き込まれそうになるのです」

愉しき、虚ろへ。

「約束がなければ、私は悪魔の力を呪いすぐにでもまた黄泉の国引き返していたでしょう。
 それ程の孤独でした。
 しかし私には生きねばならぬ理由があった。
 だから、思い出すのです、幸せだった過去を。けれどそれがまた、私を誘う。
 帰っておいで、そこはお前のいる所じゃない。ほらお前の回りには、懐かしき仲間が待っている」

だけど、しかしと逆説を繰り返し、ブルックは苦しげに過去を語る。
俯いた顔、切れ切れに吐かれる荒い息。
俺は神妙な顔で話を聞いているしかなかった。

「そんな時、唇に…いえ、そんなもの私にはありませんね。歯に、このカップのひびが当たるのです」

カチリ、と。

触れる違和感。突然訪れる現実感。
無情に流れた時の産物だけが、ブルックをこちら側にひきもどす。
歌も光も笑い声も、全て嘘だと。
その身に残されたのは、このカップ。
かつては美しく完璧でありながら、今はもう液体を留めておくことが精一杯になってしまった
ボロボロの、哀れな、

こっちが、本当。

「あんな、暗い、海に、独り」

ブルックが、特別小さな声で呟く。

でも、それが本当。

「だから、私は今でも」
「そのクソボロいカップで茶を飲むんだと?」
「…えぇ」

今、コイツは独りじゃない。この船で、俺達と、海に出ている。

「…懐古か?優越か?」
「…」

それでも昔の仲間が忘れられないのなら、懐古。
あの苦かった過去を笑いたいのなら、優越。

どちらかを味わいたくてそのカップを傾けているのならまだいい。

けれどもしも、


「戒め、か?」


何度も思い返した幸せな過去。
捨てたくて振り切りたくてどうしようもないのに留まることしかできない現在。
闇の中で何度も瞬きを繰り返し、心が孤独に痺れそうになった時、出会った俺達の船。

けれどもし、非情なまでの時の流れを知ってしまったこの男が、その現実を信じることができないのなら。
いずれまた奪われてしまうのではと、不安で仕方がないのだとしたら。

それで彼は小さなひびにその白く固い歯を打ち付けるのか。

ずっと、独り
いつも、独り。

いつかまた、ヒトリ

黙っているブルックに、舌打ちをしたい気分になる。否定をしないのならきっとビンゴなのだ。
鳩尾辺りから上がってくる何かもやもやした感情を、名付けることができなくて俺はガリガリと頭を掻いた。

ルフィなら、笑い飛ばしたかもしれない。
ゾロなら、睨み付けたかもしれない。
ウソップやチョッパーやフランキーあたりなら泣いてやるのかもしれないし、
ナミさんなら少し怒るかもしれなくて、
ロビンちゃんなら大人の余裕で『馬鹿ね、』なんて微笑んでさしあげるのかもしれないだろうが。

俺は、そのどれもできない気がして、


「…それとも、そのカップで飲むと味が違うのか?」

逃げ道を、作ってしまった。


ブルックは少しだけ顔の角度を上げて、そのからっぽの目で俺を見た。
そして困ったように微笑んでしまう。

「…そういうことに、しておいてもらえますか?」

あぁ、畜生。


怒ってやればよかった。
笑い飛ばしてやればよかった。
とにかく、その馬鹿な考えを否定しちまわなきゃならなかったのに。
ガキにもなれず、大人にもなりきれなかった中途半端な自分が腹立たしかった。


ブルックが、この話を終わりにするみたいに、カップを顔ごと傾ける。
何事もなかったようにお湯が沸く。
この紅茶を全て飲み干されてしまったら、きっと二度とこの話はできなくなってしまう。
アイツはこのまま渋い渋い紅茶の色をした闇を、
そのからっぽの腹の中にしまいつづけてしまうのだ。


俺は、アイツに聞こえるように盛大に舌打ちをした。
クソいまいましい。野郎に回す気なんてホントはねぇんだよ。


「あっ!」


ブルックの細い指から古ぼけたカップが奪われる。
冷めて香りもぼやけた紅茶は、俺の、胃の中に。

「…このカップはしまっとけ」
「サンジさん?」
「この船で、もうこのカップでは茶を飲むな。」
「でも」
「俺が、同じ味でいれてやる」
「…」
「そしたらもうこのカップはいらねぇだろ」

文句は言わせねぇ。これが、俺だけにできること。



空のカップをアイツの脇にコトリと置いて食器棚に引き返し、奴に似合いのアンティークな一品を選び出す。
本当は、愛しのレディー達用の特別だったんだけどな。

「…サンジさん、」
「お代わりは?」
「……いただきます。
 あ!牛乳たっぷりのロイヤルミルクティーでお願いしますよ!」


新しく、奴の愛用になるであろうカップを軽く掲げれば、『了解』の合図。

これから俺が、同じ味で、いやそんなの忘れるくらい美味い紅茶を飲ませ続けてやるから。
もうそんな馬鹿な考え、二度とクルーの前で話すなよ、と言いかけて、止めた。
アイツのために、誰かから笑い飛ばされるなり怒られるなりした方がいいのかもしれない。

何か結局人任せなのと、それより一番最初にあのクソいまいましいマリモ頭の剣士が浮かんだのが少し不快で、
俺は舌打ちをしながら火をとめた。

カウンターの向こうでは、ガイコツが二杯目の紅茶を待っている。



テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル