「白鳥を想像してごらん。…安易なネーミングよね」

娘のつけた作戦名に苦笑する女、リツコの母であるナオコは思った。

X1が目的と示さんばかりの、何ともセンスの欠片もない作戦名だと。

 

 

 

僕は僕で僕

(126)

 

 

 


 

ナオコの研究室。

カヲルの調査を終えた後、ナオコは自室に戻って来ていた。

青葉、コダマの姿は無く、一人きり。

渚カヲルの情報が大して得られなかったのか、ナオコは軽くため息を吐くと、俯き加減に思案に暮れる。

今後の課題。

碇シンジの件に関してのことであった。

 

相対性理論に量子力学、虚時間も考慮に入れ、白鳥座X1での無境界境界条件の概念をも利用した時間跳躍。

大まかになるが、この宇宙論、天文学的な考え方に若干の修正を加えたものが、本作戦。

通称、白鳥作戦。

不可能から可能を探し出すような作戦。

虚時間から現在時間への帰還跳躍など物理論的に不可能だが、初号機(JA)と四号機は空間単位でやってのけた。

無限大の無境界境界条件も、虚時間も、光を吸収する闇でさえも、克服出来る可能性がある、と思える。

…思える。そう、あくまでも推測の域を出ない。

これは、仮定の結果しか得られない作戦。

幾らMAGI で正しい数値を計測した所で、結局は机上の空論に過ぎない。

仮定の空間への無謀な挑戦。

行くべき場所すら不安要素である作戦。

だが、これしかない。

限られた時間の中で、未来を失う者が再び未来を掴むには、この手段しかなかった。

 

「絶望より、無謀の未来を」

思考を中断させると、ナオコは一人きりの研究室でポツリと呟いた。

先程、青葉に問いかけてきた際に返ってきた言葉の一部分だった。

(無謀。確かにね。こんな作戦、SF小説にもならない。無茶苦茶すぎる。)

ナオコはため息を吐くと、顔を上げ、苦笑混じりに軽いジョークを呟く。

SFチックな作戦への揶揄を込めた、小粋な洒落を。

「白鳥作戦。…時間衝突、しないといいけど」

 

 

<中央作戦司令部>

 

「以上、これが全職員に対し、退避を求めた理由です」

チルドレンのシンクロテストを終えた職員達は、リツコから退避理由の説明を受けていた。

大半の職員は退避なり準備なりで姿を消しており、その場にいる人数は、おおよそ数十名。

自らの意思で退避しない者と、退避出来ないほどの役割を持った者達である。

ゲンドウ、冬月、ナオコ、
退避理由を知っているメンバーを除けば、不参加はミサト(ペンペン保護の為)だけという、錚々たる面々。

オペレーター職員、技術部、保安部、管理部、諜報部、
ありとあらゆる部署で現時点まで残っていた、ある意味で選りすぐりの集団であった。

 

「質問、よろしいですか?」

撤退理由説明終了と同時に、オペレーター職員の一人であり、愛弟子でもあるマヤが挙手し、質問の声を上げた。

リツコは軽く頷き、質問を促す。

「初号機操縦者の延命措置の為、
ビッグバンならぬ、小規模なビッグクランチを初号機と零号機のATフィールドによって引き起こす。
爆発的収縮エネルギーによって空間崩壊、アダムごと異空間転移と説明してましたが、可能ですか?そんなこと」

「理論的には可能です。
フィールドの空間質量を限界まで膨張させ、
それが臨界点を越えた時点から、急速な収縮活動と共に密度が一点に潰れる瞬間までに、空間は崩壊します」

空間崩壊。

あまりに話が突拍子過ぎたのか、崩壊の図が想像し難かったのか、コダマが呟き声を立てる。

「その時、その場の空間は…」

「密度の質量にもよるけど、抉られるわね。ネバダ支部のように」

周囲で生唾を呑む音が聞こえる。

恐怖。

ネバダ支部消失の報を知っている者は、誰しもがその惨状を知っている。

支部消失。

支部跡には巨大なクレーター。生存者は四号機操縦者のマユミのみ。

残酷な事実である。

そのことを知っているだけに、周囲の人間の恐怖は増す。

だが、リツコは周囲が恐怖に引き攣ることも意に介さず、淡々と、事務的に説明を続ける。

「四号機の空間転移、憶えているわよね。あの時、空間は切り裂かれずに歪んでいた。
機体回収後に内部データを観測したら、本作戦と同じ数値が計測されたわ。虚数空間を脱出する際のものだけど」

「虚数空間を、現空間に置き換えても可能だと?」

「でなければ、退避勧告は出ないわ」

日向の質問をリツコは一蹴した。

否、しなければならなかった。これから此処で起こる惨状を、少なからず知っている人間としては。

 

静寂。

無情なリツコの報告に、周囲は凍りつき、声を無くし、沈黙だけが室内を支配する。

誰もが言葉を失くしたと思われた矢先、技術部職員の一人が挙手し、声を上げる。

「我々が撤退、…失礼。
退避するのは一向に構わんのですが、作戦失敗の場合、また呼ばれることになりますか?」

「失敗にしろ、成功にしろ、使徒出現の可能性が残っている限り、召集は有り得ます。
技術部職員が培った経験は、どんな機械や部品よりも貴重なものです。ある意味、エヴァよりも大切な財産です」

「私達の経験が…」

「寝食を忘れ、エヴァの修復、武器の改良に努めてくれたこと、私は忘れません。…今まで、ありがとうございました」

そう言うと、リツコは感慨深げに頭を下げた。

技術部職員は慌ててリツコの行為を制止する。

緊張していた室内が、一瞬ではあったが穏やかな空気に包まれた瞬間であった。

その光景を静観していた青葉は、人心地納得したかのような顔で口を開く。

「赤木技術部長は残るおつもりなんですね」

「あら、青葉君、居たの?」

「し、失敬なッ。一応、クビになってもネルフで働いてるんっすよ、俺」

唐突な侮辱の言葉に、語気を荒げる青葉であった。

リツコは、からかい甲斐のある青年だと言わんばかりに苦笑しながら答える。

「知ってるわ。母さんの所でバイトしてるんでしょ?」

「はい、まぁ」

「相変わらずの情報分析能力、流石ね。と言うよりも洞察力ね、この場合」

「質問の答えがまだですが」

「青葉君の推察通り、確かに私は残ります」

「でしたら」

「俺も残ります。なんて安直な言葉は吐かないで頂戴。興ざめするから」

冷ややかにそう告げると、リツコは青葉だけではなく、周囲の職員達に向かって言葉をつなぐ。

「死ぬのよ、間違いなく。逃げなさい、遠くへ、出来るだけ遠くへ」

逃げろ。

リツコが冷酷に言い放つと、室内に女性の声が響く。

「そーさせて貰うわ」

聞き慣れた女性の声、
今まで此処には居なかった女性の声、誰の声かと認識すると、リツコは声の主の名を口にする。

「ミサト」

足元にペンペン従えたミサトは、入り口付近に立っていた。

周囲の人物達の視線を集めながら、ミサトは不機嫌そうな顔で口を開く。

「遅くなって御免なさい。話は途中からだけど聞かせてもらったわ。
死にたいって言うんなら、勝手に死なせなさいよ。私達には、まだやるべきこと、戦うべき敵も残されているんだから」

「ですが」

職員の一人が意見するかのように声を上げたが、ミサトはそれを無視し言葉をつなぐ。

「死にたいなら止めはしない。生き残った者は、生きてる者を、更に生かす努力をするだけよ」

威圧。

先程リツコが植えつけた恐怖とは違う、義務感、使命感のようなものを、ミサトは威圧的に植えつける。

そして、その言葉は現状では何よりも正しいものと思われた。

誰しもが正論の前に沈黙すると、リツコが周囲を見回しながら口を開く。

「他に質問は?」

無。

リツコの説明と、ミサトの正論によって納得させられた以上、職員達に口を挟む余地は無かった。

そのことを確認すると、リツコは皆を見据えながら、落ち着き払った声で別れの挨拶を述べる。

「御理解、御清聴、感謝します。これにてネルフ日本支部は解散です。皆さん、ご壮健で」

簡潔明瞭な別れの口上は、あまり言葉を飾らないリツコに相応しいものだった。

数分後。

職員達は口々に、リツコへの謝意と労いの言葉を残して去っていった。

これまでの実績、貢献。

リツコ無しではネルフ本部は機能しなかった。そのことを皆、熟知している故の行為であった。

別れを終えた職員達が次々と退室する中、
リツコは涙目になっているマヤと、それを慰めているコダマの姿を見つけた。

その姿は、自分達は今後どうすべきかを迷っている姿にも見えた。

二人の様子を瞳に入れると、リツコは苦笑いを浮かべて思考する。

(頼み難くもあり、易くもある。実際、微妙よね。)

 

 

<化粧室>

 

化粧室の鏡前で、リツコはリップを塗っていた。

マヤとコダマ、二人と短く会話した後、リツコは化粧室で口紅を塗り直すことにした。

長時間化粧をしていると、化粧崩れが気になるものである。

リツコはグロスもライナーも使わずにリップを綺麗に塗り終えると、鏡に映る人物、背後に立つ人物へと話しかける。

「悪かったわね」

「何が?」

そう答えた人物はミサトであった。

先程連れていたペンペンの姿は無く、入り口側の壁にもたれかかる姿があった。

不思議そうな顔を見せるミサトに、リツコは化粧ポーチからアイライナーを出しながら話す。

「嫌な役目、引き受けて貰って」

ああ、退避説明の件か。

ミサトはそう理解すると、鏡に映るリツコから視線を避け、宙を見上げながら答える。

「ああでも言わなきゃ残りそうな連中ばかりだもんね。お人好しと言うか、馬鹿と言うか」

「ミサトは違うの?」

苦笑。

心憎いが心地良い言葉に、ミサトは苦笑いを浮かべて答える。

自分も同類と言わんばかりの顔で。

「私、残るから。そのつもりでね」

「理由は?」

リツコは然して驚きもせず、アイラインを引きながら残留理由を訊ねた。

一切承知。

全て見通し済みかのようなリツコの様子に、ミサトは微笑を浮かべて答える。

「私が必要になる可能性もあるから。…けど、今回ばかりは可能性は少ないみたい」

可能性。

ミサトが必要になる可能性。

それは、初号機と零号機による白鳥作戦が失敗に帰すということ。

ミサトはミサトなりに、シンジの延命を願っているのであろう。

(不器用な願い方。人身御供じゃあるまいし。)

そんなことを思った後、リツコはアイラインを引き終えたのかアイライナーをポーチに収めると、ミサトへと向き直る。

「無駄になるかも知れないけど、三つだけ教えておくわ」

ミサトの瞳を真っ直ぐ見据えると、リツコは言葉をつなぐ。

「渚カヲルは推察するに使徒。私達の敵はネルフ。戦自が不穏な活動」

「戦自ってッ?!」

驚きの色に染まるミサトの瞳。

微笑。

あまりに驚く様子がツボにハマったのか、
リツコは笑いを堪える様な仕草を見せて歩き出すと、ミサトの側を通り過ぎながら話しかける。

「情報は教えたわ。残念だけど、説明するほど暇じゃないの。御免なさい」

そう言い残すと、リツコは廊下に去った。

化粧室に一人残ったミサトは、露骨にムッとした表情見せ、壁を蹴り上げる。

「んにゃッ!性格悪ッ」

 

 

<ネルフ内、風呂>

 

銭湯のような広い浴場に、少年が三人。

シンクロテストを終えたチルドレン達であった。

 

苛つき。

カヲルとシンジが湯船に浸かる中、トウジはムカついていた。

シンクロテストの後に、シンジ共々カヲルから風呂に誘われたことは原因ではない。

風呂に入ってからが問題なのであった。

(何であんなにデカイんじゃ。アイツら人間や無いで。)

修学旅行でも自分のサイズは標準であった。

否、多少は自信を持っていた。

だが、シンジとカヲル、あの二人は異常である。

故に、行き場の無い憤りは深みを増す。

だが、幾ら怒った所でサイズが膨張する訳でもなく、黒々とした負の感情を抑えつつシャワーを浴びるだけだった。

 

一方。

湯船に浸かっていたシンジは、そんなトウジの感情など露知らず、呑気な声を上げる。

「どーしたのさ、トウジぃ。湯船に入んないのぉ」

「うっさい!ディック・ブラザーズッ。慰めはいらんわッ」

罵声。

トウジの境遇からすれば、至極真っ当な対応であった。

いきなり罵声を浴びせられたシンジは、どう対処したものかと隣で湯船に浸かるカヲルに訊ねる。

「どうしたのかな、急に機嫌悪くしちゃって」

シンジの問いかけに、カヲルは目を閉じながら答える。

「鈴原君は繊細なのさ」

「繊細?」

「ナイーブってことさ。…でも、君の方がもっと繊細で壊れやすい」

そこまで言うと、カヲルは自分の指をシンジの指へと触れさせた。

だが、僅か、極僅かに指先が触れただけで、シンジの指は逃げ出してしまう

微笑。

カヲルは小さな微笑を見せると、ゆっくりと瞼を開け、シンジを見つめて話しかける。

「一時的接触を極端に避けているね、君は。怖いのかい?人と触れ合うのが」

驚いたような、戸惑いを隠せない顔を見せるシンジに、カヲルは優しく話しかける。

心の奥底にあるもの、シンジの魂の根幹と呼ぶべきもの、それらを静かに揺らすような微笑と言葉で。

「他人を知らなければ、裏切られることも、互いに傷つくことも無い。
でも、寂しさを忘れることも無い。人間は寂しさを永久になくすことは出来ない。
…人は一人だからね。ただ、忘れることが出来るから、人は生きていけるのさ」

シンジは聞いた。

カヲルの言葉を余すことなく耳に入れ、心に届かせた。

だが、何か違う。

何か分からないが、譲れないものがある。

この少年に今一歩踏み込んでいけない、何か変わったもの、自分と何か違うものを感じるのは確かであった。

踏み込めない、一歩分。

その距離が、シンジに口を開かせる。

先程のカヲルの言葉と行動を否定するかのように、シンジは俯き加減に自分の指先を撫でながら話しかける。

「忘れることは、悲しいことだよ。忘れたままで生きるのは、忘れようとして生きることよりも辛いんだ」

忘却。

短い間ではあったが記憶を失くしていたシンジにとっては、当然とも呼べる言葉であった。

だが、カヲルは事も無げに返答する。

シンジが困惑と混迷に彩られた精神から紡いだ言葉を、静かなる微笑と共に切り返す。

一歩分の距離をあざ笑うかのように。

「常に人間は心に痛みを感じている。心が痛がりだから、生きるのも辛いと感じる」

縮める。

カヲルは、一歩分の距離を一気に縮めるような言葉を放つ。

瞳を見つめ、心を見つめて。

「ガラスのように繊細だね。特に君の心は」

「僕が?」

「そう、好意に値するよ」

「こうい?」

「好きってことさ」

好意、好き。

露骨な言葉だが、他人と距離を取る人間にとっては非常に有効な言葉。

シンジの維持していた距離、一歩分の距離すらも容易に縮めてしまう言葉であった。

紅潮、赤面、照れくさい。

頬を高潮させ、顔を赤らめ、照れくさそうに俯く。

違和感も、譲れないものも、全て打ち砕かれてしまったかのように、シンジは恥ずかしそうな顔を見せた。

そんなシンジの様子を見て、カヲルは続けざまに何か言おうとしたが、それまでだった。

唐突にアナウンスが流れたからだった。

ミサトの声で、カヲル、トウジ、マナは指令室。レイ、シンジはナオコの研究室への呼び出しであった。

「召集や。先、上がるで」

一番先に行動を起こしたのは、シャワーを浴びていたトウジであった。

その行動に続くように、カヲルも立ち上がると、シンジへ意味深な言葉を残して去っていく。

「心惹かれる。…11番目ではなく、君が選ばれ、譲られたことも理解できる」

 

 

<ナオコの研究室>

 

湯上りのシンジを待っていたのは、白鳥作戦の説明であった。

セントラルドグマでのATフィールドの高密展開。

展開後、異空間転移。転移後、更にX1への転移。転移後、時間跳躍、進行時間への帰還。

無茶に無理を重ねた無謀な作戦であった。

だが、この作戦内容を全て伝える訳ではない。

全てを伝えてしまっては、拒絶される可能性がある為だった。

それ故、シンジ達が行うべきことを手短に、簡単に伝える必要があった。

 

「ATフィールドを膨張させる?」

研究室の椅子に座ったシンジは、意味が分からないといった顔で訊ねた。

いきなり明け方に作戦を開始し、異空間転移後に白鳥座を想像しろ等と言われれば当然である。

普通の人間ならば笑いだすか、怒り出している所であろう。

だが、ここは解散したとは言え、ネルフ日本支部である。

異常事態、緊急事態は日常茶飯事。シンジの驚く感覚も麻痺に近い状態だった。

シンジの問いを聞き、ナオコは笑顔を見せて答える。

この少年の前では悲しい顔を見せないことが、数少ない薬の一つ。

そのことを彼女なりに理解しているからであった。

「そう、膨張。フィールドの内部質量が増大圧縮する感覚で展開して頂戴」

「なんか難しいですね」

「超強力で高熱、高密度なATフィールドをイメージしても大丈夫よ」

「はぁ」

「展開後は、こちらが各機体にデータを送り込むだけだから、任せていいわ」

理解半分といった感じのシンジの状態に苦笑で答えると、ナオコはレイの方を向いた。

レイは学生服姿でシンジの隣に座り、静かに作戦の説明を聞いていた。

静かに、静かに、自分のやるべきことを模索していた。

この作戦で何を行い、何をやるべきか、自分の居場所を探していた。

ナオコはレイに対しても、笑顔で説明を行う。

「レイちゃんはATフィールドで、零号機と初号機を全方位包み込むこと。
タイミングは零号機にデータとして入力済みよ」

「はい」

レイの頷きを確認すると、ナオコは満足そうな顔を見せ、白衣のポケットからレーザー拳銃に似た器具を取り出した。

白い拳銃のような器具、それは医療器具のようにも見えた。

(護身用の武器かな?)

そんな思考をシンジが巡らせていると、ナオコは爽やかな笑顔で話しかけてくる。

「じゃ、首を出して」

「な、何する気ですか?それで」

殺されるとでも思ったのか、シンジは恐怖に引き攣った顔を見せた。

苦笑。

あまりなシンジの様子に苦笑すると、ナオコは簡単に器具の説明を行う。

「遺伝子注射よ。少しでも細胞を長生きさせる為のね」

説明を行った後、ナオコはレイに器具を見せながら話しかける。

怯えた少年の代わりに、怯えぬ少女。今の状況では賢明な判断であった。

「レイちゃん、首出して」

静かに頷くと、レイは学生服の襟を下げ、白いうなじを差し出した。

軽い弾ける音と共に、打ち込まれる注射。

モノの数秒もかからず、医療行為は終わりを告げた。

「はい、シンジ君も」

レイに打ち終えると、ナオコは微笑を見せてシンジを促した。

痛がるそぶりを見せなかったレイに安堵したのか、シンジは素直に首筋を差し出した。

ナオコが軽く首筋に器具を触れさせると、シンジは静かな口調で訊ねる。

「生きれますか?」

微笑が消えた。

シンジの質問と同時に、ナオコの顔から微笑が消えた。

どう答えるべきか、答えを模索しているようにも見えた。

パシュッ。

注射の音と同時に、ナオコは悲しげな、だが真剣な表情で口を開く。

「生きるの、絶対に」

 

 

<指令室>

 

「悪いわね、急に呼び出したりして」

指令室にはミサトの姿があった。

一列に整列したチルドレン達は、口々にミサトの言葉に答える。

「慣れてま〜す」

「まぁ、仕事やさかい」

「それで、召集された理由は?」

三者三様の言葉に苦笑すると、、ミサトは簡潔に召集理由の説明を始める。

「明日早朝にシンクロテストを行うから、その案内を、と思ってね」

嘘であった。

テストとは名ばかりの、空間崩壊に備えた退避行動のことであった。

子供達はエヴァの中が一番安全。

そのことを使徒戦で熟知していた為であった。

だが、子供達は嘘とは知らないのか、マナは面白そうに、トウジとカヲルは興味無さげに話を聞いている。

早朝にシンクロテストという響きに興味を覚えたのか、マナが楽しそうに口を開く。

「朝錬ですか、何か部活みたい」

上手く騙せたことに安堵したのか、ミサトは穏やかな顔を見せて説明を続ける。

「山岸さんとアスカも参加する予定です」

「アスカと山岸さん、復活したんですか?」

「ん〜、アスカはね。山岸さんはリハビリを兼ねて搭乗してもらうわ」

マナの顔が喜色に染まる。

そのことに視認すると、ミサトは微笑み混じりに訊ねる。

「嬉しい?」

「はいッ」

笑顔。

霧島マナの笑顔。

時折見せる邪気の無いマナの笑顔に、幾度救われただろう。

使徒戦、戦中、戦後、何度も無理をさせ、悲しませた。

だが、マナは笑顔を忘れずに接してくれる。

彼女が居てくれて良かった。

天真爛漫な無邪気な笑顔に、ミサトは嘘を吐いているという心の責苦が、少しだけ軽くなったような気がした。

(でも、謝っても許してくんないだろ〜なぁ。)

白鳥作戦成功後のことを一瞬考えたミサトであったが、今回子供達を招集した真の理由を思い出し、口を開く。

「私の話は以上。朝になったら放送するから、各機体に集合ってことでヨロシク。
あ、あと、渚君だけ残ってもらえる?チョット説明したいことがあるから」

カヲルだけ残るように伝えると、ミサトは笑顔で号令をかける。

「以上、解散です」

 

「説明、ですか」

カヲルはミサトと二人きりになると、瞼を閉じ、両手をポケットに入れたままの姿勢で訊ねた。

次に、ミサトがどのような行動を起こすか知らずに。

瞬時の行動だった。

ミサトの方向から僅かな物音がしたのと同時に瞼を開けたが、後の祭りであった。

銃口がカヲルの額を狙っていた。

だが、驚きはしない。

さも当然と言わんばかりに、カヲルは冷静に言い放つ。

「貴方の行動は正しい。迷わず撃つべきです」

真摯な瞳を見せていたミサトは、ゆっくりと瞳を和らげると、
子供達に向けるのと同じ瞳、親しげな瞳を見せ、拳銃をホルダーに収めた。

ミサトの目的は、カヲルを殺すことでは無かった。

本当はカマをかけただけだった。

使徒か、人間か、真実を得る為に危険な賭けをしただけであった。

そして、得られた結果が現在の状況。

真実を得た今、ミサトはこの少年と話をしてみたくなった。

自ら殺せ、そう言ってくる少年、渚カヲルという少年と。

ミサトは軽く腕組みをすると、微笑み混じりに話しかける。

「貴方という少年が、本当に私達の敵、あの子達の敵なのであれば、躊躇無く撃つわ。
けどね、私達が綾波レイを利用している段階で、私達は貴方の側でもあるの。そこの所を知って頂戴」

「碇シンジの未来のために」

カヲルの放った言葉を、ミサトは瞬時に理解する。

驚きの表情を隠し、微笑を絶やさぬままで。

間違いなく、フィフスは使徒。

全ての情報を知っていると見るべき。

驚きと焦りに心を彩られながらも、ミサトは笑顔で話を進める。

「一人の少年のために、一組織が馬鹿をやる。面白いでしょ、人間って」

「時として人は過ちを犯すもの」

「そう、愚行ね。でも、少しだけ付き合ってもらうわよ、私達の馬鹿に」

「付き合わなかったら」

「私、もしくは、あの子達が貴方のお相手をするわ。
自画自賛って訳じゃないけど、強いわよ、あの子達。生半可なことじゃ、貴方には屈しない」

本心からの言葉であった。

絶望を引き裂き、苦境を噛み千切り、死線を生き抜いてきた子供達である。

傷つこうが、倒されようが、幾度となく立ち上がり、生き延びてきたことを、ミサトは誰よりも知っている。

それ故の言葉であった。

だが、カヲルは臆することなく、静かに答える。

「知ってますよ」

強がりではない。

まるで全てを見通しているかのようなカヲルの言葉に、ミサトは苦笑した。

自分の良く知る人物、リツコを思い出したからであった。

だが、いつまでも笑っている訳にもいかず、
ミサトは静かに一息つき、表情を消すと、真摯な瞳を見せて別れの言葉を口にする。

「初号機の後で、また話をしましょう。今度は紅茶でも片手に」

「人類の希望についてでも話しますか?」

「そう願いたいわね」

微笑。

ミサトは冷めた瞳を見せながら微笑した。

自分の願いは、あくまでも願いだけ、ということを知っていたからだった。

 

 

<ネルフ内、廊下>

 

医療処置の終った二人は廊下を歩いていた。

研究室を出てから何も会話の無い二人。

レイと二人きり。

その状況が導いたのか、沈黙が耐え難かったのか、シンジが小さく呟く。

「ヤだな」

「何が?」

「死にたくないな、ってこと。綾波とは逆なんだろうけど」

他人の前では曝け出すことのなかった感情。

他人には強がって見せることのなかった感情が、シンジの内面から噴き出し始める。

レイと同じ境遇、同じ痛み、同じ苦しみ。

それらを分かち合うことから剥き出しになった感情が、表面に現れだしていた。

距離。

あの地下室での一件以来、シンジはレイから距離を置いていた。

自分よりも残酷な境遇、凄まじい事実。

そのことを知ってしまった以上、レイに会うのは出来るだけ避けなければならなかった。

きっと壊れてしまう。

理性。

自分を保つことの出来る唯一のものが、決壊してしまうような感じがしていたからだった。

そして、その感覚は正しかった。

「生きていたいね。生きて」

続けて呟いた瞬間であった。

シンジの頬を熱いものが伝う。

堪えていたもの、耐えていたものが一気に噴出する。

虚栄も、理性も関係無い。

ただ感情剥き出しのままに、自らの内心を曝け出す。

止め処無く溢れ出る、涙。

自らの心を抑えようとしたのか、両腕を押さえるようにして胸を閉じていたシンジは、嗚咽混じりの声で呟く。

「怖いよ、怖いんだ。自分を失うことが、死ぬことが。消えてしまいたいのに、死んでしまいたいのに」

恐怖。

怖かった。

使徒戦よりも、他人よりも、世界よりも、何よりも自分を失うことが怖かった。

脆弱で臆病な少年には、自己を失う恐怖は耐え難いもの。

だが、恐怖に押し潰される前にレイに会えたことは、シンジにとって幸運と呼べる出来事だったのかも知れない。

 

 

<喫茶室>

 

静かな喫茶室。

音楽も流れず、人はたったの二人のみ。

退避活動は順調に進んでいるようである。

 

「で、素体には誰をつけるの」

「マヤとコダマさん、適任でしょ」

喫茶室の二人の人物は、ナオコとリツコの赤木親子であった。

二人の会話からすると、先程の退避説明後の件が絡んでいるようである。

適任。

マヤ、コダマ。

資質的にも、今後二人が得るであろう人脈的にも申し分無い。

ナオコは頷きながら答える。

「確かにね。所長の今後の研究を受け継ぐには適任ね」

「MAGI もね」

リツコの言葉を聞き、ナオコは何か言おうと口を開けたが、それまでだった。

不意な人影、頭上に影が掛かる。

誰かと見上げると、紙コップの珈琲を持ったミサトの姿があった。

ミサトは微笑みながら話しかける。

「水入らずに邪魔してもいいですか?」

親子。

ミサトの言葉から推察したのか、赤木親子は顔を見合わせた。

そして、何を思ったのか、ナオコは急に悪戯っ子のような顔を見せた。

何を企んだのか、嫌悪感を露にした顔を見せてミサトに振り向く。

「最低、邪魔、邪魔。シッシッ」

いきりなりの罵声に、微笑を凍りつかせ、青筋を立てるミサトであった。

しかも、野良犬を追っ払うような仕草をされては、喧嘩を売られているようなものである。

どーしたものかと、ミサトが乾いた笑い声を立てていると、唐突にリツコが笑い出す。

それに、つられるようにしてナオコも笑い出すと、ミサトの為に席を引きながら話しかける。

「冗談よ。どうぞ座って頂戴」

ミサトはナオコの冗談と分かり、笑顔で席に着く。

ネルフ日本支部の今後を握る三人の女性、今後を占う意味でも、三人の会話は重要なものであった。

だが、会話は成立しなかった。

ミサトが席に着き、会話が始まろうとした途端、ナオコの携帯が鳴ったからであった。

ナオコは不機嫌そうに携帯をとると、内容がメールだったのか、ボヤきながら携帯を操作する。

「呼んだり呼ばれたり、まったく。しかも教授直々の呼び出しなんて、人手不足まる出しね」

ボヤき終えると、出向かねばならない用件だったのか、ナオコは席を立った。

その仕草に、リツコは微笑みながら話しかける。

「母さん、また後で」

「ええ」

 

ナオコの去った後。

ミサトとリツコによる状況報告のような会話がなされていた。

「物騒なことするわね。貴方、殺されるわよ」

「うん、死ぬ寸前だったかも。でも、生きてるし、推測が正しいことも証明されたじゃない」

話からすると、カヲルの件のようである。

ミサトの無茶を知り、リツコは苦笑混じりに呟く。

「馬鹿ね」

「お互い様でしょ」

笑いあう二人。

喜びあい、憎みあい、色々あったが、今でも友人という関係を保ち続けている二人であった。

二人の間に穏やかな空気が流れると、ミサトはカヲルの件を微笑み混じりに話し始める。

「ま、何にせよ、自己状況を把握出来た段階で、フィフスは動きを制限された。
逃げるにしろ、止(とど)まるにしろ、フィフスは立場を明確にせざる得ない。どちらの、どの位置につくか」

「それまで、あえて泳がしておく訳ね」

「リツコも司令も、そのつもりだったんでしょ。推測しておきながら放置してたんだし」

そこまで言うと、ミサトは渋そうな顔を見せて言葉をつなぐ。

「後は戦自の件か」

「動くにしても後手ね。初号機の作戦後だと思うわ」

「ふ〜ん。ま、いつでもいいんだけどさ」

「随分と余裕じゃない?作戦でもあるの」

「白鳥が飛べは戦自そのものが意味を成さない。失敗したとしても、こちらには地の利がある」

「絶望的な物量差は?」

「半日は持たせるわ。それまでに交渉出来なきゃアウトだけど」

「自信あるのね」

「相手は使徒じゃなく人間よ。厄介でもあるけど、御しやすくもあるわ」

「敵がエヴァシリーズでも?」

「エヴァシリーズッ?!」

ミサトは声を荒げ、瞳を大きくさせた。

伍号機から建造を開始し、近頃完成したと聞いていたが、まさか実戦投入出来るとは考えていなかった為であった。

(操縦者が、適格者が見つかって…ダミーか。)

理解した。

適格者がいなくても、ダミーシステムがある。

レイも、カヲルも、ゼーレから送り込まれた適格者。ダミーシステムの可能性は限りなく高い。

作戦の幅が広がったことに、ミサトは正直、焦りを覚えた。

その様子を見ていたリツコは、何気に腕時計を視認すると、席を立ちながら話しかける。

「ま、作戦が無駄になることを祈ってるわ。それじゃ」

「ちょっ、リツコ」

ミサトは声をかけ、話を聞きだそうとしたが、時間厳守な用件だったのか、リツコはそそくさとその場を後にした。

一人残ったミサトは、中途半端なリツコの話にムッとしたのか、珈琲の入った紙コップを握り潰して声を上げる。

「んにょッ、性根悪ッ!熱ゃ!」

 

 

<ネルフ内、廊下>

 

「マヤと洞木さん、行っちまったな」

「妥当だろ」

残留する気なのか、廊下には日向と青葉の姿があった。

二人はマヤとコダマを見送った後なのか、どことなく疲れたような表情があり、足取りも重たげなものであった。

ゆっくりと歩きながら、青葉は隣を歩く日向に訊ねる。

「作戦課はどうなった」

「俺と葛城さん以外、全員退避済み。三十六計って所だ。で、お前は?」

「残るよ。俺は見届けたい。誰が生き延びるにしても」

「損な性分だな、お互い」

「お前に言われたかねーよ」

苦笑しあう二人。

青葉は苦笑しながらも、全く別なことを考えていた。

自分が残った理由、これまでの同居人、レイのことを。

(補完…。一体、何を考えているのか。)

考えながら俯き加減に歩いていると、不意に隣の足が止まった。

何事かと日向を見ると、口許に手を当て、黙れと指示を出してきた。

耳を澄ませてみる。

聞こえる。

遠くから少年の声が、シンジの声が聞こえてくる。

「怖いんだ。自分を失うことが、死ぬことが。消えてしまいたいのに、死んでしまいたいのに」

「…貴方は死なないわ。私も、そう望んでいるから」

「綾…波」

 

シンジ達の会話を聞いた二人は、黙って声から遠ざかった。

再び、沈黙して歩く二人。

やりきれない思いを感じたのか、日向は唇を噛み締めながら呟く。

「損な性分で良かったよ、俺は」

「ああ」

 

 

<暗闇の会議室>

 

暗闇にモノリスが浮かび上がる。

モノリス達は、これまでのネルフの行動を語りはじめる。

「ネルフ、そもそも我らゼーレの実行機関として結成された組織」

「我らのシナリオを実践する為に用意されたもの」

「だが、今は一個人の占有機関と成り果てたな」

「左様。我らの手に取り戻さねばならん」

「約束の日の前に」

約束の日。

モノリスの一つが放った言葉をつなぐようにして、キール議長の声と思われるモノリスが語り始める。

「ネルフとエヴァシリーズを、本来の姿にしておかねばならん。
碇。ゼーレへの背任、その責任は取ってもらうぞ」

 

 

<初号機ケイジ>

 

ゲンドウ一人きりの初号機ケイジ。

技術部の職員達も退避を終了させたのか、人影すらない。

ゲンドウは初号機の頭部と向かい合うと、まるで身内にでも話しかけるように呟く。

「我々に与えられた時間は、もう残り少ない。だが、我らの願いを妨げるロンギヌスの槍は既に無い」

身内。

肉親にでも話しかけるような口調。

それも、さも当然であろう。

ゲンドウは初号機が何であり、誰が取り込まれたのかを知っているのだから。

「シンジを頼む。ユイ」

 

 

 

つづく


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後半ボロボロ。
疲れちゃいましたとさ。

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