「や、ミツルギちゃん。泳いでる?」

テノールの声に、聞き覚えのあるフレーズ。御剣は、思わず振り返った。
「……局長」
「ああ、そんな堅苦しい呼び方しなくていいって。巌徒でいいよ。ガンちゃんっていうのも」
「何か、御用でしょうか」
御剣は、この男が少し苦手だった。笑顔という名の仮面を、常に被っているように見えるからだろうか。
少なくとも、こんな所で会いたいか否かと言えば……

「いやいや、難しい話じゃないのよ。すぐ終わるし。……っと」
チン、と目の前で"扉が開いた”。
巌徒はその中に入ると、内部のボタン……"開く”のボタンを押して、こう言った。
「さ、乗りなよ。ミツルギちゃん。何階に行くんだい?」

鉄の箱、エレベータの中。巌徒が、誘っていた。

御剣は目的の階を告げると、エレベータに乗り込んだ。
ドアが閉まった途端、息苦しさと頭痛が迫ってきた。
それでも局長の手前、何とか耐えるしかない。
柔らかい部分を鷲掴みされるような痛みの中、御剣は無理矢理屹然と立っていた。

やがて、がくん、と身体が引っ張られるような感覚があった。上昇を始めたらしい。
循環しない空気。ノイズめいたモーター音。そこからせめて意識を逸らそうとした。
「一体、何の御用なのでしょうか。局長」
我知らず掠れた声と震えた喉に、自分で驚いた。気づかれた、だろうか。
「ん? あーいや、ホントたいしたことないんだけどね。ちょっとミツルギちゃんのことが心配でさ」
心配――何が、だろうか。もしかして、今、この状況が――

“アレ”が、欲しくなった。普段ならとっくに使っているが、今、局長の目の前では、使えない。

「っとね、ミツルギちゃん。コレ、見て欲しいんだけど」

巌徒が取り出した“それ”を見て、御剣は目を見開いた。
見覚えのある、白い袋。欄に整った横文字の名が並ぶ。
そしてそこには、“御剣怜侍”の名前も、書かれていた。


「これ、ミツルギちゃんの薬だよね? たまたま落ちてたから拾ったんだけど……」

嘘だ。御剣は心の中で呟いた。
普段、“薬”は、自室にしか置いていない。
必要最低限の分を“お守り”として切り取って持ち歩く事はあるが、袋ごと表に出すことは滅多に無い。
何故、その薬が、ココにある。――明らかに矛盾している。
しかし「異議あり」と叫ぶ事すら、出来なかった。普段冷静さを保っている頭脳を、巌徒が、圧迫した空気が、閉ざしていく。

「あんまりこういうのには詳しくないけどさ……これ、いわゆる“精神安定剤”……で、合ってるよね? しかも、強力なヤツ」

嘘だ。嘘だ。何が詳しくないだ。一体何を言おうとしている。

「いやあ、まさか天才検事が、こんなお薬を飲んでたなんてねぇ……1人で大変だったでしょ? カルマちゃんにも相談できなかっただろうし」

狩魔、という言葉に、御剣の肩が震えた。

「だってあの完璧主義のカルマちゃんが、弟子が精神疾患を患ってるなんて、許すとは思えないもの。絶対に」

かちかち、という妙な音に気づいた。震えて自分の歯が鳴っているのだと、唐突に理解する。

「世間も目も気になるしね。“天才検事はヤク中だった!”ってスッパ抜かれてもおかしくないよ、これじゃ」

背骨の神経を氷が伝うような悪寒。唐突に湧き上がる吐き気に、涙で視界が滲んだ。

「……それで、心配になってさ。相談に乗ろうと思って……ミツルギちゃん?」

思わず、口元を押さえる。自分の足とは、これほどまでに不安定なモノだっただろうか。

不意に、ナニカの手が、狭まる視界の外から伸びてきた。

ダレカの手。ナニカの手。それが、とても禍々しいものに見えて――

気づいた時、自分の掌が、じいんと熱くなっていた。どうやら無意識に、その“手”を振り払ったらしい。


「――はは」

唐突に、低い声が、鼓膜を揺らした。

「本当に、重症みたいだね。――ミツルギちゃん」

巌徒の低いテノールが、自分の名を呼んだ。


次の瞬間、ドアが開いた。


薄暗い廊下だと言うのに、御剣には明るい場所に見えた。
すいません、と、震えた声で呟き、そのまま廊下に転がり出た。
吐き気がする、と思った瞬間。胃液が逆流し、咽喉を焼いて外部に流れ出ていた。
胃液と涙の混合物が、床にびちゃびちゃと音を立て、クラバットを穢しながら零れていく。
必死に口を押さえるが、寒気と同時に這い上がる吐き気には、どうすることも出来なかった。

「ねえ、ミツルギちゃん」

這い蹲る御剣の背後で、巌徒が言った。


「辛くなったら、いつでもおいでよ」

「待っているよ、ずっと、ね」


ドアが、音を立てて、閉まった。


執務室に入ると、御剣は鍵をかけ、デスクの引き出しに手を掛けた。
普段馴染みの刑事にも掃除させないその段には、御剣の“お守り”が入っていた。
銀色のシートから次々と錠剤を押し出すと、御剣はそれを口内へ放り込み、噛み砕いた。
粉状になった苦い薬と、嘔吐後の妙な甘みと酸味を伴った唾液が、ひりひりと焼け痛む咽喉を落ちていく。
耳につく荒い息遣いが、自分のものだと漸く気づいた。
手に握られたシートはくしゃくしゃになっており、その角が皮膚を傷つけている。
吐瀉物に塗れたスーツは重く、普段の真紅は見る影も無い。
まるで糸を切られた人形のように、御剣は床に座り込んだ。


“だってあの完璧主義のカルマちゃんが、弟子が精神疾患を患ってるなんて、許すとは思えないもの。絶対に”

その通りだ。

“世間も目も気になるしね。“天才検事はヤク中だった!”ってスッパ抜かれてもおかしくないよ、これじゃ”

その通りだ。

“本当に、重症みたいだね。――ミツルギちゃん”

「――その通りだ」

ロジックで誤魔化された脆弱な心が、震えていた。



「根は深いみたいだねえ。やっぱり……まあ、最悪植物人間になっちゃうケースもあるみたいだしね、PTSDって」

薬の袋を弄びながら、巌徒はひとりごちた。
あの急激な反応。かのDL6号事件の傷跡が抉られたに違いない。
――否、自分が抉ったのだ。あえて。
誤魔化された古傷はあっさり開き、真新しい血液を流した。
目に見えない血だったが、巌徒には、あのスーツよりもなお美しい緋色に感じられた。

剥き身の魂は美しく、まるで痛みに震える子どものようだった。


「……まあ、どっちにしても、来てくれるよね」

ぎゅっと、薬の袋を握る。御剣の精神を支える、精神安定剤達を。


「待っているよ。ミツルギちゃん。ずっと、ずっとね」

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