体温計の効果音が鳴り響く。左耳にその音が突くように残った。
「38度9分か…。」
ベッドの横の椅子に座っている彼女は、それに表示された数字を読み、大きくため息をついた。
「この温度は完全に風邪だね、ソウル君?」
「あーもう分かってるから…わざとらしく言うな…」
彼女の言葉通り、俺は風邪を引いてしまったようだ。
…原因?湯冷め。たぶん。
「昨日あんなに…」
「…うるさい…頭痛いんだよ…」
頭痛が酷く、小さな音ですら頭の中でエコーする。話し声なんて聴きたくもない。寝るに寝れない痛さだった。
「ふぅん…。まあ今日は休みにしたから寝れ」
彼女はそう言うと、椅子から立ち上がろうとした。すると、何か言い忘れたかのように座り直した。
「……」
「最近、なんか"いんふるえんざ"?が流行ってるみたいだよ」
「…そう」彼女は椅子の下から何か箱を取り出し、「感染するらしいから予防しないと」って言って、それを膝の上に置いた。まるで、じゃーんと効果音が付けられそうだ。
その箱には『徳用』の白抜きの文字と『マスク90枚入り』の字が書かれていた。
信用されてないというか、嫌味というか…。
「…もう遅いんじゃね…」
見たくなくて、ごろんと寝返りをうった。頭ががーんと響く感じがするくらい痛かった。
「大丈夫だよ。ソウルは風邪だし、いんふるってのもどうせ風邪の一種でしょ?伝染っても寝れば治るよ」
彼女は笑って言った。 …マカ、それはお前が基礎体力有り有りだからだ。
「ソウルの風邪も寝れば治るよ♪」
とびきりの笑顔で、というおまけ付きの無理難題。バカ体力なお前と俺を一緒にするなっ。
なんて言えないから、「じゃあ…寝るからあっち行ってて…」
毛布を被って、逃げてみた。
「うん。何かあったら呼んで」
おもむろに腰を上げ、彼女は部屋から出ていった。パタンと扉が閉まると、部屋にはしんとした空気が流れた。暫くして、頭の痛みがほんの少し和らいだ頃に、俺は眠りに就いた。
ふと目が覚めたとき、時計は長針を三周もさせていた。外は雲ひとつ無い快晴。昨日まで雨が降っていたのもあって、今日に限って…。とちょっと気に障った。
「ソウル、起きてる?」部屋のドアが開いた。彼女は少し早めの昼食と、さっきのマスクのよりは小さい、ひとつの箱を持って入って来た。
「…いまおきたとこ」
まだ頭は揺れるような痛さを持っている。声を出すだけでもくらくらした。
「ねえソウル君」
「なんだよ…」
こっち向いて、と彼女は俺の肩を叩いた。しょうがなくそっちに顔を向けると、いきなり額がつんと冷たくなった。
「っ!?え…?」
「ん?熱冷ましのシートだよ」彼女は箱の蓋を閉めながら言った。
最初は頭痛が酷くなった感じがしたが、熱の在るせいかすぐに収まった。
「どう?ご飯食べられそう?」
「…まあ」
「じゃ食べさせてあげるからちょっと待って」
…ん?今とんでもないような言葉が聞こえたような。
「今…なんて言った…?」
「だから、食べさせてあげるからちょっと待って、って」
いつものマカからは出そうにもない発言だ。どうしたんだ、と問いたいくらい驚いた。
「はあ…なんでまた…」
「出来る限り無理はさせない方がいいかなって。ソウルすごくだるそうだし」
御椀に入っているお粥をかき混ぜて、それをスプーンで掬った。その後、彼女は息を吹き掛け、お粥を冷まそうとした。その姿は慣れない手つきで、ぎこちない感じだ。
正直な感想、こいつにも可愛いところあるんだな…と思った。
「ほい」そのスプーンが口の前に運ばれた。俺はスプーンを口にくわえた。まだ我慢できる程の熱さが残っている。飲み込むと、その熱さが食道をつたって降りていくのが分かった。
「…美味い」
「ほんと?良かった」
彼女の表情はほっとしていた。そして、もう一杯お粥を掬って息を吹き掛けた。
「早く元気になれー」…おまじないだろうか?子どものような笑顔で唱えていた。また口の前にきたお粥を食べた。
そんなことを繰り返し、たった一杯の御椀の量を、一時間もかけて食べた。
「これ片付けてくるね」そう言って、彼女は再び部屋から出た。
満腹感と部屋の暖かさで、急な眠気に襲われたと思ったそのときには既に、瞼が閉じきっていた。
次に起きたのは夕方だった。
窓の外の光はもう朱色に変わり、向こう側の空は群青に染まっている。頭の痛みは無くなり、体のだるさも取れていた。
「あー、1日寝っぱなしだったな…」
大きく背伸びをすると、扉の隙間から今度は一匹の猫が入って来た。
「ブレア…」
「あ、ソウル君起きたんだ。おはよ♪」なんてね、と言いながら猫は俺の脚の上に乗ってきた。
「マカ、さっきまでここに居たんだけどね」
「え?」
ブレアの話によると、彼女は俺が寝た後にずっと隣についていて、ついでに部屋の掃除をしてくれたらしい。そういえば、なんか少しだけ物の配置が変わっている気がする。
「…そうか」
「ソウル君もう元気になった?」
「うん」
彼女に元気になったことを伝えるために、俺は寝床から降りることにした。
enど。