全てが夢の中の出来事だった気さえする、あの晩の情事。
浮遊感の中で彼に抱かれた。
別れの瞬間には後ろ髪を引かれた。
いつまでも彼の腕の中でまどろんでいたかった。
しかし、彼は去って行った。
彼の帰るべき場所へ――
あれから一ヶ月。
あの日の出来事が、ますます現実感を失ってゆく。
しかしひとたびまぶたを閉じれば肌の感触が、彼の匂いが、
昇りつめる快感が、確さを持って蘇り心と体を熱くする。
他の誰と交わっても、彼と共に感じたあの快感が得られない。
彼の指を、唇を、張りつめる肉を、狂おしいほど今も欲している。
私の淫らな欲望を見透かすようなあの穏やかな瞳に、
体じゅう舐めまわすように見つめられたい。
そんな、熱に浮かされたような日々を過ごしていたある日の夕方。
私の執務室へ、一本の電話が入った。
慣れた手つきで受話器を取り、いつものように事務的な口調で対応した。
「…御剣さんですか?ご無沙汰しています」
受話器の向こうから届く声。
あの晩の甘い囁きが耳の奥に、空気感をまとって蘇る。
「あ…」
息を飲んだ。
受話器を握る指先が震える。
あんなにも心の中で望んでいた人物がこの受話器の向こうにいるというのに、
“ご無沙汰しています”などと当たり障りのない返答をしてしまう私がいる。
「お元気でしたか」
「はい…」
微かな間、彼の息遣いすら聞き逃さないようにと耳を澄ます。
一呼吸置いて、彼が言う。
「あなたに、また会いたいと言ったら…怒りますか?」
ドクンと心臓が跳ねる。
受話器から伝わってしまうのではないかと思うほど、自分の心音が耳につく。
乾いて張り付いた喉から絞り出すように、やっとの思いで声を発する。
「わ、私も…あなたに、会いたい…」
約束の時間まであと15分。
指定されたホテルの一室。
書き留めたメモを震える指で持ち、ドアの前に佇む。
このドアを隔てた向こう、あの空気をまとって、彼がいる。
そう思うと一秒も早く飛び込んで行きたいような、
気配を消してこの場を立ち去りたいような、妙な感覚に陥った。
足元にぐっと力を込めると軽く握りしめた手を上げ、ドアを叩いた。
自分の鼓動がうるさい。
ドアの向こうから彼の声がするまで、ひどく永い時間に感じたが
実際は数秒のことだったと思う。
ドアノブが回る。
音もなく開いたドアの向こうから覗く、穏やかな笑顔。
その顔を見た瞬間、こんな風にのこのことやって来てしまった自分が
急に恥ずかしく思えて、かあっと赤面する。
踵を返して逃げ出したい衝動に駆られる一方、
我を忘れてその胸に飛び込みたいと思う私がいるのも事実だった。
彼を前にするとどうしてこうも、心を乱されてしまうのだろうか。
形式的な言葉すら浮かんで来ない。法廷で言葉に詰まったことなどないのに。
挨拶すらせずに黙って突っ立っている私に、彼の手が差し伸べられる。
「よく、来てくれましたね。」
何も考えず反射的に、私も手を差し伸べる。
にこりと笑った紳士はその手を握ると、意外なほど力強く腕を引いた。
不意のことでバランスを崩し、あっけなくも私は彼の胸の中に倒れこんでいた。
彼に抱きとめられた私の背後で、扉が閉まる気配を感じる。
「会いたかった」
耳元で囁かれる、低く甘い声。
同時に、この細い腕にこんなにも力強い抱擁ができるのかと思うほど
きつく抱き締められる。
コロンの香りが鼻をかすめると、あの晩の事がフラッシュバックのように蘇る。
それ以上の言葉も交わさぬまま、彼の腕の中で口づけを交わした。
満たされずにいた日々を取り戻すように、激しく唇を求め合った。
我を忘れ、呼吸さえ忘れ、ただがむしゃらに舌を絡ませる。
部屋には2人の乱れた呼吸と、唾液の混ざる水音しか聞こえない。
キスを交わしているだけなのに、膝の力が抜けてゆき上手に立っていられない。
彼の唇が耳たぶから首筋へ移ると、体は早くも疼き始める。
抱きとめられている腕の力がふっと抜けた拍子、私はその場に崩れかけた。
彼にあわてて抱きすくめられる。
「大丈夫ですか?」
「は…はい…」
支えられながら、彼を見上げる。
目が合うと、あの困ったような笑顔を浮かべた。
「…君の眼を見た瞬間、我を忘れてしまった」
恥ずかしさ、照れくささ、嬉しさ…
色々な感情が複雑に去来して、なぜか目元がじんわりと潤む。
彼がますます困ったような表情になる。
「そんな顔しないで。めちゃくちゃにしてしまいたくなるから」
「………して…」
「うん?」
「めちゃくちゃに…して…くれないだろうか…」
無意識に口走っていた。
少し驚いたように目を見張った彼が、すぐにまた穏やかに微笑む。
「そんな風に言われてしまったら自分を止められなくなるよ」
再び確かめるように唇を合わせる、そっと。
「こっちへおいで」
彼に手を引かれて部屋の中央へ進む。
支えられながら、まだシワ一つ入っていないベッドに腰掛ける。
私のすぐ傍に彼が腰掛け、髪を撫でてくれる。
「先にシャワーを浴びて来る?」
眼鏡の向こうの穏やかな目が細まる。
私はぷるぷると首を振り、呟いた。
「シャワーは…いい…」
「え?」
「は…はやく、し…したい…」
言ったあと、あまりの恥ずかしさに顔が燃え上がる。
目をそらしうつむくと、私の頭を彼が抱き寄せた。
「君は本当に…不思議だ。
君を前にすると、僕の脆弱な理性などひとたまりもない」
そのまま、ベッドの上に優しく押し倒された。
そして、熱いキスが降って来る。服がゆっくりと剥ぎ取られてゆく。
キスに夢中になっている間に、いつしか一糸まとわぬ姿に剥かれていた。
彼の視線が私の裸体を舐める。
それだけで優しく愛撫されているような錯覚に陥る。
なぜこの紳士にこんなにも、心も体も惹かれるのだろうか……自分でも良くわからない。
ただ彼の傍にいると、私の中にずっと欠けていた何かがゆっくりと暖かく
満たされてゆくような気がする。
彼に触れられると、これまで経験したことのない快楽の中に墜ちてゆくような気がする。
そして彼もまた、服を脱ぐ。
正確な年齢はいくつだか知らないが、彼の年代にしては意外なほど引き締まった裸体。
そういえば、彼の裸を見るのは初めてのことだ。
彼が私の上に重なり、肌と肌が触れ合う。
暖かいと感じる、ただそれだけで穏やかな幸せと緩やかな快感が全身を包む。
彼の背中に腕を回し、足を絡ませる。
耳、首筋、鎖骨…彼の舌にチロチロと肌をなぞられ、耐え切れずに鼻を鳴らしてしまう。
痺れるような体に彼を強く感じたくて、回す腕に力が入る。
彼の舌が私の胸の頂をかすめると、意図せず声が漏れた。
「んっ…」
それに応えるように耳元に口を寄せ、彼が吐息のような声で囁く。
「君の声はとてもいやらしくて…ひどく興奮してしまう…
…もっと聞かせて」
薄く赤い突起を舌で包み込むように舐めあげられたかと思うと、
音を立て唾液を絡ませ、尖らせた舌先にチロチロと擦られる。
歯を軽く立てられると、思わず腰が浮く。
指と口で両方の頂を刺激され、いとも簡単に淫声をあげてしまう。
愛撫しながらも確認するように私の顔を見やる彼と、時折目が合う。
「君のその…潤んだ目に見詰められると…弱い」
穏やかに微笑んだ彼の手が、すでに痛いほど張り詰めている私の性器に
そっと添えられる。
透明な液がとろとろと溢れ出す先端を指で軽くなぞられれば、
淫らな声をあげながらピクリと体を震わせてしまう。
「ふぁっ…あ」
指先が液体を絡めながらくるくると先端の周りを撫でる。
「あっ、んっ」
指の動きに呼応するように、ピクピクと体が跳ねる。
彼がベッドの上を動く気配がする。
次の瞬間、敏感に反り立つ私の性器を生暖かい粘膜が包み込んだ。
「んあぁ…っ…だ…め…やめっ…」
抗議すれば、悪戯っぽく彼が言う。
「やめようか?」
「も…もっと欲しい…が…い…イッてしまいそう…になる…」
息が乱れ、途切れる言葉で訴える。
「い…挿れられて、イきたい……」
快楽に潤む目で見つめると彼は切なげな表情で薄く笑い、黙ったまま頷いた。
「ちょっと待って」
彼は立ち上がるとサイドテーブルに置いてあったボトルを手にした。
私と会うために、予め用意してくれていたのだろうか。
ボトルからローション状のものをたっぷりと手に取り、手の平で温める。
「じゃあ、脚を開いて力を抜いて。」
私は言われるがままに、恥ずかしい部分を彼に突き出して待つ。
穴の周りをほぐし始めた指が、やがてぬるりと肉を割って滑り込んで来る。
ゆっくり出し入れされる指。だんだん彼の形に合わせて形作られてゆく肉壁。
彼が指を上向け少し曲げると、やや盛り上がった肉の丘に指先が擦れた。
「んっ!あ…ぅ」
私の反応を楽しむように、彼の指先はその場所をかすめるようにゆっくりと行き来する。
その指先から圧がかかるたび私は腰を浮かし、淫らな声をあげた。
「ぃや…や…っぁ…ああ…っん」
体の奥底から沸いて来る疼くような快感が、
次第に強さを増し私の神経を溶かすように押し寄せる。
「は…早く…い、挿れ…て…ほしい…」
私をさらおうとする快感に必死に抵抗しながら涙目で訴えると、
彼はゆっくりと指を抜きながら微笑した。
「すまない…君があまりにかわいく鳴くものだから、つい意地悪をしてしまった」
私の髪を撫で、そっと額に口づけをくれた。
「実は僕の方も、もう限界のようだ…。早く、君の中に」
そう言う彼に私は言葉こそ返さなかったが、四つん這いになって脚を開き、
彼に向けて尻を突き出した。
物欲しげにヒクヒクと動いているのが自分でもわかる。
やがて彼の物があてがわれる。ググっと割り入ってくる感触。
彼を包み込んで拡がる。
「っく」
かすかに彼が呻いた。
最初のみわずかな抵抗があったものの、後は難無く根本まで飲み込んだ。
深く突き刺さった状態で、まずはじっくりと味わうように私の中で止まる彼。
「ああ…君の中は…とてもいい」
彼がゆっくりと腰を引くと、濡れた肉壁が擦れ合った。
「んっ…んあ…はあっ」
引いた腰をゆっくりと押し戻す。私の肉がまた彼の形を成す。
静かに挿し引きしているためか卑猥な粘着音が聞こえ、興奮を加速させる。
何かにすがっていないと壊れてしまいそうで、シーツを手繰り寄せて強く握り締めた。
「もっと…激しく…」
私が言うと、彼が腰を打ち付けてくるペースが徐々に早まる。
「ん、あっ、はぁっ、んっ、い、いいっ、」
気がつけば夢中で腰を振っていた。結合部に全神経が注がれる。
雌犬のように尻を突き出し、女のように喘ぎながら、娼婦のように自ら腰を振った。
快楽の虜となり、何もかも忘れた。身分も、立場も。
「あっ、も、い、イくぅ…!ん、あ、んっ…んあっ…!!」
ビクビクと痙攣する体、脈打つ性器からはドロドロと白い体液が溢れ出る。
彼のものを飲み込んでいる肉がぎゅうっと収縮すると、彼もまた切なそうに息を吐いた。
「っく…!」
包み込んでいる肉の壁に、かすかながら彼の脈動を感じた。
四つん這いのままシーツの上に倒れ込んでいる私の後ろで、
彼もまたはぁはぁと息を荒げる。
やがてゆっくりと、私の中から彼が引き抜かれる。
同時に力果てたように、ベッドにうつぶせる私。
荒い呼吸に合わせて肩が上下する。
その私に半分覆いかぶさるように、彼がうつぶせた。
汗で湿った肌同士が密に触れ合う。
彼は私の前髪をかきあげ、ゆっくりと撫でてくれる。
脱力感と疲労感で虚ろな目を彼に向けると、いつものように優しく微笑んで、
それからそっと目元に口づけをくれた。
「今こんな事を言うのは卑怯かもしれないが…
君は、僕に抱かれる事が…嫌ではないのかい?」
彼の言葉に私が慌てて首を振ると、彼はふっと微笑んで
そっと唇を重ねて来た。
検事局きっての天才検事と謳われた私が、彼の前では
まるで幼い子供のように受け身になってしまう。
ただ、彼の意志に、言葉に、体に、身を委ねてしまう。
今はその関係が心地良いから、もうしばらくはこうしていたい。
暖かい彼の手に髪を撫でられるうち、
私はいつしかまどろみの中へ落ちて行った。