「おはようございます」
「………おはようございます…」

 次の日。朝から3ラウンド立て続けに仕掛けたせいで虎徹はベッドの住人になってしまった。重だるい腰に「起き上がれない」とぼやく彼の為にイワンは買出しに出てきている。祝ってもらう人間が何をやっているんだ、と突っ込まれるかもしれないが、本人は至って気にしていない。むしろ、彼の為に何かを出来ることに歓喜すらしているのだ。
 せっかく成人の仲間入りを果たしたことだし、虎徹と日本酒を飲むのもいいな、と頭の中で一人ほくそ笑む。

 そんなイワンは御用達である日本食専用の食料店で、二人分の食材の買出しを済ませた。買い忘れはないかと何度も指折りしながら、歩いていると声がかけられる。聞き覚えのある声に顔を上げると一部の隙もなく整えられたヘアーと、馴染みのある赤いライダージャケットを着た青年が立っていた。
 いつも通りの笑みを浮かべているのだが……どこか薄ら寒い感じがする。

「…珍しいですね、こんな時間にブロンズステージにいらっしゃるなんて…」

 ヒーローとしては自分の方が先輩ではあるが、年齢が相手の方が上なのでいつまでも敬語である。特に誰からも突っ込まれることもないし、イワン自身の雰囲気からしても可笑しい事はないので直さずにいた。
 けれど、当人は何かしら思う所があるらしく、たまに複雑な表情を見せる。……今もそうだ。

「…少し、用事がありまして」
「そうでしたか」
「…折紙先輩?」
「はい、なんでしょう?」
「虎徹さん…そちらに伺っていますか?」

 空気がぴりっと凍りつく。静かな怒りと焦りが滲み出た声にイワンも瞳を細めた。

「はい。僕のベッドで眠っていらっしゃいます」

 きっと、少し前ならばこんな風には応えていなかっただろう。イワンは確信する。
 なんと言っても、相手はKOHにもなった人気のヒーローだ。自分なんかよりもずっとヒーローらしいヒーローで、活躍も幅広く、信頼も厚い。何せ……

 ワイルドタイガーとずっとコンビを組んでいるのだから。

 自分なんて足元にも及ばない。そんな事は分かっている。
 でも。
 それでも。
 『鏑木・T・虎徹』という人については色々と融通が効かないのだ。自分よりも格上の人物と分かっていても抑制など、出来るはずもない。
 にこり、と微笑んで返した答えにバーナビーの瞳が鋭くなった。それでも、もう引いたりはしない。
 自分は彼の人の『恋人』なのだから。

「…何故…貴方のベッドに?」
「昨夜も、お泊りにして下さったんです」
「…泊まり…」
「ゲストルームもあるんですけど、一緒に寝るとおっしゃったんで同じベッドで眠りましたよ」
「………へぇ…」

 ガンガンに冷えていく空気にもイワンは淡い笑みで対応し続けた。
 そんな態度が余計にバーナビーをいらつかせている。話の内容だけならば単なる親しい友人同士のお泊まり会だ。けれど、『あの』虎徹が一晩泊まり込んで何もしないはずはない。と確信を持っている。今までがずっとそうだったのだ。異例などあるはずがない。

「それは、ご迷惑をおかけしました。引き取りにいきますよ」
「どうしてですか?」
「どうして?僕が彼のバディであるからに他ならないじゃないですか」

 息を止められるほど鋭い視線に耐え、イワンは小さく首を傾げた。

「『虎徹殿』は有休の消化をすると言ってました」
「ッ!」
「ならばオフである以上、『仕事上のバディ』である貴方が世話を焼く必要はないでしょう?」
「・・・」

 軽くアクセントを付けた言葉に、バーナビーは顕著に反応を示した。思い通りだった相手の様子にイワンは少しだけ満足する。

 今まで二人きり以外の時はどんな時でもイワンは虎徹の事を『タイガーさん』と呼び続けていた。ヒーロー内でも虎徹の事を名前で呼ぶのは、一番付き合いの長いアントニオくらいだったのだ。
 それなのにイワンが虎徹の事を自然と本名で呼んだ。これが何を意味するのか……きっとバーナビーは正確に読み取ったはず。
 その証拠に、表情が、瞳が、先ほどまでにないほど険しくなっている。

「…そう…ですね。余計な事でした」

 内心の動揺を悟られたくなくて気丈に振る舞ってみせるも、震える声までは誤魔化せなかった。苛立ち、焦り、怒り……様々な感情を押し込めてバーナビーは笑みを浮かべてみせる。

「それじゃあ、待たせてしまっているので失礼します」
「えぇ、呼びとめてすいませんでした」
「いいえ」

 袋を握り締めた手に汗を滲ませイワンも……擬態能力を使っている時のように、相手を欺くよう、朗らかに笑みを浮かべ返してみせる。小さく会釈で挨拶を残してイワンは歩み出した。

「あぁ、バーナビーさん」
「…はい?」

 律儀に振り返るバーナビーの手がポケットの中で携帯を握っている事を見越し、イワンはゆったりとした口調で続けた。

「今日は虎徹殿への連絡はご遠慮願えますか?」
「………何故、そんな事を言われないといけないんですか?」
「昨夜は『初めて』だったんで散々付き合わせてしまって…疲れていると思うんです」
「…は?」
「ですから、ゆっくり休んで頂く為にも…ご協力お願いしますね」

 一方的に言い終えるとイワンは颯爽と歩きだした。
 その背中を唖然と見つめたまま、立ち尽くすバーナビーは残された言葉を反芻し始める。

「………まさか…」

 虎徹の性癖は熟知している。たとえ、こちらに『その気』はなくとも煽るのが上手い男だ。体の上に乗り上げられて傾れ込む事はしばしばあった。そんな彼と何度か共に夜を過ごしていたはずなのに…今、イワンは『初めて』と言い残していった。
 自分の時とは何かが違う…漠然にそう感じながらバーナビーにはそれ以上の答えに辿り着ける事はなかった。

 * * * * *

 玄関の扉を背にイワンはその場で蹲った。膝の間に顔を埋めて深いため息を吐き出す。

「(……言ってしまった…)」

 虎徹と『ナニ』をしたなどという事実を知らせるつもりはなかったのだが、せっかくの誕生日に自分の事以外に虎徹の時間を取られるのが嫌で釘を刺してしまった。それと共に挑戦状を叩きつけたことにもなっただろう。
 しかし止めることは出来なかった。否……止めなかった。
 今さら後悔しても遅いのだが、気が重い事には変わりない。
 けれど、『男』として『虎徹に想いを寄せる一人の人間』として負けたくないと思うし、立ち向かっていこうと思う。これが最初の切欠……そう思えば闘争心が湧いて出てくる。

「…イワン〜…?」
「!」

 部屋の奥から聞こえる虎徹の声にぱっと顔を上げた。廊下に並ぶ扉の内、寝室のドアが開いている。その隙間から聞こえてきたようで、こちらの様子は見えていないはずだ。小さく安堵の息を吐き出すと足に力を込めて立ち上がった。

「あぁ、やっぱ帰ってきてたんだ」
「はい、ただいま帰りました」
「ん、お帰り」

 部屋へと入れば布団から上体を出した虎徹が満面の笑みで答えてくれる。のろり、と動きの鈍い腕がこちらに差し出されるのでそばに屈みこめば首に回された。引き寄せられるがままに近づければ…ちゅっ…と愛らしい音を立てて口付けられた。その優しいキスが嬉しくてイワンからも仕掛ければくすぐったい笑い声が零れる。

「…あのさ?」
「はい?」
「何かあった?」
「え?」
「男前が上がってる」

 虎徹が楽なように、と半ば覆いかぶさるような体勢のままに首を傾げる。すると、羽が頬を擽るように…するり…と指先が撫でていった。

「そう…ですか?」
「おう。あれか?喧嘩でもしてきたか?」
「け、喧嘩だなんて…」

 しませんよ、と続ける前に……くるくるくる……と小さな音が割って入ってきた。お互いに顔を見合わせていると今度は……きゅるるる……と切なそうな音が聞こえてくる。数回瞬いて相手の腹を見下ろした。すると、まるで返事をするかのように2つの音が綺麗に重なる。

「すぐに朝ご飯を作りますね」
「ん、よろしく!」

 くすり…と小さく笑い合うとイワンは額に口付けを残して部屋から出て行ってしまう。その後姿に手を振って見送ると、そっと携帯を取り出した。モニタに触れて新着情報が何も入っていないことを確認すると苦笑をもらす。

「…『兎』とぶつかったかな?」

 * * * * *

「っはよ〜ございまぁす!」

 有給休暇は2日とってあった。
 一日目はもちろんイワンの誕生日の為。本人の宣言通り、一日中抱きこまれては互いに高ぶった熱を開放させたり、戯れてみたりと自堕落に過ごした。もう一日は、きっとまともに動けないだろう事を見越して体力回復の為の1日だ。もちろん出動要請があれば気力で乗り切るつもりでいたが……イワンの日ごろの行いがいいのか、一度たりともなかった。
 そんな休暇を過ごして出社した虎徹はちらりと事務所を見回す。経理を担当してくれている女史はどうやら会議に出ているらしく、デスクの上に小さなメモ書きが残されている。ふむ、と一つ頷くと視線を横にずらした。
 いつも通り先に出社している相棒の背中を見る。相変わらずピンと伸ばされた背筋と綺麗に整えられた髪が微動だにせずにもくもくとキーボードを打ち付けていた。

「・・・」

 ハンチングを脱いで口元を隠す。その背中に拗ねたような雰囲気を感じて思わずにやけそうになるのを見られないためにだ。

「……おはようございます」
「ん、はよう。」

 自分の椅子を引くとようやく挨拶を返してきた。けれど、顔はそっぽ向いたままだ。

「ッ!?」
「…う〜ん…」
「…何してるんですか…」

 音も無くバーナビーの背後に忍び寄った虎徹がその細い顎を掴んで真上を向かせた。その顔を覗き込んで唸る虎徹に眉間へと深い皺を刻み込む。

「うん…表情はいつも通りだよな」
「何の話ですか」
「ん?拗ねてるなぁって思ってな」

 にぱっと明るい笑みで言ってのければ眉間の皺は一層深くなってしまった。その素直な反応に小さく笑い声が漏れる。

「どうして僕が拗ねなくてはならないんですか」
「え〜…だってお前のお誘い蹴った上に二日間連絡しなかったし?」
「貴方から連絡がないなんて今回に限ったことじゃないでしょう?」
「ん、まぁな。けどさ。お前からメールの一つもなかったからへそ曲げさせたかなって思うわけで」
「……別に…僕は『仕事上のバディ』でしかありませんから。オフにまで首を突っ込むのは行き過ぎているでしょう?」
「…あ〜…なるほどね」

 顎を固定していたままだった手を邪険に払われると、眼鏡のブリッジを押し上げた。そんなバーナビーの態度と言葉に虎徹は自分の知らないところで繰り広げられた駆け引きを読み取る。
 どうやら『彼の人』は今までとは随分変わったようだ。温厚な雰囲気に似合わず辛辣な発言をバーナビーに向けて放ったらしい。
 確かに彼の言い分は正しい。仕事でコンビを組んでいるからと言っても、オフの時まで踏み込むのはおかしいだろう。

「………嬉しそうですね?」
「ん〜…まぁ、独占したいほどに愛されてるって思うと、ねぇ?」
「僕に聞かないでください」

 完全に機嫌を損ねたようだ。僅かにこちらへ向いていたのに、背を向けられちっとも顔が見れなくなってしまった。そんな彼にまた小さく笑いを溢して自分の椅子へと腰掛ける。

「…誰かのものにはならない…って言ってたじゃないですか」
「うん。なってねぇよ?」
「でも『彼氏』が出来たのでしょう?」
「おう。めちゃくちゃ可愛いぞ」
「惚気たいなら別のところでしてください」
「悪ぃ悪ぃ」

 茨の如く、刺々しい声音に苦笑を漏らした。惚気たつもりはなかったのだが、客観的に今の発言を考えるとそう取られても仕方ないだろう。

「誰かのものにゃならないよ。だって俺はもう人のもんだし」
「……今の彼氏ですか…?」
「いんや、嫁さん」
「!」
「後にも先にも俺は『あいつ』だけの旦那さんだからな」
「…そう…ですか…」

 ぎしっ…と椅子の背凭れを軋ませ左手を翳す虎徹の瞳はどこか遠くへと向けられている。その視線を遮ることも出来ずバーナビーは僅かに向けた顔をキーボードへと戻した。

「でもなぁ…」

 相変わらずそっぽ向いたままのバーナビーを、机に立て肘をしながら眺める。すると視線に気付いたのだろう、ほんの少しだけこちらへと顔を向けてきた。

「最近ちょいと考え方が変わってきてさ」
「…え…?」
「いくら娘がいるっつても…余生を一人きりで過ごすっつのも淋しいわけで……」
「……で?」
「『旦那さん』作ろうかなぁ…ってね?」

 にっこりと浮かべた笑みで宣言してみれば、緑色の瞳がみるみる大きくなっていく。よほど興奮しているのか、終いには勢い良く立ち上がった。

「!!」
「今の彼氏が『旦那候補1』だよなぁ…」

 ちろり…と意味ありげに向けられる琥珀の瞳に固唾を飲み込む。普段のおちゃらけた雰囲気とは正反対な妖しい雰囲気に瞳が釘付けになった。

「バニーちゃんも『欲しいもの』があったら精一杯手伸ばしてぶつかってみな」
「…そうしたら…手に入りますか?」
「ん〜…さぁな?入るかもしんないし、入らないかも…
 でも、何もせず変化を待ってるよりは有効なんじゃね?」
「有効…ね…」
「おう。人生長いんだし。何が起こるかなんて分からねぇだろ?」
「……そうですね。」

 俄然やる気に満ちた表情に輝きを増した瞳をするバーナビーは一つ頷くと椅子に座り直した。そんな素直な様子に虎徹は笑いを噛み殺す。

「(いい歳こいたおっさんが恋愛沙汰でって思うけど…)」

 軽快なメロディに携帯を取り出すとメールが受信されていた。開いてみると律儀な挨拶から始まる『彼氏』からのメールだ。こちらの体調の心配や浮かれすぎて階段から転げ落ちた事などが書かれていて思わず頬を緩めてしまう。

「(いくつんなっても心動かされるもんだからしょーがねぇよな)」


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