春(適当)


 この時期の雨は嫌いだ。
 熱を孕んだ地面に雨粒が跳ねて、むっとする匂いと蒸し暑さを引き連れてくる。
「ちくしょう」
 逃げてきてしまった。この雨で匂いも追い辛いだろう。そもそも追ってくるかどうかさえあやしいものだ。
 あんな言葉は卑怯だ。
「好きだ、なんて」
 頭を抱え込んでへたり込むと、これ以上なく濡れていたはずの服が更に泥の混じる水をすって重さを増した。立ち上がれない理由にするには軽すぎるそれから滴る雫は、そのくせやけに澄んでいる。なにもかもが馬鹿馬鹿しく思えて引きつった顔に笑みらしきものを浮かべてみれば、水面に映っている顔は今にも泣き出しそうに見える。何もかもが嫌になりそうだ。
 今更すぎるだろう? あの人はこれから火影になるってのに。
 告白したのは随分と前の話だ。決して叶うはずがないと知りながら、くすぶる思いを抱え込み続けるより切って捨ててもらいたいなんて自分勝手な理由で、酔いに任せて思いを告げた。
 想像以上に拗らせていたらしい。好きだという言葉の後に、あなたの髪を掻き揚げるときの困った顔が好きだとか、里を愛しているくせに、里に居場所がないみたいな顔をするところも好きだとか、目も耳も鼻も口も、指先だって好きだと喚きたててやった。
 そのとき、あの男はなんて言った?
 ありがとうございますと、それから、ごめんねと言ったんだ。
 分かりきっていた結果でもそれなりに傷ついて、酒に痛む頭を抱えて翌日出勤した俺を、あの男はなんでもない顔をして晩飯に誘ってきた。
 だから、そういうことだなと思ったんだ。上忍様の垂れてくれる哀れに縋るなど馬鹿馬鹿しかったが、こじらせてしまった思いは素直にこの男の側にいられることを選んでしまう。
 なんて不毛で下らない行為。早晩限界がくるはずだったそれは男の根気強さと諦めの悪さと、俺のつくたっぷりの悪態を交わしてみせる器用さで曖昧なまま日常に変わった。
 おかげで捨てることもできない思いに苦しめられるばかりで、思いが欲しいと請うてくれた女性もいたというのになびくこともできないまま、長いこと過ごした。
 任務でいなければほっとするのに不安でしかたなくて、逆に俺が任務に出れば筆まめな男が何かと近況を知らせてくるおかげで忘れることもできない。
 もうこうなったら死ぬまでこじらせてやろうと原を括った。…諦めたとも言う。
 自分に向けられる思慕を哀れんでくれたらしい男の、好意とも情けともつかぬものに浅ましくも縋りながら、男に焦がれ続けた己ごと全てを押さえ込んで生きていこうと決めた。
 決めたんだ。それなのになんで今更。
 火影になると聞いた。だからその足で別れを告げに向かった。
 俺じゃない誰かを妻として娶るだろう男を見ていられる自信などなかったから。
「ああ、ちょうどよかった」
 微笑む男から告げられる言葉など決まっているはずだった。まさかちょうどいいとまで言い捨てられるとは思っても見なかったが、傷つくだけ業腹だ。ここはせめて笑顔でと、そう腹を決めたってのに。
「やっと言える。ねぇ好きです。イルカ先生」
 何を言っているんだと、というつめることすら思いつかなかった。
 背に回る腕に確かな興奮を感じて、そうしてそうやってかごめられたまま床に押し付けられて、天井と、それから男の顔を見上げるような状況になってさえ、動けないままだったんだ。
 それがどういう意味かなんて、分かりきっていたのに。
 思いを告げたときから想像しなかったかといわれれば嘘になる。どっちになるかなんてことまでは考えなくとも、そういう意味で触れたい相手であるからこそ、思い余る前にとフラれる前提の告白なんて無様な真似をしたんだ。
 触れてくる指先が、色違いじゃなくなった瞳が、好きだと告げたあの日よりほんの少し面やつれした顔と、確かな興奮を伝えてくる下肢とが、俺を混乱の渦へと突き落として、全てが終わるまで抵抗すら忘れた。
 いや、嘘だな。幻でも良いから、一時の気まぐれでも良いからと、その身を欲したのは俺だ。浅ましい欲を抱え続けて、狂うほどにこの男を求めていたのは…俺自身だ。

 お情けで体までくれるのかと、せめて怒鳴りつけてやればよかった。

「好きだ、なんてな」
 自嘲することばさえ胸に刺さる。山と詰まれた見合いの釣り書きと、早く伴侶を選べと口々に怒鳴るご意見番と五代目を目にしたのは、つい先日のことだってのに。
 選べといわれて女に手を出すこともできなくて、手近な俺にすがりでもしたのか。あれほど側にいながら指先ですら触れることのなかった男が何をトチ狂って俺なんかに。
 体に奥から滲み出す残滓さえ惜しむ己が悲しい。泥水に混じって溶けて出て行ってしまうことがこんなにも。
 あの瞬間だけでも俺のモノだと錯覚できた。それを行幸と思うべきだと分かっているのに。
「いた」
「…カカシ…いえ、六代目。どうなさったんですか?」
 笑顔は、得意だ。多分この男のせいでなんでもないフリにもなれた。この男と親しいというだけで寄せられる悪意のおかげで、そのくせ俺の変化に聡い男のおかげで、誤魔化すことばかりが上手くなった。
 泥水にへたばってのそれが上手くいくかは別として、放って置いて欲しいことくらいは分かるだろう。
「…うーん?この反応は予想外だったかな。素直に縋ってくれる人じゃないってのは知ってましたが」
 何を今更。縋れというのか。叶うはずのない恋に狂って、これだけ長い間腐りかけるほどに抱えた思いを血を流して悲鳴を上げる心から切り捨てようとしているのに。
「お帰りください。護衛はどうなさいましたか」
「俺のモノにしたと告げに行かせました。これでどこで怪我してもすぐにわかるし、どうこうしようなんて輩がいたら、好きなだけ制裁できる」
 晴れ晴れとした態度で、滴る雫をまとわりつかせたままの白い衣をそのままに、男が俺を抱きこんだ。
「…何を、今更」
「うん。待たせてごめんね。どうしても欲しかったから、諦めるのを諦めたんです」
 この言葉の意味などわからない。男は自分にさえ嘘をつくとびっきり上等な上忍だからだ。表面的なものだけをみていたら馬鹿を見る。
 ただどうやら男はまだ俺を手放すつもりはないらしいことだけは理解できた。
「…濡れますよ」
「もう濡れてます。…俺の匂いが薄くなっちゃったから、帰ったらまたつけてあげますね」
 雨は嫌いだ。愛しい男の体温を奪う水気も、この男を見つめるための目に落ちて視界をにじませる雫も、全部。
 腕が痛むほど捕まれる。瞳からあの赤い炎は失われているのに、燃えるように強い視線でもう自分の意思で逃げることさえ許されないのだと知った。


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適当。
春の雨とこじらせた大人二人。

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