田舎は星空が美しい。 たまに遮るように薄雲がかかってもなお、星々の光が翳る事無く輝き続ける。 空気は夜が更けて行くほどに、浄化されるように、刻々と清涼になっていく。 「明日はいい天気になりそうだな…」 ティエリアが星空を見上げ、今日一日の充足感を漂わせながら、静かに語りかけてきた。 「ああ。しばらくいい天気が続きそうだ。明後日当たり、田植えかな…」 青々と繁った苗を見ながら答えた俺に、ティエリアが満足げに頷いた。 ティエリアが人家もまばらなこの土地にふらっと迷い込んできたのは、もう4年も前の事だ。 俺の家の玄関先で倒れこんで眠っていたティエリアを、仕方なく救助したのだった。 テレビで見た記憶のある、パイロットスーツのような着衣は所々切れ切れに破れ、 ティエリア自身は一人ではもう歩けないほど、疲労困憊していた。 医者に連れて行こうと車を用意した俺を、有無を言わさぬきつい語調で止めたあの朝が、 昨日の事のように思い起こされる。 げっそりとやつれたティエリアは、結局夕方になっても医者に行くことを頑なに拒否した。 死ぬような事は絶対にない、家庭で出来る範囲の治療で必ず治るからと強く言い張る ティエリアに、俺は従うほかなかった。 今思えば、人道的にはやはり医者に連れて行くべきだったのかもしれないが、俺は後悔はしていない。 げっそりやつれていたティエリアが健康を取り戻していくごとに、日毎その美貌が輝きを増していった。 隣で夜空を見上げるティエリアの横顔をじっと見つめる。 4年も一緒に暮らしてなお、射抜かれるようなその美貌に、眩暈がした。 あの時頼みを聞いてやっていなければ、今こうやって俺の隣にティエリアがいる事はなかった。 それだけは確かだったと思う。 あの時、完全に回復したティエリアは、過去の記憶をほとんど失っていた。 自分の名前と生きるのに必要な基礎知識の他は、まるで思い出せないかのようだった。 体よりもむしろこれにこそ、専門的な治療が必要だったのかもしれない。 しかしティエリアの状態は重大な記憶喪失と言うよりは、何かもっと… そう、過去を清算した結果のような、ゼロに戻ってもう一度一から人生をやり直すかのような、 前向きなものに感じたから、俺は結局医者には連れていかなかった。 もちろん、ティエリア自身もそう望んでいたから。 これを言うと言い訳の要素が大きくなってしまう。 ティエリアが俺のベッドでおかゆをすする、 その光景を見た瞬間に俺はもうティエリアを手放せなくなっていたんだ。 とにかく、俺の願い通り、そのままの穏やかさで4年が過ぎ去った。 ティエリアはその間、米農家の俺の仕事を本当によく手伝ってくれた。 いや、手伝いの範疇を越えて、ティエリアは仕事上でも私生活でも、かけがえのないパートナーになった。 ティエリアはよく働いた。 農業に従事していると、日々の変化に敏感になる。 当然、物質的な事ではない。 季節を肌で感じ、天候の移ろいも予見できるようになるものだ。 要するに、五感が研ぎ澄まされていく感じだ。 俺とティエリアはあらゆる四季の試練を共に乗り越えていった。 その度に互いの信頼が深まり、確かに絆が強まる気がしていた。 ただテレビのニュースでMSや高軌道エレベーターが映った時などに、 ティエリアが時折見せる苦悶にも似た表情だけが、気になってはいた。 何か知っているのか、思い出すのかと問うても、ティエリアは首を横に振るだけだったが。 あの大規模なテロとの戦いの後遺症で、軍属のMSにさえ嫌悪感を抱く人は多い。 ティエリアにもまた、思い出したくはない辛い過去があるのかも知れなかった。 俺はそこはかとない不安を感じながら、それでも毎日を懸命に生きた。 自然を相手にする職業に従事する俺だ。 都会で起こる悲惨な人間同士のいざこざは、 毎年季節を感じながら、同じ事を繰り返す作業の前ではむなしいものでしかない。 ここには都会にはない、昔から連綿と繰り返されてきた生命の営みが、確かにある。 それがティエリアを癒してくれればいい。 4年の間、俺はずっとそう思い続けてきた。 「あっ!流れ星だ!」 ティエリアが急に叫んで、はっと我に返った俺は、ティエリアの指した指の先を慌てて目で追った。 なるほど、確かに一筋の流星のようなものがゆっくりと夜空を流れていく。 しかし、あれは──。 「ティエリア。あれは流れ星じゃないよ。  流れ星ならあんなにゆっくり動くわけないし、何よりもっと白く見えるんじゃないかな…?」 ティエリアが不満げに瞳を細めて、更に飛行体を凝視した。 「でも、いいよ。…あれは流れ星だ。だから願い事をする」 ティエリアが光を追いながら、そっと手を胸の前で組み合わせた。 何かを呟くように、微かに唇が動く。 時間を掛けて祈り終えてもまだ、光の帯は視界から消えはしなかった。 「何をお願いしたの…?」 「…秘密だ。言えば効力がなくなる」 「ふふっ。乙女チックだね」 まだうら若いティエリアへのからかい半分、褒め言葉半分の悪戯じみた言葉だったが、 間に受けたティエリアが、ぱっと頬を赤く染めて抗議の視線を送ってきた。 自分の子供じみた行動に、恥ずかしさもあったのだろう。 「う、うるさい…!別にたいした事を願ったわけでは…」 「じゃあ教えてよ。それ聞いてから、俺もかぶらない願い事するからさ」 くっとティエリアが言葉を呑み、一瞬躊躇した後、俯いて恥ずかしそうに視線を伏せた。 月明かりで夜なお明るい田舎道では、そんな微細な表情さえ手に取るように見える。 「…田植えが成功しますように…。それに…」 ティエリアがますます顔を赤くして、ほとんど直角に頭を下に向けた。 「それに…、君と…十年後もこうしていれるように…と…」 殊勝な言葉を最後まで聞かずに、俺はティエリアの細い体を力一杯抱き締めていた。 こんな過疎地にふらっと迷い込んできたティエリアは、俺にとって本当に神様からのプレゼント以外の何者でもない。 「十年だけなのか…?もっと、だよな…?ティエリア…」 感情が先走って、声がかすれてしまう。 その事がティエリアをも切ない気持ちにさせてしまったらしい。 俺の背中に腕を回して、しっかりと抱き締め返してくれた。 「…ごめん…。とりあえず、十年君を今と同じ気持ちで想っていたいと…そういう事だ…。  十年後にまた同じように流れ星に…お願いするよ…、絶対…」 「流れ星が流れなかったらどうするんだよ…」 「ここは綺麗な土地だから…、流れ星はよく見てるから大丈夫だ…。  それに…万が一この先全く見る事がなくても、お祈りするものは一杯あるから…大丈夫…」 「お地蔵さんとか、道祖神とか、氏神様とか…?」 「うん…。私も、もうこの土地の人間だから…。そう思って…いいんだろう…?」 ティエリアが腕の中で心配そうに顔をあげた。 「当たり前だろ…。お前はずっとここで生きていく。俺の傍で…。  傍に…いてくれるよな…?ティエリア…?」 ティエリアが目を潤まして、こくんとゆっくり頷いた。 俺は本当に幸せだと思った。 そっと優しいキスを交わす。 5月のまだ冷えた夜気が、火照りはじめた体に心地よかった。 何度がキスをして微笑みあい、抱きあったままで再び顔を上げると、なんと光の帯はまだ空にあった。 緑色の光に、漠然とした嫌な予感がよぎった。 何か良くない事が起こる─。 そんな気がして堪らなくなった。 昔の人はハレー彗星を見て災厄の兆候だと恐れおののいたらしいが、その気持ちも何となく理解できる。 「あれは…衛星…なのかな…?それとも…やっぱり彗星…。まさか、こんな時間にMS…」 「…ガンダム…」 俺の疑問に答えるように、ティエリアがぼそっとあり得ない単語を口にした。 「ティエリア…!?」 驚いて問いただす。 「あ…、いや…、何か言った…のか…?わた…しは…」 ティエリアは自分の口から出た言葉の意味さえ理解していないかのように、困惑した表情だった。 ガンダム…? 4年前、世界を震撼させたテロリストが乗っていたMS。 あれのせいで、軍人だけではなく一般人にも何人もの犠牲が出た。 今では歴史の教科書に載るほど有名な機体ではあるが、何故ティエリアがそんな事を…? 4年間でガンダムどころかソレスタルビーイングのソの字も口にしなかったのに。 とてつもなく不安になって、脂汗まで出てきてしまう。 もう一度ティエリアの表情を窺う。 まさかの異様な光景に、俺は思わず息を呑んだ。 ティエリアの瞳が、機械的なほどの冷たさで光を凝視している。 それだけではない。 いつも見とれていたティエリアの紅い瞳は、今らんらんと、金色に輝いている。 未知の光景に俺は言葉を失った。 金色の目は月を反射したものなどでは決してない。 明らかに自発的に、光を放っていた。 その眼中に、緑の線がぼんやりと映っている。 まだ腕の中にいるティエリアが、明らかに変貌の途上にあるかのような恐怖に、悪寒が走った。 「ティエリア…!見るな…!見ちゃダメだ…!!」 あのまがまがしい光を、これ以上ティエリアに見せ続けてはいけない。 本能的な確信を持って、俺はティエリアの視界を遮った。 追跡を遮られたティエリアの目が、ようやくいつもの落ち着いた赤に戻った。 そのまま混乱した感情を収束させるように、数回慌しく瞬きを繰り返す。 「ティエリア…?」 「あ…、ああ…。君か…。問題ない…。今日はもう休もう…。明日も早いから…」 心ここにあらずなうつろな表情で、ティエリアが呟いた。 「ティエリア…」 ティエリアは俺の腕から逃れ、よろめくように家に入ってしまった。 しばらく不気味な緑の飛行体を怖れを持って眺めた後、俺も家へと戻った。 寝室に入ると、ティエリアはもうベッドに入っていた。 「ティエリア…。さっきの…」 しばらく待っても、答えはない。仕方ない…。 「おやすみ…」 俺もそっとベッドに入ったが、当然全く眠る事など出来なかった。 それはティエリアも同じだったようだ。 寝返りさえ打たずに息を殺しているのが分かる。 一夜どころか一瞬にして、ティエリアが知らない人間になってしまったかのようだった。 眠れないままに時間が過ぎ、やがて外が白んできた。 ティエリアがそっと起き上がり、ベッドから静かに抜け出した。 俺の頭に浮かんだ予感は、おそらく正しいのだろう。 ティエリアは行ってしまうのだ。 こんなに突然に─。 そして俺には止める事は出来ない。絶対に。 ティエリアは記憶を取り戻したのだ。昨夜の光に喚起されて。 世情に疎い俺でも、さすがにそれ位は分かる。 「ガンダム…」 ティエリアが無意識に呟いたあの言葉を思い出す。 ガンダム…。 テロ集団、ソレスタルビーイングが有した、強力な破壊兵器。 4年前、瀕死のティエリアが身に付けていたのは…パイロットスーツ…。 悲しい推測の結論の逃げ道は他には何もなかった。 ティエリアは、CBの一員だったのだ。 それも、あの恐ろしいガンダムを駆っていた、パイロットの一人。 そして、大勢の人間を殺した。 なんらかの理由で記憶を失ったティエリアは、あの緑の光を見ることによって、記憶を取り戻した。 あの光は、GN粒子とやらなのか。 CBは崩壊したはずなのに、ティエリアを呼び戻そうというのか…。 偶然なのか、必然なのかそれさえ分からなかったが、 ティエリアが行ってしまう事だけははっきりと分かった。 涙が込み上げてくる。 4年の日々が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。 もっとたくさん話せばよかった。 愛せばよかった。 後悔で胸が張り裂けそうになる。 そんな時でも、ふっと市民の義務が頭をよぎった。 ─テロ組織CBに関する情報があれば、その大小を問わず当局への報告を義務とする。 いやというほど聞かされた、連邦軍からのお達しだ。 ティエリアが部屋を出て行こうと、ドアノブに手を掛けた。 「ティエリア…」 思わず声を掛けると、ティエリアが動きを止めて立ち止まった。 しかし、決して振り向こうとはしないティエリアの背中には、 今まで一度も感じなかった威圧感のようなものさえ漂っている。 やっぱり、テロリストだったんだ…。 それでも、俺は…。 「ティエリア…。名前は、本当なのか…?」 「…ああ」 答えはないと思ったのに、思いがけず返事が返ってきた。 それでもその声音には冷たいものが混じっている。 こんな別れは寂しすぎる。 さっきまで俺の腕の中で将来を誓い合っていたのに…。 「そう…か…。ティエリア…。帰って…くるよな…。田植え…明日だぞ…」 無理な願いだと感じつつ、俺は懇願するしかなかった。 「…無理だ」 「じゃあ、収穫…秋の稲刈りまでには…大丈夫だよな…?」 必死で語りかける。 空気が揺らめき、ティエリアの心が揺らいでいるのがはっきり分かった。 まだ、いつものティエリアでいてくれている…!? 「お前がいないと…俺一人では無理だよ…!?  全国の人達の食卓に安全でおいしい米を届けたいって言ってたじゃないか…!な…?ティエリア…!」 「…無理…だ」 ティエリアが声を震わしながらも、遂にドアを開けた。 引き止めることは出来ない。 俺たちとは、覚悟が違うんだ。 分かっていながら、俺はベッドの中から飛び出す事さえ出来ずに、それでも愚かな言葉を吐き続けた。 「…でも、待ってるから…!お前の帰る家はここしかないんだ…。  だから…。十年。そうだ…。十年。十年以内に、お前が帰ってくるように、お祈りするから…。  流れ星に…」 「君が見るのは星ではなく、ガンダムだ」 ティエリアは機密事項を口にしたのだと思う。 それがどれだけ重大な事なのか、俺には測り知れなかったが、 俺はそれでも初めて聞くティエリアの告白に黙って耳を傾けた。 「紛争根絶のために組織されたテロ組織、ソレスタルビーイングのガンダムマイスター…、  ガンダムヴァーチェのパイロット、ティエリア・アーデ。  …それが私だ」  決して振り向かず、あえて淡々と言葉をつなげるティエリア。 「私は組織に戻る。再び世界はCBによる変革を望んでいる。  私はガンダムマイスターとして、再びガンダムに乗らなければならない」 「それでも…!待ってるよ。お前が犯罪者なら…かくまってた俺だって…同罪だから…。  罪は一緒に背負うから…」 自分の言っている事が社会にとってどれだけ不利益なものなのか、ちゃんと分かっていた。 それでも、罪の意識よりもティエリアを失いたくないという、心の痛みの方が勝っている。 きっと俺は最悪な人間なのだろう。 人々の命の糧を作る者でありながら、分かっていてあえてテロリストを野に放とうとしている。 連邦の発足した今、CBが社会にどんな変革をもたらすのかなんて分かりっこない。 それでも、行くと決めたティエリアを引き止める事も、当局に突き出すことも出来ない無力な俺なら…せめて…。 「空を飛ぶ光があれば…、お前だと思うよ。いつも願ってるから…。お前の無事を…。  だから…。帰って来い…!絶対に…!」 答える事なく、ティエリアは行ってしまった。 それでも、最後に一筋涙を流してくれた事を、俺は知っていた。 それだけが救いで、未来への望みだった。 今年の米だけは、どうしてもおいしく作らなくてはいけない。 昇っていく太陽に目を細めながら、そう思った。                              <終わり>