冬の夕空 2 燃える夜空 オーナーに請求書を届けるお使いを頼まれ、私は夜の花街を歩いていた。といってもまだ時間は早いのでそんなに妖しい雰囲気はない。だけど夕方以降に花街を歩くと、いろいろ誘いが多くて面倒だそうだ。今日はこの用事が終われば帰っていいと言われたので私の足取りは軽い。 最後の店に向かう。少し落ち着いた場所にある高級遊郭。 その店は燃えていた。 勢いよく窓から火が吹き出ていたが燃え始めたばかりらしい。野次馬はまだ集まっていなかった。私は呆然としたまま立ち尽くす。 ふと視線を感じて上を見る。屋根の上、炎がまぶしくてよく見えないけど……、黒い翼の、大きな鳥……ちがう……人? 似ている……。 それは夜空に向かって飛び立った。思わずその方向へと私も走った。けれど、すぐに見失った。 火事に興奮して幻覚を見てしまった……のかな……。 それよりも誰か消防車は呼んだろうか。 私は路地裏の行き止まりにたどり着いていた。とりあえず来た道を引き返し元の場所に戻ろう……。 振り返ると、ミシェルが立っていた。 コートのポケットに手を突っ込んで。 私は息を飲んだ。 「見た?」 彼は少し首を傾けて私の目をのぞきこんだ。 「なにを?」 私は笑顔を作って答える。 なんとなく、なぜだろう。 なんとなく彼の足元を見てしまった。 影がなかった。 私にはあるのに。 彼はフッと少しおもしろそうに笑った。 「しまったな、忘れてた」 彼がそう言うと足元に影が浮かんだ。彼は話を続ける。 「面倒なのに見られちゃったな…・・・。君、こんなところで何しているんだ?」 そうだ、私は何していたんだろう。 私は右手に握ったままの封筒に気づいた。 「これ、請求書を届けに来たんです」 彼はその封筒をさっと私から取り上げる。そして目の高さに持ち上げ、中身を透かして見るようなしぐさをする。パッと手を離すと封筒はひらひらと舞い落ちた。そして地面に着く直前に青い炎に包まれ、あっというまに跡形もなく燃え尽きた。 「えぇぇ」 私はマヌケな声をあげる。 彼はちょっとバカにしたように笑う。 「どうせ燃えちゃったんだ。怒られやしない」 それもそうだ。 「まあ、いまちょっと忙しいんだ。後で君の部屋に行くから」 そう言って彼は背中の翼を広げ、さっと飛び立ち夜空に消えた。 なんなんだろう。 いったいなにがどうしたら。 私はなんとか自分の部屋に帰ってきた。 急に身体全体が震えてきた。 とりあえず……、とりあえず何も考えられない。 シャワーをあびてみた。 シャワーをあびると、とりあえず身体の震えは止まった。 でも頭の中はまだよくわからないまま。 いや、あんなこと考えたってわかるはずないんだ。 わからないまま考えてみる。 彼の……あの羽……。飛んでたし……。 やっぱり天使? いや……。黒い翼で……、影がなくて……。 状況的に……。これはやっぱり……。 ……悪魔? いや、だけど、そんなことってある? でも、私は見てしまったわけで。 どうなるの? 私、殺される? そんな、まだ19なのに……。 好きな人だっているのに……。 好きな……。 ふと窓の外に誰かがいるような気がして、そっちを見るとカーテン越しに黒い人影が見えた。私がびっくりして立ち上がると、窓の鍵がひとりでにかちりと外れた。 そして窓を開けてミシェルが入ってきた。 なんでそんなとこから……。ここ3階なんですけど。いや、まあ、そうだけど……。 「ひさしぶり」 ミシェルが言った。そうなのかな……。 「私、どうなるんですか?」 私はまず聞いてみた。少し声が震えた。 彼は立ったまま壁にもたれ、静かに微笑んだ。 「べつに。どうもならない」 どうも……ならない? 「ただ、お願いが3つほどある」 お願い? 私は彼の瞳をそっとのぞきこんだ。 するとミシェルは言った。 「僕は何者だと思う?」 「……」 「悪魔なんだ」 「……」 「でも君に話せるのはここまで。以後この件について何も聞かないで欲しい。僕らにもいろいろ事情があるんだ。これがひとつめのお願い。いいかな?」 「……はい」 ミシェルは答えに満足したように、にっこりとうなずく。 「ふたつめのお願い。僕の正体……つまり悪魔ということを誰にも話さないで欲しい」 「……はい」 誰に話せばいいかわからないし……。 「みっつめのお願い。今までのように、この部屋にまたお茶を飲みに来てもいい?」 私は一瞬何を言われているのかわからなくなった。 しばらく考えてから「はい」とうなずいた。 「ありがとう」 とミシェルは笑顔で言った。そして続ける。 「じゃあ約束のくちづけをしよう」 え? ミシェルは私の頬を片手で持ち上げた。 緑色の瞳で私の目をのぞきこむ。 「いや?」 私は彼の瞳に吸い込まれそうな気持ちになった。顔が熱くなる。 「いや……じゃないです……」 彼は私の耳の横の髪をそっとうしろに流す。そして少しだけやさしい声で言った。 「目を閉じて」 目を閉じる。だけど彼の顔が近づいてくるのはわかった。 初めてのキス……を、ミシェルと……。 彼は私の髪をそっとなで、そのまま頭を引きよせた。 唇がふれる。 と、彼は舌を差し入れてきた。 え……? 思わず身体が引けるが頭を支えられていた。 あたたかくて……やわらかい……舌……で、下唇をゆっくりとなぞられる。 よく……わからないんだけど……こんなとき口を開けたほうがいいのかな……。 彼は下唇に軽く吸い付きチュと音を立てる。 「舌を出して。こう」 彼はそう言って舌を少し出してみせる。 私はおそるおそる舌を出し、彼の舌先にふれた。 彼は私のあごを持ち上げ、口の中に舌をもぐりこませる。 舌の下側をそっとなぞる。 「んっ……」 ふさがれたままの口から思わず声がもれる。 彼はゆっくりと舌を、口の中でそっと、舌のまわりでぐるっと動かす。 私は彼の腕をぎゅっとつかむ。 そして彼は唇で私の舌に軽く吸いつきながら、耳の後ろをそっと指でなでる。 「……ん、……ぅん……」 ため息がもれる。 ゆっくりと唇が離される。 彼は親指で私の濡れた唇をぬぐった。 そっと彼の瞳を見上げる。 彼は私の目をのぞきこむ。 「初めてだった?」 そう言われ、私はただ無言でうなずく。 「僕も女としたのは初めて」 彼はにっこりと微笑む。 「どうだった?」 彼にそう言われ、考えてみる。 「よく……わからなかった……」 「そうか」 私の耳の横の髪を軽く引っ張りながら、彼は言った。 「じゃあもう一回」 次のページ 前のページ 冬の夕空 index 小説 index HOME written by nano 2008/01/30 |