analysis


 芸能事務所を経営する立場になってからどんなことが変わったかというと、色々なことが変わった。しかし、以前とあまり変わっ
ていないこともある。その内の一つは、溜まった領収書を少しずつ片付けながらの収支計算だ。
 今日もまた昨日と同じ作業を黙々と進めていき、まだ少し残っている束を見て、ふぅと一息つく。
 そろそろコーヒーか何かでも飲もうか、と思っていた所で、都合よく机にマグカップが上がりこんできた。
 「お疲れ様です、社長」
 丁度いい頃合で、アイドルからプロデューサーへの転身を果たした律子が自分のカップを片手に口角を上げた。二人分のコーヒー
を淹れてくれていたようだ。まだ人員の少ないこの事務所では、一人二役三役は当たり前だ。思えば、765プロにいた頃も似たよ
うなものだった。事務員の数が足りていなくて、プロデューサーが事務仕事もするのはごくごく普通のことで、タレントとして所属
していたはずの律子もよく小鳥さんの横でカタカタとキーボードを叩いていたものだった。
 二つある内のマグカップの内、俺はいつものブラックを手に取り、律子はちょっと甘めのカフェオレを取る。
 特に何の意味も無く、ただそこにカップが二つあるというだけで、どちらからとも言わずに差し出し、乾杯。厚みのある陶器がぶ
つかりあい、ごつっと音を立てた。
 「もうすぐ終わりそうですか?」
 「ああ、もう八割ぐらいは終わった。残りは明日でもいいかもってぐらいだ」
 「ダメですよ。今日できることは今日やるんです。先送りにしたらどんどん仕事が溜まっちゃいますよ?」
 「言うと思った」
 ムッとした表情の律子を横目に、コーヒーを啜る。
 砂糖やミルクの入ったコーヒーも嫌いでは無いが、個人的にはコーヒーはこのキレのある苦味があってこそだと思う。
 まぁ、人の好みはそれぞれだから、あまり通ぶったことを言えるわけもないのだが。
 もう一口、と思った所で、左ポケットに突っ込んだ携帯電話がブルブル震えた。取り出してディスプレイを見てみると、現在では
俺と律子が経営する事務所に所属するアイドルになった亜美からの発信だった。
 「はい、もしもし」
 「もしもし、亜美だよー」
 受話器の向こうからは、ちょっぴり舌っ足らずな明るい声が聞こえてくる。周囲の雑音が無いことから判断すると、もう家には着
いているようだ。風呂先に入るよ、と真美の声が遠くに聞こえた。
 「ねぇ兄ちゃん……明日のお仕事って何時に事務所集合だったっけ?」
 「あー、明日は午後三時だな。って、こういうのは俺じゃなくてプロデューサーに聞けって」
 俺がそう言うと亜美も耳が痛いのか、受話器の向こうで低く唸る声がした。
 「……だって、律ちゃんに聞いたら多分怒られちゃうもん」
 「怒られておくのも大切な経験ではあるんだぞ? 同じようなミスを二度と繰り返さないために」
 分かったよ、と拗ねたような声を最後に、それで通話は終わった。
 俺が携帯電話をポケットに戻すと、会話の内容をしっかり理解していたらしい律子が呆れたように手をヒラヒラとさせた。
 「またスケジュールメモって無かったの? ホントにしょうがないわねぇ」
 「子どもってそういうもんじゃないか? 俺だってよく忘れ物したし」
 そこまで言った所で律子が眉を吊り上げて怖い目になったのに気づき、慌てて撤回する。
 「……まぁ、いいです。別に怒るようなことでもありませんし。さ、続きやりましょ」
 俺の返事を聞く前に、律子はデスクの上の書類に向き合い、ペンを走らせ始める。さて俺も、と思って机の書類に目を落とした所
で、頭に重りでも仕込んだかのように意識が真下に引っ張られた。
 「ん、何だ、眠いな……今……コーヒー飲んだばっかりなのに………」
 あぁ、こんな時に居眠りしたら引っ叩かれるな、と思う間もなく、強制的にスイッチが切れた。
 視界が真っ暗になる直前、何故か律子が勝ち誇ったような笑みを浮かべていたのが、一瞬だけ目に入った。



 「う……」
 目が覚めると、俺はベッドの上に横たわっていた。顔を起こして辺りを見回していると、自宅では無いようだ……が、見慣れたロ
ッカーやテーブルが目に付いた。ああ事務所の仮眠室か、今何時だろう、と思って、携帯電話を取り出して時間を確認しようとする
と、腕が動かない。
 「あれ?」
 いや、正確には動かないわけではないのだが、腕を身体の前面に持ってこようとすると見えない力に抑えつけられてしまう。チャ
リ、チャリと金属音が腰の辺りで鳴り響き、両手を横に広げられない。
 拘束されている──俺は自らの状況を悟った。
 「な、何で手錠なんか? っていうかさっきまでデスクに居たはずなのに……」
 律子がコーヒーを持ってきて、亜美が電話をかけてきて、仕事の続きをしようとした所で……そこから先がぷっつり切れている。
 「これは……どういうことだっ!! まさか、事件に……!?」
 「そんな大それた物じゃありませんよ。安心してください」
 半開きのドアが開き、廊下の先から律子が入ってきた。
 「律子! この手錠は何だっ! っていうか、お前、その格好……」
 「ふふっ。ポケットマネーで作ってもらったんです。可愛くて気に入ってたんですよ、この衣装。普段は着れませんけどね」
 部屋に入ってきた律子は、アイドル時代に使っていた衣装を着ていた。最もCDの売り上げが良かった時の、女の子らしさを前面
に押し出したキュートなイメージが強い衣装だった。ゴシックプリンセスとかいうタイプだったか。黒、白のモノトーンを基調とし
ていて、アクセントに使われている淡いピンク色が目立つ。そういえば、普段は明るめの赤や緑といった色を選んでいた律子が、あ
の時は珍しく暗めの色を選んだんだった。衣装の色使いがマンネリ化する前のいい刺激になって、その変化がCDの売れ行きにも繋が
ったのを思い出した。色々と思い出深い衣装だ。
 「この衣装、可愛いんですけど……所々ちょっと……きわどいんですよね」
 挑戦的な目つきで俺を見下ろしていた律子が、視線をすっと外して頬を赤らめた。
 確かに、今まで何度と無く意識してしまった事ではある。胸元が開いていて、密かに自己主張の激しい律子の胸の膨らみはくっき
りと浮き出ているし、丈の短いスカートからスラッと伸びた脚を覆うタイツの、若干食い込み気味なフィット具合が太腿のむっちり
感を強調し、ガーターベルトがスカートの中へ妖しく伸びているのについ目線が行ってしまう。
 「あ! 今スカートの中見ようとしたでしょ……エッチ」
 俺の視線を追いかけていたのか、律子が手でスカートを抑えた。もうそのスカートの奥も俺はよく知ってしまっているのだが、こ
ういう恥じらいを忘れずにいてくれるのは嬉しくもある。
 「……なんてね。もうあなたには色々されちゃったし、今更ですかね、こんなの。さて……」
 律子は意地の悪い表情になると、両手を後ろに拘束されたままの俺を上から自信ありげに見下ろした。
 こういう空間にいる時のいつもの癖でつい律子の全身を眺めてしまったが、俺は今両手を後ろに拘束されている。おまけに、やけ
に身体が重たくて、動くのが億劫なのだ。コーヒーを口にした途端すぐに眠くなってしまったし、漫画やゲームみたいに何か睡眠薬
でも盛られたのだろうか。
 「な、何をするつもりだ……」
 「何ってそれは……ね。この間どんなことしたか覚えてますよね?」
 この間、というか数週間前のことを言っているのだろう、と瞬時に悟った。その日、担当アイドルを送って事務所に戻ってきた後
に、仕事を終えた律子とつい盛り上がって、この仮眠室で情事に至った。いつもと違うことを、と思って、俺は律子の両手をタオル
で軽く縛り、目隠しをして………とソフトなSMチックなプレイをしていた。事が終わった後は怒った様子でもなかったが、『今度は
そっちの番』と律子が帰り際に言っていたような記憶がある。行為中はたっぷり乱れていたのでてっきり照れているだけだと思った
が、もしかしたら本気で怒っていたのだろうか。
 「まさか……」
 「そのまさかですよ。ま、私の大切な人に怪我させるような事はしませんから」
 不敵に笑う律子を見て、因果応報という四字熟語がふいに脳裏をよぎった。戦慄すると同時に、『大切な人』という響きに嬉しい
気持ちになってしまったのが悔しい。
 「ほ、本当は嫌だったのか? だったら謝るから、これを……」
 少々力を入れてグイグイ引っ張ってみた所で、明らかに金属と分かる質感の手錠は外れてくれる気配は無い。あまり乱暴にしてし
まえば、却って手首を傷つけてしまうだけだった。
 「嫌とは言ってないじゃない。いいでしょ、たまには……」
 その続きを律子は言わなかった。たまには、何なんだろう。俺が答える前に、ふんわりと柔らかい律子の匂いが覆いかぶさってき
た。しっとり濡れた唇が、一瞬だけ触れてすぐに離れ、細い指が俺の顎をつつっとなぞった。
 「顔見たいから、目隠しはしませんからね」
 吐息のかかるぐらい近い距離で、いつも俺が律子にするように、律子の手が俺の頬を撫でる。眼鏡のレンズの向こう側から、長い
睫毛に縁取られた瞳が扇情的な色合いを含んで俺を真っ直ぐに見つめていた。熱い視線に俺が恥ずかしくなって目を逸らすと、それ
は却下、と言わんばかりに顎を掴まれ、強制的に律子の瞳を見つめさせられた。
 「照れてるんですか?」
 そう聞いておきながら、俺がうんともすんとも言わない内に律子はまた俺の唇を奪う。まだ舌は入れてこないが、頬やら鼻先やら
鎖骨やら首筋やらに軽いキスの雨が降る。特に強い刺激が来るわけではないものの、柔らかい唇の感触のすぐ側に感じる温かい息が
こそばゆい。ひとしきり俺の首から上を愉しんだかと思うような所で、キスは唇に戻ってきた。
 「んっ……ん」
 律子は俺の後頭部を抑えつけながら、熱を持った舌を割り込ませてきた。ぬめった舌と、体温の乗った温かい唾液がねっとりと絡
みついてくる。息苦しさと気持ち良さで頭がぼんやりとしてきた所で、長いキスから解放された。
 「ん……もっかい……」
 一旦離れたと思うと、即座にまた唇を塞がれる。律子のキスは、甘くて情熱的だった。今度は、息苦しくなる前に離れていく。唇
が離れた瞬間、俺と律子の間に細長いアーチがかかっていた。
 「さてさて、さっきも言ったけど、この衣装、何気に『エッチ』なのよねー……ほら、こことか」
 やおら立ち上がると、律子は短いスカートの裾をゆっくりとゆっくりと、煽り立てるようにずり上げていく。ガーターベルトの伸
びている先……裾が上がるにつれて、むっちりと瑞々しい太腿がどんどん露になっていく。そして、今にも中身が見えそうという所
で、ストンと布地を元の位置に戻し、釘付けにされていた俺の目を覗き込んで挑発的な笑みを浮かべた。
 「……見えなくて残念でした」
 「う……し、仕方無いだろう。これは人間心理だ。別に俺がスケベなわけじゃないぞ」
 「む、スケベじゃない、なんて分かりきったウソつくのはこの口ですか、このっ」
 「いひゃ、い、いひゃい」
 口答えする俺の唇を、上下に押しつぶすようにして律子の手がつねった。
 「ま、多少は男性の視線も釘付けにできなきゃね。私にも一応それなりのプライドはありますから。じゃ次は……ここかな?」
 胸を張って堂々と立っていた律子が、前屈みになって俺の顔を覗きこんできた。前向きに屈んだ律子の、開けた丸首の衣装の襟元
から、豊かな二つの膨らみが重力に引かれてぷるぷる揺れているのが見える。
 「チラリズム……って奴よね。こういうの、好きでしょ?」
 知る人ぞ知るトランジスタグラマーな律子がこれ見よがしに両腕を寄せると、みっちり詰まった果実が深い谷間を作り出して襟か
ら幾らかが外側にこぼれ出た。露骨なセクシーアピールを嫌う律子からは想像もつかないような不意打ちに、思わず喉がごくりと鳴
ってしまった。あまり見ているとまた何か言われる、と思いつつも、俺は視線をそこから外すことができなかった。
 「うふふ、見てる見てる」
 俺の視線の移り変わりをつぶさに観察していた律子は満足気だ。俺のこの反応を引き出すという意図がある行為にはまり、まんま
とその通りになってしまったことがちょっと悔しい。
 「あぁ、なんだか楽しい……ね、だっこしてあげよっか?」
 「だっこ?」
 「そ。ちょっと恥ずかしいけど、折角気分が乗ってきてるしね。おいで」
 おいでと言われてもこっちは動けないのだが、と思っていると、ガバッと開いた腕に頭を抱き寄せられ、そのまま零れ落ちそうな
谷間へと導かれた。俺の大好きな、不可思議な柔らかさと、温かい体温と、すべすべした肌と、ふわふわしてほんのり甘い、女の子
の匂い。抱き寄せられた頭を、後ろから律子の手が優しく撫でてくる。両手を拘束されているにも関わらず、言葉では言い表せない
ような幸せな気分だった。
 甘えようと思ってもここまではしてくれないのに、いったいどういう風の吹き回しなんだろう。
 「む……ぐぅ」
 しかし、幸せな気分も束の間、優しくかつきつく抱きしめられた状態が続き、段々息苦しくなってきた。俺が息を吸う空間を作ろ
うと思って首を振ってみても、がっちりホールドされてしまっていて全く身動きが取れない。
 「ん、なんです?」
 「もが、り、律子っ……苦し……」
 身体をよじって離れようとする俺を逃がすまいと、後頭部を撫でていた手が俺の頭を更に強く抱え込んだ。律子の豊かな胸に顔を
埋められるのは男としてそれはもう嬉しいことなのだが、これでは窒息してしまう。女の子の胸の谷間に顔を突っ込んで息ができな
くなるというのも間の抜けた話だ。
 「うっ、ぐ……」
 酸欠状態で頭がぼんやりしてきた頃、急激に意識がひんやりとした空間に投げ出された。
 「ぶはっ! はぁっ、はぁっ!」
 ようやく解放されたらしいことを感じ取る前に、全身が呼吸を求めていた。ぼやけていた意識が元に戻ってくると、目を細めて笑
う律子が視界の中にあった。
 「ち、窒息する所だったじゃないか……」
 「あはは、ごめんなさい。じゃあ、そのお詫びに……」
 悪びれた様子も無い律子は頬をほんのり赤く染めると、顔を近づけてきた。またキスをするのだろうか。
 「……そろそろ……気持ちいいコトしてあげますから」
 俺の予想に反して顔は横に逸れていき、律子が耳元でそう囁いた。トーンの低い溜めるような囁きと、律子には不似合いですらあ
る蟲惑的な台詞に、どくんと心臓が大きく脈動したような気がした。
 機嫌の良さそうな律子が、俺のシャツのボタンをプチプチ外し始めた。俺が律子のブラウスを脱がせる時には指先がもつれて手間
取ってしまうのに、律子は実に器用に上から下まで綺麗にボタンを外していく。
 ひとしきりボタンを外して前をはだけさせると、そのまま肌着のシャツも捲り上げられてしまう。冷房の効いた部屋の空気がひや
りと冷たく感じられると同時に、体温の乗った律子の指が胸板に降り立った。そのまま、周りと肌の色が少しだけ違う場所へと律子
が指を這わせてくる。
 「男の人って、ここ、どうなのかしら……」
 「わっ……こ、こら律子、そんな所をいじるんじゃないっ! くすぐった……う……ぁっ」
 律子の細い指が、俺のそこ──乳首──を捏ね回す。くすぐったいだけかと思いきや、微弱な電流が背筋を伝うようにして流れて
くる。軽く感電するような刺激に、思わず体を逃げさせたくなってしまう。
 「や……やめ……っ……は……っく…」
 「んー、どうしたんです?息が荒いですよ?」
 律子は実に楽しそうに、目を細めてニヤニヤしている。いつもとは全く逆の立場で、女の子にいいようにされているのが恥ずかし
くてたまらない。顔から火を吹きそうな心地だ。身体をよじって刺激から逃げようとしてみた所でそれはささやかな抵抗にすらなら
ず、当然ながら律子の指が追いかけてくる。
 「逃げようとすると、余計にしたくなっちゃうのよね……」
 男が乳首なんて刺激されても気持ちいいわけが無い。そう根拠無く念じてみても、俺は未知の感覚に戸惑い、翻弄されていた。


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