【 TIP OFF 】
第十五話『接触』
「はあ、はあ、はあ…」
見慣れた制服に身を包んだ人影が、ちらほらと目につきはじめたのを見計らって、アスカは左手に
持ったバスケットを気にしつつ、駆け足のスピードを落としていく。
…これなら、間に合いそう…なのかしら?
息を整えつつ、辺りを歩く生徒達の表情を見るとも無しに見ながら、心の中で呟く。
高校に入学して以来、遅刻の経験のない彼女にしてみれば、『自宅から学校までおよそどれ位かかる』
といった認識は持っていても、遅刻常習者にありがちの『ここで何分なら間に合う』という経験則から
導き出される正確無比な感覚を持ち合わせていないので、何とも不安な気分であった。
ともあれ、これだけの数の生徒がこうも余裕の表情で遅刻を覚悟しているとも思われないので、アスカ
も彼等に合わせるように、ゆっくりとしたペースで歩を進めていく。
…にしても。
アスカは思う。
ミサトの言葉をそのまま肯定するというわけではなかったが、何にしろのっけからアヤがついてしま
ったのは事実であって、それがどうにも気にかかってしまう。
朝一でチャッチャッとシンジに謝ってしまうことで、取り敢えずのわだかまりを解消してしまってから、
気を取り直してゆっくりと、彼の傍にいて手探りで彼とのことを考えていく。
こうして、今では不可能となってしまった計画に思いをはせてみると、何となくそれが最良のアプロ
ーチだったように感じられてきて、思わず溜息の一つも出るというものだった。
…逃がした魚は大きい…だったかしら?
そんな愚にもつかないことを、至極真面目に考えてしまう。
それに。それにだ。
レイのことにしてもそうだった。
兎にも角にも、彼女と話してみようと決意はしたものの…。
それも、シンジとの当面の溝が埋められた、という心理的アドバンテージがあればこそ余裕も出来て
可能なことであり、負い目のようなものを感じることなく対等に話を出来る…ような気がするという
もので、始めの一歩を踏み損ねた今、一体どうしたものかと頭を抱えたくなってしまう。
と、ふと視線を前方に向けてみると。
…あ。
アスカとの間に何人かの生徒を挟んだ、十数メートル先。
空色の髪をショートカットにした少女の、小さな後姿。
…あのオンナだ。
否応無しに目立つ、その姿。
彼女を追い越していく生徒たちは、例外なく一瞥をくれていき、周囲を歩く生徒たちはその殆どが好奇
の視線を向け、また話題のタネにしている。
それに対して、彼女の方は気にした風もなく、ただ前を見て黙々と歩いている。
それは、『周りにどう見られても平気』という彼女の強さからなのだろうか。
それとも、『周りがどう見ようが関係ない』という彼女の無関心からなのだろうか。
そこまで考えてから、そういえばこんな風にあの娘のことを考えたのは初めてだな、とアスカは一人
思った。
そして、一瞬の逡巡の後アスカは歩を早めてその娘、レイの背中を追った。
…はじめの一歩、はじめの一歩。
乱れてもいない息を整えるように深呼吸してから、出来るだけさり気なさを装ってスッと一歩進み、
レイに並ぶ。
「…お、おはよ」
「…………」
意を決してのアスカの挨拶に対するレイのリアクションは、視線による一瞥だけだった。
…あ、挨拶くらい返してくれてもいいじゃない。
そんなものだろうと予想していたとは言え、やはりやる気をごっそり持っていかれそうなる。
とはいえ、いきなり尻込みして途方に暮れてみてもしょうがないので、気力をふりしぼって続ける。
「い、いい天気よね、今日」
「…………」
「なんか、無性に身体を動かしたくなって、思わず家から走ってきちゃった」
「…………」
「って、ただ遅刻ギリギリだったからなんだけど。あははは…」
「…………」
「あんまり朝ご飯が美味しくって、ついつい味わって食べちゃったものだから…」
「…………」
「あ、そうだ。ウチの学校には慣れた?」
「…………」
「って、一日二日で慣れるわけないわよね、あはは…」
「…………」
「し、知らない仲じゃないんだし、わからないことがあったら遠慮なく訊いてね?」
「…………」
「…………」
「…………」
「…えっと」
「…………」
「…………」
「…………」
「き、昨日の晩御飯なんだった?」
「…………」
「…………」
「…………」
…何を言ってるか、あたし。
自分のマヌケっぷりに、アスカは思わず頭を抱えたくなってしまう。
よりにもよって、こんなアプローチをとってどうする…心の中でズビシッと思いっきり自分にツッコミを
入れる。
…そうよね…こんなんじゃなくて、もっとこの娘が興味を示しそうな話題…それでいて、共通の話題を振
らなきゃダメよね。
…とすると…やっぱり…。
「そ、そういえば、今朝は一人みたいだけど…」
「…っ…」
ぴくっとレイが反応する。
それには気づかずに、アスカは続ける。
「シンジと、一緒じゃないんだ?」
「…っ!」
「え、な、なによ?」
立ち止まって、表情は変えぬまま、それでもはっきりそれとわかるほどの怒りの炎をその瞳に揺らして、
自分を睨みつけるレイに、アスカは思わず尻込みしてしまう。
「っ………」
瞳に宿る烈火の炎そのままの勢いで、一瞬何かを言いかけるように開かれたレイの口だったが、結局
僅かの逡巡を見せた後、その言葉を飲み込むようにすぐにまた閉じられてしまう。
「…だ、だからなによ?」
その飲み込まれた言葉が、自分への罵倒に近いものだろうと予感しながら、それでもアスカはそれを聞
いてみたい、そう思った。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
自分を睨みつける紅の瞳。
思わず視線を逸らしたくなるが、そうはせずじっとその瞳の向こうにあるものを覗き込むように視線を
合わせ続ける。
暫しの間、そのまま二人の視線が交錯する。
「…アナタが」
そんなアスカに、引きずられるようにまたレイの口が開かれるが、そこまで言ったところでレイは目を
閉じてきゅっと眉根を寄せて数秒何かの衝動に耐えるように沈黙する。
そして再び瞼を開けた時にはいつもの無表情に戻って、アスカにちらりとした一瞥をくれてから、立ち
尽くすアスカをそのままにすたすたと先を行ってしまう。
「…ちょ、ちょっと!」
何とか一瞬の自失から立ち直って、先を行くレイの背中に声をかけるが、当然のようにレイは振り向か
ない。かくっと肩を落として、その背中を追うように上げかけていた手を、へろへろっと下げる。
…なんか…朝からへびーな一日だわ…今日は。
…っていうか、またはじめの一歩踏み損ねたわけね、あたしは。
§
体育館から、校舎へ続く渡り廊下。
朝練を終えシャワーを浴びた三人は、連れ立って教室に向かっていた。
「にしても、練習の方はあんな気張ってたのに、なんや元気ないの。シンジ?」
半乾きの髪をタオルでくしゃくしゃとやりながら、どこか心ここにあらずといった様子のシンジを、隣を
歩くトウジが不思議そうに訊く。
「あれは気張ってるっていうより、荒れてるっていった方が俺は正しいような気がしたけどね。シンジ?」
タオルを首にかけて、首筋に手を這わせながら気だるそうにコキコキと首を鳴らしながらケンスケが訊く。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…え? なに?」
ようやく二人の視線が自分に集中していることに気づいたシンジが、依然ぼんやりとした表情のまま、
それでも気のなさそうな調子でのそのそと顔を上げる。
そんなシンジに、トウジとケンスケは訝しげな表情で顔を見合わせる。
「…………」
「…………」
トウジが肩をすくめるのを見て、ケンスケが仕方なさそうに溜息をついて続ける。
「いや、様子が変みたいだからな」
「…様子が変…僕が?」
「ああ、だから…」
「…そうか、変なんだ。まずいな」
「いや、だからな、なにかあったのか?って」
「…そうだね…もう少ししっかりしないと心配かけちゃうし、変に思われるよね」
一人ぶつぶつと根暗っぽく喋りつづけるシンジに、再び二人は顔を見合わせ、今度は二人ともに肩をすく
め合う。
と、トウジが何かを見つけたようにケンスケに目線で前方を示し、それに従って前を見たケンスケもまた、
納得したように首を縦に振る。
「シンジ、俺たち用事があるんでちょっと先に行くわ」
「ゆっくりしてもかまわへんと思うけど、HRには遅れんようにな」
そう言ってそそくさと駆け出して行ってしまった二人にも気づかず、シンジは依然ぶつぶつと一人で続け
ている。
「…ううん…どうしよう…どうするべきかしら…というより、どんな顔をすればいいのかな…」
前方の下駄箱方面からどこか疲れたような顔で、同じように一人ぶつぶつ言いながら歩いてくる亜麻色の
髪の少女に気づかずに。
どんっ
「…うわっ」
「…きゃっ」
二階へと上がる階段の前、当然のように二人は正面衝突を果たす。
「あ、すみません。考え事をしてたから…」
「ごめんなさい、考え事をしてたんで…」
シンジは胸を、アスカは額をさすりながら顔を上げる。
「え?」
「え?」
お互いぽかんとした表情で見つめあう。
「あ…その…えっと…」
いち早く自失状態から立ち直ったシンジが、今度は少し蒼ざめた表情でおろおろと狼狽する。
視線は定まらず、何かを口に出そうとするたびに躊躇ってしまい、結局何も言えない。
その様子がひどく気の毒に、可哀想に思えて、それでアスカは自分が落ち着いていくのを感じた。
「なぁに蒼い顔してんのよ、朝っぱらから」
すっと一歩踏み出して、シンジの顔を見上げるように覗き込みながら、おどけた調子でその胸にコツンと
拳を置く。
「え? あの…アスカ…?」
予想に反して穏やかな、むしろ友好的なアスカのそんな仕草に、訳がわからなくなってしまうシンジ。
それでも、先ほどから頭の中を占めている「謝らなくちゃ、謝らなくちゃ」という想いに肩を押される
ようにして、ぎゅっと目を瞑って頭を下げる。
「あの…アスカ…。その…昨日は、ゴメン…」
「へ?」
そんなシンジの贖罪の言葉と下げられた頭に、完全に意表をつかれて思わず呆気にとられてしまう。
「その…昨日は酷いこと言っちゃったから…」
それには気づかず、シンジは頭を下げたまま真摯な口調で続けている。
ぽかんとしたアスカの表情が、やがて気まずそうな笑みにかわる。
「あ、ううん、いいの。いいのよ、シンジ。顔を上げて?」
スッとシンジの肩に手をかけてその上半身を上げさせながら、え?という表情をしてるシンジにアスカは
言う。
「というより、悪いのはあたしなんだから。
少し、わからなくなっちゃって、それで切れちゃったんだから。
出来ない、無茶苦茶なことを言ったのはあたしなんだから。
だから、ごめんなさい」
ぺこり、と今度はアスカが頭を下げる。
「あ…」
何かを言いかけるシンジを制するようにして、アスカは続ける。
「でも、そうよね。それは、そうなのよね」
そっとシンジの手をとる。
「え?」
「あたし、いろいろ考えたの。考えてたの。あなたが電話で言ったとおり、考えてたの。
胸が苦しくて、苦しくて…。それなのに、あたしはこんなに苦しいのに、簡単にどうしたの?って
訊いてくるあなたがすごく憎々しく思えて、その…思わず爆発しちゃって…。
でも、やっぱりその後すぐに後悔して。自分がすごく勝手なことを言ったのがわかったから。
泣いて、後悔して、また泣いて。子供みたいにミサトにあやされて。
それでも、また考えたわ。
でも、結局答えは出なかったけど…昨夜の電話ことは、とにかく謝ろうと思ったの、シンジに」
とった手を手繰るようにして近づき、シンジの胸に掌を這わせる。
「それで、こうやって話して、そばにいて、それで少しつつ『答え』を見つけていこうと思ったの」
アスカの蒼色の真摯な瞳が、シンジの黒の瞳を覗き込む。
「えっと…?」
至近に感じるアスカの体温に戸惑い、そして何を言うべきなのか悩み、思わず口篭もってしまうシンジ。
そんなシンジに、アスカは少し微笑う。
「でも、そうよね。
あの電話の件はあたしだけのことじゃなくて、シンジにとってもショックな出来事だったのよね。
あたし、あたしのことだけしか考えてなかった」
「え…でも、それは…」
言いかけるシンジを、先ほどと同じように優しく制しながらアスカが首を振る。
「ううん、そうなの。だから、そのこともごめんなさい」
「…うん」
結局、良くわからない部分も多かったが、どことなく寂しげな笑みを浮かべるアスカの、その瞳の奥に
灯っている感情を見つけることができたような気がしたシンジは、ゆっくり頷く。
「ありがと」
シンジの腰に手を回し、その胸に頬を寄せながらアスカは囁くように言う。
「うん」
そのアスカの肩に、そっと手を置きながらシンジはもう一度頷く。
「ねえ」
暫くそのまま抱き合っていると、アスカが少し身じろぎをする。
「シンジのごめんなさいは何に対するごめんなさい?」
シンジの胸にぴったりと頬をつけて、上目遣いにアスカが訊く。
「え? えっと…」
それを受けて、シンジは昨夜自分が感じていたことと、今アスカに言われたことの双方を思い出し、答え
を探す。
「…アスカを泣かせてしまったことと、自分への不甲斐なさに…かな?」
「…ふうん」
微苦笑めいたものを浮かべるシンジに、アスカが少し考えるような素振りを見せる。
「なんか相変わらずのような気もするけど、ま、後半がある分前よりはましかな」
そう言って、微笑む。
「そうかな?」
シンジも微笑う。
「ただあたしが泣いたからってだけで、謝ったわけじゃないみたいだから、ね?」
「あ、うん」
「だから、前よりはまし」
「うん」
「でも、やっぱりもう少しあたしのこと考えて欲しいな。あたしが何を感じたのか。どんな気持ちだった
のか…」
「…うん」
「謝る前に、もっとそのことを考えて欲しいな」
「これから、気をつけるね」
「うん。じゃあ、今回はおあいこね」
「え?」
「あたしもアナタがどんな想いでいるかをよく考えてなかったし、アナタもあたしがどんな想いでいるか
よく考えてなかったから。だから、おあいこ」
不満と、寂しさと、可笑しさの入り混じった表情で、アスカが言う。
「…それでいいの?」
「ええ」
「じゃあ、それで」
「うん。…それで、あたしはあたしの答えを探すことが宿題」
視線を落として、口の中で囁くように言う。
「え…それって…?」
「ううん、いいのそれは。シンジが気にしなくても。あたしが、シンジの傍に居たいっていう気持ちは
かわらないんだから」
にこやかに、そう言う。
「あ、うん…。わかった」
怪訝そうに首を傾げていたシンジも、それで笑う。
「じゃあ…」
アスカが、背伸びをしながらその目を悪戯っぽく細める。
「ちょ…」
それに気づき、シンジは慌てたように辺りに視線を走らせてから、やがて諦めたように軽く溜息をついて
から、アスカの細い腰を抱き寄せる。
「…んふふ…はい、仲直りの」
「…もう」
つづく