となりの裸族さん


「うー…あっちぃ」
 締め切ったワンルームは当然のことながら熱気が篭って息苦しい。
 初めて一人暮らしを始めた頃はこれが嫌でクーラーを浸けっぱなしにして出勤して、翌月の電気料金に目をむいたものだ。
 かといって無用心に窓を開けっ放しにするわけにも行かない。今日日、泥棒というのは屋上からも入り込む事があるらしい。このマンションではまだ一度も窃盗事件は起こっていないが、ちゃんと警戒するようにと大家のおばちゃんにも言われているからな。
マンションの最上階を選んだのは単に交通の便が良く、商店街に近い空き部屋がここか隣しか空いていなかったというだけのことだったが、ここからの眺めは結構気に入っていた。
 窓を開けるとすぅっと淀んだ空気が抜けて行って気持ちイイ。まだまだ暑さは収まりをみせてはいないが、空気を入れ替えれば少しはましになる。 スーツを脱ぎ捨て後でクリーニングに出すために用意してある袋に放り込んだ。 後は着替えのランニングシャツとパンツを引っつかんで風呂場に直行だ。汗みずくの体をさっぱりしたくてたまらなかったんだよな。  勢い良くコックをひねりざあっと降り注ぐ熱いシャワーに生き返る思いがする。ここは駅から近い方だが、この所の暑さは異常だ。オフィスや駅はクーラーが効いていても、通勤するだけですっかり汗みずくになってしまう。タオルに石鹸をたっぷり泡立てて体を流すと、溜まった疲れも解れるってもんだ。汗の染み込んだ髪の毛ももちろんしっかり洗い流し、やっと人心地がついた。
湯船につかるのも気持ちいいんだが、今日のところは汗を流すだけでよしとしよう。乾燥機つきの洗濯機からタオルを引っ張り出し、ふわふわの手触りを堪能しながら水気を拭う。全自動洗濯機なんて一人暮らしをするまでは贅沢だと思っていたが、今では手放せないモノになっている。古くガタガタと音を立てていた実家のものと違って恐ろしいほど静かで、出勤前に回しておけば帰ってきたらこうして洗い立てのタオルを使うことも出来る。
なにより干す手間が要らないってのがこんなに楽だとは思わなかった。実家では家族の分すべての洗濯物も食事のしたくもしてたってのに、今じゃこれなしではいられないと確信を持って言えるほど気に入っている。
「へへ!さっぱりした!…ビールビール」
 風呂上りのビールは最高だ。一日一本の決まりを今のところは守れている。…納涼だなんだと同僚と一緒についつい飲み歩く日も少なくない分、家でまで飲みすぎると流石にビールっ腹になりそうで恐ろしいし、何より発泡酒は口に合わないからといって、それなりに高いビールをばかすか飲めるほど懐に余裕もないからだ。
 キンキンに冷えた貴重なその1本を持って、ベランダに出た。
 遠くに川が見えて、暗い中でも街灯の光をはじいてゆらりと光っている。立ち並ぶマンションの明かり、それから小さな公園。生きている人たちの気配に安堵を覚えるのは、一人暮らしに未だに馴染めていないせいなのかもしれない。プルトップを引くとぷしゅっと音を立てて美味そうな匂いが広がった。夏はビールだよな。うん。
「あ、おいしそうなもの飲んでますね」
「へ?」
おかしい。どっかから声がする。まさか噂の屋上から降ってくるという泥棒だろうか。 慌てて周囲を見回すと、ベランダとベランダを仕切るうすっぺらい樹脂製の壁の向こうから、ひょこっと銀色の毛玉みたいなものが飛び出している。よくよく見れば、人だ。それもやたらと綺麗な顔の男。確か隣は空き部屋だったはず。隣と角部屋であるこの部屋とが空いていて、最初は洗濯物を干しやすそうだからという理由でベランダがL字型で広いこの部屋を選んだ。
 ってことは、この人、新しく引っ越してきた人か。いつ引っ越してきたんだか、まるで気付かなかった。
「申し遅れました。今日から隣に引っ越してきたはたけカカシです」
「い、いえいえ。こちらこそ。仕事で留守にしていたもので気付きませんで…」
…参った。マンションに住むのも初めてなら、引越しの挨拶ってのも初めてだ。隣が空き部屋だったから挨拶は管理人のおばちゃんとここの真下の住人くらいにしかしてない。どうするのが普通のなのか検討がつかなかった。 それにこんな格好をみられるなんて…相手は声からして男性のようだが、顔立ちがモデルか何かのように整っているせいか妙に気恥ずかしい。
「あっついですよねぇ。ここの所」
「そ、そうですね!」
「もう服なんか着てられませんよ」
「は?」
 …うん。まあそりゃそうだな。俺だってマトモな格好をしているとは言いがたい。だが気付いてしまった。俺と男を隔てる壁から覗く肩にも腕にも、衣服らしいものの気配がないことに。
「最上階っていいですよね。誰の目も気にしなくていいですし」
 にこっと笑ったその顔があまりにも綺麗で曇りないものだったので、言っている内容のおかしさに突っ込みを入れようにも入れられない。
 なんだ、このイキモノ。こんな人が隣人になるのか。
「…そ、そうですね!眺めも最高ですし!」
 それとなく話題を逸らし、お茶を濁したつもりでいたものの、男は何故かこちらを見つめてうっとりと目を細めている。
「そうですね…眺め、最高です」
 ふふっと低く甘く、艶のある声で笑うから、どうにも尻のすわりが悪い。なんなんだ。もしかしてアレか。ホストとかなのか。
冷静になってみれば失礼千万だが、そうじゃなきゃこの垂れ流される色気の説明がつかない気がした。さながら魔物染みた…いや、よそう。ここが事故物件とかじゃないのはしっかり確かめたはずだ。
 ここの家賃は決してべらぼうに高い訳じゃないが、決して安くもない。住宅補助が出ていることと、それなりに給料のいい職につく事が出来たお陰でやっとって所だ。
 初めての一人暮らしに気負って、立地やセキュリティにもこだわり、少しばかりお高めのこの物件を選んで、初めて後悔した。
 まさかこんな人が引っ越してきてしまうなんて予想できないじゃないか。
 貴重なビールを飲み下したってのに、禄に味もわからなかった。
「えーっとね。実は急に引っ越さなきゃいけなくなっちゃったせいでまだここの事がよくわからないんだけど、お勧めのスーパーとかってある?秋刀魚が好きだから、魚に強い所だとさらに嬉しいんだけど」
 急にすごく困った顔をするから驚いた。…実家に残してきた弟分を思い出す。本当に困って、でも助けを求めるかどうかも迷って、どうしようもなくなった時の顔だ。
「…それなら、明日休みですし、ご案内しましょうか?」
 ついそんなことを言ってしまったのは、多分そのせいだ。
 さっきまで胡散臭い人が越してきてしまったことに絶望に近い何かを感じていたってのに。
「やった!助かる!じゃ、お礼にそのビールと…あと晩飯でも奢りますね!」
「え!いやそんな!」
 さすがにそこまでしてもらわなくてもイイ。今まで住んでいた田舎と違って、この辺りじゃ隣に誰が住んでるかすら良く知らないのが普通らしいのにずいぶん人懐っこい人だ。
 この人も俺と同じように遠くから来たんだろうか。
「じゃ、今後とも宜しくね?」
そう言って微笑んだ後、するっと頭が引っ込んでいった。
 なんだか嵐のような人だ。
 …でも、久しぶりに仕事以外で会話したな。感じていた寂しさも薄れた気がする。
「…明日、何時がいいかな」
 急に楽しくなってきた。我ながら現金だ。
変わった人だが面白そうな人でもあるし、きっと上手くやっていけるはずだ。
…見えなかった下半身のことは考えないでおこう。
少し温くなってしまった残りのビールを飲み干し、部屋に戻った。
変わり始めた日常を少しだけ楽しみにしながら。


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ペーパー再録。
リーマンプチでこれ出そうかなーって思ってたらまさかのネタ被り発覚で封印したという…。

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