刹那が持ち帰ったのは王留美に託されたヴェーダの所在が示された暗号が書かれたメモだった。
ヴェーダを取り返すことが出来ればアロウズの暴虐を止めることが出来る、と考えたスメラギに賛同し、奪還する為の戦いを挑みにかかる。現状で出来る限りの準備を整えたら最後になるだろう、ミーティングをする、とのことで各々自分のすべき事へと取り掛かっていた。
 その中、ライルは集中を高める為にケルディムでシミュレーションを行い、最終調整を行おうとパイロットスーツを身に纏っている。しかし、肝心のオレンジ色をした相棒が見当たらない。思いつく場所を探して回っていると別の通路を行く兄の姿を見つけた。

「兄さん。」
「ん?」

 呼びかけるとリフトを放して振り返ってくれた。すぐ傍まで行くとその腕に探していた相棒がいる。今来た通路を考えると倉庫が並ぶ通路に繋がっている。その中の格納庫から来たのだろうか?だとしたらこの後なんらかのデータ調整をするかもしれない。そんな事を考えながら思わずハロを凝視しているとニールがひょいと持ち上げる。

「あ、ハロに用か。」
「あぁ……うん。けど兄さんも用事があるなら後でもいいけど……」
「いや、さっき終わったからもういいぜ?」
「そう?」

 そう言ってハロをぽんと手渡される。じっとハロを見下ろすと「ナァニ?」と聞かれて首を振った。そんな遣り取りをしていると今度はニールがじっと見つめてきている。その視線に気付き顔を上げるとちょいとプロテクターを指差された。

「シミュレーションか?」
「ん、まぁね。」
「もう練習するほどじゃねぇだろ?」
「練習ってわけじゃないよ。」
「うん?」
「好成績を上げて自信を持ちたいだけ。」
「なるほどね。優秀、優秀。」

 ひょいと肩を竦めて理由を話すと笑って頭を撫でられた。まるで子供を褒めるような仕草に思わずむっとしてしまう。ぺしりと手を振り払って半目でにらみつけた。

「あのね、弟っつっても立派な大人なんだから。こういうのやめてくれる?」
「お、わりぃわりぃ。もう三十路のオッサンだもんな?」
「双子なんだからあんたもだろ。」
「えー、俺まだ、ぴちぴちの24だけど?」
「ぴちぴちっつってる時点でオッサンだよ。」

 いつもとなんら変わりないやり取りを繰り広げてしまい思わずため息をついてしまう。この緊迫した状況だというのに……この兄は。肝が据わっているのか、それとも単に楽観的なのか。もう一度ため息をついて一人きりなことに今更ながら気が付く。別におかしなことではないのだが、先に待つ戦いを考えると少しでも一緒にいたいと思わないのだろうか?と少し不思議に感じてしまった。

「……独りなの?」
「ん、あぁ。」
「仔猫ちゃんは?」
「仔猫て……どっちかっつーと黒豹だと思うけど。」
「あぁ、確かに。ってだから……」
「うん。データのチェックしてるから邪魔しないように外してきた。」
「……ふーん……」
「考え事もしたいしな。」
「……黒豹の扱い方?」
「ははっ。」

 否定しないところからあながち間違いではないらしい。この溺愛っぷりに当てられない内に退散するか、と手をひらひら振って無言の内にさっさと行ってしまえ、と表現する。

「じゃあな。」

 何を言わんとしているかを的確に受け取ってくれたらしい、相手もひらひらと手を振って再びリフトを掴んで行ってしまう。その後ろ姿を見つめてもう一度ため息を吐き出すと小脇にハロを抱え直して格納庫へと向かった。
 通路の曲がり角までくるとニールはふと振り返った。その視線の先にはハロとともに格納庫へと移動するライルの背中がある。小さく笑みを浮かべるとふと下を見下ろした。

「……やっぱこういう感じなのかねぇ……」

 ぽつりと呟くと水を払うようにぷらぷらと足を振る。しばらくそうした後、ふっとため息を吐き出すとリフトを掴み直した。

「……迎えに来てくれるかなぁ……刹那……」

ゆっくり過ぎる廊下の壁を見上げながら想いを馳せる。その顔に複雑な笑みを浮かべながら…

「……来て欲しいけど……来てほしくないなぁ……」

 一際苦い笑みを浮かべると先に見えてきた扉へと入っていった。

 * * * * *

 自室のベッドに座りキーボードを叩いていた刹那はふと顔をあげた。

「………」

 じっと見つめる先は部屋の扉。
 ミーティングする時間が近付きつつあるのに、いつものようにニールが呼びに来ないことに違和感を感じた。彼のことだから時間には確実に間に合うだろうけれど、何故か落ち着かず探しに部屋を出た。

 * * * * *

 ニールが行きそうな場所…といくつか当たって、展望室に求める姿を見いだす。大きなガラスの前で眼下に広がる景色に見入っているようだ。
 けれど、声をかけるのが躊躇われた。何か考え事をしているのなら邪魔になるし、と刹那が一歩引いた時、ニールが振り返った。ガラスの向こうから差し込む光で若干逆光になっているが、微笑みを浮かべたのが分かる。そっと差し出された手に誘われるよう、ふらりと足を運ぶと広い腕の中に招き入れられた。間近でニールの顔を見上げ、刹那は気付いてしまった。

 ……彼を構成する色彩が薄いことに……

「……ロックオン……?」
「あぁ……タイムリミットだ。」
「………な、に……?」
「シンデレラの魔法が切れたんだ。」

 静かに微笑みを浮かべるニールに刹那は足元が途端に崩れ落ちる感覚を味わった。彼の言わんとすることが理解出来た瞬間、体が小刻みに震える。

「お別れだよ、刹那。」
「……うそだ……」
「嘘じゃねぇさ。」
「うそ……しんじない……」
「刹那……」

 まるでガラス細工に触れるようにそっと伸ばされた手は、震えながら頬に当てられる。困ったような笑みを浮かべるニールに、刹那は胸が苦しくなった。視界が徐々に曇りその輪郭をぼやかせる。

「いやだ……しんじない……」
「……刹那……」

 伸びてきた長い指が目元を擽ると濡れた感触が広がり、自分が今泣いているのだと気付いた。慣れた仕草で手袋を脱ぎ捨てた手に両頬を包まれる。そのまま引き寄せられて逆らわずに近寄ると唇が目尻に押し当てられた。温かく柔らかな感覚を感じ取れるが、視覚から得る姿はうっすらと向こう側が見えている。

「刹那は、強くなっただろ?」
「強くなんか……ない……」
「いいや。刹那はもう……手を引かなくても立って歩ける強さを持ってる。」
「ロックオンが……いなくなったから……」
「あぁ。そうなって今、刹那は真っ直ぐに未来を見据えて歩いてるだろ?後ろに、過去に引きずられずに。」
「…………」

 じっと見上げた顔が優しく笑みをかたどる。その表情に胸が熱くなった。どう返していいか分からず、彼の熱を僅かに妨げてしまう手袋をもどかしげに外して体に抱きつく。そんな刹那をニールは柔らかく髪を撫でて抱き締めた。

「戻るんだ。」
「……戻る?」
「そう。戻る。本来のあるべき場所に。」
「それは……ロックオンがいなくなること……?」
「……あぁ。」

 ぎゅうっと抱きつく腕の力を強めて埋めた顔を横に振る。小さな子供が駄々を捏ねているようだと理解していながらやめる事は出来なかった。

「刹那。」
「……っ……」

 少し強めに名前を呼ぶ声にびくりと肩を震えさせた。それは聞き覚えのある抑揚で、この声に多くの大切な事を教えられてきた。ずきずきと痛む胸を叱咤して埋めた顔を離す。

「ん。いい子だ。」

 昔のように優しく頭を撫でられ、ご褒美と言わんばかりに顔中へ口付けが落とされる。その温かく柔らかな感触に胸を掻き毟りたいほどの痛みを抱え刹那はそっとその唇を制した。

「刹那?」
「唇にしろ。」
「へ?」
「残りは全部、唇にしろ。」

 きょとりと不思議そうに見つめてくるニールに、いつものように言い放つ。こんな時まで言葉足らずである自分にもどかしく感じるが、悔しい思いにとらわれずに済んだのはいつもニールが言葉以上に察してくれたからだ。けれど、いつまでもそんな彼に甘えられないんだ、と刹那は足りない言葉を付け加える。

「いなくなる瞬間まであんたの温かさを感じていたい。」
「……刹那……」
「だから唇にしてくれ。」

 はらはらと涙がとめどなく流れるのに、いつものような凛と前を見据える表情を浮かべはっきりと言葉を紡いだ。そんな刹那にニールは彼女の決意を読み取る。
 ほんの少し交わした言葉と僅かな触れ合いの間に送り出す覚悟を固めてしまったのだ。
 痛々しいほどの強さ。それは確かに己が惹かれ、憧れた強さだが、同時にいつか砕けてしまわないかと危うんでしまうものだった。けれどもうその強さごと包み込んでやることも、壊れないように守ってやることも出来ない。もう感覚が曖昧になりつつある体を憎いと思う。しかし、彼女の想いを踏み躙るわけにはいかない。ならば自分がとる行動はただ1つ。

「……どうせなら……全身に熱を残してやろうか?」

 にんまりといつもの調子で笑みを浮かべるだけ。間違いではないはずだ。その証拠に刹那の瞳が逸らされていない。

「断る。」
「即答かい。ひでぇな……」

 予想通りの言葉に自然な笑みが浮かぶ。あとは要求に精一杯答え続けるはずなのだが、刹那の行動は予想を裏切っていた。

「酷いのはどっちだ。」
「え?」

 そっと手を持ち上げられ、頬を寄せられる。しばし伏せられていた瞳が開かれるとそこに浮かぶ僅かな呆れと多大な怒りを読み取った。

「広いベッドの上で縋るものもなく独りで目覚めろというのか?」

 じっと見上げてくる瞳が涙のせいではなく僅かに揺れたのを見逃さなかった。『それ』は刹那が痛みに耐えているという暗示。精一杯の強がりを見せてくれているのに選んだ言葉はあまりに軽いものだった。いつもの冗談であると分かっていても『今』は『いつも』とは異なり、酷く心を傷つけてしまう。

「……軽率だったな……」

 頬を寄せられた手で引き寄せて目尻に一つ口づけを落とす。ゆっくり離れて視線を絡めると今度は唇を重ね合わせた。
 懺悔のように……儀式のように……祈りのように……
 音一つない空間の中で二人の熱が何度も行き交い混ざり合って溶けていく。

「……刹那……」
「……ろっく……ぉ……」
「刹那……刹那……刹那……」

 唇が僅かに離れる瞬間、囁くように呼ばれる名前が目頭を熱くさせる。鼻の奥がつんと痛み自分が再び泣いていることをようやく自覚出来た。縋る腕に自然と力が籠る。それに呼応するように抱きしめる腕にも力が籠るが、それは徐々に薄れていった。

「せつな……ソラン……」
「……にぃ、る……」

 囁きかける声が遠のく……包み込む熱が曖昧なものになっていく……

−また……俺は失うんだな……

 それは絶望のはずなのに、刹那の心は穏やかだった。ニールが名前を呼ぶ度、心の中に確かな形が出来上がるのを感じたからだ。そっと閉じた瞳を開くともう薄らとしか残っていないニールの姿が見える。それでもその瞳も、表情も確かに『そこ』にいるのだと伝えてくれた。
 ゆっくり離れていく唇を見詰めて瞳を合せると、刹那は静かにほほ笑んだ。その笑みに応えるように、ニールも満面の笑みを浮かべてくれる。

「ニール……」
「……あいしてるよ……そらん……」
「俺もだ。」

 * * * * *

 ミーティングが始まっても姿を現さない二人を呼びに行くべく廊下を移動する。
 正直にいえばまだ顔は合せ辛い。『仇』といえば間違いではないのだが、その為に相手を殺すことも、傷つけることも、罵ることもバカらしく思えてきたのだ。
 だからと言ってすぐに顔を合わせられるかといえばそうでもなく。
 複雑な心を抱えながら展望室に来ると目的とする人物の後ろ姿が見える。残念ながら1人しかおらず、「どうせなら二人でいろよ…」と思わず心の中で愚痴ってしまった。せめてもう1人、自分の分身を見つけてからの方がマシだろうか、と踵を返してふと足を止めた。

「………」

 さっき会った時、彼は考え事をしてくると言っていた。そして長年ともに生活してきたクルーが言うには、彼が考え事をする時は高確率で展望室にいるのだと。そしてすれ違う瞬間にかけられた言葉。

−「じゃあな。」

 その時は特に可笑しな感じはしなかったが、今思い返せば強い違和感を感じられる。具体的な『なにか』は見出せず、ゆっくりと1人佇む傍らに近寄って行った。

「…………」

 外から差し込む光と室内の暗さから瞬時には分からなかったが、近づいたことでその場の異様さを突きつけられた。足元に転がるブーツにくしゃくしゃなズボン。ベルトはバックルが止まったままだった。その位置から僅かにずれた所には一組の皮手袋が無造作に捨てられ、あまり乱れがないところからまるで机の上から滑り落ちたかのようだ。
 その傍らに立つ人物の足元から徐々に上りつめればその腕には、もはや見慣れてしまった色違いのジャケットとインナーが包まれている。さらに可笑しなことに、ジャケットの袖にトップスの袖が通っており、その下からは僅かにアンダーの紺色の布がのぞいていた。

「……なぁ、」
「あぁ、すまない。ミーティングがもう始まっているんだったな。」
「っんなことより……ッ……」

 いつもとなんの変りもない声に思わず声を荒げて顔を見上げ、その『光景』に言葉を失った。

「……あんた……」

 瞳は腕に収まる制服をじっと見つめたままだが表情はいつものように無表情だった。その無表情さも慣れてしまった今では可笑しなことではない。だが…その頬を流れる涙は見慣れてなどいない。むしろ見たこともほとんどない。ただただ静かに流れ続ける涙とこの現状に信じがたい事実が起こったのだと知る。

「……にぃさん……は……?」

 聞きたくはなかったけれど確かめずにはいられなかった。涙から目を離すことも出来ず、じっと応えを待つ。すると一度ゆっくり瞬きをして、唇が緩やかに開く。

「還った。」
「……かえった?」
「在るべき場所へ……還ったんだ。」

 そう語る声はとても落ち着きを持ち、静かな抑揚とともに柔らかく鼓膜を震わせる。あふれる涙をそのままに、一度もしゃくりあげることもなく。

「……っ……」
「!?」

 あまりの痛々しさに体が勝手に動いていた。視界からこの光景を隠してしまうように腕の中へと抱きしめて、己が泣いてしまわないよう必死に耐える。

「……」
「?どうした?」
「……どうしたも何も……どうしてそうも普通なんだよ?」
「……意味がわからない……」
「……だから……どうして泣き喚かないんだよ!」
「………」
「……どうして……っ……泣き叫ばない……!」

 悲痛な叫びに近い声が上がった。それとともに抱き込んでくる腕の力が強くなる。力の加減が出来ないほど感情が高ぶっているのか、少し息苦しさを覚えた。けれど刹那はいつも通りの声を紡ぎだす。

「権利はない。」
「……は?」
「俺にそうする権利などない。」

 その言葉に思わず顔を覗きこむ。そうして「しまった」と思った。
 ぽたりと最後の雫が顎から滑り落ちそこに残ったのはいつもと変わらず表情に乏しい『刹那・F・セイエイ』だったから……その表情に思い知らされる。刹那は、彼女は兄との約束と一緒に夢見た未来の為に『ここ』から歩き出す覚悟を決めてしまったと。
 呼吸が止まるほどの胸の痛みに抱き締めた体を改めて掻き抱く。脆くも儚い強さに涙が出てきた。

「ライル?」
「……あんたのせいだよ……」
「……すまない。」
「謝ることじゃない。」
「……だが……」
「あんたが泣かないから……代わりだよ……」

 言うつもりはなかった言葉がするりと零れ落ちる。それほどまでも自分に偽るだけの余裕がない事を思い知らされた。こんな時うまくフォローをしてくれる兄はもういない。どうしたらいいのだろう、と困惑し始めると腕の中で刹那が体から力を抜いたようだ。抱き寄せた胸に額を押し付けてくる。

「………そうか……」

 ぽつりと囁かれた声は僅かに震えているように聞こえた。しかし確かめる術はなく、ただ抱き寄せる腕に力を込めるだけだ。いつもならどんな事も、己の内に抱え込み誰にも垣間見せない弱さが覗き見えた気がする。それほど彼女は傷ついているのだとライルは思い知らされる。何も出来ない己に歯噛みをし、消えてしまった相方を恨めしくさえ思った。

「頼むから……しばらくこのままでいてくれ……」
「……了解……」

 それは互いに相手が口にするはずだが、すんなりと受け入れてしまっていた。


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