「ああ――あなたか」  ゆっくりと振り向いた彼女は、俺の知らない女だった。                     ***  さすがはガンダムマイスターだと、皆が言う。  ティエリア・アーデ救出作戦のおり、彼女が捕らえられた部屋に向かった他のマイスターたちが、 出会ったのは、突入の折の混乱に乗じて牢獄からの脱出を果たし、既に12人もの兵士を屠った後の救 出対象の姿だった。  極度の疲労により、そのあとはアレルヤ・ハプティズムによって運ばれ、キュリオスでプトレマイ オスに連れ帰られたが、モレノによる検査を受け、問題となる外傷他はないとの診断を受けてから は、いつものようにミッションに参加した。その後も、全く変わりはない。  ただし、戦士としての凄味が増した。  他のガンダムと比べて機動性には後れをとるものの、そのバズーカ、キャノンの発射はためらいが なく、前にも増して機を見るに敏。あやうく難を逃れた敵に対する追撃も容赦がなく、まさにその攻 撃は殲滅というにふさわしい。スメラギの立てる作戦への批判も、以前のような反発を買う言い方を 改め、淡々とした声音と的確な言葉選びで、問題点を指摘するようになった。 「結論を早く言ってくれないか。ロックオン」 「無理をしてんじゃないのか」 「作戦に支障が出るような問題はない」 「他のガンダムとの連携作戦では、最近、かみ合わないことが多いぜ」 「それについてはすまないと思っている」 「信頼関係が揺らいでるんだよ。話をしよう。……夕食後、俺の部屋に来てくれ」 「了解した」  部屋へと戻るティエリアの背中を見送りながら、俺はあの時のことを思い出していた。  救出時のことだ。  まず目に入ったのは後ろ姿だった。その赤いドレスは裾が引き裂かれ、露わになった左脚の太股が 目に付いた。折れそうに細い腰とむき出しの背中。白い腕は、壁際の男に抱きつくように差しのべら れていた。あの紫色の髪がなければティエリアとは気付かなかっただろう。抱きつかれているように 見えた男が崩れ落ち、男から素早く距離をとりながら、彼女がこちらを振り向いたことで、ようやく 本人と確信ができた。  崩れ落ちた男の喉には風穴が空いていた。赤い泡を口から吹かせ、喉の穴から血を流す男から、テ ィエリアが距離をとったのは、返り血を避けるためだと気付いたのは、一瞬あとだ。  そして、その凄惨な姿に声を呑んだ。  体のそこかしこに避けきれなかった返り血がこびりついていた。細い喉には鉄の首輪が嵌められ、 手首にも片手ずつ重たげな鉄の手枷が付いている。よく見ると足首も同じものが嵌められていた。そ れぞれ枷には先のちぎれた鎖が付いている。これだけの重りをぶら下げては歩くのも一苦労だったろ う。  あちこちが破け擦り切れた、一目でわかる安物のドレスは、大きく胸が開いており、場末の売春宿 の女でも着ていそうな品のなさだ。  露出した肌はあちこちが、鬱血と痣に汚れており、彼女がどういう扱いを受けていたのか、一目で わかる姿だった。  白い頬に、べっとりと付いた返り血。鮮やかなその色に比べ、同じ赤色をした目には光がなかっ た。  ぞくりとした。  あの茫漠とした目が忘れられない。以前の冴え冴えとした冷たい気迫が失せた今、どれほど目覚ま しい成果をあげていようと、片端から敵を薙ぎ払い、敵中もひるまず飛び込むように追撃をかけるテ ィエリアの姿は死地を求めているようにしか見えない。  特に、連携作戦の折は、援護があるのを言い訳に自ら危険に飛び込んでいるのではないかとさえ思 う。決して、状況を見ない判断をしているわけではないが、わずかな逡巡もなく迷わず危険な選択を する姿に不安を覚えるのだ。                     *** 「しばらく、休んだらどうだ」  切り出し方をどうしようかさんざん悩んだ結果、出てきたのはこんなセリフだった。  テーブルを挟んだ向かいのソファに座るティエリアには表情がなく、感情が読み取れない。 「いま予定のミッションは小口のばっかりだからな。わざわざヴァーチェを使うまでもない。だいぶ データもたまってきたし、しばらくヴァーチェは調整に出して、おまえはのんびりしたらどうだ」  表情を覚えてきたばかりのころ、ティエリアは感情を表に出すこと自体に慣れておらず、自然に顔 や態度に出てきてしまう気持ちを隠すことができなかった。  むろん、感情表現が下手なやつだから、隠すまでもなく大概の人間は気づきもしなかったが、あい つをずっと見てた俺には、些細な起伏も簡単に見てとれた。だが、今の穴のあいたような眼や、全く 動かない表情では、何も読み取れない。 「不要だ」 「しかし、最近、ちょっとお前さんおかしいぜ。ミッションの成功は重要だが、おまえが怪我したり しちゃ元も子もないんだからな」 「最近」  ティエリアは、以前見せたような嫌な笑い方をした。 「率直に言うべきだ。推測通り、私は捕虜とされたとき性的暴行を受けたが、モレノの診断によれ ば、精神的にも肉体的にも後遺症はない。マイスターとして活動するのに支障はない。ヴェーダも何 も言っていない」 「そういうことを言ってるんじゃない」 「同じことだ。今の私がヴァーチェに乗ると、作戦に支障が出るのだろう」  何でもない顔をしているが、自ら口にせずにいられないところをみると、やはり傷になっている。 ここに触れてはティエリアの傷を深めるばかりだ。触れたくなかったのに――話の切り出し方を間違 えたか。 「作戦がって話じゃない。お前がちょっと休んだらどうだって話だ。俺も、最近ミッション続きで疲 れたしな。二人で休みを取って、のんびりでもするか?」 「私は疲れてなどいない」 「冷たいやつだな。一人でぶらぶらしててもつまらないじゃないか。少しくらい恋人につきあっても いいだろ?」 「恋人?」  ティエリアは目が覚めたような顔をした。  いつになく手ごたえのある反応に嬉しくなる。  俺が何を言っても、ティエリアから応えるような言葉を聞いたことはないが、その気持ちは知って いる。俺たちは恋人同士のはずだ。俺が、ティエリアの身に起こったことでこれだけやきもきするの は、彼女がマイスターだからじゃない。大事な恋人だからだ。  傷つけたくないから、直接はあのことは口にしない。あれはなかったことでいい。  だが、あれがきっかけでお前が傷ついてるなら、お前は俺に頼るべきなんだ。作戦で気を紛らわせ るんじゃなく、俺とのんびり過ごすことで傷を癒せばいい。  なぁ――ティエリア! 「あなたは、私が、恋人だと?」 「そうだろう?」  お前があのときから調子がおかしいのに間違いはない。こういうときは、俺を頼ってほしい。お前 に何があったって俺はお前が大事なんだから――祈るような思いを込めて、俺は答える。  しかし、ティエリアは、冷ややかに笑った。決して良い色を含んだものではなかった。 「なんだ――それなら、そうと早く言ってくれれば」  ティエリアが笑う。以前見せたような、冷ややかな、嘲笑うような――ある意味、一時期とても親 しんだもの。しかし違和感があった。あのころにはなかった雰囲気がある。 「そういえばずいぶん御無沙汰だ。我慢させていたならすまなかった。言ってくれればよかったの に」  そうだ。妙に嫣然としている。  人との触れ合いに関して無知に近く、女としてという以前にまず人間として覚えなけれならないこ とが多すぎるようなティエリアは、端正な顔立ちをしながらも、正直色気に欠ける面があった。しか し今うっすらと笑うティエリアには、誘うような雰囲気がある。  どこで覚えたのか、と思い、考え、そして胸が冷えるのを感じた。  捕らえられていた時に? 「上達したから、以前よりあなたも楽しめるだろう」  細い指先が眼鏡をはずし、美しい顔があらわになる。ためらわずに、片手でシャツのボタンを外し 始めながら、ティエリアは俺に近づいてきた。知らない女の顔をしていた。 「……ちょっとまて。おまえ、まずは返事だろう。俺と一緒に休暇取るか取らないか……そうだな、 一週間くらい」 「一週間も?」 「いいだろう?」 「そんなに続けられるものなのか?」  ティエリアが動きを止めたことに安心する。きょとんと首を傾げる姿は見慣れたもので、ほっとし ながらかわいいと思った。しかし、言葉の意味に気づいて、少しあきれる。 「おいおい。そりゃもちろん、のんびりするときはそれも込みにしときたいが、他にも飯食ったりな んだりすることがあるだろう。地上に降りてみてみるか? お前でも気に入る場所があるかもしれな いぞ。人が少なめなところがいいだろうな」  平静を装いながら、しかし俺は、突然見せられた知らない顔に動揺している自分を自覚している。 ティエリアがどう変わっていようと別に気にはしない。そのつもりだし、実際そうだ。だが、あの色 を含んだ笑みは。  だって、あの顔は、誰かに、お前を犯した誰かに教えられたんだろう。その誰かに見せたんだろう?  それを、どうしてお前はそれを見せる? 「なにを言っている。ロックオン」  ティエリアは、また笑った。さっきと全く同じ不思議に色気のある笑みを浮かべながら、彼女は俺 の座るソファの背もたれに両手をついた。腕で囲った俺の顔を覗き込む。 「私はそのような扱いを受ける人間ではない」  一気に頭が冷めた。 (………そうか)  それがお前の結論か。  口元が勝手に歪むのがわかった。まったく、あきれた話だ。この女は頭が悪い。 「そのようだな」  俺は冷ややかに至近距離にあるティエリアの顔を見返した。彼女から一瞬笑みが消え、その瞳にあ きらめが走るのを見る。本当に頭が悪い。温厚なつもりの俺だが、久しぶりに腹が立った。 「教え込まれたことを披露してもらおうか?」  ティエリアがうなずくのを、苦々しい思いで見る。これから始まることを考えると吐き気がした。                      ***  前からわかっていたが、ティエリアは学習能力は高いのだ。  キスからして明らかに変わっていた。以前は、唇を開くことさえ、舌先で促さなければ思い当たら ない様子だったにもかかわらず、いまは積極的に舌を入れてくる。舌を絡めようとするのを一度思わ せぶりに逃げて見せてから、自分から合わせてきた。  口づけながら、ティエリアはその手を俺のシャツの下に滑り込ませてくる。脇腹を撫で、脇をくす ぐり、乳首を指先でいじりながら、シャツの裾をずりあげる。脱がせるのもお手の物というわけだ。 (ティエリア……っ)  嫉妬に気が狂いそうだった。しかし、同時に俺は興奮していた。目の前にある顔は端正な、いつも のティエリアのもので、その手は先だってヴァーチェを操っていたものだというのに。  こんなことを覚えさせた男。こんなことを覚えたティエリア。 (頭が沸騰する)  俺のシャツを脱がせると、ティエリアは首筋に吸いついてきた。吸血鬼みたいだと思う。白い肌に 赤い目がお似合いだ。血を吸いつくしてこの場で殺してほしい。今まで俺たちのしてきたのはまった く違うティエリアのやり方に、このさき正気を保っていられる自信がなかった。  ティエリアは誰かのやり方を続けた。俺は何もしなかった。今まで、俺が何もしなければ、何も進 行しなかったのに。ティエリアが何もできなかったからだ。  ――いつだったか悲鳴のようにやめてというから途中で手を止めたことがある。そのまま、じっと 潤んだ目を見つめていたら、頬が薄く染まっていたのが、見る見るうちに耳まで真っ赤になり、身を よじって俺の腕から逃げ出そうとした。  別人のようだ。  ためらいも見せず服を脱ぎ、シャツだけ羽織った状態で、ティエリアは俺をソファの上に押し倒 し、腹の上に乗り上がって腹ばいになった。小さな乳房が俺の胸の上でつぶれている。乳首が固くな っているのがこすれてわかった。  ティエリアは首筋に唇を寄せ、猫のように舐め始めた。段々体をずらしながら、唇が下に移動し、 乳首を口に含む。他の女にここも性感帯だといわれ、いじられたことはあったが、ティエリアになぞ るように舐められて、比べ物にならないくらい感じた。  ティエリアの舌が、唇が移動するのと同時に、紫色の髪が俺の胸の上を滑る。そして、この調子な らやるだろうと思った通り、ティエリアは俺の前をくつろがせ、下着越しに確かめるようにしばらく 撫でると、俺のモノを取り出し、迷わずに既に勃ちかけているそれに口づけた。 (……くっ)  俺は顔をしかめて奥歯を噛む。  自分で抜くときに想像したことはあったが、思った以上にこの眺めはキた。  啄ばむように、ティエリアは竿の部分を小刻みに吸い上げる。いやに慣れていた。浮き出てきた血 管を時折舌で舐め上げるその様は、とてもいつも冷ややかに視線を前に据えているティエリアとは思 えなかった。 「おまえ……なんて格好してんだよ……!」  俺の足の間にうずくまり、ティエリアは奉仕に余念がない。動きに合わせてシャツが揺れ、尻が見 え隠れするのが煽情的で、わしづかみにしてやりたくなる。  ティエリアの唇はやがて下り、袋にたどりつくと小さな口を開けて睾丸を銜え込んだ。口内で転が されるように柔らかく舐めまわされ、思わずうめいた。  添えるように竿にあてた手は、指先が絶えずうごめいていて、その刺激に体が震えるのが止められ ない。 (殺してやりたい)  俺の知らないところでお前は何をやっていた。何をされていた。俺の知らないその男は、何度お前 にこんなことをした。  なぜ、お前はそれに従った。なぜ、それをためらいもせずに俺に見せつける……! 「ティエリア……!」  まるで唸り声のようだった。ティエリアの伏せられた長い睫毛が上向き、うつむけられていた顔が 俺を仰ぐ。瞳の赤が濃く染まっているのは欲情している証拠だ。目に水の膜が張られ、潤んだ瞳でテ ィエリアはそのとき泣くか、笑うかしたように見えた。  唇で、ちゅぱ、ちゅぱと絶え間なく唾液を含んだ音を立てながら、俺のモノを刺激しているその姿 は、まるで娼婦にもかかわらず、いやに健気に見えて俺はティエリアが憎いのか愛しいのかも分から なくなってくる。  目を閉じて、ティエリアは奉仕を続けている。竿を扱かれながら、カリの周りを濡れた舌が丁寧に 這わせられ、舐め取られる感覚に、痛みにも似た射精感が高まり、とうとう限界が来た。 「……っく!」  ティエリアの口内で俺の精液が迸る。俺のモノから唇を離さず、彼女は全部口内で受け止めた。喉 が動き、嚥下するのが見て取れる。収まり切れなかった精液が唇の端から伝わり落ちるのに気づくと、 少し考える様子を見せてから指ですくって舐めとった。  目眩がするほどいやらしい。  我慢の限界だった。  俺のジーンズをもっと下げようとするティエリアは、どうやらこれから騎乗位を始めるつもりらし いが、もう付き合ってられなかった。  細い体をすくいあげ、体勢を入れ替えてソファの上に叩きつけるように押し付ける。太股の内側か ら指を伸ばすと陰部はすでにぐしょぐしょに濡れきっていた。ちょっと触っただけの指に絡みついた 粘液が糸を引くほどだ。 「おまえ、俺のしゃぶりながらこんなにしてたんだな。俺以外にもこうだったのか?」  我ながら、欲情しきって抑揚のない声。俺もすっかり余裕がない。しかしお互い様だ。ティエリア の目も鮮やかな真っ赤に染まっている。答える声はかすれていた。 「こんなになったことはない……あなただけだ」 「だからって許されると思うなよ。この――淫乱」  ティエリアは泣きそうな顔をした。開き直ったつもりじゃないのか。もう俺のものじゃないといわ んばかりの振る舞いをしておいて。  濡れそぼった陰部を指の腹で擦ってみる。面白いほどびくびくと彼女は震えた。片手で簡単に包め る乳房をゆっくり揉みしだけば、首を反らして喘いだ。瞼が固く閉じられ、切なげに眉がギュッと寄 せられる。その状態で唇を重ねた。  震える舌がそれでも、誰かに教えられたように俺の口内に入り込もうとするのを、俺はあっさり遮 って、ティエリアの口の中に押し入った。俺を押し出そうとする舌に舌を絡める。たちまち逃げを打 ったのを彼女の口内を舐めまわしながら追いかけた。  捕まえてからは、慣れ親しんだ通りに舌を絡め、同時に中に入れる指を増やして膣の中をかき混ぜ る。胸を揉んでいた手を離し、快感を逃そうとすると首を振る彼女の頭を押さえた。やがて達したか、 全身が痙攣した。先ほどから潤みきっていた瞳がとうとう分水嶺を越えたらしく、涙が目尻を伝い落 ちる。  しばらくティエリアは、なすがまま、俺が首筋、うなじに唇を移していくのを肌を震わせながら甘 受していたが、放心状態から不意に我に返り、俺を押しのけようとしてきた。結構な力だ。 「ロックオン……私、が」 「もう十分だ」 「いやだ、以前とはもうっ……!」 「知るか!」  本気で抗われて、俺も手加減ができない。細い肩を掴んで力任せにソファに押し付けた。ソファに 手をついて腕で囲い、怒鳴りつける。 「いい加減にしろ。淫乱ぶる気なら、そんな顔するんじゃねえ!」  はっとティエリアが目を見開く。  こいつはこのロックオン・ストラトスの視力を舐めているとしか思えない。目の前の女がどんな表 情をしているかも見えないと思っているのか?  いや、分かっている。こいつは自分がどんな顔をしているか全く自覚してないのだ!  「どれだけ変わったつもりか知らないが、何があろうとお前が俺のもんであることに変わりはないん だぞ!」  怒鳴りつけた瞬間、跳ね返るように強い声が返ってきた。  悲鳴のような声だった。 「変わりすぎてしまった! もうあなたのティエリア・アーデはいない!」  それは、あのことがあってから初めて、彼女が内心を吐露した瞬間だった。                      *** 「あなたは、私の本性を知らなかった。……今ならわかるはずだ。本当は分かっているはずだ。あそ こで人を殺す私を見ただろう?」  その言葉には、すぐ返せなかった。  どれだけセックスが達者になろうと、それは、教えた男を思わせて嫉妬が身を焼くだけで、ティエ リアが何者であるかなんてことには関わりない。  だが確かに、あの時のティエリアは俺の知らない女だった。  両手足と首に鉄の枷をつけられ、娼婦の扱いを受けながら、混乱を察した途端に牢獄を脱出し、す れ違う男ことごとくを殺した女。  ティエリアが俺の腕の中で、ゆっくりと身を起こす。射抜くような視線の強さにそれを妨げられず、 俺も体を起こした。 「……なぜ、私が脱出できたと思う。まさか、鎖を引きちぎれるわけもない。私がたぶらかした男が やった。鍵を持っていなかったから枷は外せず、彼は鎖を断ち切ったんだ」  静かな声で、ティエリアは告白を始める。気になっていたがとても聞けなかった話だ。なかったこ とでいい。忘れてしまえと思っていた。  馬鹿は俺だ。忘れられるわけがない。 「何をして、たぶらかした?」 「披露した通りだ。私を捕らえた男がよこす兵士たちの慰みものになる間、一人私にやけに執心した 奴がいた。私は奴に懐き、奴に喜んで抱かれ、奴が教えることをすべて覚え、奴に」 (言わなくていい) (言うな。俺は聞きたくない)  お互い傷つくだけのろくでもない話だ。続きを聞いても胸が悪くなるだけと知りながら俺はティエ リアの言葉が続くのを待つ。 「愛していると言った。恋人と呼んだ」 「……大盤振る舞いだな」  ティエリアは、自分がその言葉を俺に言えたことがないと、気づいているんだろうか? 「奴は二人で逃げようといった。あなたたちがやってきたときはチャンスだと思ったらしい。ヒーロ ーのつもりでやってきた」 「その男はどうなったんだ」 「言うまでもない」  囚われの姫を解放した男は、姫自身に殺されたのだろう。男はその時点で用済みだったのだから。  ティエリアは唇の端を歪め、小さく笑った。底冷えのするような笑い方だった。そんな微笑は男を 籠絡するには不要だろう。牢の中ひとりで覚えたのか。 「あなたには私がどれほどあいつを憎んだかわからないだろう。ナイフを奪い、喉笛を貫いた後、奴 の持っていた銃の全弾撃ち尽くして、蜂の巣にした。マイスターともあろうものが、とんだ無駄弾を 使ったものだ。音の出るものだったから、牢から出ればどうせ使えなかったが」 「あの枷を付けたまま、人を刺し殺すのは苦労だったんじゃないか?」 「皆が皆、私を見ると犯しにきたから、最中に隙を付くだけで済んだ。よくわかった。私は生まれつ きの娼婦らしい」  ティエリアは決して白兵戦に強いタイプではない。むしろ地上に降りれば、自分の体を扱いかねて いる様子すら見せる。  その彼女が、屈強な兵士たちを次々に手にかけることができた理由は、引き裂けたドレスや、肌に 付けられた新しい口づけの痕で想像がついていた。  俺が思い出していることを、見通しているような眼でティエリアは言う。 「あなたは愚かだ。私の恐ろしさを知らない。いつ私があなたを何に利用するか知れない。私はあな たが大事に思うような人間ではない。私は、」  ティエリアを見つめながら、俺はつくづく思う。  この女は確かに恐ろしい。恐ろしいが――まったく、頭が悪い。 「娼婦だから」  平静な顔で無表情のままそう言うと、ティエリアの潤みきっていた瞳から一筋の涙がこぼれ、頬を 伝い落ちた。  俺は、それを親指で拭ってやって、苦笑する。 「馬鹿野郎。そりゃお前が優秀なマイスターだってだけだ」  ティエリアの無表情が崩れた。  俺の親指を見つめて、大きく目を見開き、息をのむ。そして、何かに堪えるように唇を噛んで、ぎ ゅっと目をつむった。  それから、堰を切ったように、次から次へと涙がとめどなく瞳から溢れて、ぽろぽろとこぼれ落ち 始めた。    ああ――本当に馬鹿なやつだ。  目的のためなら手段を選ばない、お前はつくづく恐ろしいマイスターだよ。しかし、本当に馬鹿だ。  馬鹿なマイスターは、だんだんくしゃくしゃになってきた顔で、頑固に言葉を続ける。 「だけ、ど……わ、私は、あなたをいつか酷い目にっ」  しゃくりあげながら言ってんじゃない。こんな子供の泣き方する娼婦があるか。目の周りと鼻が赤 くなってきていて、めちゃくちゃかわいいが、色香という言葉からはほど遠い。 「お前ね、何人がお前に惑わされたか知らないが」  ――分かっている。確かに、あのときのティエリアは恐ろしかった。嗜虐心をそそる美しさに潜む、 冷たく研ぎ澄まされた殺意が仄見えた。  あのとき感じた支配欲と恐怖心は忘れられない。  だが、それでも、男をたぶらかそうが、その挙句殺してしまおうが、結局ティエリアはティエリア だ。  俺にとっての一大事は、ティエリアが泣いたりしないか、傷つきやしないかどうかであって、ティ エリアが何をするかまで拘っていられない。  ただし、何をするのも自由だが、俺から離れようとするのは許さない。こいつは一人になったら、 自分で泣かないよう傷つかないよう自分を守れる奴じゃない。それができるのは俺だけだ。  ――涙を拭ってやっただけで、簡単に虚勢を崩しやがって、こいつは本当に馬鹿だ。 「お前を本当に愛しているのはいつだって俺だけだし、お前が惚れてるのだって俺だけじゃないか。 それで大概の問題は解決されるもんなんだ。乏しい人生経験で勝手に怖がってるなよ、馬鹿」 「だっ……て」 「だってもあさってもねえよ」 「ロックオンは、私で本当にいいのか……?」 「――勘弁してくれ。物わかりが悪いにもほどがある」  少しばかりうんざりして答える。ティエリアは、何かを言おうとしたらしく口を開き、言葉が見つ からなかったらしく口を閉じた。しばらく考える間の後、俺の胸にしがみついて、本格的に嗚咽し始 めた。  途切れ途切れに、涙声が訴える。 「こ……こわかった」 「だろうな」 「いやだった」 「そりゃそうだろう」 「なんで、すぐ来てくれなかった!?」 「ほんっとうに悪かった。弁解の余地はない」 「……私で、本当にいいのか……?」 「いい加減にしろ」  このやりとりは、果てしなく延々と続けられた。俺は仕方なく、シャツをしっかり彼女の肩にかけて やって、ティエリアが泣き疲れて眠るまで、ほとんど一晩中、頭を撫で続けてやりながら、会話の相手 をし続けたのだった。  もちろん、セックスの続きはお預けだ。  ――まったく、これは、なんとしてでも二人分の休暇をもぎ取ってやるしかないな……。  そのときには覚悟してろよ、ティエリア。