【 TIP OFF 】

 

『想う夜』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…好きだけど…わからないんだ…アスカのこと…ゴメン」

 

出てきたのは、あまりにも簡単な懺悔の言葉だった。

自分でも驚くほどのあっけない謝罪の言葉。

言ってしまってから、自分のしでかしたことの重大さを自覚するが、無論時は遡りはしない。

 

『っ!! 知らないわよっ!! 大っ嫌いっ!!!』

ガチャンッッ…

 

受話器の向こうで、けたたましく響く金属音。

 

あんなに強く叩きつけて壊れはしないだろうか、などと場違いな心配をしながらも、これは至極当然

の結果だ、とあたかも心が瞬間凍結されたかのように、妙にさめざめと認識する。

 

この彼女の怒りは正当なものである、と。

 

その瞬間、やっと心が正常に動き出したのか、シンジは身体中の血液がさーっと引いていくような感覚

をおぼえる。意識せず持ち上げた片手で口元を覆う。

一体自分は何様のつもりだったのだろうか。絶望的な思いに気が遠くなる。

歩み寄るつもりで結果として彼女を追いつめて。挙げ句の果てに簡単に匙を投げてしまったのだから。

自分の救い難いまでの浅はかさが浮き彫りになったように感じ、忸怩たる思いが胸を掠める。

 

およそ三年間離れて過ごしてみて、何かを判ったような気になっていた自分がたまらなく滑稽だった。

互いに依存するのではなく、それでいてアスカを包み込んでやれるなどと思っていた自分の増長ぶり

がたまらなく鬱陶しく思えた。

自分で自分が許せないとは良く云ったものだ。そうシンジは思う。

二人で一緒に、などと云いながら、結局はどこかで未熟なアスカを導いてあげようなどという思い

上がった感情を抱いていたのだろう。

だからこそ、自分に処理しきれない反応を返してきたアスカに対して、度し難い程狭量な態度をとって

しまったのだろう。

焼き付くような慙愧の念に打ちのめされ、そのあまりの愚かさに、溜息一つ吐くことさえ出来ない。

己に対する激昂の炎が、文字通り我が身を焼き尽くさんばかりに猛り狂う。

 

「…兄さん?」

 

昂ぶる感情に任せて、思わず受話器をフックに叩き付けようとした瞬間、背後からしっとりと落ち

着いた、けれど何処か心配気な声がシンジを呼ぶ。

 

 

ツーツーツー…

 

「…………」

 

軽く息を整えてから、無機質な音を返すだけになったそれを、そっとフックに戻す。

それから、その顔になんとかほろ苦い笑みを貼り付けてゆっくりと振り返る。

 

「えっと…」

 

溜息を吐いて、頭を掻きながら言葉を探す。

 

「…大丈夫?」

想いを愁眉に乗せ、レイは余分なことは訊かずにその紅い瞳で重ねて問う。

 

そんなレイの態度に、シンジは今度は本物の微苦笑を浮かべる。

ゆっくりと歩み寄り、その空色の髪に手を差し込みながら、シンジは軽く溜息を吐く。

「実はさ、少し大丈夫じゃないんだ…。だから、今日はもう寝ることにするよ…」

されるがままに、ただ見上げてくるレイの紅い瞳に囁く。

 

「…明日は朝練に出るつもりだから、眠いようだったら無理して起きてこなくていいからね」

スッと手を離すと僅かに残念そうな表情を浮かべるレイの頭に、ぽんと掌を置く。

 

「…おやすみ、レイ」

 

「おやすみなさい…」

レイの返礼を背中に受けながら、シンジはゆっくりとした足取りで寝室に向かう。

廊下を歩きながら、胸の奥で疼く鈍い痛みに、そして胃のあたりに感じる神経性の鋭い痛みに、視野

狭窄に陥ってしまったような感覚をおぼえるが、自室のドアノブを力任せに握ることで何とか堪える。

 

部屋に入るなり、うつ伏せに倒れ込むようにしてベッドに身を沈めながら、シンジは頭の中でまだ耳

の奥にその余韻を残すアスカの泣声交じりの怒声を繰り返し繰り返し思い起こしていた。

 

「…最低だ」

 

首を動かした拍子に硝子戸越しに飛び込んできた、淡い銀色の輝きを放つ月を無感動に眺めながら、

シンジはそう呟くしかなかった。

 

夢の中のアスカの泣いているのだろうか…。

訳も無くそんなことを考えながら、シンジは瞼を閉じる。

眠りに落ちるまでは、まだまだ時間が必要であることを承知しながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薄闇と静寂に支配された部屋。

定期的に繰り返される身じろぎの雰囲気だけが、その空気を震わせていた。

 

ミサトの薦めに従って早々にベッドの中に入ったものの、瞼を閉じる度にゆっくりと浮き上がってくる

様々な想いに、そして泣き腫らした目元がピリピリするのも手伝って、アスカは中々寝つけずにいた。

 

『いくら互いに愛し合っていても、所詮人は一人よ』

『だから好きだからわかりあえるなんてのは幻想よ』

 

ミサトは云った。

 

そういうものなのだろうか…?

 

アスカの感情的な部分は首を傾げる。

好きだったら自分のことは言わずともわかって欲しいし、相手のこともわかってあげたいとアスカは

思う。何も言わずともツライ時はそっと支えて欲しいし、悲しい時は抱きしめて欲しい。

…それに…わかりあえないことを前提にした関係なんて寂しいような気がする。

僅かに唇を尖らせるような仕種を見せながら、アスカはそう心の中でそう呟く。

 

それでも…、と軽く寝返りを打ちながらアスカは思う。

 

きっとミサトの云ってることは正しいのだろう、と。

現にシンジと自分は別々の人間なのだし、テレパスを保持しているわけでもないのだから意志の疎通に

齟齬が生じるのは当たり前のことだ。

好きだったら何も云わなくてもわかってくれなどというのは、身勝手なエゴでしかないのだろう。

寂しいことではあるのかも知れないが、重要なのは二人の関係をより良いものにすることなのだから。

 

『アスカがどうしたいのか簡単に言っておくといいわ』

 

結局、自分はどうしたいのだろう…。

アスカはその事に、未だ明確な答えを持てずにいた。

ベッドの中で自分の脚を抱えるようにして丸まりながら、アスカは溜息をつく。

 

ミサトの云ったことは、頷けるものがあったが、それがそのまま自分に当てはまるとは思えなかった。

ミサトの云う『人を好きになる』というのが、自分の『好き』とは根っこは同じなのかもしれない

けれど、枝葉の部分で異なってるようにも思えた。

現に、こうして落ち着いて今日あったことを思い返してみている今も、寄り添う二人の姿が脳裏に

焼きついていて、アスカは胸が苦しくなって泣きたい気持ちになってしまう。

軽く唇を噛み締めながらアスカは思う。

それは、ただシンジの隣にレイがいるということだけではなく、二人が互いに家族としての距離感を

確立しあってるのが、二人が純粋に何の打算も働かせずにお互いを思い遣れる関係にあることが、それ

が痛いほどにわかってしまうからこそだった。

 

そう思いそう感じてまでいるのに、自分のこの気持ちは、ミサトの云うところの『遅れてきた初恋』、

『恋』なのだろうか…? 本当に自分はシンジを女として好きでいられているのだろうか…?

 

ふと微かに聞こえてくる時計の音を意識しながら、アスカは考える。

その答えを見つけることなしに、自分がどうしたいのか、どうするべきなのかを決めることは出来ない。

そうアスカには思えた。

そして、その答えはいくら考えてみても見つけることが出来ないように思えた。

 

それなら…。

 

自らを抱えていた腕を解き、ころんと転がるようにしてと仰向けになりながら、アスカは僅かにでは

あるが、穏やかな表情を浮かべる。

 

明日は早起きして、美味しいお弁当を作ろう。

それで朝一番でシンジを迎えに行って、今日の事を謝ろう。

それから、一緒に学校に行って、お昼には今度こそお弁当食べてもらおう。

シンジを避けるではなしに、怖がらずに近くに行こう。

あたしに触わってもらおう。抱きしめてもらおう。

 

そこで、少し躊躇うような難しい表情を浮かべる。

 

…それから、あのオンナとも話してみよう。

 

思い切ってそう意識を明確にカタチづけてみても複雑な感情を拭い去ることは出来なかった。

それはとても耐え難いことのようにも思えたし、意外に簡単なことのようにも思えた。

 

でも、それでもやってみよう、と。

そうやって、あたしの答えを見つけてみよう、と。

 

瞼が重くなるのをどこか他人事のように感じながら、アスカは沈みゆく意識の中でそう想った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おやすみなさい…」

 

兄の背中が廊下の向こうに消えていくのを見送ってから、レイはその胸中で渦巻く複雑な感情に戸惑う

ように俯く。

 

兄を慮る気持ちは当然あった。

何時も自分のことを気にかけて、足りないものを補ってくれる兄。

傍に居てくれるだけで、お日様の匂いのするシーツに包れて昼寝をしてるような、そんなゆったりと

した安心感を与えてくれる兄。

そんな兄が、今のように自分の前で弱音を吐くというのは、本当に久しぶりであったから。

己の身に降りかかった事象に打ちのめされることはあっても、少なくともレイの前では微笑っていら

れるだけの余裕は持ち合わせていることが殆どであったから。

だからこそ、先程の兄の様子は痛々しく、レイの心を千々に乱れさせた。

 

自然と先程まで兄が向かっていた電話に、視線を動かしてしまう。

 

けれど、とレイは思う。

けれどそれ以上に、兄を慮る気持ちとは別のベクトルで、レイの胸を痛いほどに締めつけて狂おしく

暴れまわる感情の存在が、レイを苦しめていた。

 

…嫉妬…なの?

 

およそ綺麗とは言い難い種類のその感情の奔流に、僅かに眉をしかめながらレイは自問する。

 

…嫉妬…自分の愛するものの愛情が他に向くのを嫌うこと。

 

癖で、ふと定義を諳んじてみる。

兄が自分以外の他の女性と笑みを交わす度に感じたもの、何より兄が亜麻色の髪の少女の話をする度に

感じていたもの。それが嫉妬というものであることを、レイは知っていた。

けれど、いまこうしてレイの内部を侵食するようにどんどん拡がり続けている感情は、それとは全く

別種の感情であるように思えた。

そんなものが可愛く思えるほど、醜く衝動的で、より陰に篭った感情。

 

不平や不満ではなく、もっと別の…。

兄を煩わせ苦しめるあの亜麻色の髪の少女に対する、負の感情。

 

「…だめ」

 

はっとしたレイが、それ以上思考を流されないように、意識的にそう口にする。

これ以上はいけない。そう感じた。

これ以上考えてしまうと、きっと兄を困らせることになるから。

それは、家族になってから初めて心を通わせた時と今度の日本行きを告げられた時の二度にわたって

、かけがえのない約束をしてくれた兄の気持ちを裏切ることになる、と。そう思えた。

そして同時に、それはレイが自らに課した誓約にも背くことにもなる。

それだけは、避けなければならなかった。

なにを犠牲にしても、それだけはすることは許されなかった。

 

ふと視線を転じた窓の外には、淡い蒼銀の光を放つ月が一つ。

 

特にこれといった表情を浮かべることなく、レイは立ち上がると、リビングの硝子戸を開け、ゆっくり

とした足取りでテラスに出ていく。

 

蒼月の清く澄んだ光を浴びて、そこに一人佇むレイの姿は、普段見せる凛としたものではなく、時折

見せる瑞々しいものでもなかったが、それでもなお清冽な美しさに包まれていた。

 

真夏の夜にだけ感じられる涼しげな夜風が、片手を手摺にかけて月を見上げるレイの頬をそっと撫でる

ようにして、テラスを吹き抜けていく。

耳にかかった髪をかきあげながら、レイは僅かに顰めていた表情を穏やかなものにしてゆっくりと息

を吐く。あたかも胸の中で淀んでいた感情を吐き出そうとするように。

 

それから、その口唇をそっと開いて囁く。

 

「兄さん…」

 

それは例え応えが無くとも、自分と彼の絆の存在を実感させてくれる言霊。

そう呼ぶことを望みながら、一度は拒絶された言葉。

そう呼ぶことで、常に温もりを感じることの出来る言葉。

 

僅かな間を置いて、レイのたおやかな指先が躊躇うようにそっとみずからの口唇をなぞる。

 

そして…。

 

「…………」

 

月が雲に隠れてしまうのを見上げながらもう一度呟いたレイの言葉は、強く吹き付けた風の音に掻き

消され、レイ自身の耳にも届くことはなかった。

 

 

 

つづく

 



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