dependance



 両親が離婚して私が母子家庭の娘になってから、一年半ほどが経とうとしていた。崩壊した家族関係は、一
応は世間から見れば母子家庭という形に落ち着いたかのように見える。といっても、表面上に過ぎない。家に
帰っても私を待っているのは母親の仮面を被った女性だけだ。彼女はどうにかして『娘の面倒を見る優しい母
親』であろうとしているようだが、もう遅い。エゴのぶつけ合い──あんな醜い罵り合いを嫌というほど娘の
目の前で展開しておいて、まだ母親面をしようとしている。父さんがいなくなってから思い出したように出て
くる「おかえりなさい」すら、上っ面だけで、感情なんかこもっていないように聞こえる。
 もはや私にとって自宅とは寝床のようなものでしかなかった。自分の居場所は家の中には無い。本気でそう
思っている。
 あと一年。高校を卒業したらすぐにでも家を出ると心に決めている。もうしばらくは国内で頑張れることが
あるが、その時は、海外へ飛び立つ時なのかもしれない。まだどちらにしようかは決めていなかった。
 家賃の高い高級マンションに引っ越してもやっていけるようにと貯めているギャラの額は結構なものになっ
ていた。デビュー当初は母さんがお金を管理していたが、離婚を契機に私の口座に直接お金が入ってくるよう
になった。よく言えば娘にお金の管理を任せたといえるが、悪く言えば保護義務放棄。だが私には好都合だ。
 口座に貯まった額が一千万の桁になった時は驚いたものだったが、それ以降はいくらになったか数えていな
い。大金を手にしても大好きな歌や音楽に使うのが大半で、オペラやクラシックの鑑賞に行く時間は仕事の都
合であまり取れず、かといってCDやDVD、オーディオ機器程度では到底使いきれる額ではなかった。


 肌寒いという言葉すら聞かれるようになる秋の夜空の下、事務所を後にして、私はプロデューサーの車に乗
り込み、バッグから携帯電話を取り出し、『仕事が遅くなるので今日は律子のアパートに泊まってきます』と
一言だけさっさと入力してメールを送信する。
 母さんへの連絡はこれだけで十分だ。仕事で遅くなって終電を逃したこともあったのも事実なのだから。
 もう一件の連絡先、今は765プロを離れて新しい事務所でプロデューサーをやっている律子へメールを送ろう
と思ったが、文章を打っている途中で止めた。母さんから連絡が来たら口裏合わせをしてもらうよう頼んでい
るが、未だに一度として母さんからの連絡は無いそうだ。
 私がデビュー当時から一緒にやってきたプロデューサーと男女の関係になってから、律子は私の心強い相談
相手だった。オブラートに包まず、常に客観的で冷静な意見をくれる律子の存在は、何かと周囲が気を遣って
厳しい言葉を言ってくれない私には本当にありがたかった。
 「以前の私なら『絶対ダメ!』って頭ごなしに言ってたでしょうけどね。まぁ私も人のこと言えなくなっち
ゃったし。手放しで応援はできないけど、非難もしないわ。アリバイ作りのお手伝いぐらいならできるから、
困ったら相談して頂戴」
 そう律子は言っていた。
 家に居たくない時は居候してても構わないからと律子からはアパートの合鍵も貰っているが、まだ自分で使
ったことは無い。律子も彼女の担当プロデューサーと色々あったらしいことは、再会した時の雰囲気の変化か
ら感じ取っていた。言葉は厳しくても表情に優しさが浮かんでいて、充実した笑顔に幸福の色が窺えた。生真
面目で、自分に対する自信が乏しい所に私が密かな共感を抱いていたあの律子が、自分自身を前向きに受け入
れ始めているように見えて、私もああなりたいと羨ましい気分になったっけ。
 私はまだ、自分のことが好きになれそうもない。
 「千早? ボーッとしてどうした? もう到着したぞ」
 「えっ? あ……すいません、ちょっと考え事を」
 いつの間にか車はプロデューサーの住むマンションに到着していた。車を後にして、片腕で足りる荷物と一
緒に自動ドアのエントランスをくぐる。各部屋へ繋がる実際の通路は二階にあるため、エスカレーターで二階
へ上り、カードキーでセキュリティを解除する彼の背中へついていく。765プロの規模が大きくなって彼が引っ
越した、最新鋭の設備を備えたマンションの十七階へとエレベーターは向かっていく。
 「ただいまー」
 「お邪魔します」
 履物を脱ぐのが自分の家でないことを実感するのは、玄関のドアを開いて匂ってくるのが自分の家の匂いで
無い時だ。先に上がった彼の乱れた履物を整えてから、私も靴を脱いで玄関の段差を踏み越える。
 「ははっ、千早も『ただいま』でいいんじゃないか?」
 彼が歯を見せて笑った。もう両手で数え切れないぐらい彼の家に来ているのに、いつだって私は「お邪魔し
ます」と言わずはいられない。
 「そ、そうでしょうか」
 彼に促され、小さな声で「ただいま」と呟くように口に出すと、心地よい温かみが込み上げた。
 リビングのソファーにバッグを置いて、使い慣れたキッチンへ向かう。
 「プロデューサー、お腹空いてますか?」
 紺のネクタイを外しながら「腹ペコだ」と彼は答える。週に一回から三回ほど、私は彼の家に泊まりに来て
いる。最早キッチンは、部屋の主以上に勝手知ったるところだった。
 きっかけは、放って置いたら不健康になりかねない彼の食生活を改善するために食事を作りに来たことだっ
たと思う。それとも、雨宿りに偶然上げてもらった時に冷蔵庫や台所の惨状を見るに見かねて、だっただろう
か。今思えば、料理が得意なわけでもないのによく続いているものだ。
 『通い妻』と小鳥さんや律子に揶揄されたこともあったが、妻という言葉の響きには胸を熱くするものがあ
って、部屋のあちこちに私の私物が置きっぱなしにしてある今では、恥ずかしいながらも嬉しい気持ちがある
のは否定できない。
 冷蔵庫を開けてみると、先日買った豆腐がまだそのままだった。挽き肉もそろそろ使ってしまいたい。麻婆
豆腐にしようかと思ってキッチンの棚も見てみると、都合良く調味料が見つかった。
 ピリっとした辛みにコクのあるあの味を想像すると、お腹が悲鳴をあげた。
 「やだ……聞かれてないかしら……」
 顔が火照るのを感じながらも、私は調理に取り掛かることにした。私もお腹がペコペコだった。


 昼食から時間がかなり経っていたせいか、私と彼はできあがった夕飯を、熱心に黙々と、あっという間に食
べ終わってしまった。会話を楽しみながらゆっくりと食事を楽しむことが多いのだが、今日はお互いに空腹感
が勝っていたようだった。食欲に忠実過ぎたかも、とやや残念な気分だ。
 皿を洗う私の口の中には、唐辛子の刺すような辛みがまだ残っている。余っていたからといって唐辛子を足
す必要は無かったかもしれない。
 流れ出てくる水の音に混じって、ぱちんぱちんと爪を切る音がリビングの方から聞こえてきた。やがて爪切
りの音がおさまると、スリッパの足音が私のいるキッチンへ近付いてきた。次第に大きくなる音と共に、私の
鼓動も高まる。
 「千早」
 まだ洗い物をしている私の背後に彼がやってきた。呼びかける声と同時に、腰に手が回ってくる。
 「ぷ、プロデューサー……まだ……さ、皿洗いの途中ですから……!」
 「いや、ゴミがついてただけだよ」
 料理の最中に求められた時の記憶を急激に呼び覚まされ慌てて振り返る私に、彼は事も無げに青い糸くずを
見せる。確かに、ゴミがついていただけだ。勘違いを起こしたことに頭が熱くなってしまった。
 腰に触れられただけで情事を思い出すなんて、自分が欲にまみれたはしたない女のように思えた。
 シンクに目線を戻してスポンジに少しだけ水を吸わせ直し、皿洗いの続きをしていると、まだそこにいた彼
に肩をトントンと叩かれて、振り返る。二の腕をゆっくりと掴まれて、何をされるか考える前に彼の顔が覆い
かぶさってきた。
 「ん……んっ」
 スポンジを握る手に力が入り、溢れた泡が掌を濡らす。左手から滑り落ちた皿が水を張ったボウルの中へ飛
び込んだ。溢れた水が立てる水音にようやく、彼のしっとりした唇からコーヒーの味が伝わってきたことに気
付く。ブラックが好きな彼のその味は、甘くなかった。
 舌が入ってくるかもしれない、このままベッドへ連れて行かれるかも、と身構えていたら、唇はそのまま離
れていって、腕も解放された。けじめのつかない展開にならなかったことに、少し安堵する。
 「千早が可愛かったから、つい」
 仕事で顔を合わせる写真家の人や、スタイリストの女性が言う『可愛い』と、彼の言う『可愛い』は、字面
は同じでも含まれているニュアンスがまるで違う。彼のその言葉には、色々な意思表示がごちゃまぜになって
いるのだ。その大半を今では理解できるようになり、理解できるようになったからこそ、私はリアクションに
迷う。
 「…………」
 『そんなことありません、事務所の他の子と比べたら私なんて』『ありがとうございます、嬉しいです』
 どちらも本心なのに、どちらを言えばいいのか分からないまま、私は黙って流し目でシンクを見やることし
かできなかった。見つめ返すぐらいはすればいいのに、我ながら可愛げが無い。
 そんな私に彼はふっと小さく息を吐いて口角を上げ、「風呂場で待ってる」とだけ言い残して、キッチンを
立ち去っていった。
 その言葉に含まれた意図を理解した私の体に、また緊張が走った。


 お湯の音が聞こえてくる風呂場と薄い壁で隔てられた洗面所で、私は歯磨きのペーストをブラシに塗りつけ
ていた。一応私なりのエチケットのつもりだが、歯磨きの音を聞かれるのがどこか気恥ずかしくて、一旦洗面
所を離れてリビングに向かう。
 テーブルの上には今日の夕刊が広げたままになっていた。『依存する女性達』という大きな見出しに目を引
かれ、近寄ってみようと思ったが、心の奥底を鷲掴みにされるような凄まじい悪寒を感じて、止めた。
 依存、という文字列を目にしたり、音を聞いたりするのは嫌だった。どうして嫌なのかは分かる。思い当た
る節があるのだ。依存しているということは、支えられないと立っていられないということ。支えを失ったら
どうなってしまうか……。
 私を支えてくれるのは、プロデューサーの存在。でも、私は彼に何かができているのだろうか。
 一方的にプロデューサーに寄りかかっているだけでは、いつか捨てられてしまうのかもしれない。
 それ以上は、怖くて考えたくなかった。
 歯を磨いていた手は、奥にブラシを突っ込んだまま止まっていた。

 
 「プロデューサー……し、失礼します」
 バスタオルを体に巻こうかどうか迷った挙句、後ろ髪をヘアクリップで留めてアップにしただけで、結局裸
のまま風呂場に入った。どうせ、巻いていた所ですぐに剥かれてしまうだろうから。しかし、どうやら彼は脱
がせるのが好きなようだから、巻いていてもよかったんじゃないか、と、風呂場の扉を後ろ手に閉めながら思
った。
 「お、ちょっと遅かったな」
 椅子に腰掛けて髪を洗っている彼が、私の方に首を少しだけ向けた。背中を向けていたことにほっとする。
 「ええ、流しの片付けに手間取って」
 「体は洗ったけど、背中がまだなんだ。流してもらえるかな?」
 手桶で掬ったお湯で頭を洗い流しながら彼が言う。
 わざわざ私が来ることを見越して背中は洗わずにおいたのだろうか。彼の背中を流したら次はきっと……。
 期待か緊張か、とにかく体温が上がったような気がした。
 「はい、それでは……よいしょ」
 手を伸ばしてスポンジを手に取り、ボディソープを少し含ませて泡立てる。幅のある肩の下広がる彼の広い
背中にスポンジを這わせると、染みの無い肌の上を白い泡が滑り落ちていった。ふにゃふにゃの生地越しに、
女性の体ではありえないゴツゴツした筋肉の隆起を感じ、その硬い感覚に『男』を意識して、胸がドキドキし
た。
 「あ、晩御飯、美味しかったよ。結構辛かったな、麻婆豆腐」
 「ええ、余っていた唐辛子を入れたもので……少々辛すぎたかもしれません」
 「ははっ、あれぐらい辛いのはむしろ好きだよ」
 「そうですか、ありがとうございます……流しますね」
 泡を洗い流すと、彼の背中が心なしかつやつやして見えた。
 「ありがとう。……じゃ、今度は千早の番な」
 彼がこちらに、今度ははっきりと向き直り、腰を上げて私の後ろに回って、ステージに送り出す時と同じよ
うに背中をポンと押してきた。こうされると、私は前へ進まずにはいられない。暗示のようなものだった。
 椅子に腰を下ろすと、まだそこには彼の体温が残っていて温かかった。鏡は曇っていて自分の姿は見えなか
ったが、ほとんど無意識に脚を閉じて、肩を縮こまらせて胸を隠そうとした。
 「ひゃん!」
 温かいお湯が上からかかってきた。何の前触れも無かったので思わず声が出る。
 「ああ、悪い悪い、びっくりしちゃった?」
 「い、いえっ、大丈夫です」
 「んじゃ、背中側からな」
 ポンプを押す音がして数秒後、スポンジが肩に当てられると予想していたら、滑りを帯びた彼の手が直接肩
に触れた。温かくて、角ばっている。そのまま、肩から腕へと流れていき、マッサージをするように肌を軽く
圧迫しながら、彼は今のところ『普通に』私の体を洗ってくれている。性的な意味ではなく純粋に気持ちいい。
 「…………」
 肘から先へと彼の手が流れてきて、掌を揉み込むようにされてから、指を絡めて手をギュッと握られた。
 胸が甘く締め付けられて、彼への愛しさが込み上げてくる。大きな溜め息が漏れそうで、唇を結んだ。
 「よし、じゃ、一旦流すよ」
 さっきと同じような温度のお湯が首筋から浴びせかけられる。二回ほどお湯をかけられた所で、今度は前を
洗うよ、と言われて、強張った背中がますます丸くなる。
 「あ、い、いいです、前は自分で洗えますから……」
 と口答えをしてみるが、もう彼の手は白い泡をまとって私の体の正面に回りこんできていた。鎖骨に着地し
て、下へ降りてくる。
 「はっ……や……」
 貧しい体。以前は自分の体なんてどうでもいいと思っていたけれど、プロデューサーを男性として意識する
につれて、自分の体も他の女性の体も段々と気になるようになっていた。
 ある時、更衣室であずささんと一緒になったことがあった。同性同士なのだから当たり前とも言えるが、惜
しげも無く豊満な肉体を下着越しに晒すその姿から目を離せなくなり、「そんなにじっと見られると恥ずかし
い」と言われるまで観察してしまった。その直後、私は屈辱的な気持ちで、背を向けてこそこそと着替えた。
 またある時、廊下の向こうに律子の姿を見とめて、歩み寄った時に躓いてしまい、前のめりに倒れ込んでし
まう所を正面から抱きとめられたことがあった。顔を押し付けてしまった胸には豊かな弾力があって、ふかふ
かのクッションみたいだった。咄嗟に両手で掴んでしまったお尻の肉も、指が食い込んでなお余裕がある深さ
を持っていて……包容力のようなものを強く感じた。
 男の人が求める、魅力的な女体とはああいったものだと私は思う。だからこそ、起伏に乏しい自分の体が情
けなく感じられて仕方が無かった。
 彼の掌が、そんな私の胸まで降りてきて、そっと肌を撫でてくる。
 「あ……ぷ、プロデューサー……」
 「ん、なんだい?」
 「……ごめんなさい……」
 恥ずかしいよりも、申し訳無い気持ちが先に立つ。揉むだけの膨らみも無いことが悔しい。
 「……やっぱり、気にしてる?」
 「ふ……っん……きっ、気にします……」
 「俺は、これがいいなぁ」
 『が』にアクセントをつけて彼がそう言った。同時に、肌の表面を撫でていた掌から指が伸びてきて、刺激
に硬くなった乳首をぐりぐりと押し潰してくる。じいんと痺れるような感覚が背筋を駆け抜けて、吐息が漏れ
る。こんなに小さな胸でも、ここから伝わってくる感覚が快感だというのははっきり自覚できた。
 「大きくても小さくても、それが千早のおっぱいだったら俺はどっちでも好きさ」
 「そっ……そうは言っても……」
 「いいじゃないか。これも千早の個性だよ」
 「……わ、悪い気はしませんが、やはり……」
 それ以上言おうとして、止めた。彼の言葉を素直に受け取った方が、前向きだと思った。



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