【 TIP
OFF 】
第五話 『日常』
清々しい陽の光が窓にかかる遮光カーテンの僅かな隙間から差し込み、控えめに朝の訪れを
告げている。
窓の外からは、再び訪れた朝を無邪気に喜ぶ小鳥達のさえずりが聞こえてくる。
先程までけたたましく鳴っていた目覚し時計は、今朝も忠実にその役目を果たし、今は
ただ静かに、そして確実に、時を刻んでいる。
そんな中彼女、惣流・アスカ・ラングレー嬢はベッドの上で上半身を起こし。
寝乱れた豊かな亜麻色の髪の隙間から覗く首筋まで真っ赤に染めて。
頭を抱えていた。
「起きてるわよ!」
今日もまた、いささか朝に弱い主人を、夢の世界から引き上げるべく健気にも奮闘するそれに、
その主人たるアスカは今日もまた、ぐうで応えた。
「はふ…」
覚醒の波が拡がっていく中、自然と何処かしら気分が浮つくのを感じながらアスカは、
ベッドの中で、ん〜、と思いっきり伸びをする。
…何かあったっけ?
半分夢現の状態ながらアスカは、その心地よい高揚感の正体を探るべく、記憶に検索をかける。
その瞬間。
アスカは体に掛かったままの布団を、がばっ、と跳ね除け上体を起こす。
そしてみるみるうちに、何かに耐えるような表情を浮かべていたアスカの顔が赤く染まっていき
やがて、やがて持ち上げられた、それまではきつくシーツを握り締めていた、両手がゆっくりと
頭を抱える。
「あたしってば…」
絶句。
彼女の頭の中では、
確かに、久しぶりに来た手紙を開封する勇気は相変わらず出せず、しばらく見ていなかった
夢を見たり、碇ゲンドウの姿をテレビで見かけたりと想いの波が丁度高まっていた時期で
あったが。
突然の再会に完全に浮き足だち、目も当てられないほどハズい姿を惜しげもなく晒しまくる
昨日の自分の行動が正確に再生されていた。
「…………」
再会した直後などは級友達の目の前で堂々とシンジに寄り添ってしまったし、
「ああ… これじゃヒカリじゃない…」
その後、いつもの3人の前でもシンジにじゃれついたあげくヒカリの誘導尋問に易々と
引っかかってしまったし、歓迎会でも始まりから終わりに至るまで、少しでもシンジを感じたい
と思ってべったりしっぱなしだったし。
ことその再生映像が終盤にさしかかるに至るや、もはやアスカは頭を抱えたままベッドの上で、
声にならない声で唸りながら、ゴロゴロ転げまわらざるを得なくなる。
「うー…、どんな顔して学校に行けばいいのよお…」
動きを止めて、途方に暮れたようにアスカが呟く。
それでも、そろそろ用意を始めないときつい時間帯である。
起き抜けとは正反対を向いてしまった気分をどうにかひっぱって、アスカは自室を後にした。
炒めものの香ばしい匂いに誘われてか、この家の主、葛城ミサトが、その洗練された肢体とは
見事なまでに裏腹に、シャツに手を突っ込んで腹なんぞぼりぼりやりながら、女というものを
全く感じさせない雰囲気を身に纏って、姿を表わす。
「おふぁよう、アスカ」
まだしぱしぱする目を擦り欠伸をかみ殺しながら、ミサトが席につきアスカの背に声をかける。
「昨日は疲れてたから、随分早く寝ちゃったんだけど… やっぱり遅くなったの?」
ミサトは、用意されていたこんがりきつね色のトースターに、ジャムを塗りたくりながら
アスカに声をかける。
アスカは、ミサトに背を向けたまま頷く。
「そういえば… いろいろあって訊けなかったけど、どうだったのシンちゃんとの再会は?」
トーストをひとかじりしてから、思い出したようにミサトが訊く。
勿論、それまで黙々と料理を行っていたアスカの肩が、ピクン、と動いたのには気付かない。
「突然の再会で燃えたでしょおー?」
少し厭らしい目付きでミサトが更に言う。
アスカの料理をしていた手が完全に止まり、体も小刻みに震え出す。
「辛かったわあ… でも、それもこれもシンちゃんとアスカのドラマッティックな再会のため…
心を鬼にして敢えて沈黙を守ったアタシの思いやり、わかってくれるかしら?」
得意そうな顔をして、なおも続けようとするミサトだったが、ここにきて流石にアスカの様子が
おかしいことに気付く。
「…? どうかしたの、アス」
カ、と言い終わる前にミサトの眼前に切っ先鋭い包丁が現れる。
「ちょっ、ちょっと! いきなりなにすんの!? 危ないじゃない!」
ヒッ、と身を引いて躱したミサトが抗議の声を上げる。
「あら、外れちゃった… せっかくミサトのありがたい思いやりに、感謝の気持ちをこめて
お返ししようと思ったのに…」
何ともいいがたい、しかしあえて言うなら無表情の微笑みとでもいうのか、そんな笑みを浮かべて
アスカが呟く。
「もしもし、アスカちゃん…?」
アスカの放つ殺気に恐怖しながらも、何とか冗談で紛らわそうとミサトが口を開く。
「 あ、もしかして、劇的すぎて舞い上がりすぎちゃったとか?」
あはは、と少し顔を引きつらせて、それでも何とか笑うミサト。
その一言でアスカの中の何かが、ぶちっ、という音とともに切れる。
「うふ… うふふふふふ、もうミサトったらあ…」
俯いたアスカが抑揚の無い声を上げて肩を揺らす。
雉も鳴かずば撃たれまい。
そんな言葉を思い浮かべるとともに、背に冷たいものが流れ落ちるのを感じるミサト。
アスカのお小遣いが当局の計らいにより50%UPしたのは、この日からだった。
§
散歩がてらの軽いランニングから戻ったシンジは、トレーニングウェアを脱ぎ捨て、汗に湿った
Tシャツとトランクスを洗濯かごに放り込むと、吹き出した汗を洗い流すべくバスルームに
入った。
「……ふう」
頭上から降り注ぐ水流がシンジの意外に引き締まった体をつたって流れ落ちる。
どちらかというと水に近い温度に設定したそれは、火照った体に、また僅かにではあるが
残っていた昨夜のアルコールを汗と一緒に洗い流してくれるようで、心地よかった。
…それにしても。
シャワーの心地よさに、ぼー、っとしていたシンジは昨夜、アスカを送っていったときのことを
思い出して独り顔を赤くする。
夜遅かったとはいえ、人の往来で。
アルコールが入っていたとはいえ、あんな大胆なことを。
この自分がしたというか、できたというか、とにかくなんにしろ信じられなかった。
…その、ふ、深いのだなんて。
あの時の感触、様々な意味での、が生々しく甦ると共に、そう考えてしまい更に赤くってしまう。
また、部分的に少し元気にもなったりしちゃう。
バスタオルで頭をがしがし拭きながらただっ広いリビングに出る。
朝起きてこの家には自分一人しかいないことを実感しそれを不安に思ったことを思い出し、
少し苦笑する。
…幸せ、か。
父がいて、母がいて、妹がいて。
ミサトがいて、トウジがいて、ケンスケがいて。
…そしてアスカがいる。
形こそ違え、それぞれが自分のことを想って居てくれる。
そして、何よりそれぞれを想うことのできる自分がいる。
たぶん、それは幸せのかたち。
やっと手に入れたもの。
やっと手にすることがかなったもの。
大切にしたいと思う。
失いたくないと思う。
強く、強く思う。
「さて…」
ふと時計を見ると、そろそろ家を出ないとまずい時間に差し掛かっていた。
「いくらなんでも、二日連続で遅刻するわけにはいかないよね」
牛乳くらいは飲んで行こうかな、そう思いながらシンジはキッチンに足を向けた。
§
「あ、おはよう」
「おはようさん」
「奇遇だな」
登校途中、ばったり出くわした3人はおもいおもいの表情で挨拶を交わした。
「昨日は、帰ってきて早々遅くまですまんかったな、シンジ。しんどかったやろ?」
「そんなことないよ。久しぶりにみんなとじっくり話せて楽しかったよ。また来てよ」
「さよか。ほなら、またお邪魔させてもらうわ」
「うん」
嬉しそうに頷いたシンジは、今度はケンスケの方に顔を向け口を開こうとするが、一瞬絶句し
やがて軽く吹き出してしまう。
「? どうかしたか? シンジ」
怪訝そうな表情でケンスケが訊く。
「ふふ、首、痒くない? 二個所も虫に刺されて」
「虫刺され?」
邪気の無い様に見える微笑みを浮かべて、自分の首の同じ位置を指差してそう言うシンジに、
ケンスケは訳が分からないと言った表情で首をさするが、次の瞬間表情が一変する。
「! これは、その、なんだ、そう…昨夜虫に刺されてね! 痒いんだこれが! ははっ」
おたおたと慌ててそう言うケンスケに、シンジが少し大袈裟に怪訝そうな表情を浮かべる。
「随分慌ててるみたいだけど、どうかした?」
「い、いや、別に、慌ててなんて無い…ぜ」
必死に態勢を立て直そうとするケンスケ。
「シンジ… 変なこというなや」
シンジの肩に、ぽんっ、と手を置いてトウジが言う。
「…? 何が?」
いかにも不思議そうな顔をしてシンジが訊く。
「虫刺されやなんて、ケンスケに失礼やないか」
こちらは、いかにも生真面目な表情でトウジが応える。
「なんちゅうても、そりゃケンスケの愛の証なんやからな」
「愛の証… ってまさか!?」
シンジが驚愕の表情を作る。
「くっ…、わざとらしいことはやめろ!」
いい加減からかわれていた事に気付き、耐えきれなきなったケンスケが叫ぶ。
それに合わせて二人も笑い出す。
「あははは、ごめんごめん。でもケンスケにそんな人が居たとは知らなかったよ」
「そういや、シンジは知らへんかったか」
仏頂面のケンスケに、ええな?、という視線を送り頷くのを確認してからトウジが口を開く。
「ケンスケのええ人はな、鮎瀬フユミさんちゅうてな。歳は23でな、そらもうごっつい奇麗なひと
でな、まあ掛け値なしの美女ってやつや。なんでケンスケなんかを相手にしとるのか理解に
苦しむほどのな」
「くっ、ほっとけ」
「あはは、年上の人かあ… でも、どうやって知り合ったの?」
「そういや、それはわしも聞いとらんかったの」
興味津々といった様子で答えを待つ二人に、ケンスケは何故か狼狽する。
「いっ、いいじゃないかそんな事は! ほらっ、急がないと遅刻するぜ!」
「別に、そんなごまかさんと教えてくれたかてええやないか」
「そうだよ、減るもんじゃないし」
「何言ってんだ。ほら、ほんとに時間無いぞ!」
§
「おはよ、アスカ」
下駄箱で靴を履き替えていたアスカは、後ろからかけられたヒカリの声に、ビクッ、と身を震わせる。
「お、おはよう。ヒカリ」
ほのかに赤い顔にバツの悪そうな表情を浮かべて、身をこわばらせて振り返りそう返してくる
アスカを見て、長い付き合いから、なにを考えているのかわかってしまい、悪戯っぽく微笑む
ヒカリ。
「昨日は、驚いたわよねえ? アスカ?」
「な、何が…?」
「碇君よ。まさか転校生が、碇君とは思いもしなかったものね」
「そ、そうね。ヒカリ」
「でもね、もっと驚いたことがあるのよお、アスカ」
「な、なにかしら?」
「それはねえ、アスカ。普段は人に、人前でそんなにべたべたして恥ずかしくないの? 、とか、
よくクスリもきめずにトリップできるわね?、とかいってた人がぬけぬけと似たようなこと
してたのよ」
「うっ…」
「ほんとにびっくりしたわあ」
「で、でもホント突然だったんだからしょうがないじゃない! そ、それに… いつものヒカリ達に
比べたらたいしたことないじゃない!」
「碇君に甘えるアスカ…、可愛かったわあ」
構わずからかい続けるヒカリ。
「くっ…、この娘は!」
真っ赤な顔をして両拳を握り締め、ぷるぷる身を震わすアスカ。
「よお、惣流に委員長じゃないか。何やってるんだこんなとこで?」
視線を向けると3馬鹿の先頭をきってケンスケが下駄箱に入ってきた
「おはようさん、いいんちょ、惣流」
次いで入ってきたトウジが、朝の挨拶をかけてくる。
「あ、おはよう。鈴原」
「なんや、いいんちょ? 今日は遅いやないか」
「あ、うん。チョットお弁当に入れる新メニュー作ってたら時間かかっちゃって…」
「新メニュー? そら楽しみやなあ…」
「ふふ、期待しててね… ってちょっと待って」
いつものモードに入りかけた二人だったが、珍しくヒカリが現実にひきかえす。
「何や?」
少し不満そうに、トウジがヒカリの視線を追う。
「何やら、いやん、な雰囲気…」
何時の間にか横に来ていたケンスケが、クイッ、と上げた眼鏡に光を反射させながら呟く。
3人の視線の先では、シンジとアスカがお互い顔を真っ赤にして、視線を合わせないように
しながら何をするでもなく、ただもじもじしていた。
「あの…、おはよう。アスカ」
「お、おはよ」
「あの、その、昨日は… その、ごめん」
「な、なんであやまるのよ。ばか…」
「あ、そっか… じゃ、あの… ありがと」
「…ばか」
「一段と…」
「いやん、な雰囲気」
「まさかアスカってば…」
「さては、あの後…」
「二人っきりなのをいいことに…」
「もしかして…」
「ち、違うよ!! 何言って」
「何言ってんのよ!! あたしがシンジなんかとそんなことする訳ないでしょ!」
シンジの抗議の声をアスカの叫びがかき消す。
そう言ってしまった後、失言に気付いたがもう遅い。
「…ぼくなんかとって何だよ。アスカ」
案の定、シンジが半眼でぼやく。
「それは、その…」
必死に言い繕おうとするが、3人の視線も気になり口からは想いとは裏腹の言葉が流れ出す。
「あんたみたいな、ボケボケっ、としてるやつにはそんなことする勇気はないし、こっちも
お断りってことよ!」
「なっ! こっちだってアスカみたいな我が侭なやつはお断りだよ! それに何だよ!?
そのボケボケっとしたやつに自分からキスしといて!」
「何ですってえ! あんたなんてその後あたしにでぃーぷなやつしたくせに!!」
「な、何言ってるんだよ!」
「何よ!」
「二人とも根っこのとこが単純やな」
「ああ。お互いに墓穴掘りあってるのに、気付いてないんだろうな」
依然としてギャーギャーやりあう二人を眺めながらトウジとケンスケが平和そうに言う。
「ふ、二人とも! 不潔よ!!」
身をくねらせながらのヒカリの叫びが校舎の正面玄関にこだました。
あとがき
なんか、空回り。
苦情、お叱り、誤りの指摘、その他なんでも読んだ後に感じた事メールで聞かせてください。
それでは、今回はこの辺で。