「ちゃん」
「何ですか?小暮さん・・・・」
「何度も言うようだけど・・・・」
「またそのことですか・・・・?小暮さんも心配性ですね。私はそんなに物忘れ激しくないですよ。
要は眼鏡を外さなければ良いんでしょう?」
「あまり自覚ないのかもしれないけど、ちゃんの目って物凄く印象的なのよ。それこそ、特殊メイクでさえ隠せないくらい・・・・。」
「そのための眼鏡ってことでしょう?」
「そう!一応眼鏡を外したくくらいじゃ分からないようにはするけど・・・・。絶対じゃないわ!
勘の良い人だったらもしかしたら・・・・・・・・・」
落ちた眼鏡を見た瞬間、最初の日のことを思い返していた。
あの時は、「眼鏡をずっとかけてれば良いんでしょう?」と単純に考えていた。
落ちた眼鏡と
目の前で唖然としている忍足先輩の姿に
今になってようやく、特殊メイクの上に眼鏡をかけさせて、「出来るだけ眼鏡は外しちゃだめ」と繰り返し言った小暮さんの言動全てがはっきりと理解できた気がした。
絡み合う視線。
わずかに胸の鼓動が高鳴り始める。
―忍足先輩が小暮さんの言った『勘の良い人』でなければ良いな
この重大事に
私はあまり焦りもせず、
そんな馬鹿みたいなことを考えていた・・・・。
110
25 -attrattiva-
『お前・・・・・・・・・・・・誰や?』
まさか第一声がそれとは思わなかった。
ずっと今まで一緒にいたのに
『誰』って・・・・。
驚愕の発言だ。
けど、彼にとってはそれが最もこの場にふさわしい言葉だったに違いない。
今の彼の表情がそれを雄弁に物語っていた。
だからこそ、私は今どれだけ自分が危機的状況に立たされているか理解出来るのだ。
多少着替えを見られても大丈夫だ。
多少言いたいこと言っても大丈夫だ。
多少気を抜いても大丈夫だ。
男の格好をした自分の容貌を鏡で見るたびに最初にはあったはずの
『不安』 『恐怖』 『未知のモノへの好奇心』・・・・・
全てが見る見るうちに薄れていくのを感じていた。
ソレと共に緩んでいく緊張感。
小暮さんの言っていたことを決して忘れていた訳じゃない。
けど。
別に眼鏡を外したって実際はどうってことないだろう・・・・と
心の底では高を括っていたのかもしれない。
ロッカーにぶつかったのも、上から書類が落ちてきたのも・・・・
そして眼鏡が外れたのも
すべて不慮の事故だ。
けど。
それでも。
外れても気付かないほど、私の脳内では大して重要なことではなかったのだ。
だから、落ちた眼鏡を見て、一瞬驚きはしたが、特に焦ってはいなかった。
忍足侑士の顔を見るまでは・・・・。
忍足先輩の目が・・・いや全てが、私の失敗の大きさを表していた。
『このままではイケナイ』
急に頭が警報を鳴らす。
徐々に高鳴る胸の音。
自分のすべき行動が分からなかった。
けど、一つだけ確実に分かっていることがある。
―ここで焦ったら終わりだ。
それだけだ。
とにかく、今私がしなければならないのは少しでも早く、けれど決して焦らず眼鏡をかけて平然を装うことだ。
そう悟った私はもう一度眼鏡に視線を移すと、何事もなかったかのようにごく自然に床に横たわっている私の眼鏡に手を伸ばす。
手に取った眼鏡は多少、埃を被ってはいるものの、割れてもいなければ傷さえもついていなかった。
私はホッと一安心し、目の前に佇む忍足先輩に分からないように小さく息を漏らす。
そして・・・
私は何事もなかったかのように冷静に俯いたまま眼鏡をかけると、ゆっくりと顔を上げた。
今、起こったことは別に大したことじゃないんだ、と彼に理解させるために・・・。
私は眼鏡のレンズ越しにしっかりと彼の姿を捉える。
その瞬間、わずかに忍足先輩の肩が震えた気がした。
だが、あくまで気がしたに過ぎない。
何故なら瞬きをする一瞬の間に彼の顔は数分前の普段の彼に戻っていたから。
そのことを確認することは不可能だった。
眉をこれでもかというほど顰め、細められたその切れ長の瞳には、先程までの戸惑いの色は映し出されない。
そして、
その右手は何か考え込むかのごとく口元を覆っていた。
彼のそんな動作の一つ一つが今の私には気にはなって目が離せず、眼鏡のレンズに隠れた瞳は彼を凝視する。
本当だったら、彼が一体今、何を見たのか。
どこまで分かったのか。
知りたくて堪らない。
が、それ以上にこのまま彼と見詰め合っている事態だけは免れたいという想いが強く。
私は
「ほらっ!向日先輩に忍足先輩。俺と一緒に帰るつもりがあるのなら、さっさとこの書類片付けるの手伝って下さいよ。手伝わないなら邪魔だからさっさと帰って下さい。」
普段より大き目の声でそう言い、両手で服に付いた埃を払いながらゆっくりと立ち上がる。
それは、暗に
『さっさと帰れ』
と告げるものだ。
そして、もう一つの隠された意味。
「なんかお前偉そうだぞ!」
不愉快そうに返事をしたのはやはり向日先輩の方だった。
そう。
向日岳人の言動が見たかった。
彼が一体どんな反応を示すのかを見て、知りたいと思った。
彼もまた私の素顔の一片を見たのか確認したかったのだ。
私が予想した通り私の言葉にきちんと反応を示してくれた向日先輩はソファの後ろから勢い良く飛び出す。
―まだソファの後ろに隠れていたのか。
彼の行動に半ば呆れながら、私はまるで出てくるタイミングを待ちわびていたかのように、コチラに向かって大股でバタバタと音を立てながら寄ってくる向日先輩の姿を見つめる。
今、私が知りたいと思ってしていることは別に必要なことでは無い。
だって・・・彼が私の眼鏡の下を見てしまっていたとしたら、それはすでに変えようの無い現実なのだから。
今、彼を探る必要性など皆無なのに・・・・
そう思いながらも私は向日岳人を試していた。
説明出来る大層な理由があるわけじゃない。
ただ。
告げているのだ。
幾度となく危機に晒されてきた私の勘が。
頭の中で、必要以上に研ぎ澄まされた感覚を持つ――という女が叫んでいるのだ。
今、動かなければ本当に手遅れになる・・・・・と。
どうやら、私は自分で思っている以上に向日岳人という人間を過大評価しているらしい。
口を硬く結んで近付いてくる向日先輩を睨みつけるように見ながら、
「手伝ってくれるんですか?」
私は散らばった数百枚以上の書類のたった数枚を手に、念を押すように向日先輩に尋ねる。
別に含みのある言葉ではなかったはずだ。
ただ、単純に質問しただけだというのに。
何故か、その私の態度が負けず嫌いの彼のプライドとやらに触れてしまったのだろう。
彼は、両手を腰に持ってきて、仁王立ちになるとわずかに体を前のめりにし、
「だーーーーーーれが手伝うかよ!お前が汚したんだから全部お前が掃除しろよな!!俺たちはもう帰るんだよ!」
顎を突き出し気味にそう吐き捨てた。
そして、それと同時に私は『彼は何も見ていない、もしくは見たとしても何も気付いていない』ことが分かり内心ホッとため息を漏らす。
全体を見れば、私にとって不可解な彼の言動も、その一つ一つの行動自体を見れば単純なものだ。
単純で分かりやすい。
それが今回のことでよく分かった。
そう。
彼は興味だけで動くのだ。
逆を言えば、興味が無ければ彼は動かない。
人間とは大体そういうものなのかもしれないが・・・・・。
けど、彼―向日岳人―の場合それが顕著過ぎるのだ。
そして、彼はそれを制御する方法を知らないし、それ以前に制御しようとも思っていない。
それさえ分かれば、彼の次起こす行動が手に取るほど分かってくる。
もし、彼が今、何かしらに気付いていたとしたら、きっと向日岳人という人間であるなら必ず何らかの行動を起こそうとするだろう。
それは、面白いほど分かりやすく、決してこんなに普段通りを装うことなど出来ない。
彼はそんなに器用じゃないから。
ましてや、こんなにも向日先輩の好みそうな状況を、彼が見逃すわけがない。
もし、何かに気付いていたら
彼なら言うはずだ。
「手伝ってやるよ。」
と。
もしくは、手伝わないにしても何もせずに『帰る』などありえないだろう。
だって、それは彼にとって目の前にある極上の遊具を見す見す逃すようなものなのだから。
「他人の不幸は蜜の味」
まさに彼らそのものを表した言葉だ。
しかも・・・。
特に私のような彼らにとって苛めがいがある人間の不幸など最上級の蜜だろう。
これは全て私の予想でしかない。
けど、確信はあった。
一番大切な時に抜けていて発揮出来ないのが惜しいが、昔からこういうくだらないことには人一倍勘が良く働くのだ。
特に自分が興味を持ったものに対しては・・・・・・
仁王立ちしたまま、見下すように私を見る向日先輩に負けじと私は上目遣いに睨みつける。
「じゃぁ、とっとと帰って下さい。掃除の邪魔です。俺だって早く帰りたいんだから。」
これがある意味本音だった。
私は彼らからフイと顔をそむけると、散らばった書類を上手く避けながら忍足先輩から離れるように一歩踏み出し。
それから、立ち位置を変え再びしゃがみ込むと、忍足先輩と向日先輩に背中を向けて書類を掻き集め始めた。
それは本当に掃除したかったというのもあるが、同時に忍足先輩の私を観察するような鋭い視線から逃れるための一種の防衛策でもあった。
そんな私の行動の意味など全く知らない向日先輩には、自分が侮られていると感じたのか。
当然のごとく私の行動は向日先輩の逆鱗に触れ、彼は仰々しくため息を漏らす。
「そんなこと分かってるってーの!ま、せいぜい掃除頑張れよな。
ちゃんと明日の朝練までに元に戻しとかないと朝から跡部の説教喰らうぜ!?」
しゃがんで黙々と書類を集め始めた私の後姿を相変わらずの仁王立ちで見下ろしながら、偉そうにそう言うと、彼はすぐに興味を無くしたかのように私から視線を逸らし、隣に立つ忍足の方に向き直った。
「侑士!もう良いから帰ろうぜ〜!約束通り俺のお気に入りのエロ本やるからさ!!」
「岳人ぉ?」
久々に発せられたその声に私はようやく忍足先輩が一言も言葉を発していないことに気付く。
そして。
今ままでずっと沈黙を保っていた忍足先輩の発した言葉は地を這うような、たったその一言だけだったが、怒りを伝えるのには十分だった。
長年の付き合いとでも言うべきか。
瞬時に彼の怒りを悟った向日先輩は『あははは』とわざとらしく笑うが、その圧倒的な威圧感にすぐに
「はい。嘘です。今度、侑士の見たい映画に付き合います。俺の奢りです。スミマセン。」
謝罪する。
普段だったらここで忍足先輩の嫌味の一つでも飛んでくるのだが・・・、
何故か、忍足先輩はそれ以上何かを言おうとする様子は見られない。
何か良いことがあったのかとでも思うくらい、忍足先輩は非常に機嫌が良く、
素直な向日先輩の姿に忍足先輩はニカッと白い歯を出して満面の笑みを見せると、背中を強く叩く。
あまりの強さに向日先輩は前方によろめき、いつもと違ってあまりにもニコやかな相棒の姿に一瞬瞠目する。
が、すぐに我に返ると、向日先輩もまた反撃をし返す。
その繰り返しがまた始まる。
まるで子犬がじゃれあっているかのようだった。
過程にはわずかに相違があったが、それはほんの些細なことだ。
どんな違いがあるにせよ、今私の目に映っている彼らの様子は普段の彼らと少しも変わりない。
ほのぼのしてて。暖かくて。
私は書類を拾う振りをしながら、時折さりげなく視線を向けてその様子を窺う。
いつ見ても不思議な光景だ。
私と彼らの最も大きな違いはココだろう。
彼らにあって私に無いもの。
別に私にはいらないものだ。
けど、彼らがそれを持っているのは不愉快だった。
というよりも逆なのかもしれない。
それを彼らが持っているからこんなにも彼らが気になるのだ。
この様子だけしか知らなかったら、私は良くも悪くも彼らに興味を持つこともなかっただろう。
まぁ・・・これを興味といって良いのかどうかも微妙だが。
自分に関係ない人間を人とは思わない彼らだけど、確かに彼らの中には『大切なもの』が存在するのだ。
それが、気持ち悪いほど不愉快でもあり、
凄く気にもなった。
それは認め難い感情だったけど。
無いことにすることは出来ないほど、空っぽの私の心を占める。
―大切なものとは一体どうやって見つけるのだろう
・・・・と。
私も何かスポーツでもすれば良かったのだろうか?
ふとそんな安易なことを考えてしまい、私は自嘲気味に微かに笑った。
―私はまだ全てを諦められてはいない・・・・・・
それは悲しい真実。
諦められていないから苦しい。
いっそ全てを捨ててしまえれば良かったのに。
今の苦しみは、全て自分が生んだ苦しみ。
自分の体を売ってお金を貰っていたあの頃のように・・・・
人形のままでいられたら良かったのに。
自分に似た人たちを見て、人形に嗤えるほど小さな感情が宿った。
しかし、それは唯一の家族である太郎さんが、やはり所詮は他人だったことに気付いた時、
再び時計の針は回り始めたのだ。
きっと、私が氷帝レギュラー達のやっている事に慣れてしまうのも。
そして、私が再び人形に戻ってしまうのも。
時間の問題だろう。
そして、次に私がただの心無い人形に戻ってしまった瞬間。
二度とという人形に
魂が宿ることはない。
私は散らばった書類を箱の中に片付けながら、無意識にそんなことを考えていた。
が・・・、
「痛っ!」
箱からさび付いた金具が突き出ていた。
見事にこれに突き刺してしまったらしい。
指からは血か玉を作って流れ出し始める。
ぷつぷつと泡だって流れ出した血は、わずかな痛みを伴い指を伝う。
ほんの一瞬のことだった。
どうってことない小さな痛みが、血の流れと共に私のどす黒い感情を塗り替えていってしまう。
そして次の瞬間には。
指を切ってしまってようやくふと我に返った私の頭の中には、すでに先程までの私の想いは綺麗さっぱり消え去っていた。
今、何を考えていたのかも分からず、ただ指先から走るピリッとしたしびれる様な痛みを感じながら、私は呆然と赤い血の流れる指の傷を眺める。
血なんて久々に見た気がする。
以前はよく目にしていたというのに。
結局。
私の頭に残っていたのは、何でもなく・・・そんなわずかな悔恨だけだった・・・・。
そんなことを考えながらふと、視線を上げようとした。
ちょうどその時だった。
「ところでがっくん?」
不意に忍足先輩が声を上げる。
向日先輩の肩から腕をかけて羽交い絞めするような格好のまま、忍足先輩は笑みを浮かべ、顔を覗き込む。
今まで冗談を言ってた声とは一変して、少し低くなった声色に向日先輩は首を絞められたまま視線だけ向けた。
本当に彼は忍足先輩の口調の変化を感じ取るのは驚くほど敏感らしい。
視線が戸惑いの色を示していた。
だが、そんな戸惑いさえも受け止め、彼の視線が自分の方へ向いたのを確認すると、忍足先輩は再び満面の笑みを浮かべる。
それは、つい先程の満面の笑みとは、全く違う種類の満面の笑みだった。
ほのぼのな風景とはミスマッチなその微笑みは、
鋭く。
美しく。
私は微かに視線を向けるつもりだったのに
いつのまにか目を瞠っていた。
「がっくんはさっきのの顔、見たんか?」
体の中に電流が走り抜けたような気がした。
無意識に奥歯を噛み締める。
これだから嫌なのだ。
何をするのも誰かと一緒。
「赤信号 皆で渡れば 怖くない」
とかいう変な言葉があったが・・・・
これこそ、人間の本質を上手く表しているような気がする。
もちろん彼らも例外ではない。
彼らはどんなに人から逸脱した行為でも、誰かと一緒であればやってのけてしまうのだ。
というよりも、彼らは仲間を巻き込んで何かをすることが好きなのだ。
楽しみを共有することが大好きなのだ。
だから。
忍足侑士は向日岳人をきっと巻き込もうとする。
そう思っていた。
「顔って?そんなにマヌケな顔してたのかよ?泣きべそかいてたとか?」
そう言って向日先輩は私の顔マネだかなんだか知らないが、口をへの字にして眉間に皺を寄せる。
その行動から彼の言っている『顔』というのは『表情』のことだとすぐに判断出来た。
それはつまり、やはり彼は私の眼鏡の下を見ていないということを意味していた。
「はははっ!がっくんその顔最高やで。今度、跡部に怒られたらその顔してみたらどや?」
「まっさか!一瞬にして三途の川渡るはめになるって!!」
突然話が脱線して、爆笑し始める二人。
向日先輩は今度は跡部部長の口真似をし始める。
それを聞いて手を叩いて笑う忍足先輩。
何かよく分からないが、
とりあえず彼らの話が徐々にそれつつあるのは分かった。
とにかくこの状況から逃れたい。
今の状況さえ、乗り切ることが出来れば、改めてゆっくりと対策を練ることが出来る。
そう思うと、冷静に判断するより前に
「お話し中、申し訳ないですけど、とりあえず煩くて邪魔なので帰ってもらえませんかね?
そこに立たれると邪魔ですし。」
思わずそう声をあげてしまっていた。
私の冷ややかなその言葉に部屋の中に響き渡っていた笑い声がピタっ止む。
いつものパターンだ。
この後、いつもの展開では楽しい時間を邪魔した私へと非難と侮蔑の色の雑じった視線が集中する。
はずだった・・・・。
が。
悪くなるかに思われた空気は、そうなりはしなかったのだ。
それは。
忍足侑士の笑顔と
「今日はえらい饒舌やなぁ?」
という彼の楽しそうな声にかき消されてしまったから。
「さっきの話やけどなぁ・・・、の顔が・・・・。」
彼は流し目で一瞬私を見た。
口の端だけで微かに笑みを浮かべて。
・・・・一体何を言うというのか。
予想もつかない彼の言葉に、私もまた向日先輩と同じように聞き入ってしまう。
まさかとは思うが・・・・
女だとバレてしまっていたら・・・・
そう思うと、鼓動が徐々に速さを増し始めるのを感じる。
彼の次の言葉を紡ぎ出す唇の動きが、まるでスローモーションであるかのように。
ゆっくり、はっきりと見えた気がした。
私は僅かに下唇を噛み締める。
そして。
「まさにさっき、がっくんがしてたみたいな顔やったんや!!」
えっ?
彼の言った言葉が信じられなくて。
私は覚悟と共に俯いてしまっていた顔を勢い良く上げる。
が、幸か不幸か、彼はすでに私を見てはいなかった。
向日先輩が先程したような顔を忍足先輩もして見せながら、先程の私の顔がどれだけマヌケだったのかを語り始める。
それはもう楽しそうに・・・・・・
その様子を私は一方的に見ていると、先程までのことが全て私の被害妄想から来ている幻だったかのように感じてしまう。
―もしかして私の考えすぎだったのだろうか?
私はそんな彼らを見ながらあっけらかんとする外なかった。
ポカンと口を開いて彼らに瞠目していた私に気付いた忍足は笑いながら私を指差す。
「ほらっ。また面白い顔しとるで?」
「あはははっ!マジだマジだ!!」
私の顔を二人がかりで指差して笑い始める二人の先輩にぼーっとしていた私は反応するタイミングを逃してしまい、そのまま黙って彼らを見つめてしまう。
が、さすが表情豊か、機嫌の移り変わりが激しいな向日先輩だ。
その私の態度があまり面白くなかったのか、先程までの笑みが夢だったかのように
「何だよ!言い返そうともしないぜ!?おっもしろくねーーーーーのーーー!!侑士もう帰ろうぜ?」
と途端機嫌を悪くして口を尖らせる。
―忍足侑士は帰らない。
何か企んでいる。
ずっとそう構えていたのに・・・・・
「そやな。今日はウサ晴らしも出来たし。そろそろ帰ろか?」
まさかの言葉だった。
あまりにも呆気なく忍足先輩は向日先輩のその提案に承諾すると、躊躇うことなくすぐにカバンに手をかける。
忍足先輩がカバンを持つと、向日先輩も同じようにカバンを持ち、そしてあっという間に二人して軽い足取りで出口の方へと向かう。
もう、すでに私の存在など忘れてしまっているかのように・・・・・。
何と言う気まぐれ過ぎる二人なのだろう・・・・。
私はあまりの展開の早さに書類を両手に抱えたまま、ただただ唖然として見送るしか出来なかった。
先に飛び跳ねるようにしてドアの外に出たのは向日先輩の方だった。
遅れて忍足先輩がドアの外に足を踏み出す。
―こんな呆気なく終わりで良いのだろうか?
―ホッとしても良いのだろうか?
状況が受け入れられず、私は小首を捻りながらゆっくりと立ち上がろうとした。
その時。
「あっ・・・・・」
何かを思い出したように小さく声を上げ、
ゆっくりと忍足先輩が振り向く。
その彼の顔に
表情に・・・
ドキリ、とした。
いつもと同じように口の端だけで笑った、人を馬鹿にしたような笑みなのに。
感じる印象はいつもと違って
いたずらを企んでいる少年のような無邪気さと・・・・
ソレに雑じって瞳から溢れ出すモノは何かに欲情しているかのように熱くて・・・・
優艶さが溢れ出していて・・・・・
不思議な感じだった・・・・。
一言で言えば妖艶過ぎて・・・・・
恐ろしかった。
「続きは・・・また今度な・・・・・・・・・ クン・・・?」
そう言って彼は外へと歩み出ると、勢いよく扉を閉める。
閉まる直前まで。
彼は、私を見つめていた。
まるで・・・・
全てを絡めとろうとするかのように・・・・・・・・・・・・・・・・
逃がさないとでも言うかのように・・・・・・・・・・・・・・・
それが私の思い過ごしであれば良いと。
私は彼らが去った扉をじっと見つめることしか出来なかった。
BGM:+7様