濡れ男 1



「あんたなんか…!」
女の金切り声と共に、盛大な水音が辺りに響き渡った。
思わず視線をやると、そこには鼻息も荒く怒り狂うクノイチ。そして…。
「カカシ、先生…?」
教え子の担当上忍として知ってはいたが、その人となりを良く知るほど近くにいるわけではない。精々世間話をする程度の上忍だ。
だが、意外だった。
隠されてはいても秀麗な容貌に、忍としての突出した実力。
…全てが女性に不自由はしていないであろうことを想像させるというのに。
クノイチにぶちまけられたらしい液体を頭から滴らせながら、未だにボーっと突っ立ったままでいる。
その白銀の髪をぬらしているのは、アイスコーヒーだろうか?僅かに褐色に染まった髪が普段のように逆立つ力さえなくして、ぺったりと肩口までまとわりついている。
昼下がりに喫茶店にはまるで不釣合いなこの光景。
濡れた男は、まるで雨の日の犬のようだと思った。
濡れそぼった体を震わせながら、ただ降りしきる雨が過ぎ去るのを待っている、無力な犬。
そんなはずがないのに。
この人は上忍だ。…今更自分などに守ってもらう必要などない。
手を差し伸べて噛みつかれても、犬ならばいい。
だが、上忍相手にそんなコトをすれば、怪我だけではすまないだろう。結局割りを食うのは中忍である自分だ。
だから、このまま放置するのが懸命だと分かっていたのに…視線が合ってしまった。
それだけのことに、周りの喧騒など耳に入らなくなるくらい、思考を奪われて。
…ただその瞳だけが全てになる。
恐らく店員がテーブルに届けたばかりだったんだろう。たっぷりと液体をぶちまけられて、全身見事にぬれねずみだ。
濡れてへたれた髪と僅かに下がった眉、なにより深い諦めを含んだその瞳。
一瞬で消えたそれに、胸がときめいた。
相手は、上忍。それもすこぶるつきの腕利きだ。さらに救いようがないことに、男ときてる。
それなのに、これは…この胸が締め付けられる感じは…。
きっと、多分惚れてしまった。事故のようなこの一瞬で。
こうなったらしょうがない。
自分の諦めの悪さは自分が1番解っている。手に入れるためには…あがくしか、ないだろう?
ひそかな、だが堅い決意を胸に、俺はそっと手を差し出した。
「大丈夫ですか?カカシ先生。」
*****
またか。
頭に浮かんだのはそれだけだった。
里の女は面倒臭い。会えないのはどうしてだの、何を買えだの、一緒にいろだの…。
一回寝ただけの女に口だしされる筋合いはない。
だからといって正直にそれを告げれば逆上された揚句、この様だ。
…見られていたのは知っていた。
朴訥な、真面目な所だけが取り柄の中忍。
こんな場面にはきっと慌てて逃げるだろうと思っていたのに。
女の次はこいつかとうんざりしながら視線をむけて…だが、その瞳に浮かんでいたのは意外なものだった。
…色。そして執着。
忍としては不必要なほど無駄に広がった自分の名前と、それから父親譲りのこの外見のせいか、そんなものを向けられるのはしょっちゅうだった。
だが、それをこんな…馬鹿みたいにまっすぐなだけだと思っていた、しかも男に向けられるとは。
…おもしろい。
わざわざ里に戻された理由は理解しているし、師の忘れ形見を見守るのも悪くないと思っている。うちはの遺児も、どこか危ういが、恐らくこれから強くなるだろう。二人を上手くまとめているクノイチの卵も思ったより将来有望だ。全員今はただの子どもだとしても。
だが、この生ぬるい日常が、ここまで俺を退屈させるとは思っても見なかった。
子どもたちと遊びのような任務をこなし、その間にこなせる程度の拍子抜けするほど簡単な任務を入れる。体より、心がなまっていく気がした。
血を浴びないと生きていけないほど弱くはない。戦いを忘れた生活には違和感しか感じられなかったけれど。
だからといって、里に女衒の真似事までされるのには辟易した。
里を長く離れすぎたかもしれない。…抜ける、とまでは思われていないだろうが、里への執着は薄いと判断されたのは想像に難くない。
あの日の師との約束を覚えているからここにいる。だが、今の里には大事なものは何も、誰も残っていないから。
…女の体は柔らかく、それなりの快楽を与えてくれるが、自分にとってはそれだけだ。
だから、お互い欲望を満たすためだけでいい。伴侶など…押し付けられた所で、持て余すだけだというのに。
そんなことを理解できるようならこう度々女をよこしたりしないだろうから、里は納得していないだろう。
…暇つぶしの女相手にいちいち面倒事が起こるのにもうんざりしていた所だ。女たちが里の命令と自分の欲望のためにやってくると知ってはいたが、そろそろ付き合ってやるのも限界だ。
種馬なら他にもいくらでもいる。俺である必要はない。
だが、この男なら。
一瞬で笑顔の内に欲望をかくしてみせたこの男なら。…この倦むほどの退屈な時間を変えられるかもしれない。
…まあ、暇つぶしくらいにはなるでしょ?
意外なほど忍らしいと、今日始めて知った男の手をとって、見せ付けるように微笑んでやった。
「イルカ先生…。」
きっとゲームにはちょうどいい。
*****
向けられたのはわざとらしい作られた笑顔。
寂しさを装っても、さっき一瞬で俺を虜にしたあの瞳はどこにもなくて。
…だからすぐに気付いた。
ばれた。
そりゃそうか。相手は上忍。それもその道でも百戦錬磨と謳われる男。俺の心なんて、隠してもバレバレだっただろう。
だが、それを知っても込み上げる喜びを押さえ切れなかった。
…どうやって追い詰めよう?
ただの遊びのつもりでいるこの男を。
久しくなかった高揚感。
それは戦場の…何重にも罠をはり、敵を追い詰めるあの感覚にも似て。
緊張に乾く喉を唾を飲んで潤した。
「びしょぬれじゃないですか。」
わざとらしく、側でカカシさんを睨みつけている女を無視し、テーブルの上においてあったナプキンと、それだけじゃ足りないから持っていたハンカチで頭を拭いた。
あれだけ逆立ってるから硬いのかと思ったが、意外とさわり心地がイイ。洗い立ての犬を拭いているようで、何だかもっとさわりたくなる。
茶色く染まった毛は、ふき取ることで白銀を取り戻し、代わりにハンカチがぐしょぐしょになったが、充実感があった。コーヒーくさいのはご愛嬌だ。
あらかた拭き終わった頃になって、キンキンと甲高い声が俺に向けられた。
「あんた…なんなのよ!私は…!」
俺という闖入者にしばらく呆然としていたらしいクノイチが、やっと俺の存在に気付いたらしい。
こんなことになってるんだから、このクノイチはこの人に触れて、それなりの行為もしたはずだ。
それなのに、見知らぬ…それも男が、当然のように自分の男だった相手を甲斐甲斐しく世話なんかしているから、また頭が沸騰したらしい。
ギッと睨みつけるその視線が、今度は俺に向けられている。
こんなことになっているのに店員が近づいても来なかったのは、多分このクノイチの殺気に押されてのことだろう。
まあ、こんな物俺にとってはなんでもない。
この外見と階級に侮られることが多いが、それなりの修羅場はくぐってきている。里内での軋轢も望んではいないが経験済みだ。
侮られているからこそ手に入るものを武器にやりすごすことくらい簡単だ。
「アカデミー教師です。」
それだけ視線も向けずに言ってやり、すぐさまカカシ先生を拭く作業を再開した。
俺の行動が面白かったのか、カカシさんがにやっと笑って哀れな女に最後通牒を突きつけた。
「ねぇ。アンタの任務は失敗だったって伝えて。もう次もいらないって。」
「なっ!?」
「だって、この人が面倒みてくれるみたいだし?」
どうやらカカシ先生も俺に気付かれたことがわかったらしい。
ほくそ笑むその表情と裏腹に、挑戦的な瞳が俺を射抜く。
クノイチの嫉妬より、ずっと俺に響くそれが、ゲームに乗れと言っている。
「ということなので、お帰りになった方がいいんじゃないですか?」
…こうなったら、クノイチに二三発殴られるコトは覚悟した方がいいだろう。
取り繕うのも面倒で、口調だけは丁寧に、だが適当に追払おうとした俺に、案の定クノイチが食って掛かってきた。
「なんで!私は…!」
縋るような鼻に掛かった声。
向けられているのはさっき自分でコーヒーまみれにした男。
クノイチのそんな演技に騙されるような男なら、こんなことにならないと未だに分かっていないらしい。
…いや、単に信じたくないだけか。この得がたい男を自分のものに出来たと言う一瞬の幻が砕けたことを。
ため息を漏らしながら、この哀れな女性をできる限り穏便にお引取り願おうと言葉を捜した。
これ以上こんな所でこんなコトを続けたら、人目につく。
カカシ先生に関しては、有名すぎるせいか真偽の怪しい噂がそれこそ掃いて捨てるほどあるから、たいしたダメージにはならないだろう。それに、こんな性格なら笑って自分の噂を楽しみそうだ。
だが、このクノイチは違う。
美しい顔をしているにちがいないのに、怒りと惨めさに顔をゆがませて、それでも諦めきれないか細い希望をこんな男に向けている。
女の世界は恐ろしいから、きっと酷い噂になるだろう。
カカシ先生の口ぶりからして、恐らく、この男を落とすのが任務だったんだと推察できた。
だから、ある意味自業自得なのかもしれない。
だが、泣いている女性は見たくない。たとえ、それがウソだったとしても。
それなのに。
「うーるさいなぁ…。さっさと、失せろ。」
「ひっ…!」
針のようにするどく、クノイチだけに叩きつけられた殺気。
その見事さに感心している間に、クノイチは顔色を変えて店から飛び出していった。
現状認識に問題があるみたいだけど、一応あれでも忍だ。本気だったのを理解したんだろう。
「女性には優しくした方がいいですよ?」
殺気はもうとっくに霧散している。店員たちも掃除道具を持って、恐る恐るこちらの様子を伺っているから、そろそろ潮時だろう。
「アンタは、優しいのが好きそうだもんね?」
酷いセリフを吐いた口が、今度は俺をからかうために使われている。
「いいよ。優しくしてあげても。」
性悪な娼婦のように、甘く甘く囁いて、カカシさんは俺の手をとった。
その声が腰に響く。それに、一瞬だけ見せた何かを狂うほど求めるその瞳が、やはり俺が欲しいのはこの男なんだと突きつける。
「じゃあ、優しくしてあげます。」
本当にほしがっている物が何なのかも分からずにいるこの男に、思い知らせてやろう。
欲しいだけ与えて、逃げられないくらい溺れさせてやる。
自分だけが溺れているのもいいけれど、どうせなら…一緒に溺れてほしいから。
以外に人でなしな自分を笑いながら、まだわずかに湿った髪を撫で付けて、自分でも分からない内に笑顔を浮かべていた。
「なによそれ。ま、いいけど。」
一瞬不満そうにしながら、どこか期待した表情をよぎらせる。
この無自覚な寂しがりをどうやって手に入れよう?
俺は、このかみ合わない会話を楽しいと思い始めていた。
*****
今日はこの男に驚かされてばかりだ。
情にもろいと聞いていた。
現にナルトを庇い、よりによって背中に大穴を空けたのだと知っている。
しかも、晩生すぎるほど晩生で、ナルトが女体変化しただけで、鼻血を噴出すほどらしい。
そんな俺とはかけ離れすぎているはずの生き物。
…それが、鮮やかに俺のウソを見抜き、面倒な女をあしらっていた。
俺が手を出さなくても、恐らくそれなりの方法で何とかできたはずだ。
何故かそれが腹立たしくて、わざと女を強引に追払った。
聞いているのと、いや、今まで見てきたイルカという男とは、まるで違っていた。
そういえば、この生き物は男で忍だったのだと今更ながら思い知らされる。
教師という名の、ただただ善良で、理想論だけを口にする愚直な生き物という認識は、今日あのやり取りだけで一瞬で打ち砕かれた。
予想外のあの笑顔。
やさしくしてあげます、なんて。
差し伸べられた手も、笑顔も、余裕すら感じられて、苛立ちを覚えた。
これは、遊びで手を出すべきではないかもしれない。
面倒ごとは嫌いだ。疲れるだけで何も生み出さない。退屈を多少誤魔化すことができるだけ。
この男と関われば面倒なコトになるかもしれない。
…それに、手を取った時の奇妙な充実感。
この男が恐ろしいなんて、ありえるはずがないのに。
何故か俺をひきつける男に、冷静さを失いかけるほど動揺した。
逃げるべきなのかもしれない。忍として培ってきたこの直感を信じるのなら。
だが、それすらも許さないであろうことを、俺は知っていた。
この笑顔の男は、きっと馬鹿みたいに諦めが悪い。
うんざりするはずなのに、どこかあいまいな期待のようなものさえ感じて、ただ向けられる笑顔になんでもない顔をして見せることしか出来なかった。
*****
側で戸惑う店員に適当に支払いを済ませ、店を出た。
「悪かったね。」
「いえ、そのー…。」
口先だけで詫びられても、まるで説得力がない。
多少は罰が悪そうにしているが、だからといって、あの女性に対して欠片も罪悪感はないんだろう。
あるのは、無自覚な俺への興味。そして、多分恐れ。
これから、気付かないままのそれを、執着に変えてしまえばいい。
さて、とりあえず、どうしようか?
「じゃ。」
逃げようと踵を返した男を捕まえて、そんな悠長には構えていられないことを知った。
無自覚だからこそ、逃げるときはためらいがないから。
だが、ねらい目はある。
上忍らしく、男はプライドが高い。
自分が怯えていることなど受け入れられないだろう。まして、そのせいで逃げることなんて。
「行きましょう。」
強引に腕を引いた。
振り払うことなんてこの男にはきっと簡単だ。…だが、そんなコトを許すほど、男は己に甘くない。
「なんでよ。」
不満そうにいいながら、それでも俺の腕はこの人の腕を捕らえたままだ。
「言いましたよね?優しくしてあげるって。」
「…そうね。」
呆れた顔をことさらに見せつけながら、だがその腕にぎゅっと握り締められた。
何処まで自覚していて、何処まで演技なのか分からなくても、俺の執着を欲しがっているのはきっと本当。
別に俺だからじゃない。それが少し残念だけど。それはこれから何とかすればいい。
俺以外に、この人がほしがる物を与えられるやつなんかいないだろうから。
あの瞳…寂しがり屋で強がりで、それを全部覆い隠してみせるこの人を誰も知らない。
「アンタ、物好きだね?」
「そうですね。そうかもしれません。」
否定はしない。なんだってこんな面倒な男に惚れたのか、自分でも分からないんだから。
ただ、この手を離すつもりはなかった。
握り返した手に伝わる体温が愛おしいと、そう思った。

2へ

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