「えと……時間的にランチだと思うんですが」
「あぁ、そうだな」
「じゃあ、行きましょうか」
「え?」
「え??」

 イワンの提案に素直に頷いていたいた徹子がこて、と首を傾げた。そんな反応におかしなことでも言ってしまっただろうか?とイワンも首を傾げる。

「あ、あぁ、そっか……どっかお店の予約とかしてくれたのか」
「え?いえ、予約はしてないですよ?たい……あ、いえ、徹子さんと話しながらお店を決めようとしてたので」
「そっか!良かったぁ……さすがにこれをずっと持ち歩くのは色々マズイと思って焦ったわぁ」

 そう言ってベンチの下から引きずり出したのは少し大きめのトートバックだった。かぶってしまっただろうホコリをぱたぱたと叩いてどこかに移動するのだろう、立ち上がる徹子に合わせてイワンはさり気にカバンを引き受ける。

「僕が持ちます」
「え?ホントに?悪いな」
「いえいえ……それにしても……結構重いですね」

 女性事情からこんなに大きなカバンになったんだろうか、と勝手に推測していたのだが苦笑を浮かべる徹子の顔からどうやら違うらしい事を察する。その証拠にベンチに置いてあったショルダーバックを肩にかけていた。

「いやぁ……本当はもうちょっと小さくなる予定だったんだけどなぁ」
「はぁ……」

 イマイチ真相を掴めないまま歩く徹子についていくと開けた芝生とちょうどいい感じに影を作っている木の下に来た。すぐ横に下ろすように言われたのでトートバックを下ろすとその場に屈みこんでカバンを開き始める。

「っ!!」

 何をする気なのかさっぱりわからないままに徹子の行動を眺めていると、ふとあることに気づき慌てて顔を反らした。ついでに流れ出るかもしれない鼻血を押さえるべく鼻の辺りを手で伏せる。

「えーと……確かこの辺に突っ込んで……」

 不可解な行動をしているイワンに気づく様子もない徹子はガサガサとカバンの中を漁っていた。そんな彼女を見下ろして再びぱっと視線を外す。

「(無防備過ぎますよっ!徹子殿!!!)」

 この所男装続きだった上に、今日のような服装は何十年としていない彼女は気づいていない。男共を骨抜きに出来るくらい誘惑できるだろう魅惑の谷間が晒されていることに。
 わざとではないにしろ、見てしまった罪悪感は果てしなく襲いかかってくる。けれど、本能に揺らいでいるのだろう、ちらりと盗み見しては慌てたように視線を無理やり逸らしているイワンは心の隅で「ごっつぁんですっ!」と合掌していた。

「ほいっと」

 ばさりという大きな音にイワンがおピンク世界から帰還を果たせた。目の前に広げられたのはレジャーシートだ。それをじっと見下ろして首を傾げる。

「いやぁ……こういう事すんの久しぶりだから量とかわからなくてさぁ」

 広げたシートに上がった徹子が次にトートバックから取り出したのは四角い箱だった。黒塗りの箱はよく見ると2本ほど線が入っており、ようやくイワンの好きなジャパニーズ重箱であることに気づく。

「とりあえず作るだけ作ってみたらすごい事なっちまって」
「……これ……」
「料理の腕は落ちてないだろうから味の保証はするぞ」

 かたかたと小さな音を立てて広げられた箱の中は、色鮮やかに盛り付けられたおかずと果物、さらにきちんと整列したおにぎりが詰まっていた。ようやく脳内回路が追いついてきたイワンが徐々に瞳を輝かせ始める。

「ジャパニーズBENTOキターッ!」
「おぉ?」

 両手をぐっと握り込み力いっぱいに叫ぶ声は木に止まって休憩していた鳥たちを大層驚かせて一斉に羽ばたき逃げる程の大きなものだった。蓋を開いた徹子の手もびくりとはねて固まってしまう。そんな反応に気づいていないのだろうイワンは興奮気味にポケットの中を漁っていた。

「しゃ、写真取っていいですかっ!?」
「い、いいともー」

 うっかりどこぞのテレビ番組の合言葉を口走ってしまった。けれどイワンはいそいそと取り出した携帯で目の前の夢と憧れがぎっしりと詰まった箱に熱中している。
 立って、座って、土下座するのかと思うほど低姿勢になり、匍匐前進するのかと瞬く間に這い蹲り、その間にカシャカシャとシャッター音を鳴らしているイワンの横顔は、まさにきらめき全開、幸せの絶頂期。よほど興奮しているのか、その頬はほんのりと赤い。
 そんな様子にぽかんとしていた徹子には次第に笑いがこみ上げてくる。

「(ここまで喜んでくれるとはな)」

 イワンの嗜好に合うように、と日本ならではのものを色々思い浮かべたのだが、何かプレゼントをしてそれがのちのち荷物になるのも嫌だしと考え抜いた結果がこの弁当作戦だった。この前お昼に奢ってもらったのもあるのでちょうど良かった。とはいえ、歴史を遡れば重箱は中国の食籠が元になってはいるが、重箱が扱われるようになってからの歴史もそれなりに長いし、ツッコまれはしないだろう、と流しておくことにする。イワンの様子を見る限りでも大丈夫だと思われた。
 思う存分写真に撮り収めるまで放置しておくことにして、皿や箸なども取り出し、水筒を取り出すと二人分のコップにお茶を注いでいく。すると一心地ついたらしく、ほぉ、と感嘆のため息を零してその場に正座をした。手ブレがないかなどのチェックを入れ始める手の動きを見ながら、徹子はようやく箸を入れられる重箱からオカズを皿に取り分ける。

「綺麗に撮れたか〜?」
「はい!お陰様で!!これで家に帰ってからも堪能できますっ」
「そうかそうか。じゃ、次はこっちで堪能しようなぁ?」

 興奮冷めやらぬままのイワンが言葉の意味を測りかねて携帯から顔を上げると、満面の笑みを浮かべる徹子の顔がある。

「あ〜ん」
「あ。」

 口元に差し出される手と声に考える間もなく条件反射のように口を開くと何かを放り込まれた。特に考えずに閉じた口の中に広がる香ばしさと、肉汁に思考がようやく回転し、瞬時に状況を理解できた。出来たと共に目の前にある緩やかな弧を描いた琥珀色の瞳と目が合う。

「おいしいか?」
「〜〜〜ッ!!!」
「あれ?イワン??」

 口が咀嚼するように動いたので感想を求めてみると、みるみるうちに顔が真っ赤に染まってその場に突っ伏してしまった。丸まった背中を見つめていると、かたかたと小さく震えている事に気がついた。味付けが辛かったか?とイワンの口に放り込んだのと同じからあげを徹子も頬張ってみるが、辛すぎというには味が薄いように感じる。首を傾げてみるとうめき声の中に感想が混じっていた。

「……幸せ過ぎて死んでしまいそうですぅ……」
「んな、大げさな。」

 どうやら辛いとかまずいとかではない事にひとまず安心して、目の前の芝生で丸くなる青年をどうにかシートに上がらせなくては、とため息をついた。

 * * * * *

 久しぶりのオフに、バーナビーはどこに行くともなく街中を歩いていた。いつもならば『ウロボロス』の手がかりをほんの少しでいいから見つからないか、と探し回るところだが、どうにも思考がついてこない。それというのも、このところずっと『一昔前の古い考えを大事にするおじさんヒーロー』が脳内を占めているからだ。

 渋々ながらも共にヒーロー業を続けている内に心情が変化しつつある事に気付いている。
 近年の彼の活躍を見ても、番組内での行動を見ても惹かれるような要素は皆無だ。
 けれど彼の信条に共感し、なりふり構わない行動の裏に隠れた心に触れていると邪険にできなくなってくる。更にふとした表情の変化や仕草に目が釘づけになり、たまにさらされる首筋に唇を寄せたい衝動に駆られたりしていた。かと思えば、誰かと笑い合っていたり、自分の知らない所で二人きりになっていると思うとどうしようもなく苛立ってくる。ともすれば、自分のすぐ傍や手の届く位置にいると安心感と充足感が満ちてきていた。

 この感情が何なのか薄々気付いてはいるのだが、認めたくなかった。

 アジアンの遺伝子のせいか、さほど歳は離れていないように見える見た目のせいだ、と言い聞かせ、よりによってあの『おじさん』はないだろう?と己に幻滅する。

「(一昔前のおじさんヒーローだろ?)」

 深いため息にはまた一つ浮かび上がってきた悩みの種に対する苛立ちも混ざっていた。

 彼を見ていると度々浮かび上がってくる女性がいる。
 白く曇る視界の中に佇む裸身の女性。ぼやけていても分かる黒髪に濃い象牙色の肌。グラビアアイドル顔負けの抜群のプロポーション(きっとブルーローズが見たら酷く羨むだろう。)。きらきらと光る琥珀色の瞳と瑞々しいサクランボのような唇。なによりもバーナビーの心を捕らえて離さないのはその唇だった。思い出す度に口付けたらどんな感触だっただろう?どんなに心地良いだろう?といった煩悩が支配してくる。

 けれどあれは白昼夢だったはずだ。色彩や身長がほぼ同じだとて、おじさんと幻の中の女性ではイコールに繋がることはない。それ以前に自分がこれほどまでも誰かに興味を持つとは思ってもいなかった。この事実による衝撃の方が強いだろう。
 男相手ならばなおの事、女性も美術館などにある彫刻と同レベルの認識だったはずだ。

「……はぁ……」

 また一つため息をついて街の中を歩く。トレードマークとも言える赤いライダージャケットは人目をひくので、一人になりたい今は大変邪魔になってしまう、と着まわしの利くデニムのシャツに腕を通したのは正解だったようだ。すれ違う女性や子供たちはバーナビーに気づいていない。多少の変装として、一束ねにしておいた髪も功を奏したかもしれない。

「?」

 何気なく街中を見ていた時、反対側の歩道にふと既視感に襲われすぐさまに視線を戻した。
 流れる人波の中にそこだけが浮き彫りになったようにはっきりと見える。ガラス張りのショーウィンドウの前をゆったりと歩く一人の人物に視線が絡まり、外せなくなった。

「あれは……」

 大きいトートバックを肩から提げて柔らかなワンピースを身に纏った黒髪の女性。ふわりと髪を揺らしこちらを振り返った。
 あまり高くない鼻梁とぷくりとした唇。少し幼い顔の作りはアジアン特有の象牙色。琥珀色をした垂れ気味の瞳がゆるやかに瞬き、すっと顔の向きが元に戻る。

 幻の中で出会った女性だ。

「っ!!」

 次の瞬間には雷にでも打たれたようにバーナビーの脚が地を蹴り駆け出していた。点滅を始めた横断歩道を間一髪で渡り切り、人に埋もれ見失いそうになる女性に必死に追いすがる。視界の端にぎりぎり止め、モノレールの駅へと続く角を折れていく。

「待って!」

 スカートの裾が視界から隠れてしまう直前に叫ぶ。周りの人が何事かと振り向き、バーナビーの存在に気づいて色めきだつ女性が何人かいたが構ってなどいられない。力の限り突っ走り、死角へと消えてしまった彼女の後を追い勢いよく曲がった。
 その瞬間……

「うわっ!?」
「わぁっ!!?」

 誰かと派手にぶつかった。


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