結局あの後私はもう一眠りし、起きたときには昼過ぎだった。
私は焦ってカバンを漁ると診察券を取り出す。
そこには診療受付時間、午後3時までと書いてある。
枕元に置かれた時計の時間と見比べ、何とかギリギリ間に合いそうな様子にホッと息を吐くと、急いでクローゼットへと向かった。
何十着もある洋服の中から、私は迷わず取り出す。
クローゼットの扉を閉めようとした時。
不意に私の目にあるものが留まる。
無造作に放り投げられたキャスケットの帽子。
帽子なんて随分被っていない気がした。
大体が暑苦しくてあまり好きではないし、特にここ最近は夜の街を歩くことしかなかったから、わざわざあまり好きでは無いものを被る必要も無かったのだ。
けど、今日は違う。
外からは相変わらず強い光が差し込む。
―日差し除けになるだろうし・・・・
何より、氷帝のメンバーと鉢合わせしてしまう可能性も無いとは言い切れない。
別に素顔を見られたからってバレるとは思っていないが、もしもの可能性だってある。
咄嗟の時に少しでも隠すことが出来れば良い。
それに・・・・
大したことは無いからすぐに頭に巻かれた包帯は外したが、額にはテープが貼ってあるのだ。
これも外しても構わないのだが、そうすると今度は傷口って目立ってしまう。
「・・・・・・仕方ないか・・・・。」
決めた私は、すぐに身支度を整えると、最後に帽子を被る。
しばらく放置していた割には綺麗な、少し大きめの帽子。
―これは誰からもらったものだっただろう?
そんな微かな疑問を胸に抱き、
日に照らされた明るい場所へと飛び出した。
女の格好のままでこんな明るい中を歩くのは本当に久しぶりだった。
110
20 -incontro-
「捻挫だね。」
医師はX線写真を眺めながらやる気無さそうに言う。
ボソボソと低い声で呟くため私の方が耳を近づけないと聞き取れないほどだった。
2時間。
受付をしてから、診察までの時間だ。
受付時間ギリギリで駆け込んだ私は、受付の女共にかなり嫌な顔をされ、しかもとりあえず色々な検査室を盥回しにされ、ようやく診察まで漕ぎ着けたかと思えば・・・・・
これだ。
―ったく・・・・・来るんじゃなかった・・・・
2時間待たせて、結局診察は「捻挫ですね」の一言で終了。
患者を舐めるのにもほどがある。
小さい頃から身体が弱かった割には、私は大きな病気も怪我もあまりしたことが無く、病院に通うことなどほとんど無かった。
ここの病院に来たのだってかれこれ10年近く前のことだ。
その時はこれほどまでにひどくは無かったような気がするが・・・・
まぁ、本当に幼い頃のことなのではっきりはわからない。
本当に今日は朝からついてない。
医師は私の足にシップを貼りグルグルと包帯を巻いていく。
カーテン越しにぺちゃくちゃとしゃべっている看護師達の話し声がやけに耳障りだった。
「はい。良いよ。1週間経っても痛みが取れなかったらまた来てね。」
そう言って、年若い医師はもはや私のことなど眼中に無いとでも言うように机に向かって作業を始める。
―誰が来るか・・・・
内心、そう悪態を付きながら私は無言で椅子から立ち上がる。
と、机に向かい欠伸をしながら作業している男を見下ろした。
こいつもどうせ金と名誉目当てで医者という職業を目指したような腐れた人間の一人なんだろう。
こういうやつを見ると本当に安心する。
腐れてるのはみんな一緒なんだって・・・。
「先生。松葉杖貸してもらえませんか?足に体重かけると痛いので。」
愛想良くする必要もないと感じた私は、かなり棒読みでそう言った。
外見から受けた印象から私のぶっきら棒な話し方がよほどギャップがあったのか、机に向かっていた医師が少し驚いたように私を見上げた。
でも、やはり。
「あぁ・・・・・・分かった。」
とだけしか彼は言わなかった。
松葉杖が欲しかったのは歩きにくいからという理由だけでは無い。
どうせ私が怪我をしたことはバレるのだ。
だったら、張本人の愚かな男共に知らしめてやる。
芥川先輩の登場により彼らはきっと精神的に参っているだろう。
バレたらどうしようと彼らは不安に思っているだろう。
そして、ようやく自分達がしたことの重大さに気付いたはずだ。
大した後ろ盾もない彼らが氷帝で問題を起こしたとなるとテニス部どころか学校にすらいられなくなるかもしれない。
彼らは日々恐怖に追われ過ごす。
だったら、私は彼らに彼らのしたことの全てを見せつける。
そして、彼らの恐怖を増大させる。
それが私のささやかな復讐。
今の私に出来る、小さな小さな復讐。
その後、ロフストランド・クラッチというT字杖に腕支えを取り付けたような杖を渡された私は少々、想像していたものと違った杖を渡され戸惑いはあったものの、特に深く考えることも無く、私は会計を早々と済ませ、私は病院を出て行ったのだった。
病院の入り口から足を一歩踏み出した瞬間、蒸し暑い空気が見に纏わりつき私は思わず顔を顰める。
もう夕方だというのに来たときと大して変わっていない外の様子に少しウンザリする。
しかも・・・。
私は腕時計を見る。
時計が指し示す時間に私はガックリと肩を落とした。
「・・・・・・・どこかショッピングでも行こうと思ってたのに・・・・・。」
今行っても、どうせ見て回る時間は無い。
つまり、寄り道はせずに帰れということか・・・・。
今日は本当についてない。
別に今まで幸せだった訳では無いが、ここ最近の自分の運のなさについては目を見張るものがある気がする。
ここまで悪いこと続きだと流石にネガティブ思考が前面に出てくる。
「まさか、帰り道事故にあうとかじゃないでしょうね・・・・。」
と誰にも聞こえないほどの小さい声で呟やきながら足を一歩踏み出した瞬間。
私の20cmほど手前をトラックが駆け抜けた。
あまりのことに一瞬固まった後、顔をゆっくりと上げる。
・・・・見事に信号は赤だった。
・・・・やっぱりついてない。
不幸中のもっと不幸だったのは、周りに大勢の人がいたことだ。
もしかして自殺しようとしたのでは無いか、などの好奇心と心配の視線がジロジロと私に向けられる。
「見せもんじゃねーぞ!」
と言えるものなら言いたいが、それはそれで本当に情けない。
という訳で、とりあえず何事もなかったかのような堂々とした態度を振舞うと、信号が青になった瞬間、杖を付いて歩いている人とは思えないほどの早さでその場を後にしたのだった。
・・・・・不幸はこれだけでは終わらなかった・・・・・・・・。
「・・・・ここは一体どこだ?」
先程までいたところと同じ東京とは思えないほどビルが全く無い・・・どころか、まさに金八先生と一緒に夕日に向かって走るぞ的な土手と川と見渡す限りの原っぱ。
辛うじて、土手を挟んで川とは反対側に住宅がポツポツとある程度だ。
こうなったのも、あのタクシーの運転手のせいだ。
かれこれ30分ほど前のことだった・・・・。
猛スピードで走ったことにより足の痛みが増した私は仕方なくタクシーに乗って帰ることにした。
当然の渋滞。
せっかちな運転手はいきなり近道をすると言い出し、脇道に入る。
そして、見事に道に迷い・・・・・
さまようこと30分。
このままでは今日中に家に帰れないと悟った私は、とうとうタクシーを降りたのだった。
タクシーも病院も本当に久しぶりだったが・・・・
人手不足にも程がある。
ヤブ以下だ。
「料金払わなくていいから。」
と、偉そうに踏ん反り返って言う運転手に、私は久々に怒り狂うという言葉を思い出した。
料金払わないで良いどころか、ここから帰る電車賃とかを考えたらむしろこっちが貰いたいという話しだ。
というわけで現在に至る訳だが・・・・
見たことも無い道を私は杖を付いて歩く。
とにかく目印となるものを探さなければどうしようもない。
慣れない杖を持って何だか肩は凝るわ動きにくいわ、足の痛みは激しさを増すわで意識を失いそうだ。
それでも、私はトボトボと歩く。
代わり映えのしない風景。
道は微妙に舗装されておらず、でこぼこしているし結構な大きさの石が散乱してるわで歩きにくいことこの上なかった。
別にこういう風景が嫌いなわけじゃない。
むしろ、騒がしくなくて好きな方だ。
だけど、状況が状況だけにこの今の状態を楽しむ気にはなれなかった。
「とりあえず・・・・・・・・・人を探すか・・・・・・・・・・・・。」
東京内でまさか人を探して歩き回る日が来るとは思わなかった。
それから一体何分くらい歩き回ったのだろう・・・。
そろそろ諦めて、その辺りにある家のインターフォンでも押して助けを求めようかと思った時だった。
さすがに歪んできた視界に、先程までの道では見なかったモノが目に入る。
「公園・・・・・・?」
よく分からなかった。
他の建物に比べそこだけ敷地が高く、道路に続いている直線の広い階段がある。
よく分からないのは、その周りが木で覆われていて中を見ることが出来ないからだ。
もはや不安を感じる余裕さえ今の私には無かった。
私は、戸惑うことなく階段に足をかける。
が、あまりのキツさに、重い足を必死の思いで上げながら、もしこれで誰も人がいなかったら洒落にならないと思わずにはいられなかったのだった。
それほど長い階段ではないのだが、今の私には万里の長城よりも長く感じる。
それでも、やっと半分くらいを上り終えたときだった。
「・・・・・・・・・・・・・だろ・・・・・・」
「お・・・・・・・・・・けん・・・・・・・・・」
何を言っているのかは聞き取れないが、確かに人の声が聞こえた。
―人がいる!
ようやく人にめぐり合えたのだ。
あまりの嬉しさに、
自然と口元が緩んでいく。
そして。
私は一回息を深く吸い込むと、と再び階段へと踏み込んだのだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
残り半分は結構楽に感じた。
時間的には変わらないのかもしれないが、気持ち的には全然違う。
「・・・・・・・・ここは・・・・・・・・・」
階段を上り終えた私は目の前に広がる景色に唖然とした。
一瞬眩暈がした。
今、最も嫌いな場所を聞かれれば即答出来るくらいの場所。
元はと言えば、今の私のこの不幸の数々は全てここから始まったといっても過言ではないストレスの元。
そう、そこは・・・・
「・・・・テニスコート・・・・・。」
話しにくらいは聞いたことがある・・・・
ストリートテニス場だった。
この何も無いところに不釣合いなほど立派なテニスコートがそこには存在していた。
そして、そのコートのうちの一つのネットの前に先程の声の主と思われる4人の男の子達が立っている。
しかし。
「てめぇ・・・・・どうやら本気でぶっ殺されたいらしいなぁ・・・・」
「その言葉、そっくりそのままお返しするッスよ。」
どこからどう見ても会話に割って入り、道を聞けるような雰囲気じゃなかった。
「あっくん、落ち着いてよ!」
オレンジ色の髪をした男が、『あっくん』と呼ばれた銀髪の男の制服の袖を引っ張る。
「そうだぜ。赤也も落ち着け。俺たちはココにテニスをしに来たんだ。殺し合いをしにきたわけじゃない!!」
今度は『赤也』と呼ばれた天然パーマ男の二の腕を掴んだスキンヘッドの男が微妙な説得をする。
「千石!てめぇ邪魔すんじゃねぇよ!!っつーかあっくんって呼ぶんじゃねぇーーー!!」
「仲間割れかよ。山吹中の程度の低さが窺えますねぇ。立海のチームワークの良さを見せてやりたいですよ。ねっ?ジャッカル先輩!」
「いや・・・・・チームワークなんて言葉が俺達にあったかな?」
どうやら、オレンジ色の髪の方が『千石』でスキンヘッドの方が『ジャッカル』というらしい。
・・・・・と、私は何を冷静に分析しているのだろう。
もう、日も沈み始めている。
こんなことをしている暇は全く無いのだ。
そう思い、私は再び彼らの方へ向かい歩き始める。
が。
「大体、てめぇら何でここにいんだよ!さっさと神奈川に帰れよ、カスが!」
「何っすか!?もしかしてここは俺らの縄張りだとでも言うつもりですか!?アンタは鮎か!?」
「赤也・・・・・そんなこと良く知ってるな・・・・。」
先程よりは彼らに近付き、何とかはっきりと彼らの顔が見えるくらいには距離を縮めたが、彼らの迫力に何となく私はそれ以上近付くことが出来ない。
彼らもまた、私の存在には気付かず、喧嘩はますますヒートアップしていっていた。
「質問にも答えられねぇのか、てめぇの脳みそはサル以下か!?」
「じゃぁ、アンタはネズミ以下・・・・いやミジンコ並ってことだなぁ!?」
「ってことは何か?お前はミジンコ以下、というより脳みそ自体存在しねぇんじゃねーか!?その頭の中は空か?良いなー軽くてよ。動きやすいだろ!!?何なら俺が頭蓋骨断割って中身見てやろうか!?」
「アンタ、ばっかじゃねーの!脳みそなかったら人間が生きれる訳がないっしょ!!そんなことも知らねぇのかよ。やっぱりミジンコ並だな。」
『赤也』の良く分からない言葉に『ジャッカル』が嫌な汗をかきながらツッコミを入れる。
「・・・・・・・赤也・・・・・・・・それはちょっとした例えのようなものでだな・・・。」
「何ッスか!?ジャッカル先輩!!こいつの肩持つつもりッスか!?」
「いやな、赤也・・・そういう問題じゃなくてだな・・・・・。」
言ってることがどんどん低レベル化してることに彼らは気付いていないらしい。
彼らの肩からはテニスバックが下がっている。
テニスコートにいることからも彼らがテニスをするためにここまで来たのは間違いないだろう。
が、彼らは口喧嘩から始めたらしい。
口喧嘩の内容を聞く限りどうせくだらないことがきっかけなのだろうけど・・・・
とりあえず、早くひと段落ついて貰わないと、いつまで経っても私はこの場から動けそうに無かった。
「とにかく、てめぇらテニスがしたいならそっちのコートを使いやがれ!」
そう言って『あっくん』という男は自分達が今いる隣のコートをラケットで差す。
どうやら喧嘩の原因はコートの取り合いからによるものらしい。
やはりくだらない・・・。
「そうだぜ、赤也。俺達の方が後に来たんだから・・・・。別に隣のコートでも良いだろ?」
「いやッス!ここは男として譲れない!!」
ガキの喧嘩か・・・・・。
あまりの低レベルな争いに私は思わずため息を吐く。
その時だった。
まさか私のため息に気付いたのか、喧嘩している2人の傍らで面白そうに笑っていた『千石』と呼ばれた男が不意にコチラを向いた。
少し離れてはいたが、確かに眼が合ったと思う。
そして。
彼は満面の笑みを私に向けた。
「ほらほら。あっくんも切原君も喧嘩は止めて仲良くテニスしようよ。
女の子が困ってるよ。」
『千石』の言葉に残りの3人が一斉にコチラを振り向く。
次の瞬間。
見事に『赤也』と呼ばれた男の怒りの矛先は私へと向いたのだった。
そして、信じられない言葉を彼は吐く。
「何、見てんだよ!キエロ!ブス!!」
その言葉に『ジャッカル』は慌てて『赤也』の口元を押さえ、「馬鹿野郎!お前いい加減にしろ!」など彼の耳元で小さな声で言う。
普段だったら、きっと私は特に気にしなかっただろう。
こんなヤツ相手にするだけ疲れるから。
けど。
今日は連続する不幸の数々と、疲労により朦朧とした意識により私としてはありえないほど、苛立っていたのだ。
『赤也』という男の不躾な態度に私の思考回路が完全に静止した気がした。
だから。
私は即座に言い返してしまっていた。
「人の事どうこう言える顔ですか。すぐにでも鏡を見て来ることをお勧めします。
この、ワカメ頭。」
あーーーーーーー・・・・・・・・
私も馬鹿だった・・・・
そう気付いた時にはすでに言葉は彼らの耳元へと到達してしまっていたのだった。