「正面に、礼!」 「ありがとうございました!」 号令と共に、道場どころかグラウンドにまで響き渡るような大声。 今日も、辛く、厳しく…そして楽しい練習が終わった。 先輩達が最後のインターハイを終えて引退していってから、約2ヶ月。 秋も深まり始めた頃に、浜名湖高校柔道部を引っ張っていく役割を俺達二年生が引き継ぐことになった。 「仲安先輩、お先に失礼します!」 「キャプテン、お疲れ様でした!」 一年生の後輩達が、例を終えるなりそそくさと着替えを終え、更衣室を続々と出ていく。 主将。髪を染めるし授業は真面目に受けないしで、決して生活態度のいいとは言えない俺が、主将。 俺には酷く不似合いな肩書きに思えるが、石野や麻里がやるよりは、と半ば自動的に決まったのだ。 それでも、練習の開始や終了、号令の一切は俺がかけるし、連絡網の起点になるのも俺だ。 任された以上放り出すこともできないと考える辺り、昔に比べて随分まともになったものだと思う。 責任感という言葉を最近よく意識するようになったのも、これが原因なんじゃないだろうか。 先輩達が抜けていった今、誰かが仕切っていかなければならないし、仕切るのはいつだって上の者だ。 そんなことを頭の中でぐちゃぐちゃ喋りながら制服に着替え、胴着も袋にしまい終わった。 明日は練習も休みだし、休もうと思えばゆっくり休める。 「鍵、大丈夫?」 更衣室の鍵を閉め、電灯のスイッチを切って外に出ると、頭一つ低い位置から無駄に大きな声が聞こえてきた。 ライオンのたてがみを短くしたようなショートカット、ぱっちりした真ん丸の大きな瞳に、閉まっていることの方が少ない口。 一見すると中学生にも見えてしまうような外見だが、これでも女子柔道48kg級では敵う者のいない、れっきとした女王。 世界チャンピオンにまでなってしまったスーパー柔道少女が、ウチの柔道部にはいるのだ。 中学校の頃から男に混じって稽古をし、自分より大きな相手をバンバン投げ飛ばしていたが、まさかここまで強くなるとは。 マスメディアの間では『マリリン』などと呼ばれているようだし、やたらめったらあちこちで注目されている。 「悪い、待たせちゃったか?」 コアラみたいに呑気な顔が俺を見上げる。 「ううん、私もついさっき着替え終わったばっかりだし」 「そっか。じゃ、帰るとしようぜ。石野も上がっちゃったしさ」 うん、とオーバーアクション気味に頭を縦に振ると、歩き出す俺の学生服の裾をつまんで麻里も後に続いた。 日の落ちるのもすっかり早くなり、薄着でいたら肌寒くなりそうな秋の夕方。 薄暗い空の下、俺は麻里がああだこうだと好き勝手に喋るのをBGMにして、商店街を歩いていく。 以前はたまにでしかなかったが、今ではこうして毎日帰り道は麻里と並んで歩くのが当たり前になっていた。 俺の家に帰る途中に麻里の家があり、何かと有名になってしまった彼女を危険から守りたいと思ってのことだった。 「そいでさ、化学の授業の時、さくらちゃんがね……」 そんな俺の考えなどよそに、麻里はニコニコして実に楽しそうに授業中の話をしている。 こいつの感情にはきっと、喜と怒と楽の3つしか無いのだろうと考えるのは、俺だけではあるまい。 商店街を通り過ぎて住宅がぽつぽつと見え始めてくる辺りに、麻里の家がある。 月極駐車場の赤い看板を目印にして、麻里が俺の制服から手を離す。 「じゃあまた来週、かな。明日は練習無かったよね?」 「あ……待った」 ぶんぶんと手を振って踵を返そうとする麻里を呼び止める。 「えっと、明日……その」 麻里が瞳を少し細めて、張り付いたままの笑顔から少し口角を上げた。 彼女はもう知っているのだ。俺がこうやって口ごもる時に、次にどんなことを言われるのかを。 「うん…なぁに?」 知っているだろうに、自分からはリアクションをせずに、俺が最後まで言うのを待っている。 「ヒマだったらでいいんだけど……あ、遊びに行かないか?」 ああ、くそっ。もう片手で数えられる以上に繰り返したやり取りなのに、どうしてこうも緊張してしまうんだ。 既にこの時点で、俺が思い描く理想的な展開とは程遠いものになっている。 こんなカッコ悪いザマに気づいていないのか、気づいてて見逃しているのか、麻里は大きく頷いて二つ返事でOKをくれた。 よしっ、と軽くガッツポーズを取ってしまい、あぁまた麻里の前でダサい所を…と、ちょっぴり自己嫌悪。 次の日、俺は駅前で待ち合わせ…しようと思った所、駅まで行く途中の道でバッタリ麻里に会ってしまった。 どんな格好をして来るのかとワクワクしていたのに、残念な気もする。 「おはよ、仲安くん」 オレンジ地に黄色、見ているだけで暖かくなりそうなジップアップのパーカーと、下は7分丈のカーゴパンツ。 足元まで視線を下してみると、くるぶしまでのソックスにスニーカー…と、今にも猛然とダッシュができそうだ。 (どう見てもデートって格好じゃないよな……似合ってるけど…) 予想通りで、期待外れ。ボーイッシュなのも可愛いが、たまにはミニスカートを履いている所とかも見てみたい。 「ねぇねぇ、今日はどこ行く?」 「そんな大声出すなって。ほら前の人ビックリして振り向いたじゃないか」 いつも通りのやり取り。歩いている道も通学路の商店街だ。そんな栄えた場所じゃないからしょうがないけど。 「今日はどこに連れてってくれるの?」とでも言ってほしいのだが、こいつにそれを期待するだけ無駄な気がする。 そもそも、異性と一対一で出かけるという状況自体、麻里にとってデートと認識されていないのかもしれない。 手ぐらい繋いで歩きたいものだが、麻里は相変わらず俺の袖につかまっている。 いや、これはこれで嬉しい。嬉しいけど、彼女と俺の身長差を考えると、子供を連れているような気分になってしまう。 数時間後、空がオレンジ色になりかけた頃、俺は疲労感と敗北感に打ちのめされていた。 バッティングセンターでホームランをかっ飛ばして大盛り上がりの麻里を横目に、俺はぶんぶん素振りをしていた。 球が速すぎてまるで当たらなかったのだ。 その前はラブコメ映画を見て雰囲気を…と思っていた所、やっていたのはアクション映画だけだった。 デートスポットらしい所にも行ってはみたが、あまりいい雰囲気になることも無かった。 プランの練り方が足りなかったかもしれない。でも、いくら綿密に計画を立てても、かえって窮屈になりそうだ。 それに、麻里が相手ではラブラブなデートを計画してみた所でいいムードにはなりそうも無かった。 (はぁ、また今日も失敗か……進展ねぇなぁ) 以前に勢いで告白してみたこともあったのだが、 「私も好きだよ。仲安くんも石野くんも、みんな大好きっ」 と、ニュアンスの違いは分かってもらえなかった。石野と同列に扱われたのが更にショックだった。 そろそろキスの一つでもして、麻里に分からせてやりたい……。それはいつの日になるだろうか。 せめて今年中にはどうにかしないと、言い寄ってくる男も多そうだし─── 「あ、電話だ。もしもし」 ポケットの中で携帯電話が震え、ごめんなと麻里に手だけで伝えて通話ボタンを押した。 「えっ、今日は帰らない? 言ってたっけそんなこと?」 母親からの電話だった。父親と一泊旅行に行って来るとかそんなことを言っていたらしいが、聞いていなかったか、忘れたかだ。 とにかくそれで分かったのは、明日の昼まで両親が帰ってこなくて、その間の食事をどうにかしなければいけない、ということだ。 「参ったな、メシ代足りるぐらい金残ってたっけ……」 高校生の懐に、今日の出費は中々大きかった。財布の中身は、残り僅かだ。 「どうしたの?」 麻里が怪訝そうな目で俺に問いかけた。 「いや、両親が今日帰ってこないらしくってさ、明日の昼までのメシをどうにかしなきゃいけないんだが……」 「作ったげよっか?」 麻里の口からひょっこり出てきたのは、意外も意外、思いもよらない申し出だった。 「え、そりゃぁ中学生の頃に麻里が家に来たことはあったけど……」 中一の、まだまだ子供だった頃の話だし、雨宿りのほんの僅かの時間でしか無い。 それ以前に、男の家に女一人で上がりこんでくるっていうのが、どういう意味だか分かってるのか? 「お前、料理できるのか?」 「できるよ。いつも仲安くんにおごってもらってばっかりだし、たまにはお礼するよ」 と、麻里は二つ返事。心なしかワクワクしているように見えるが、いつも笑っているので真意は不明だ。 それにしても、ついつい食事に行くとおごってばかりだが、そうしてもらって当然って考えを持ってるわけではなかったんだな。 「おじゃましまーす」 連れて来てしまった。麻里を、俺のウチに。好きな女の子が、俺のウチに。 しかも、何の偶然か分からないが、両親不在。いったいどんな急展開なんだ。 (いいのか!? 俺、ゴムちゃんと持ってたっけ?) と、飛躍した考えが浮かんで、気付く。そういえば、麻里って寝技も俺より上手いんだよな。 もし強引に押し倒そうとした所で逆に押さえ込まれるか、それ以前に背負いでぶっ飛ばされるか。 それ以前に、まだそこまでできるほど関係が進んでないじゃないか、キスすらしてないのに。 昂っていた気持ちが一気に冷めて溜め息をつくと、麻里が冷蔵庫の前に立って俺の方に視線を送っていた。 ねぇねぇ、まだ『待て』なの?と言わんばかりの、犬みたいな目。動物みたいな娘だよな、と改めて思う。 「あ、開けていいぞ」 「はーい……あ、結構野菜いっぱい入ってるね……使いかけのもあるみたい」 俺には無造作にしか見えないが、冷蔵庫を開けるなり、時々背伸びしつつキャベツや玉葱やじゃがいもをぽいぽい取り出している。 いったい何を作るつもりなんだろう。美味しそうな料理と、とんでもない異次元料理、そのどちらもが頭に浮かんだ。 どちらかといえば後者が当てはまりそうで怖い。 「よーし、決めたっと」 「お、おう」 思わず息を飲んで麻里の言葉をじっと待つ。なぜか、握り締めた拳に力が入った。 「オムライスと野菜スープにするね。卵、割っといてもらっていい?あと、エプロン借りるね、それから……」 「待て待て、いっぺんに喋ろうとするな」 矢継ぎ早に喋る麻里に思考がついていけず、卵の前は何を言ったのかよく分からなかった。 とにかく、マトモな料理の名前であるらしいことだけは分かった。 麻里に言われた通りに冷蔵庫から卵を四つ取り出し、二つの器に分けて箸でシャカシャカ掻き混ぜる。 ちらりと麻里の後ろ姿を窺ってみると、小気味良いテンポで人参を切っている所だった。 刻まれた人参は、そのまま火あぶりにされている鍋へ放り込まれていく。 やけに大雑把な気がするけどいいのか、と、いつの間にか皮を剥かれていたじゃがいもが、ボウルの中へ、レンジの中へ。 「なんでレンジに?」 「この方が時間短縮になるんだよ。お腹空いてるでしょ?」 なんだか、いつもの麻里とは全然違う。さっきまでバットを振り回していたのに。 中学生の頃からずっと一緒だったのに、こんな家庭的な一面があったなんて。 エプロン姿も似合ってないようで結構可愛いな……などと考えていたら、箸が虚空を掻き回していた。 麻里が向こう側を向いていてくれてよかった。見られてたらきっと怒られてた。 あれよあれよと言う間に一通りの材料を鍋に入れ終わったようで、後は待つだけとばかりに蓋が被せられた。 薄い金属越しに、ポコポコと煮立つ音が聞こえて、台所の空気が暖かくなってきた。 時々台所で見ていた光景だが、麻里がその光景の中にいると意識したら、心拍数が上がった。 「さ、そんじゃオムライスだね。仲安くん、バターとケチャップ、冷蔵庫から出して」 「お、おう」 体の小さな生物は心拍が速く、時間の流れも早いというか、こいつの時間の流れも俺とは少し違うのだろうか。 てきぱきしている、というより早送りみたいだ。 刻んだ玉葱と挽肉がフライパンの中でじゅうじゅうと音を立てている。 その音を聞きながら肉の焼ける匂いをかいでいたら、お腹が締め付けられて情けない鳴き声をあげた。 麻里の動きに迷いは見られない。まだ味わってもいないのに、こいつは料理が上手いのだと確実に頭に刷り込まれつつあった。 実際、躊躇していないということは包丁を握って火のすぐ傍にいることに慣れているのだろう。 俺がもしフライパンで炒め物を作ろうとしたら、焦がすのを恐れてタイミングを逃がし、生焼けのものができそうだ。 宮崎先輩なら、確実に焦がしてしまうことだろう、と、真っ黒になった料理の前で激昂する姿が目に浮かんだ。 「できたよー」 俺が変な妄想にふけっている間にどうやらオムライスもできていたらしく、皿に黄金色のラグビーボールがデンと構えていた。 二つ並んだオムライスの片方にはM、もう片方にはCと赤い文字で書いてあった。 「Mは麻里のMだと思うけど……Cって何?」 「チャーリー」 そう言って、麻里はケタケタ笑いながら、オムライスの皿とスープの器をリビングへ持って行く。 「おっ、お前な、チャーリーは黒歴史だっ!こら、思い出してるんじゃねぇっ!」 「あはは……いいから食べよ、チャーリー」 「この野郎……!」 顔から火を吹きそうだったが、掘り炬燵になっているテーブルに置かれた皿と器が気分を落ち着かせてくれた。 オムライスの皿からはバターの芳しい香りが、スープの器からはコンソメらしい匂いが鼻腔をくすぐる。 卵の黄、ケチャップの赤、スープの中に見え隠れするキャベツの緑、それぞれの色がお互いを引き立てあっているようだった。 「……美味そう」 唾液がどっと湧き出てきた。テーブルに麻里と向かい合わせになって、冬待ちのスカスカな空間に足を放り出す。 両親以外の人、何度かデートに誘った女の子が食卓の目の前にいるという光景が新鮮で、ドキドキした。 「ごちそうさまでした」 麻里が作ってくれたから、という隠し味を抜きにしても、期待していた以上に美味しかった。 「簡単なことしかやってないよ」 と麻里は言っていたが、オムライスの卵が適度にとろけていたりと、絶妙な加減がされている感じがした。 スープの野菜も、おかわりをもらってしまうぐらいに食べてしまった。普段、あんまり野菜は食べないのに。 「お前、料理上手いんだな……意外だった」 「意外? 意外って言った?」 怒らせたかと一瞬身を硬くしてしまったが、どうやら怒っているわけではないようだ。 気のせいかもしれないが、ほんのりと頬が赤いように見える。 「ともかく、美味しかった。それは確かだ」 「ちなみにね、兄さんはお菓子作りが得意なんだよ」 面識はちょこっとしか無いけど、麻里のお兄さんって、あの顔がそっくりで横に広い人だよな。またえらいミスマッチな。 あの大柄な体と甘いお菓子はどうしても結びつかなかった。 食べ終わった食器を持って台所へ。皿洗いなんて自発的にすることは無かったんだけどな。 後片付けが終わってリビングに戻ると、麻里がテレビをザッピングしていた。 バラエティ、クイズ、歌番組、プロ野球中継、どれも彼女の興味を引くものは無いようだ。 「あ、仲安くん、あのビデオテープ、何?」 と、テレビの脇に置いてある、まだ埃をかぶっていないビデオテープを指差した。 「ああ、確かあれ、こないだの大会の時の……見るか?」 「うん、見る見る!」 リモコンを持っていた麻里に再生ボタンを押してもらうと、丁度畳の上で誰かが試合をしているところだった。 『キャプテン、ファイト!』 『あと半です!リード守って守って!』 後輩達が応援する声をカメラは拾っていた。畳の上にいるのは、俺だ。そうだ、これは個人戦の準決勝。 公式戦だから髪を黒に染めていることもあって、自分の柔道している姿を見るのは不思議な気分だった。 見始めてからすぐ、俺が一本背負いを仕掛け、綺麗に決まって一本勝ち。 『勝った!決勝進出!』 男女入り混じった歓声がテレビのスピーカーから響いてくる。 『仲安くん、かっこいいなぁ』 今のは麻里の声だったような気がしたけれど、聞き間違いだろうか。 「ななな、なんで私の声が入っちゃってるのよぅ!」 麻里が慌ててリモコンを操作しようとするが、すっぽ抜けて俺の方にリモコンが飛んできた。 『あ、麻里先輩がキャプテンのこと、カッコいいって』 『やっぱり好きなんじゃないですかー』 『えぇっ! ち、違うよっ!仲安くんはそんなんじゃないもん!』