「後ちょっとだから」 「は、はぁそうですか」 妙に血走った瞳の上忍に捕まったのは、夜もとっぷりと暮れた頃の裏寂れた居酒屋で、炭火焼の煤にまみれつつ、ビールを飲み干したときのことだった。 腕を引くのと釣りのないようにきっちり勘定を済ませるのとを同時に済ませたのを、器用だと評価していいのか悪いのか。 とにかく、そのまま店の外まで引っ張り出された段階で、俺の晩飯がどうやらここで終わったらしいことだけははっきりしていた。 「あのー何の御用でしょう?」 あとちょっとだと言われても、夜道で人目がないとはいえ、こんな状態で歩いていることに抵抗がない訳がない。 なんだってこんな目にあってるんだろう。俺は。 会議だなんだと疲れ切ってやっとたどり着いた深夜営業の店で、どうにかありついた晩飯だったのに。 まあビールの肴にまぐろの刺身とがんもの煮物と小松菜の煮浸しと、それからから揚げと白飯と締めのラーメン食った後だったけどな。 コンビニに行くのも面倒だから、バニラアイスも食おうって決めてたのに。あそこのはおばちゃんが手作りしてるから、ちょっと氷が混じってジャリジャリしてるけど、濃厚で美味いのに。 そう思うと、急に腹が立ってきた。 俺の貴重な晩飯を邪魔した挙句、引っ張りまわすなんざ何様だ。…まあ上忍様だが、だからって平和な中忍の生活脅かしていい訳ないだろ。 時として階級差がそのまま待遇の差になることに関しては受け入れているし、任務中なら当たり前のことだ。 でもプライベートは別だろ。別。つーか俺のアイスを返せ。 「…うん」 急に立ち止まられたせいで、前を歩いていた男にぶつかってしまった。 おいおいなんなんだ?目的地はここなのか?っつーかここ住宅街だぞ?任務ならそういいやがれよな。 いつもなら黙って言う事を聞いていたかもしれない。 だが言い訳を許してもらえるなら、酒が入って多少気が大きくなってたんだ。だからつい。 「任務ですか?これ?」 「え?いえ。違います」 「そうですか!じゃあまた今度で!おやすみなさい!」 きっちり頭を下げて挨拶は済ませた。 デザートを求めて不満げに呻く腹に収めるものを買って、さっさと帰ろう。ゆっくり風呂にも入ろう。幸い明日は休みだ。頭が溶けるくらい眠ったって誰も文句は言わないだろう。 できれば朝飯も調達して、そういや今月新発売されたカップラーメン、CMでやってな。まだ買ってないからそれにしようか。 ほくほくと歩き出した途端、また何かにぶつかった。というか捕まえられた。なんだこりゃ?なんで抱き締められてんだ? 「待って」 「…デザートが…それに風呂にも入らなきゃいけないし、洗濯だってしねぇと。あとラーメン食うんですラーメン。新発売の」 もうすっかりへそを曲げていた俺は、上忍の意味不明な行動をどうこうする前に、さっさとうちに帰りたいんだということを一生懸命主張してしまっていた。 季節柄洗ったらすぐ乾くからって溜めちまってんだよな。下着も買って帰るか。念のため。 「結構酔っ払ってたのね…」 「あのーもう帰っていいですか?」 早く帰りたい。そして寝たい。風呂は外せねぇけどな。今日はクソ忙しかったってのに妙なのに絡まれて気分が悪いから、もらいもんの温泉の素でも使ってゆっくりしよう。 「えーっと。デザートならあります。お風呂も。実は終わったら入ろうと思って用意してあるのですぐ入れるし。イルカ先生の好きな温泉の素だってあるよ?ね?」 「えーっと?で?」 何でお前の家に揃ってるものを聞かされなきゃならねぇんだよクソ上忍。なんかイライラしてきたな。どうしてくれよう。何でも持ってますーって嫌味かそれは。 「洗濯機も全自動だから。持ってきて洗って置きます」 「なにを?」 なに言ってんだこいつという意味をこめて、息がかかるほど近くで情けなく眉を下げている男に白い視線をたっぷり向けてやった次の瞬間、ぐらりと世界が歪んだ気がした。 「はい、到着」 「おお?涼しい!涼しいですねぇ!…で、どこですかここ」 蒸し暑い我が家とは雲泥の差だ。オンボロクーラーはここの所気まぐれに吐き出す空気の温度を変えるせいで、殆ど扇風機と変わらない扱いになりつつある。 いいな。上忍。憧れていた昔が懐かしい。なれなくはないがお主には向かんと言い切ってくれた三代目の事を思うと鼻の奥がつんと痛んだ。 あの頃はまだガキだったから腹も立ったし、弱いと言われた気がして意地になって修行して、それでも意見を曲げてくれなかった三代目に対してこっそり悔し涙も流したもんだが、本当に俺のことを思って言ってくれたのが分かったから今は受け入れられている。 上忍になれば生活レベル以上に任務の過酷さが増す。それ以上に、いざとなったら仲間を切り捨てられないし、任務上必要だと言われても、子どもが絡むと決断しきれない俺には不向きであることは確かだ。 でもいいな。上忍。とりあえず何したいんだかさっさと言ってほしいもんだが。 「俺の家です」 「へー?で、何の用ですか?」 「いやあのね。本当はもう限界だなぁって。一目見るだけにするつもりだったんだけどね。見たら我慢できなくて」 「はぁ」 「でも酔っ払ってるし」 「そうですねぇ。びーるうまかったですよ」 店主に一人酒が美味くなったらおしまいだよと冷やかされはしたが、笑ってどんどん持ってきてくれたからな。一人がなんだ!この人だって一人だぞ!…まあモッテモテみたいだけどなーどうせもてねぇよ畜生。 …どうもこの人といると余計なことを考えすぎてしまう。さっさと用ってヤツを済ませてもらってとっとと帰ろう。クソ暑かろうが狭かろうが、楽しい我が家だ。でも次の給料日にはやっぱりクーラーを新調しよう。 「食っちゃっていいの?」 「は?なにをですか?」 「…そ、ですよね…うーん。でも勢いってもんが」 「風呂入りたいんです。デザートー!洗濯!眠い!」 家に帰せーと騒いだ辺りでやたらとしゃれたシンプルな食卓に座らされて、いつも高くて手が出ないアイスが置いてあって、スプーンも出してくれて、食っていいって言うからほくほくしながら食って、はたけ上忍って挙動不審だけどいいやつだな、なんて不遜な事を考えてたら、今度は風呂に連れて行ってくれた。 広くて綺麗な風呂に温泉の素は選び放題と来たもんだ。上忍への嫉妬と共に、がっつり選び倒してやったさ。 だってな。選ぶのに真剣になりすぎてたら、いくらでも使っていいとか言うんだぞ?なんだ上忍! …俺もがんばって金をためよう。 小さな反省を胸に風呂を満喫して、そこでほどほどにアルコールが抜けてきた頭ではたと気づいた。 なんかこの状況、おかしくないか? こういう話あったよな。美味しい料理屋だって、最終的には体にクリームとか塗られてぺろっと…。 「イルカ先生?」 「うひゃい!」 「…大丈夫?着替え置いて置きますね?」 「は、はーい」 …いや。あの人上忍だぞ?中忍っつーか人間食う訳ないよな?女は死ぬほど食ってそうだけどな!…悔しくなんかないぞ…! もっとじっくり浸かっていたかったが、流石にまずいだろうと適当に切り上げ、風呂から上がった。用意されていた着替えが俺にぴったりサイズのパジャマで、しかも新品って辺りに寒気を感じつつ、袖を通した。 だってな。俺の服、着てきたヤツだけじゃなくて、家に積んどいたやつまで回ってるんだ。全自動の高そうな洗濯機の中で。 いざとなったら変化してでも逃げようと、その段階で覚悟は決めた。上忍が何ぼのもんだ!中忍だってやるときゃやるんだぞ! 「お風呂、ありがとうございました!そそそそその!俺は!」 「…よかった。長いから心配してたんです。麦茶飲むでしょ?」 「え、はい」 受け取って、丁度水分を欲していた体の望むままに一気にそれを空にする。 …いやいやまてまてまてそうじゃねぇ。何やってんだ俺は。それ以前にこの人はなにをしたいんだ。 「あのー、それでですね」 「ひゃい!」 「…酔っ払ってるところをどうこうしちゃうのもどうかと思うんです。側にいられるだけでこんなに幸せなのに」 「へ?」 真剣な瞳が潤んで切なげに揺れている。 そっと握ってきた手もうっすらと冷たい。 まるで緊張してるみたいに。 「我慢、もう少ししてみようと思います。明日覚えててもらえたら、もっとちゃんと告白しますね?」 「え?え?」 「お布団、こっちです。もう寝ましょう?」 「あ、ふかふか…!」 「そ?気に入ってもらえてよかった」 寝心地は最高で、パジャマも着心地が良くて、隣にわけのわからないことを言う男がもぐりこんでは来たが、ここはこの人の家なんだし。 「…まあいいか」 そう判断した俺は、やっぱりまだ酔っ払っていたのかもしれない。 「ふふ。かわいー。夢みたい」 蕩けそうに甘い声でそう囁く男の隣で、俺はさっさと意識を手放していた。 翌日、隣に寝ていた男から土下座と共に告白されるというすさまじい経験をし、ついでにパニックになった俺がパジャマのまま家まで遁走して着替えがないことに絶望してたら、洗い立ての洗濯物をきっちり全部畳んで追いかけてきてくれた男に勢いのまま押し倒されると言うわけのわからない目に合った訳だが。 パジャマ姿でへたり込んでるのをみたら我慢できなかったんですと涙ながらに詫びた強引なんだかへたれなんだか分からない男は、今日もせっせと俺のために飯を作ってくれている。 ******************************************************************************** 適当。 勢いだけで生きる人々。 |