窓をかたかたと揺らす風の音を聞きながら、僕達は遅い夕食をとっていた。
 たまたま2人とも仕事が長引き、リビングでずっと書類と格闘していた。ようやく一区切りがついたときにはすでに深夜で、一足先にシャワーを浴びて夕食の準備をしたのは僕だ。
 少し迷って、今晩のメインは暖かい野菜のスープになった。ここ数日冷え込みが激しかったし、もう食事をしたら寝るだけだからとできるだけ消化のいい物にしようと思ったのだ。
 普段は会話が多い夕食時だが、今日はさすがにお互い口数が少ない。文字の読みすぎで目が痛かったし、肩もシャワーを浴びたのにまだだるい。早くも眠気を感じながら、ほとんど機械的にスプーンを口に運んだ。
 正面に座るスーさんをちらりと見やる。彼の顔にもやはり疲労の色が浮かんでいるのが見て取れた。普段無意識に撒き散らしている威圧的なオーラも、心なしか弱めだった。
 そんなわけでしばらく食器がふれあう音だけが部屋に響いていたのだが、
「指、」
「…はい?」
「なした」
スーさんの目線の先には、スプーンを握った僕の指がある。見ると中指の第一関節のあたりが切れて、たらたらと出血していた。
 傷には今初めて気が付いたが、原因には心当たりがある。
「ああ、これはですね」
僕はさっき料理中に起きたことを簡単に説明した。
 野菜を切っていたら手元が狂って包丁を取り落としたこと。
 幸い足の上には落ちなかったので安心していたこと。
「包丁を落とした時か拾ったときに、切っちゃったんだと思います」
でも大丈夫ですよ、これくらい。
 そう続けたのだが返事はない。指を見つめる視線も逸らされる事はなく、むしろ眉間の皺はさらに深くなる。ちょっと怖い。
「……」
「……」
「……」
 すみません。ちょっとじゃないです。
 すごく怖いです。
「……あの」
唐突にスーさんが立ち上がった。思わずびくりと体が震える。
 壁際の棚にある引き出しを漁ったと思ったら、すぐに救急箱を片手に戻ってきた。
「あ…」
「手当すんべ」
有無を言わさない雰囲気で僕の前の皿をどけて、箱の中身を広げ出す。
ガーゼと消毒液と絆創膏。箱の横に一列に並べる。
 やけに手際がいいな、と思って、すぐにその理由に思い当たった。
 救急箱を頻繁に使う生活。少し前まで、彼はそういうところにいたのだ。
 やや伏せられた僕の顔に気付くことなく、スーさんが今もわずかずつ出血している僕の手を取る。傷口に消毒液が染み込んだガーゼを近づけようとしたところで、ふとその手が止まった。
「どうしたんですか?」
「血、止まんねえなぃ」
言いながら、自然な、本当にごく自然な動きで、僕の指をくわえた。
 僕が何か言うよりも早くちゅう、と傷口を吸う音が聞こえて、一瞬めまいのようなものを覚える。

 そして、なんだか自分でもよくわからないうちに、いらっと来た。
 なんでこんなことが平気で出来るのだ!

 そう、その時僕はとても疲れていた。それはもう本当に疲れていた。
 だから何も考えずにあんな事をしてしまったのだと思う。
 指を吸って離れようとしたスーさんの口を引き止めるように、僕は指を彼の口に押し込んでいた。
 くちゅ、と今度は明らかに僕が立てた音が耳に届く。
 口を半開きにさせてで僕から離れようとしていたスーさんの動きが、止まった。眉を顰め、不思議そうに僕を見上げる。
「スーさんは、」
くちゅ、くちゅ。
 舌の感触をなぞるように指を動かしながら、僕は言う。
「誰にでもこんなことするんですか」
ああ、僕は今どんな顔をしているんだろう。
 口の中を動き回る指を手で引き離そうとしないのが、本当にスーさんらしい。
 されるがまま、ただ僕を見上げていた。
 彼は優しい。優しすぎて、泣きそうになる。

 でもその時、曲げた指が濡れた上顎をぞろりとなぜてスーさんの肩がびくりと震え、僕は突然我に帰った。
 あわてて手を引く。弾みで垂れた唾液が、スーさんの顎を伝った。
 その様子にどきりとする。
「あ、あああああのっ」
「……」
「いえ、あの、その、」
僕を見上げる顔は、表情を変えることはない。
 しかし本人は気付いていないのだろうがその唇は唾液でてらてらと塗れてしまっていて、それが余計に僕に罪悪感を与えてしまい、
「すすすすみません!ごめんなさい!」
本当に最悪なことに、僕はそのまま逃げるように寝室へと駆け込んだ。
 そしてそのまま隠れるようにベッドへ潜りこむ。
 僕は何をしているんだろう。
 本当に何をしているんだろう。
 毛布を頭までかぶって、ぎゅうと目を閉じた。
 
 この家では寝室も共有だから、じきにスーさんもこの部屋にやってくる。それまでに眠ってしまいたかった。けれど、こんな混乱した頭では到底寝付くことなど出来はしない。
 ドア越しに聞こえてくるのは、おそらく救急箱を片付ける音。引き出しを閉める音がして、さらに足音。
 身構えたが、しかし寝室のドアは開かなかった。
「フィン」
ドアのすぐ向こうから声がかけられる。
「入ってもえが」
 こんな風に確認されたのは初めてだ。きっとスーさんも、僕が突然取った意味不明な行動にどうしていいかわからないのだろう。
 僕は返事をしない。
 ああ、なんてずるい。ただひたすら布団を被って、ドア越しの彼に見えるわけでもないのに身動きひとつしなかった。
「……入っぞ」
少しして、そう声がして、控えめにドアが開いた。
 足音が近づいてきて僕のベッドが大きく軋む。僕の横に腰を下ろしたようだった。
「ごめんなぃ」
 動けない僕の上から静かな声が降ってくる。
「ああいうの、嫌だったら、もうしねっがら」
 こう言うとただの駄々っ子にしか聞こえないけれど、今僕がかけてほしいのは、そういう言葉ではなかった。

 スーさんは優しすぎる。彼は僕を決して束縛しない。
 それはきっと、デンマークさんといた頃の記憶があるからなのだと思う。もうトラウマと言ってもいいかもしれない。僕と暮らすにあたって、自分が彼と同じになってしまわないようにと細心の注意を払っているのが日々伝わってくる。
 でもその優しさは時に、僕をもどかしさで包むのだ。こんなに近くで暮らしているのに、時々感じてしまう遠慮や過ぎた気遣いみたいに、どうしても寂しくなる。
 どうやったら、そういうものが不要であるのかと伝えられるのか。
 それにはまず、言わなければいけない。
 僕の思っていることを、ちゃんと言わなければいけない。

 スーさんはベッドに座ったまま、静かに僕の返事を待っている。
 ゆっくりと体を起こし、隣に座りなおした。顔を上げて彼を正面から見つめる。
「そうじゃないんです」
意味を、スーさんは図りかねたようだった。今の眉間の皺は不機嫌ではなく、不可解の顔。僕はもうわかる。
「嫌だったんじゃないんです。僕は、」
言い直しかけて、顔が熱くなり、つい目をそらしてしまった。
「じゃあ、なして」
 珍しく困惑したような声が耳に届く。それでももう一度顔を見る勇気は持てず、僕は結局正面を向いたままで口を開いた。
「前にスーさんは、僕のこと、女房だって言いましたよね」
スーさんと僕が家出をした直後のことだ。エストニアに向かって、あまりに唐突に彼はそう僕を紹介した。
「あれ、あの時は本当にひっくり返るかと思いましたけど、今では、その言葉が僕の支えになっているんです」
「……」
言葉がとても分かりづらい物だったのは自覚していた。でも、それが今の僕の精一杯で、言うだけ言って恐る恐るスーさんを見上げるしかない。
 目がしっかりと合う。
 スーさんからは、まるで驚いたような困惑したような、そんな表情が見て取れた。
「フィン、それって」
「そういう意味です」
今までにないほど頭に血が上る。なぜか目には涙まであふれてきた。理由が自分でもわからない。
「そういう、意味です……!」
もう目にいっぱいになって零れ落ちそうになる涙を必死でこらえていると、スーさんの太い指が目元へ伸ばされた。
「泣ぐな」
目を優しくぬぐい、そのまま腕が背中に回されて僕を抱きしめる。
 家出をした日の夜みたいな、互いに暖を取るための布団みたいな抱き方ではなく、切ないくらいにつよいハグ。
「え」
「しばらく、こうしててもええが」
その声はいつもよりさらに低い囁きで、耳の裏を小さくくすぐる。
 僕は彼が体で感じられるように大きく頷いて、自分からも強く強く抱きしめた。








(芬典はフィンが暴走しないと進展しないということに気付きました)
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