しけっぽい空気が書類を湿らせて、めくりにくい紙と悪戦苦闘する間にも雨は降り続いている。 「お?イルカ?なんだよまだいたのかよ?帰れよ」 「あーいや。もうちょっとすればこれが片付くんだ」 同僚が言うのも無理はない。このところ中々家に帰らずにこうして書類と悪戦苦闘している。仕事が多いというのも事実だが、それ以上に。 「お前クソ真面目だもんなぁ。無理すんなよ?俺は帰るけどな!」 「おう!俺ももうちょっとしたら帰るよ」 「そうしろそうしろ。っつーかホントにさっさと帰れよー?」 「はは!ありがとな!」 軽口の応酬は少しばかり落込みがちな気分を癒してくれる。 心配してくれている。でも帰りたくないんだ。 罪悪感がチクチクと胸を刺し、その背中が早く見えなくなればいいと思った。 家で燻っているよりも、一人でこうして何も考えずに仕事に没頭している方がまだマシだ。そんなくだらない理由で残っているだけなのに、こうして他人の同情を買って、それを心地良いと感じている。最悪だ。 「…あと、ちょっとだけ」 書類がめくりにくいから、それで少し遅くなっただけだ。請け負える仕事を全部俺が貰ってきているなんて、誰も気づきはしないだろう。普段よりほんの少しだけ多いだけで、独り身で率先して仕事を引き受けることが多かったから。 家に一人でいれば、この胸に燻る思いと向き合わなきゃならなくなる。伝えるつもりなどないのに、高々受付でたまたま書類を受け取るついでに指先が触れただけで、こうも落ち着かない気分になる己が恐ろしい。 恋なんて、何度もした。いいなと思った相手と寄り沿うことは幸せだったし、できるだけ喜んでほしくて、だから自分なりに努力はしてきた。 その誰ともうまくはいかなかったけれど。 あなたの手は、もうあの子供でふさがってるじゃない。 そういわれておいていかれてしまうのは、俺が相手と向き合えていなかったんだろう。そうして一人になることがどうしても苦痛で、だからもう二度と誰かに惹かれたりなんかしないと決めて、色恋沙汰を想像されにくい性格のせいか、からかわれることはあっても誰にも不振がられずに済んできたんだ。その方が楽だったし、悩まずにいられた。 あの子のことを守りながら、誰かを思えるほど俺は器用じゃなかったんだろうと納得もしていた。 よりによってなんて厄介で…そうでなくても絶対に叶いはしない相手に、こんな風に恋に落ちるなんて考えもしなかった。 それもまるでタチの悪い病のように、何をしていてもあの人のことを考えてしまう。こんなことは初めてだ。それ以前に相手が…どんな女も惚れるような引く手数多な同性だということも、余計に俺を混乱させた。なんだってあんな厄介な相手にと幾度も自分を責めた。 それでも、うっかり落ち込んだ恋から、どうしても這い上がれないでいる。巣立った子供の隙間を埋めるために、寂しさをごまかすためにトチ狂っているだけだと己に言い聞かせて、どうにか自分を騙すのにももはや限界が近い。 「…あー。しけっぽい、な」 山をなしていたそれが、思った以上に早く消えていく。逃避のためにこれだけの集中力を費やしていることが、ほんの少しだけおかしかった。 「あ、いた」 「うお! え?カカシ、せんせい」 窓からその長身を躍らせて、まるで重力を感じさせず、もちろん音もなくそばに立つ人が、幻覚じゃないかと思わず疑った。 なんで上忍がこんな時間にこんなところにいるんだよ?それも、よりによってこの人が。 間抜けにも口を半開きにして見つめてみても、相変わらず見ているだけで心臓が騒ぐ。あの白い指先が、さっき触れて、それだけでこうして残業に逃げなきゃいけないほど…興奮した。 …任務か、それとも他に何かあったんだろうか。できるだけ早くお引取りいただこう。俺の平和のために、それが一番だ。 「あの、どうしたんですか?」 「ん?ああ、ずっと話してみたかったんですよね。ちょうど任務帰りにアカデミー覗いたらいるじゃないですか。チャンスかなーって」 にこりといたずらっぽく笑う人に、チャンスかな?なんて囁かれたら、勘違いしたくなるじゃないか。 「もうこんな時間ですし」 「そうですね。おなか減ったでしょ?いきましょ」 断りの文句は労わりの言葉に引き取られて、思った以上に強い力で握られた手は振りほどけそうにない。 泣きそうだ。…そんなこと、口が裂けてもいえないし、顔になんか出せやしないけど。 「…ありがとうございます」 断れない理由を、上忍の誘いだからだと己をだまして、その手を握り返した。 今日だけだからと自分に言い訳して。 ******************************************************************************** 適当。間に挟んでみた。 お持ち帰り成功上忍の作戦勝ち。 |