僕は…。
僕は…。
僕は…。
僕は僕で僕
(122)
少年は思い出し、理解した。
これまでのこと、これからのこと。
記憶、理解。
押し潰されそうな絶望に、少年は呟く。
「僕は…」
<ナオコの研究室>
使徒戦終了。
その報を知ることも無く、一人の男が忙しげに端末を操作していた。
室内に響くキーを叩く音。
音の主は、ネルフを解雇された男。
私服に身を包んだ、青葉シゲルであった。
戦闘中に上官に逆らうという愚行を犯した後、職を失った青葉は、ナオコに引き取られる事となった。
臨時のアルバイト、データ入力業務、時給600円という待遇で。
以前は尉官待遇だった男が、今は唯のアルバイト。
誰しもが不満を抱く状況だが、青葉はこの待遇を二度返事で引き受けた。
理由は、綾波レイ。
彼女を理解する為であった。
カタカタ、タ…。
それまで黙々と入力作業に勤(いそ)しんでいた青葉は、ある項目を打ち終えると、手を休め、何かを考える仕草を見せた。
青葉は口許に手を当て、背もたれに体を預けながら思考を巡らす。
(MAGI �。完成していれば、知能の相互干渉を利用し、新たな知能を構築する予定だった。…が、結局は予定の名目だけに終わる。)
思考の内容は、入力作業の内容。第13使徒に御破算にされたMAGI �のことであった。
青葉はモニターのデータを見つめつつ、感嘆の吐息混じりに呟く。
「やっぱ天才だぜ」
呟きの途端、背後の扉が開閉する音が響く。
その音を聞き、青葉は振り向くことなく話しかける。
入室して来たであろう人物を、自分なりに推測して。
「洞木さん。こっちの入力あらかた終わったぜ。次、何すりゃいい?」
質問への回答は、沈黙。
その沈黙に、青葉は怪訝な表情を見せ、扉の方向へと顔を向ける。
「…ぁ」
瞳に映った人物は、意外な人物であった。
青葉は驚きの瞳を見せながら呟く。
「マヤ」
瞳に映った人物は、かつての同僚、伊吹マヤであった。
マヤは顔を俯かせ、何かに萎縮したような、怯えた様子を見せていた。
名を呼ばれたことに対し、マヤは俯いたまま思考する。
(青葉君が私の名前呼ぶの、随分久し振りに聞いた気がする。)
そんな淡い感情にも似た想いを抱くと、マヤは顔を上げ、取り繕ったような微笑を見せながら話しかける。
「…洞木さんに、青葉君がここに居るって聞いて」
喜んでくれる。
青葉は自分の来訪を喜んでくれる。
マヤは胸に希望を抱くような思いで、そうなるものと信じていた。
だが、その希望は打ち砕かれる。
マヤの言葉を遮るように放たれた、青葉の無情な言葉によって。
「笑いに来ました、か?存分に笑え。…いや、笑ってくださいだな。伊吹一尉殿」
卑屈な微笑と、悪辣な言葉。
以前の青葉とは別人のような表情と言葉に、マヤは目を背けつつ思考する。
(酷い。酷い。…酷い。)
状況がそうさせたのか、時間がそうさせたのか、マヤには理解出来ない。
唯、これだけは明確に理解できる。
(…笑える筈、無い。)
張り裂けそうな悲しみを堪え、マヤ沈黙する。
だが、青葉は尚も悪意のこもった言葉を浴びせかける。
「伊吹一尉、宜しければ退室願えませんか?作業の妨げになります。…それとも、笑い足りませんか?」
グッ。
青葉の言葉に、マヤは手の平を握り締めながら背を向けると、消え入りそうな声で呟く。
「…御免ね」
その言葉を最後に、マヤは研究室から去った。
静寂の室内。
一人残った青葉は、マヤの呟きが理解出来なかったのか、悲しげな瞳を見せながら思考する。
(何で謝るんだよ。俺は…、俺は嫌われなきゃならねぇのに。)
嘘。
悪辣な言葉、卑屈な態度。
全て演技だった。
青葉はマヤの優しさも知ってるし、想いも知っている。
それ故、今の自分に関与することが、マヤにとって不幸になることを十分理解していたからである。
今の自分。
唯、綾波レイを知る為だけに存在している自分。
その自分自身の存在を、少なからず危険に感じ始めたからであった。
「最低、だな」
小さく呟いた後、青葉は無性に大声を張り上げてみたくなった。
<初号機ケイジ>
息を吐き出した。
脳髄まで吐き出しそうな程、大きな息を。
初号機、プラグ内。
碇シンジという少年が。
-プラグ解除。LCL排出。-
機械音のように響く、職員の放送。
その声を耳に響かせながらも、シンジは現状を認識しようと思考を巡らす。
現状を理解したが故の戸惑いの為に。
(僕は…。使徒?違う。違う、違うんだ。僕は人だ。人でいたいッ。)
願い、祈り。
その、どちらとも区別が付かないような思考の最中、職員の放送がプラグ内に響く。
-プラグ、搭乗口への固定完了。搭乗者は職員の指示に従って行動してください。-
放送は、操縦者がエヴァから降りることを示唆していた。
そのことを知るシンジは、強引に現状を認識させる。
否、認識しなければならなかった。
他者との接触、他者との関係に繊細な少年としては。
(時間が、無い。理解しなきゃ…いけない。)
数分後。
プラグ上部のハッチが開き、男性の技術職員が顔を覗かせた。
子供達を戦わせているという負い目からか、柔らかな表情を見せて。
「戦闘終了御苦労さん。後は俺達に任せて、ゆっくり休みな」
「はい。ありがとうございます」
笑顔。
職員に答えるシンジの表情は、日本晴れのような笑顔であった。
先程の思考が嘘のような笑顔。
その理由は、シンジが選んだからであった。
(今は嘘でも笑顔を見せないといけない。)
歪んだ選択かも知れないが、シンジにとっては最良の選択。
他人に不安を与えない、他人に迷惑をかけない、他人に心を見せない、彼なりの`やり方´としては。
プラグから降りたものの、重い足取り。
ゆっくりと金属製のタラップを踏みしめ、髪先からLCLを滴らせながら、シンジは俯き加減に思考する。
自分は何者なのかと。
(理解、自分、状況。…僕は)
雫。
LCLの雫が一滴、床に落ちた瞬間であった。
ケイジ内に、少年を呼ぶ声が響く。
「碇君」
ビクッ。
聞きなれた声が聴覚に響くと、シンジは思わず体を震わせた。
ゆっくりと声の方向に顔を上げると、制服姿の少女の名を呟く。
「綾波」
正直、怖かった。
自分を知っている人間と会うことが。自分が知っている人間に会うことが。
黒い瞳と、赤い瞳。
互いに目を背けることなく向き合う。
刹那の邂逅。
途端。
こわばった頬が緩み、胸の奥から湧き上がってくる、例えようの無い感情。
赤い瞳に真摯に見据えられながら、シンジは心の奥から発した声を、微笑み混じりに投げかける。
「おかえり」
意外。
意外な言葉であった。
侮辱の言葉、侮蔑な言葉、侮言を浴びせられるものと思っていた為か、レイは驚きの瞳を見せて硬直する。
瞳に映る少年。
完全に記憶を取り戻した少年。
自分の戦闘目的を失わせた少年。
必ず、シンジは敵視してくるものと思っていた。
けれど、微笑を、言葉を。
そのことが理解出来るだけに、レイの驚きは大きさを増した。
沈黙する二人。
言い様の無い静寂が流れると、レイは静かな頷きを見せた。
ゆっくりとした、肯定の頷き。
投げかけられた微笑と言葉を、目を閉じながら受け取ると、レイは思考を巡らす。
(心地良い言葉。…私の中にあったもの、それを守れなければ聞けなかった言葉。…碇君。)
そんな思考と共に、レイの口から言葉が零れる。
「ただいま」
<ネルフ、病院施設>
5�。
あと5�、額の傷が深ければ、弐号機操縦者は死んでいた。
それが医師の見解であった。
皮膚を裂き、骨を突く。
人間の精神、シンクロという思い込みの力だけで、この現象が可能なのかと疑心に思うが、事実は事実。
患者の治療に全力であたり、診断を下すのが医師の任務。
治療終了後、診断結果。
全治一ヶ月、入院一週間。
傷は深かったが、怪我は重く無かったということである。
アスカの病室前。
扉横で、ミサトが沈痛な面持ちで目を閉じ、壁に寄りかかっていた。
自らの指揮が招いた事態に思考を巡らせながら。
(もっと作戦に、あの子達の性格を入れておけば…。)
人心掌握。
作戦を指揮するものとして必要な術(すべ)を、見逃していたことを後悔せざるえなかった。
だが、後悔した所で心が晴れるわけではない。
唯、心に苦渋の味が広がるだけであった。
「…未熟ってことか」
思考が結に導かれたのか、ミサトは一つ呟くと、静かに瞼を開けた。
結局は、自らの不徳と不勉強、不甲斐無さが招いた事態であることを認識して。
体を起こしながら、ミサトは自嘲するような口振りで呟く。
「最低ね。見舞いに来ておきながら、作戦の反省をするなんて…」
そんな呟きを放った時であった。
廊下の暗がりから、女性の声が響く。
「お疲れね」
「赤木博士」
ゆっくりと近づいてきた人物、ミサトの瞳に映った人物は、ナオコであった。
唐突に現れた感を憶えたのか、ミサトは訝しげな瞳を向ける。
その瞳の意味を悟り、ナオコは小さな苦笑混じりに口を開く。
「貴方と同じ。彼女達の容態を診にね」
「達。…山岸さん、少しは良くなってますか?」
ミサトの問いに、ナオコは首を横に振った。
否、振らざるえなかった。
回復の兆候無し。
マユミが精神汚染の事態に陥ってから数日が経過しても、
状態に変化が見られず、自己の殻へと閉じ篭った状況が続いているのだから。
ナオコは疲れたような息を吐き出すと、俯き加減に口を開く。
「あそこまで精神汚染が進むと、生半可なことじゃ治らない。
…とりあえず、トランキライザーとベンゾジアゼピン系の薬物を投与してるけど、現状維持がいいところね」
ミサトは薬の名前に聞き憶えがあった。
精神薬、抗不安剤。
十数年前、自分も投与されていた薬物の名前だったからである。
そのことが理解出来るだけに、ミサトの苦汁は色を増す。
沈痛な面持ちで、言葉を返すだけで精一杯であった。
「…そうですか」
痛みを堪えたようなミサトの顔に、ナオコは静かに話しかける。
「苦しい?」
「はい」
「作戦部長として?」
「ッ!」
唐突な侮辱の言葉。
人間としての尊厳を傷つけられるような言葉に、ミサトは鋭い眼光を向けた。
微笑。
ミサトの眼光をすり抜けるように、ナオコは静かな微笑と共に答える。
「怖い目ね。昔の私を思い出す。
敵意は隠しておきなさい。天知る、地知る、人が知るわよ」
昔。
戦時に居た頃の自分の瞳と、今のミサトの瞳を重ね合わせたのであろう。
ナオコは柔らかな口調ではあったが、鋭い釘(忠告)をさした。
その釘が痛い所に刺さったのか、ミサトは苦虫を噛み潰したような表情で答える。
「…以後、気をつけます」
ミサトの表情に苦笑すると、ナオコは話を変え、唐突に自らの脳裏に湧いた疑問を訊ねる。
出来るだけ、穏やかな口調で。
「リツコは?」
「使徒の解析、いえ、弐号機の修復作業じゃないですか?」
「そうね。そこら辺が妥当ね」
ミサトの言葉に、ナオコは顎許に手を置きながら肯定の言葉を発した。
少なからず、自分もそう思っていたからであった。
「リツコを探してるんですか?」
「まぁね。…あ、そうそう。貴方、シンジ君のこと、何か知ってる?」
「シンジ君ですか?いえ、特には」
「そう。ならいいの」
「あの、シンジ君が何か?」
「別に。唯、何となく聞いてみただけよ。
…リツコに会ったら、私が話があるって言ってたって伝えて頂戴」
「了解です」
「彼女にも宜しくね」
彼女?
アスカのことだと即座に把握すると、ミサトは素直に了承の言葉を口にする。
「あ、はい」
「よろしく」
ミサトへの言伝を残したナオコは、暗がりの廊下の中を再び歩き出した。
静まり返った病院内。
唯、自分の足音だけが響く中、ナオコは思考を巡らす。
今しがた会った人物、娘の友人にして作戦部長、葛城ミサトのことを。
(作戦部長は蚊帳の外。
子供達を指揮する人間に情報を与えていない。勝てる道理が無い。…予定されていた敗北、か。)
ナオコの思考は、ある種の真実であった。
<弐号機ケイジ>
動かぬ弐号機。
プログナイフが突き刺さったままの弐号機が、LCLに胸部近くまで浸らせ、修復の時を待っていた。
技術職員達は、その周囲で忙しげに作業を進めている。
侵食された装甲、細胞、機器の類。
それらの動作チェックを行う為である。
子供達の戦闘は終わっても、職員達の戦闘は終わっていないということである。
「MAGI による数値計測後、ですか?」
手摺に寄りかかりながらの、コダマの問い。
忙しげな技術部職員達を他所に、リツコとコダマは弐号機を眺めながら作業の打ち合わせを行っていた。
リツコは弐号機から目を逸らすと、コダマ問いに答える。
いつものように、淡々と。
「ええ。神経組織の集中部だから、その方が安全に作業出来るでしょ」
「何でもかんでもMAGI 頼み。MAGI 様々ですね」
「所詮は人工知能。便利なものは利用する。それが人間」
「哲学ぅ〜。赤木技術部長って、ひねくれてるから好きです♪」
性格が曲がってるって意味?
コダマの言葉にそんなことを思うリツコであったが、口にまでは出さず、苦笑を浮かべるだけであった。
良い意味での正直さ。
心地良い正直さ。
コダマの良い所を、リツコなりに理解していたからであった。
フッ…と、小さな吐息を吐き出すと、リツコは話を変え、コダマがここに居る理由を訊ねる。
本来ならばマヤが側に居て然るべきなのに、何故居ないのかを。
「ところで、マヤは?」
「え?あ、あの…」
口篭もるコダマの様子に、リツコは察知した。
マヤが居ない理由。コダマが修復作業を手伝う理由を。
「青葉君の所ね」
その言葉に、コダマは如何にも図星と言わんばかりの顔を見せた。
何とも正直な女性である。
苦笑。
苦笑いでその様子に答えると、リツコは弐号機に視線を戻しながら言葉を繋ぐ。
「隠さなくってもいいわよ。バイト申請、正式に受理されてるんだから」
「そうなんですか?」
「ミサトも復帰願いを出してたし…、丁度いい境遇じゃない?今の彼には」
「反省を兼ねて、ですね」
肯定の頷き。
失態を犯した青葉に灸を据えるには、充分な処置。
正直、青葉ほどの実力者が抜けるのはキツイが、組織として機能させる為には致し方ない処置。
そのことを理解しての頷きであった。
(マヤと青葉君、か。…純粋な職場恋愛よね。私と違って。)
そんなことを想った後、少しだけ寂しげな微笑を見せると、リツコは遠くを見つめながら呟く。
「…少しは進展するといいわね。あの二人」
「はい」
静かにリツコの言葉に答えると、コダマは胸に、ポケットの上に手を置いた。
少しだけ、優しげな微笑を見せながらコダマは思考する。
(解析完了済。
青葉さんの笑顔は誰の為。…私の為、じゃないよね。)
コダマの胸ポケットには、青葉から依頼されていたチップが入っていた。
仄かな恋心と一緒に。
<通路>
シンジとレイ。
互いにシッカリと手を繋ぎ、更衣室へと向かう廊下を歩いていた。
二人に不安は無かった。
二人に迷いは無かった。
二人に言葉は要らなかった。
唯、互いに必要としていた。それだけが必要であった。
プラグスーツ越し、手の平に伝わる、レイの体温。
(僕は、綾波を…)
シンジが思考しようとした矢先、廊下に職員のアナウンスが流れる。
-零号機操縦者は、エレベータ前にお越しください。繰り返します。零号機…-
(召集?)
唐突な感のあるアナウンスに、シンジは怪訝な瞳を見せた。
だが、レイは然して驚いた表情を見せず、いつもの調子でシンジに話しかける。
「碇君。私、行くから」
そう言って、今まで歩いた方向から踵を返すレイであったが、状況が許さない。
体の向きを変えても、手が、シンジと繋いだ手がそのままだったから。
離れない、離さない手に、レイは戸惑いの瞳を見せ、シンジの顔を見た。
驚き。
哀願、懇願、様々な願いが入り混じったようなシンジの瞳。
こんな瞳のシンジを見るのは初めてだった。
「一緒、一緒に行くよ」
ゆっくりと、シンジの言葉を受け入れるように目を閉じると、レイは自らの想いを口にする。
受諾。
「…分かった」
エレベーター前。
そこには意外な人物、ゲンドウの姿があった。
ゲンドウはシンジの姿に若干の驚きは見せたが、静かな不敵の笑みと共に驚きを消し、言葉を放つ。
「来い」
<パイロット更衣室前>
制服姿の少年少女。
少年は壁に寄りかかり、少女は目を閉じて長椅子に腰掛けていた。
少年は鈴原トウジ、少女は霧島マナ、シンジの到着を待っている所であった。
トウジは初陣の報告。
マナは生還の喜びを分かち合う為。
内容はかなり違うが、シンジを待つという条件では、互いの想いは一致していた。
静かな更衣室前。
呆け顔でトウジが呟く。
「戻って来ぃへんな」
「だね」
「しっかし、今日の戦闘。綾波に美味しい所、全部持ってかれてもうたな」
苦笑混じりのトウジの言葉に、マナは静かに言い放つ。
これまで使徒戦を生き抜いてきた少女として、友人としての忠告を。
「…死ぬよ。そんな考え方じゃ」
<エレベーター内>
モーターの作動音。
静かに地下へ、地下へと下りていくエレベーター。
ある種の静寂。
深く潜っていくエレベーターの中で、シンジは戸惑いの瞳を見せながら、ゲンドウへと話しかける。
「父さん」
「何だ」
「一つだけ、質問していい?」
「…言ってみろ」
「僕は人なの?」
しばしの沈黙の後、ゲンドウは話しかける。
「シンジ」
「何?」
「お前はシンジだ。自分自身を`碇シンジ´と認識している限り」
父の言葉をシンジは理解出来なかった。
哲学じみた言葉は、戸惑いの色を濃くするだけであった。
だが、レイには理解出来た。
(自己を否定しない限り、自己は自己であり続ける。)
ゲンドウは`シンジ´と呼びかけることにより、シンジを試し、
`何?´とシンジが答えたことにより、シンジはシンジであると説明したことを。
その意を悟ったレイは、握られたままの手、シンジの手を優しく握り返しながら話しかける。
「碇君は、人。碇君が碇君であり続ける限り…」
その言葉に、シンジは不思議そうな表情を見せながら呟く。
「僕は、僕?」
人工進化研究所。
エレベーターの到着した場所は、『人工進化研究所』というプレートのかかった場所であった。
扉を開け、そこに入ると、シンジの嗅覚に馴染みのある匂いが触れた。
(理科室の匂いに似てる。)
そんなことを思いながら、シンジは暗がりの室内を見回して訊ねる。
「ここは?」
「過去の遺物。そして、忌まわしき現実の存在する場所だ。…見ろ」
そう言うと、ゲンドウは扉の付近にあった照明のスイッチを入れた。
カチッ。
照らされる室内。
照明に照らされた状況、シンジの瞳に入った状況、シンジの心の状況を表すのには、三つの言葉で充分であった。
驚き、戸惑い、恐怖。
シンジの瞳には水槽。それも唯の水槽ではない。
無数の`綾波レイ´が浮遊する水槽が映っていた。
理解を超えた状況。
シンジは無意識にレイの手を離すと、困惑の瞳を露(あらわ)に声を荒げて訊ねる。
「あ、綾波ッ。綾波なの?!」
「…」
レイは俯き、黙して答えなかった。
否、答えれなかった。
シンジの驚きに、自分の心が揺れていると感じていたからだった。
そんなレイを尻目に、ゲンドウがシンジの問いに答える。
「第六使徒の際、弐号機と共に送られてきたものだ。ダミープラグの試験用として、アダムと共にな」
ゲンドウの言葉に、レイは`ゆっくり´と顔を上げると、無機質な機械音のように呟く。
「アダム」
「知っているか。当然と言えば、当然だな」
レイの呟きに、ゲンドウは不敵な笑みを見せて答えた。
理解出来ない場所。
理解出来ない状況。
理解出来ない会話。
何もかもが理解を超えていることに対し、シンジは震え、怯えながらも、水槽に近づき、手を触れながら呟く。
「何なんだよ…これ」
!
シンジの手が水槽に触れた途端。
中に居たレイに似た生き物が、一斉にシンジを見つめた。
その状況に、シンジは声にならない声を上げる。
「ぃ゛!」
驚きと恐怖に彩られるシンジの背中に、静かなゲンドウの声が響く。
「目を背けるな。それが老人達の計画の産物にして、絶望の産物。…ユイのクローンだ」
「か、母さん?!母さんだって言うのッ?!」
「細胞レベルでの話だ。心のクローン化までは不可能。所詮は擬似に過ぎん」
戸惑いに次ぐ、戸惑い。
困惑に次ぐ、困惑。
驚きに次ぐ、驚き。
次々と降り注ぐ現実に、シンジの思考は極みに達し、混迷の声を上げる。
「もういい!いいよッ!どうだっていいよ!そんなことッ!!
何なんだよ、これ!何をッ!綾波に何を、僕に何をさせたいんだよッ!」
混迷の声には、沈黙。
唯、静かな静寂だけが返ってきた。
幾許かの沈黙の後、ゲンドウが重たげに口を開く。
「…シンジ。全てはお前の為だ。
お前に残された時間は少ない。そして、綾波レイも同じくな」
(綾波?綾波が、僕と、同じ?)
理解。
シンジは思考で追うようにして、父の言葉を理解しようとした。
だが、ゲンドウの言葉が更に疑問を増やす。
「遺伝子の崩壊は、綾波レイにも起きる。そうだな?綾波レイ」
「はい」
(死ぬ?綾波、綾波も死んじゃうって言ってるの?)
シンジは戸惑いの瞳を見せながらも、ゲンドウ達の言葉を理解する為、思考を巡らす。
(綾波が死ぬ。自分と一緒の原因で。だから…。)
把握。認識。理解。
少しずつ、ゆっくりだが、分かってきた状況。
だが、そんなシンジの思考を他所に、ゲンドウは話し続ける。
「お前が初号機と共に消えている間、私はこの素体を使い、薬なり、手段なり、命を繋ぐ方法を見つけ出す」
その言葉に、レイが静かに訊ねる。
「…その許可、ですか?」
「察しがいいな。…私のことを鬼畜と呼んでも一向に構わん。だが、それでも私はシンジを生かす」
「拒否する権利はありません。司令に任せます」
困惑。
混迷する、シンジ。
理解した。だが、理解出来ない。
父のやろうとしていることは理解出来た。しかし、父のやろうとしていることには理解出来ない。
頭では理解出来ても、心が理解出来ない。
ゲンドウは水槽のレイを使って実験を行い、命を繋ぐ手段を見つけ出す。そのことは理解出来る。
だが、それは水槽のレイの命を絶つことを意味しているが故に、心が理解出来ない。
頭と心の理解、矛盾する二つの思いがせめぎあい、シンジは苦汁にも似た重い息を吐き出しながら、小さな声で呟く。
迷いと、困惑の言葉を。
「最悪だ。理解出来ないよ。…酷いよ、父さん」
弱々しげなシンジの言葉に、ゲンドウは静かに話しかける。
「シンジ、お前は生きねばならん。ユイの為にも」
「母さん。…初号機」
「そうだ。お前はユイと共に生きろ。それが私の計画であり、願いであり、希望だ」
ゲンドウの言葉を聞いたシンジは、虚ろな瞳で呟く。
「希望」
<アスカの病室>
真っ白な天井。
無機質な壁。
点滴。
心電図。
脳波計。
頭に巻かれた包帯。
酸素マスクをつけられ、眠らされている金髪の少女。
少女は夢の中、弱々しげな口調で呟く。
「…ママ」
つづく
あとがき
どこかで総括を、と思っているのですが…(苦笑)。