かつてカイジの左耳が有った場所からは止めどなく血液が流れ出している。
耳の中に徐々に近づいてきていた機械の音が、脳に触れているのではないかと思う程近くなった途端に消えていった。出血量が激しいのだろうか、それとも鼓膜を破壊された衝撃と痛みなのだろうか、歯を食いしばり血眼になって利根川をにらみ付けていたカイジの焦点がぶれた。
気を失う寸前に遠藤の顔が過ぎり「遠藤…さん。」と虚ろに声を洩らしたことは本人の意識外のことだった。
伊藤カイジの「利根川!」と憎しみの籠ったその響きは他の滞納者とは違い、どこか甘美な音にでも聞こえてきて利根川を熱くさせていった。それは、殺すのは惜しい程だと思わせるほどに。
更に、最後の最後で呼んだのが自らを師事する部下の名前だった事が、利根川の興味を一層引き立てる事となったのだった。
カイジは病院の個室で目覚めた。右腕には点滴の針みたいなものが繋がっている。
あの帝愛が俺を生かしておく筈が無い。『…そっか、死後の世界でも病院なんてものがあるんだ。』などと勝手に思い、生きているという自覚が全く無いまま真っ白な部屋を見回した。
白の中に目立つ色が一色だけ有る。
赤い薔薇だ。
こんなところにまで遠藤を引摺っているのだと思うと目頭が熱くなった。ベットから身体を起こせば、頭がくらりとした。
やけに感覚がリアルだ。と、苦笑して伸びた黒髪を左手で後ろに流せば、ある筈のものが無い事に気付く。髪が流れる音も、吐き出した息の音も、左からは全く入って来ない事に。
「……此処まで忠実なのかよ」
右耳にのみ響く声は失ったものを感じさせられて、薔薇が飾られた花瓶を縋る様に、胸に抱いた。
中途半端な世界観にカイジはふと思い立つ、もしかすると今の自分は幽霊みたいなものなのでは、と。
だったら会って文句を言いたい奴がいる、生涯に一度だけ肌を合わせた一人。あの時が最初で最後だったのに感動もへったくれもない夜だった。出来るならばもう少し素直に態度に表せば良かった、と後悔の念が過ぎていく。
本当に伝えたかったのは……
幽霊は信じていなかったし、物にも触っている訳だが、これと強く決めればとんでもない方向にまでつっ走る男。そう考えるやいなや、刺さっていた点滴を引き抜きベットを下りた。薔薇を花瓶から数本取り片手に抱えて、扉までふらつく足を引摺り、歩いていく。
扉に手を掛ければ固く閉ざされていて、押しても引いても何をしても開きそうに無かった。
「…都合良く…出来てないのかよ」
溜息を吐き、後ろを振り返ると白のカーテンが目についた。
思いっきり開けばそこには大きな窓。その先に見えたのは海と空だけで、海に面した位置に立てられている病院だと言う事は何となく分かったが、それが分かった所で窓が開く訳でもなく、まして扉が開く訳でもない。
景色を見ているカイジは、これがホテルだったら絶景で売り出せるだろうな。と頭の端で考えながら、突き出た窓枠に座ってガラスに右頬を押し付けた。
「会いたいよ、……ぅさん。」
体温よりも低いその温度に身を預けたまま、カイジは遠藤を想い浮かべ、赤い薔薇と青い風景をただ眺めるしか出来なかった。
「…おい、何やってんだお前?!」
声と肩に手が触れたのが同時で、カイジは振り向かされた先にいる人物が求めていた人だと分かるまでに時間がかかった。
「遠藤さん?…何で……。あれ?…俺、生きてるのか?」
一間置いて自分の心臓が高鳴るのを感じ、カイジは思わず呟いてしまったのだが、遠藤はカイジが持っている薔薇に気付くと、返事も無く強く抱き締めた。頬に伝わって来る押し付けられた胸板が忙しく動いている事から、ここまで走ってきてくれたという事が分かった。
「ぃ…痛いよ、遠藤さん」
「───… 。」
どうすれば良いのか、俺は本当に生きているのか、これは俺の想像なだけでは無いのか、とカイジの頭の中は混乱しながら忙しく動き、その間に聞こえない左側に顔を寄せた遠藤が何を言ったのかが分からなかった。
頬にかさついた唇が当たったと思えば、次の瞬間には担ぎ上げられていた。
「え?!何、遠藤さん!」
「…黙ってろ、逃げるぞ」
いくら遠藤の堅いが良く、カイジが通常よりも弱っていて体重が落ちているからと言っても同じくらいの身長だ、抱えるのは容易ではないだろう。「降ろしてくれよ、自分で歩けるから!」と小さい声で主張するカイジを遠藤はいなし、何事も無い様子で人の居ない廊下を駆け下りていく。
裏口の扉を開き、周りを確認した後に用意してあった小型の車の後部座席に、カイジは寝かされた。
普通の病院に入れられていたところを攫われて、帝愛に連れていかれるのでは無いかと思ったが、額に汗を滲ませて「無事か?」と聞いてくる遠藤を見ると、過去に騙された事など忘れて信じてしまう。
寧ろ今のカイジには信じてしまうというより、信じたいという気持ちの方が強かった。
何処かに向かう車に揺られ、その規則的に与えられる上下感に眠気が込み上げてきたカイジは、うつらうつらしながら遠藤が話している言葉を聞いていた。
利根川と帝愛の享楽で殺されるまでは行かなかった事。
理由は明かされていない事。
これから向かう所は帝愛の手がかかりにくい場所だと言う事。
その情報で、あのまま病院に居れば、いずれ近いうちに生き地獄が待っている事など容易に想像できた。
遠藤はどうして自分を助けたのだろう。そう尋ねようと開いた口は途中で止まり、疲労と睡魔に囚われた。
意識が暗くなる途中でカイジは「おれはもう帝愛とは一切関係が無いから安心しろ」と言う声が聞こえた気がした。
帝愛内部、一室にてざわつく声の中に利根川は立っていた。一際大きいモニターには空になった白い部屋が映されていた。
「音声までは拾えませんでしたが、如何でしょう?…所謂、鬼ごっこというものです。半年の猶予を持ってこちら側の者が彼らを追い始めます。緊張が解け始めた頃の絶望に沈む顔は皆様が好むものとなるでしょう」
「その為に貴方を師事していた部下を切る等と、随分とゲームに力を入れていらっしゃるようですな」
「しかし、思いどうりにその部下が動きますかね…何も伝えておらんのでしょう?」
「その点は心配は無用でございます。連れ出すまでのシナリオは先程ご覧になられたように既に終了致しておりますので…、後は全国に配置してあるカメラが彼らの動向を告げてくれるでしょう。では皆様、半年後を楽しみに致して下さい」
拍手が鳴り響き、人々は部屋を思い思いの会話をしながら出て行く。
一人モニターの前に立った利根川は鼻で軽く笑えばモニターを見上げ
「さて…、お前達は何処まで私を楽しませてくれるかな」
あの小僧に遠藤が特別な思いを持っていた事など知っていた。ただそれは特殊な人間に一時的に惹かれているだけで、次第に冷めていくものだと思っていたが、伊藤カイジが気を失う瞬間に呼んだ名前がやけに深く利根川の何かを揺さぶった。
それが同情ならば簡単に切る事ができたものの、ゲームが終わったと知り、駆け付けた遠藤の表情をみれば同情では無いのだと気付いた。
一番分かりやすく言えば親心の様なもの。若い頃から拾い上げて育てた遠藤への僅かばかりの気持ち。
「…簡単には捕まらないでくれよ」
利根川はモニターの電源を落としながら呟いたが、
いっその事逃げ延びて、高跳びでもしてくれれば良い。などと考え密かに口許を緩めた。
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アトガキ
Eカードのif。
遠カイ。若干、利根川→遠藤風。
利根川さんは会長とは違って、情の理念を持っている人だと思う。
遠藤さんがカイジに囁いたのは「俺と一緒に来い、傍を離れるな。」的な告白の台詞。