【
TIP OFF 】
第四話『心』
「ふわあ〜、それにしてもすごいわねえ…」
各部屋をまわって、足りないものがないかチェックしていたアスカがリビングに戻ってくると
こちらは、キッチンのチェックをしていたヒカリが改めて感嘆の声を上げていた。
石鹸から掃除機に至るまで、日用品は思いつく限り一通り揃っていたし、運び込まれたシックな
デザインの家具類も、窓の位置やスペースをに良く気を配った、落ち着いた配置がなされていた。
マンションの外観を見たときからそう言った類のマンションであろうことは予想していたが、
中に入ってみるとやはり圧倒される。
住むのはシンジ一人であるのに二層構造。
各部屋の広さは、ヒカリの良く知る6、7畳の世界とはかけ離れたものであり、勿論
バスルーム等その例外ではなくその上サウナまでついている充実ぶりであった。
さらには、ちょっとした庭弄りが出来るほどの庭園や落ち着いた雰囲気のホームバーまで
ついてる始末である。
「う〜ん… とてもじゃないけど、これからここに知り合いの高校生が1人で住むとは
思えないわね」
腰に手を当てて、ヒカリがやれやれといった感じで苦笑いする。
「でもまあ、碇君のお父さんは言うなれば世界の重鎮だし、御両親とも今まで碇君に散々負担をかけて
きてしまったから、これからは少しでも楽をさせてあげたいってお気持ちの現れなのかしらね?
アスカ」
頬に苦笑をのせたまま、ヒカリがアスカの方を振向く。
「……」
「? アスカ?」
ヒカリの声が届いていないかのように、思いつめた目をして俯いていたアスカがその呼びかけに
ハッとして顔を上げる。
「え? あ、うん。そうね… ヒカリ」
そんなアスカに、ヒカリは心配そうな視線を送る。
「あ、な、何でもないの… 少し考えごとしてただけ。心配しないで?」
ニッコリ笑ってみせるアスカに、ヒカリはなおも心配げな視線を投げかけていたが、やがて
諦めたように大きな溜息をつくと気を取り直してアスカに笑みを向ける。
「じゃ、買い出しに行こうか?」
「ええ」
「ふふふぅ、愛しい碇君にアスカの料理の上達ぶりを見せてあげましょうね」
「! もうっ、ヒカリ!!」
「フフフフ!」
§
宵闇の中に、窓から漏れる明かりによって、体育館の姿がうかびあがる。
ドアの隙間からは、未だにバッシュの底が床に吸い付く心地よい独特の音が漏れている。
コートでは、相変わらず先発組と控え組とによるハーフの5対5が行われていた。
「よしっ! 奥君、日吉君と交代だ!」
結城監督が、野太い声で指示をだし疲労によって若干動きが落ちてきていた控え組のメンバーを1人入れ替える。
彼は先程から、こうしてシンジ以外の控え組のメンバーを、疲労によって動きが落ちないように
ローテーションを組んでこれに当たらせ徹底的に先発組をいじめていた。
「ふぁー… シンジ君、凄いですね」
そろそろ上がりの時間なので、部員達のタオルの用意をしていたマネージャーの冴木カノエ
が結城の隣に来て感嘆する。
スターター達でさえ、いい加減動きに精彩を欠いてきているのに対し、シンジは、その汗の量から
疲労していないということは無いのだろうが、全く運動量が落ちない。
「これで、私達が全国に行くのも夢じゃなくなってきましたね?」
「そうだね… でも…」
視線を、またもや恐ろしく速いドライブをきめた碇シンジに固定したまま、結城が間を置く。
「…? でも?」
「うん、でも彼の使い方は非常に難しいよ…」
「え、どうしてですか?」
「コンビネーションだよ。極端に言えば、確かに彼の技量は抜きんでているけど、前半20分、
後半20分、彼一人でゲームをするわけじゃない。そして、いくら彼のスキルが高くとも、
チームメイトの性向や癖なんかを考慮してプレーできるようになるまではしばらくかかる。
そういったことを考えずに彼を使ってしまうと、最初はいいかもしれないけど、やがてターン
ノーバー(オフェンス側のミスで相手側にボールが渡ってしまうこと)を繰り返すことに
なりかねない」
「なるほど… でもセンセ、もう決めてるんでしょお? 彼をどう起用するか」
「うん、そうだね… 私は今まで厳しい練習に耐えてきた5人を信用してるからね… よし!!
今日はここまでにしよう! みんなご苦労様、上がろう!」
「しっかし、おのれはむちゃくちゃなやっちゃなあ… シンジ」
頭上から降り注ぐ熱いシャワーが、体にべっとりと纏わりついた汗を洗い流していく。
鼻歌をうたい髪の毛をガシガシやりながら片方の足でもう片方の足を掻いていたトウジが、
3つ並んだボックスの中央に入っているシンジに少し大きめに声をかける。
「はは、そんなことないよ」
少し苦笑いしながらシンジも髪を洗いはじめる。
「やっぱり、レベルが違うか? アメリカとは」
左隣のボックスからかけられたケンスケの声もシャワーの音にかき消されないように少し
大きめである。
「…そうだね、ケンスケ達のレベルが別段低いってわけじゃないんだけど… 僕はついていくのが
精一杯だったけど、向こうで一緒にプレーしてた人達のレベルはほんとに高かったから… とにかく
高くて、速くて、巧いんだ」
泡を洗い流しながら、シンジが正直に答える。
「やっぱり本場はちがうのお… なんちゅうてもガタイが違うからのお」
溜息をついて、しみじみとトウジが言う
「ところで、これからシンジの家だろ?」
シャンプーを洗い流しながら、ケンスケが話題を転じる。
「そやな、腹もすいてるし丁度ええの」
「二人とも疲れてるのにごめんね… なんかアスカが強引に決めちゃって」
再びシンジが苦笑する。
「何言ってんだよシンジ。変な気の使い方するなよ。それとも、俺にあの恥ずかしいセリフ
言わせたいのか?」
「そやそや。それにわしらは別に惣流に言われんかてどっちみち歓迎会はするつもりやった
からな。おのれが気にすることは何もあらへん」
友人達の言葉に、シンジの頬が緩む。
「ありがとう…トウジ、ケンスケ」
§
「遅―い!」
呼び鈴を鳴らして、ロックの解除されたのドアの向こうでシンジ達を出迎えたのは、エプロンを
着けて可愛らしく頬を膨らませ、腕を組んで仁王立ちするアスカだった。
「このあたしが待ってやってるってーのに、何ちんたらやってたのよ!?」
そう言いながら、少し頬に朱を散らして手を差し出すアスカ。
シンジは一瞬怪訝な表情を浮かべるが、すぐにアスカの意図に気付いて微笑みを浮かべて
かばんを差し出して家に上がる。
「遅くなってごめん、アスカ。もう準備は終わっちゃったの?」
受け取ったかばんを持ち直しアスカが先導して、リビングに向かう。
「そうよ! 二人だけで大変だったんだから!」
「ご苦労様、何か困ったこと無かった?」
シンジが先を歩くアスカの背中に訊く。
「買い物の荷物が重かったわ!」
「ごめんね… アスカには迷惑ばかりかけてるね」
「な、なに言ってんのよ… あたしがやるって言ったんだから迷惑だなんて思ってるわけ
ないでしょ!」
慌てて振り返るアスカに、シンジはにっこりと微笑みをを返す。
「ありがとう、アスカ…」
「…!」
シンジにはめられたことに気付いたアスカだったが、心を満たしたのは怒りの感情ではなく、
穏やかではあるがキリキリと苦しいほどに胸を締めつける、それでいてこれ以上無いほど
心地良い想いだった。
「…バカシンジ!」
自分でも頬が熱を持ったのを自覚し、ぱっと前を向いて再び歩き出しシンジの視線から
逃れる。
そんなアスカの後ろ姿を微笑んで見送っていたシンジも、トウジとケンスケの意地の悪い
視線に気付く。
「は…はは、じゃ、いこっか?」
「しかし、ホンマにシンジ独りで住むんかいな… ここに」
荷物を置いて席についたトウジがあたりを見回し、呆れたように溜息をつき対面のシンジ
に視線を向ける。
すでに、テーブルにはアスカとヒカリの手による様々な料理が大皿に盛られて、所狭しと
並べられていた。
「ハハ… そうらしいね」
シンジも引きつった笑いを浮かべて応える。
…どうせまた母さんが騒いだことを、父さんがそのまんま実行したんだろうな。
「まあいいじゃないか、それよりそろそろ乾杯しようぜ? シンジ、ビール平気だろ?」
いつ買ったのか、手元に置いておいたビニール袋から500ml缶を取り出して各自に
配りながらケンスケが訊く。
「あ、うん」
「ま、明日は朝練の無い日だしパーッといこうぜ」
「相田! 飲むな、とは言わないけど高校生らしく節度をわきまえてよね!」
しっかり大缶を受け取りながらも、ヒカリが一応らしいことを言う。
「まあ、ええやないか。それじゃビールはいき渡ったの? では、ゴホン… 我らが友人
碇シンジ君の帰国と、我々の変わることない友情を祝して… 乾杯!」
「「「「乾杯!」」」」
リビングに、プシッ、という栓を抜く音と中身の入った缶同士がぶつかり合う鈍い音が交互に
響く。
かくして、彼らの再会を祝した宴が幕を開けた。
「へー、 碇君そんなにうまいんだ… バスケ」
ヒカリが、切り分けたスペアリブをトウジの取り皿に移し手渡す。
「お、ありがとさん… そうなんや、うちらだってそれなりのチームの筈なんやけど、それを
ばっさり一刀両断って感じやったからなあ… 正直こたえたわ。いくら本場仕込みとはいえ
あそこまで力の差があるとは思いもせんかった…」
500ml缶を呷りながらトウジが少し悔しそうに応える。
「なにへこんでるの? 鈴原らしくないわよ!? かえってよかったじゃない、自分達が
まだまだだってことがわかったんだから! これからうまくなればいいのよ。碇君だって
「本場」の上手な人達の中でやってきたからこそ、そんなにもなったんでしょ? だったら
今度は鈴原たちが碇君の本場仕込みを盗ませてもらえばいいじゃない」
ね、と柔らかな笑みをトウジに向けるヒカリ……の周りには5本の空缶。
「そうやな… その通りや! 力の差があるんなら埋めればいいだけのことや! それに
シンジが来てくれたっちゅうことは、また一つ上のレベルの視野がひらけるっちゅうこっちゃ。
やるで! はじめは足を引っ張るかも知れんが、いつかシンジの横に並んだる!」
ペキッとアルミ缶を握り潰すトウジ……の周りにも5本の空缶。
「鈴原!」
きゃっ、と胸のあたりで可愛らしく手なんか合わせちゃうヒカリ。
「いいんちょ… わしは、いつもこうしていいんちょに支えられてばかりの情けない男や。
それでも、こんなわしについてきてくれるか?」
その合わされた手を自らの両手で包み込み、トウジはヒカリの潤んだ瞳を覗き込む。
「何も言わないで、鈴原… 私は黙ってあなたの後をついて行くだけ…」
「いいんちょ…」
「いまはヒカリって呼んで…」
「ヒカリ…」
「トウジ…」
互いが、互いの瞳の中にある自分をはっきりと認識する。
そして、互いの距離が。
…ゼロになる。
「…………」
深く接吻を交わす二人を、シンジは口をあんぐりと開けて呆然と見つめる。
「たいしたことじゃなさ」
「まあ、今日はアルコールが入ってるから深いのだけど、いつもあんな感じよ… あの娘ってば
実際キメてないはずなのにキマッちゃう体質なのよねえ… ああはなりたくないわあ」
ビールをちびりちびりやりながらこともなげに言う二人に、シンジは呆然としたまま訊ねる。
「いつものことって、人前でだよ? しかも、その、深いの… あの純情を絵に描いたような
感じだった二人が…」
ケンスケとアスカは顔を見合わせて、やれやれといった感じで肩を竦める。
「シンジが言いたいことは解るさ。その意味ではあの二人は本当に純情なカップルだよ」
「そうそう。でもしょうがないじゃない? キマッちゃってるんだもの。旅に出ちゃってるのよ。
ああなると、当分帰ってこないわよ」
「そ…、そうなんだ?」
顔を引きつらせてシンジは、限りなく不安だった。
…まさか、このまま先に進むなんてことは無いよな?
「さてと… 片付けもあらかた終わったし、そろそろ俺達は帰るよ」
缶や何やを詰めたゴミ袋の口をしめながら、正体不明に陥った女性陣に気をつかってか
ケンスケが声を抑えて口を開く。
「そやな、もうこんな時間やし」
こちらはテーブルをふきながら、トウジも小声で応じる。
「え? 今日泊っていくんじゃないの?」
キッチンで洗い物を拭いていたシンジもまた小声で訊く。
「わしらはそうしてもかまへんねやけど、いいんちょや惣流はそうはいかへんやろ?」
「あ、そっか…」
「まあ残念やねんけど、今回は帰らしてもらうわ」
ふかふかの絨毯の上で気持ちよさそうに寝息を立てているヒカリを、ケンスケの手を借りて
トウジが背負う。
「今日は、ありがとう… 楽しかったよ」
玄関まで見送りに出たシンジが声をかける。
こういった宴会をやるのは初めてではなかったが、これまでにない心地よい充実感が
シンジの心を満たしていた。
「わしらの方こそ楽しませてもろたわ」
「またシンジとこうして話せて嬉しかったよ、俺は。またよろしくな」
それはおそらく二人も同じなのだろう、どこか高ぶったような目をして笑う。
「こちらこそ… よろしく。それじゃ、もう随分遅いから気をつけてね」
「…シンジもな」
「はは…」
どこか含みのある笑いを浮かべてそういうケンスケに、シンジはバツの悪そうな笑みで応えた。
「今日は、ホンマに楽しかったのう…」
ヒカリを背負ったトウジが独り言のように言葉を紡ぐ。
「ああ…」
月を見上げて歩きながら、同じようにケンスケが応える。
「シンジ… 少し変わったのう」
「そうだな… でもあれは成長したって言うんじゃないか?」
「そうやな…」
「なあ、トウジ… 俺達は… 俺達も成長したのかな…?」
「さあのう… どうやろな…?」
「…………」
「…………」
「じゃ、俺こっちだから」
ケンスケがトウジ達から離れて手を上げる。
「? おのれの家もこっちやろ?」
トウジが怪訝そうな表情を浮かべる。
「はは、今日は、フユミさんが待ってるんだ」
バツが悪そうに笑ってケンスケが応える。
「ああ…さよか、ほならな。明日がっこ遅れんようにな」
やってられんわ、といったようにトウジが返す。
「大きなお世話だ。じゃあな、また明日」
「おう」
暗がりに消えて行くケンスケを見送ってから、トウジは背中で軽く身じろぎしたヒカリに優しい
眼差しを送ると、首筋にかかる可愛らしい寝息に堪えながら再び歩み始めた。
「ケンスケは気付いてたよ。アスカ?」
玄関から戻ったシンジがリビングの柱に体を預け苦笑して、キッチンでお茶を入れている
アスカの後ろ姿に声をかける。
「フフフ…、いいじゃない別に?」
楽しくてしょうがないといったように、アスカが応える。
シンジの分と自分の分の、湯気をたてる薄茶色の液体で満たされた、カップをテーブルに置いた
アスカは、猫のような足取りでシンジに歩み寄り、照れているような甘えているような
表情を浮かべて体をぴったりくっつけると、背伸びをしてシンジの首筋におでこをすりよせる。
「ちょっ、あ、アスカ?」
そんなアスカに少し困惑したシンジだったが、しばらくすると諦めたように溜息をついて
アスカの華奢なウェストを引き寄せる。
「どうかしたの…? アスカ…?」
シンジがアスカの耳元で優しく訊く。
「…どうして?」
シンジの首筋に伏せていた顔を心持ち上げて、微笑みを浮かべたアスカが聞き返す。
「ん…、なんでかな? アスカが演技してるようにみえたんだ… みんなが居るときも
時々つらそうな顔してたし」
「!」
アスカの微笑みが凍る。
「何が気になってるのかまでは、さすがにわからないけど… そのことで不安になって二人きり
になりたくて、たぬき寝入りしてたんじゃない?」
そう言ってシンジが優しく微笑むと、凍っていたアスカの微笑みが崩れ、その下から心細げな
今にも泣き出してしまいそうな表情が現れる。
「話してくれるよね、アスカ?」
そんなアスカを安心さるように一層強くアスカを抱き寄せるシンジ。
「…シンジ… 」
アスカは、シンジの胸に身を委ね目を伏せる。
「シンジは… シンジはどうしてここに帰ってきたの? アメリカにはシンジが欲しがってたものが
全部揃ってるのに…」
絞り出すようにアスカが言う。
「この家を見て思ったの、ああシンジは愛されてるんだな、って。うまくいってたんでしょ?」
アスカがシンジを見上げ、苦しそうに微笑む。
「そう思ったらね…、シンジの幸せはここには無いんじゃないかって思えて… 帰ってきて
くれたのはすごく嬉しいけど… 嬉しいけど、あたしだけじゃ足りない…
シンジのこと好きだけど! 好きだけど… 足りない… シンジを、あたしじゃきっと
シンジが幸せにはならない…! 」
シンジの胸にしがみついて、その瞳から爆発した感情を雫に変えてぼろぼろと零すアスカ。
そんなアスカのおでこと髪の境目に、シンジは優しく口付けする。
「そんな心配はしなくていいんだよ… アスカ…」
「だって… でも、でも!」
逆に堰を切ったように泣き出してしまうアスカを、シンジは抱え上げるとソファまで連れて行き
そのままの姿勢で腰を下ろす。
片方の手をアスカの手に絡め、もう片方の手で艶やかな亜麻色の髪の下で鳴咽するアスカの
背を撫でる。
「アスカ… 」
アスカが少し落ち着いてきたところを見計らって、シンジは語り掛ける。
「正直僕はね、2年前アスカと離れ離れにさせられて… 父さんと母さんにアメリカに連れて
行かれて良かったと思ってるんだ」
「!」
シンジの腕の中で身を竦ませるアスカ。
「違うんだアスカ、きいて…」
耳を塞ごうとするアスカの手を優しく押し留めて、シンジが続ける。
「そりゃ、あの時はホント理不尽だと思ったし、全然納得できなかったけど… 今考えてみると
あの頃の僕達って普通じゃなかったと思うんだ。お互いに人との触れ合いに飢えてるくせに
お互い以外は拒絶して… あの時は支えあってるんだ、って思ってたけど実際は甘えあっていた
だけ。より掛かり合ってるだけの凄く不安定な関係。お互いちょっとしたことで、すぐ
ヒステリックになってたよね。もしあの時二人で逃げてたら、二人とも完全な
社会不適格者になってたよ」
ただ黙ってシンジを見上げるアスカの、頬をつたい流れ落ち続ける涙をシンジは親指で
少し不器用に拭う。
「それにね、向こうでの暮らしの中で、多分アスカの言うように愛されてたからだろうね、
あの時はなかった心の中の余裕みたいなものができてきたんだ。そうするといろんなものが
見えるようになってきた。そして今までの僕のどこが未熟で、それを正常にするにはどうしたら
いいのか考えた。しっかり自分を見つめて。今まで周りの所為にして目を逸らしてきたことを。
そしてそれは、心に余裕の出来た僕には、難しいことじゃなかった。今までいた場所
から、一歩踏み出せば良かったんだ。そうしてみると、世界が変わったよ。勿論、変わったのは
世界じゃなくて僕の方なんだけど、僕にとってはやっぱり世界が変わったんだよ。相変わらず
辛いことはいくらでもあったけど、その代わり幸せも感じることが出来るようになった。
そんな中でアスカとのことに対する考えも変わっていった。はじめは、ただアスカが僕のとなり
にいないことが、たまらなく不安で、心細かった… でも心に余裕が出来て、強くなってくると、
さっきいったような、別れる前の僕達の関係がどんなものだったか見えてくるようになってきた。
そうすると、どうすれば僕達の関係がお互いを認め合ったものにできるか? どうすればそれが、
二人にとってマイナスではなくプラスになるようなものになるのか? そんな事を考えるように
なった。そしてね… その答えはまだ出てない。それはきっと一人で考える問題じゃないから。
その答えを見つけること。それが、僕がここに帰ってきた一番の理由なんだ」
そこまで語って、シンジは少し苦笑いする。
「自分でもなにが言いたいのかわからなくなってきたけど… つまり、結局のところ僕が
言いたいのは… アスカは僕がここにいたら幸せになれないって言うけど… そりゃ、家族みんなが
一緒に暮らして、家族の愛に包まれて、家族と心を通わせる生活も十分幸せなものだけど…
そうじゃなくて。そういう幸せの中にいても、僕が考えるのは、やっぱりアスカのことで…
だから、つまり… その、もうわかったろ? アスカ…?」
顔を真っ赤にしてシンジがアスカに許しを乞う。
そんなシンジの内面の告白を、涙を湛えたままの瞳を丸くして聞いていたアスカだったが、
やがて悪戯っぽい表情を浮かべると、シンジの首に腕を巻き付け、耳元で囁く。
「だーめ… 最後までちゃんと言ってくれなきゃわからない…」
「アスカ!」
さらに顔の温度を上げて、シンジが狼狽して叫ぶ。
「…………」
沈黙がシンジを追い込む。
「…だから、その… 僕にとっては、家族と居る幸せよりも…その、… アスカといる幸せの方が
大事なんだ」
「つまり?」
中途半端な逃げは許さない、とばかりにアスカが最後の一言を要求する。
うっ、と詰まったシンジは、やがて深い深い溜息をつくとアスカの頤に優しく手をかけ、
上を向かせる。
「…だから、僕の幸せはアスカの居るところから始まるんだよ… だって、僕が愛してるのは、
アスカだから」
二人の唇がゆっくり触れ合う。
アスカの瞳からは、新たな涙が溢れ出した。
§
柔らかな月光が、手をつないで歩く二人を優しく照らす。
「すっかり遅くなっちゃったね、ミサトさんが心配してるんじゃない?」
「うん、買い出しのときに遅くなるって連絡入れといたから平気。…むしろキッチンが
荒らされてないかあたしの方が心配」
微笑みを交わす二人。
不思議な気分だった。
今日2年振りに再会したばかりではあったが、そんな別離など無かったかのように互いが
互いの心の中にすっぽりとおさまっているのを感じることができた。
つないだ手から感じる互いの体温が、二人を心の底から安心させる。
夏の涼しげな夜風が、心地よく二人の頬を撫でる。
「ねえ…」
自らの腕をシンジの腕に絡めて、アスカが口を開く。
「今日、バスケ部の練習出たのよね?」
「え、うん」
「樹先輩に何か言われたでしょ?」
「…うん」
「訊かないの? 樹先輩のこと?」
「うん」
「なんで?」
「樹さんには、気になるけど僕が不安になるようなことじゃないと思ってる、って言ったん
だけど外れてる?」
「そんなこと言ったんだ? フフ… 外れてない」
「でしょ? じゃあ、それは樹さんとアスカのプライベートだから訊かないよ」
上目遣いに笑いかけてくるアスカにシンジも微笑んで応える。
「シンジがそう言ったとき、樹先輩何か言ってなかった?」
アスカが、おかしそうにそう訊く。
「? うーん… 特に何か言ってたってわけじゃ無いけど… 大笑いしてたかな。でも、なんで
そんなこと訊くの?」
怪訝そうな表情を浮かべるシンジ。
「ふふふ… あたしもね、似たようなこと言ったことがあるから」
「ふーん…?」
やがて二人は、かつて三人で家族として暮らし、今もアスカとミサトのふたりが変わらず暮らす
コンフォートマンションまで辿り着いた。
シンジの手を放し、ぴょん、と前に出て振り向きにっこり笑うアスカ。
「ここまででいい」
「うん」
シンジも微笑みを返す。
「お休み、アスカ。明日学校でね」
「ええ、明日学校で」
くるっと向きを変えて歩みさろうとしたアスカが、やおら振り返ってシンジの目の前まで
駆け戻る。
「どうしたの?」
「わすれもの!」
そういってアスカは、怪訝そうに訊いてくるシンジの首に手を巻き付け、背伸びをして
唇を奪う。
軽く触れ合うだけの、しかしありったけの想いを込めたキス。
「送ってくれてありがとう」
頬に朱を散らして照れくさそうにアスカが言う。
シンジは一瞬少し驚いた顔をしていたが、すぐに微笑んで。
アスカの頬に手を添えて。
口付けを交わす。
「…………」
「………ん」
先程のものとは、比べ物にならないほど長いキス。
初めての。
大人のキス。
やがて二人の唇が離れる。
「おやすみのキス」
ぽー、っとするアスカに、シンジが悪戯っぽく笑いかける。
「…もうっ。バカシンジ!」
§
その空港では、行き交う旅行客やスーツ姿のビジネスマンに混じって、ある家族がしばしの
別れを惜しんでいた。
「気をつけてね。向こうに着いたらちゃんと母さんには連絡頂戴ね」
白のサマードレスを着た、赤い瞳に空色の髪の少女を、よく似た顔立ちの女性が抱き締めて
言う。
少女は、無表情に、こくん、と頷く。
「ほら、あなたも! 当分会えないんですよ?」
少女を抱き締めたまま、その女性が首だけ振向かせて後ろに立つ厳めしい中年男に、非難がましい
視線を送る。
「ん…、体には気をつけてな…」
妻である女性に睨まれて、少しぎこちなく男も口を開く。
そんな男に、少女はやはり無表情に、こくん、と頷く。
アナウンスが流れ、少女の乗る飛行機の搭乗時間が近いことを知らせる。
「…時間だから」
これもまた、抑揚のない声で少女が未だに自分を抱き締める女性に告げる。
「そうね。それじゃいってらっしゃい、レイちゃん。シンちゃんによろしくね」
名残惜しそうに少女を放してからにっこり笑ってそういって、その女性は隣に立つ
中年男の足を踏みつける。
「ん…、体には気をつけてな…」
余計なつっこみなどせずに二人の言葉にもう一度、こくん、と頷いてから、レイとよばれた
少女は口を開く。
「…いってきます」
そういってから、くるりと踵を返し歩み始めたレイの唇は、ほんの僅かではあるが、笑みの
形をとっていた。
あとがき
どうしても、くどくなってしまう…
思った通りの描写ができない…
我が身の表現力乏しさを、今回はさすがに恨めしく思いました…
苦情、お叱り、ご意見、ご要望、読んだ後に感じたられたことなら何でもいいから
聞かせてください。
これから忙しくなってしまうので、ある程度更新ペースが落ちるかと思いますがご容赦ください。
それでは、今回はこの辺で。