弱い人がいた。
男に溺れ、そして男に裏切られ、
そして
絶望した人。
ただ泣くだけで何も出来ない・・・・いや何もしようとしない人。
蹲って毎日泣き喚くその人のそばで幼い私は佇んでいた。
私は誓った。
私は男を利用して幸せになるのだと。
強い女になってやると。
利用されるくらいなら利用してやる・・・・・・
・・・・・と。
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18 -animo-
「あ〜!小暮さんおはようございます!」
語尾にハートマークでも付きそうなほど甘ったるい声色で朝の挨拶をしながら、私は彼らのいる部屋へと足を踏み入れた。
人に対して信用してないし、期待もしていなかったからだろうか。
太郎さんが私を引き取った理由がやはり良いコトではなかったと知ってもあまりショックは無かった。
むしろ、変な痼りの様なものが取れた気がしてすっきりした気がする。
『復讐』の意味がよく分からなくて、少しも気にならないと言えば嘘になるが、とりあえず、太郎さんに対してわずかでも何かを求めてしまう前に彼の本音を知れて良かったと思う。
逆に心の中は聞く前より穏やかになっていた。
それは安心した、というのもあるだろうけど。
それよりも、太郎さんの心をはっきりと知れたおかげで私の信念を思い出したことが大きいと思う。
氷帝に入学して、今まで出会ったことが無いような個性的な面々に囲まれて確かに動揺してしまっていた気持ち。
ペースが狂わされていた気がした。
けど、私の願い、信念を思い出したことでようやく自分というものを取り戻せたのだ。
きっと、私はいつもの私に戻れる。
そう思うと徐々に荒れ始めていた心の波も一気に落ち着きを取り戻し、今ではすでに波一つ無い以前の状態に戻りつつあった。
太郎さんの結婚と聞いて、何故か階段に貼り付いて動かなかった両足もスッと剥がされたかのように動かせるようになっていた。
だから、すぐに、何のためらいも無く私は階段を降り、部屋の扉を開いたのだった。
「太郎さん。足が痛くて上手く歩けないので松葉杖のような物を用意してもらえませんか?」
突然私が現れたことに驚いているのか、それとも先程の話を聞かれたのではないかと脅えているのか。
よく分からないが、太郎さんと小暮さんは固まってしまっていた。
が、さすがは太郎さんと言った感じだろう。
動揺を全く見せずに平静を装って無表情のまま答えた。
「今日は病院行きなさい。学校の方は休んでも構わない。」
まさか、太郎さんの方から許可を出すとは思っても見なかった。
確かに、この怪我を理由に学校を休む許可を貰おうと思っていたのだが、おそらくそれでもなかなか許可は下りないと思っていた。
どうやって、説得しようかと考えていたのだが・・・・・。
あまりに単純に話が進みすぎて少し拍子抜けした。
私は苦笑する。
学校には行きたくないと思っていたが、彼の言うことに従うのも何だか嫌だった。
「病院には行かなくて良いよ。こんなの大したことないし。」
彼に素直に従うくらいなら学校に行った方がまだマシだと思えた。
本当に我ながらガキだと思う・・・・。
が。
「行きなさい。」
即答だった。
一拍も間を置くことなく、太郎さんは言い放った。
太郎さんは私の意見など聞く気は無いようだ。
有無を言わさない威圧感で私を睨み付けるように見つめてくる。
きっとこういう状態の彼は私が何を言っても聞く耳を持たないだろう。
本当に嫌な人だ。
普段であれば、「はい。はい」と適当に返事をしながら、結局は無視して何も言うことを聞かないのだが。
今日は流石にそうもいかないだろう。
しばし、お互いに睨み合った後。
先に折れたのはやはり私だった。
というよりも・・・・
私はチラッと時計を見る。
先程は気付かなかったが、すでに時刻は8時半を回っていた。
もう、今から急いで行っても朝練にも間に合わない。
今日病院に行くことにして休む許可を貰わなければこのままGAME OVERとなってしまう。
太郎さんがそこまで考えていたのかは知らないが。
くだらない意地で全てを無駄にする気も無かった。
「まっ、別にどうでも良いですけど。病院に行けば良いんでしょう、行けば。」
私のやる気の無い返答にわずかに太郎さんの目が細められる。
が、何も言わずに彼はそっと視線を反らした。
そんな彼を黙ってしばしの間見つめ、嫌味の一つでも言ってやろうかと思ったが、彼が空気全体で私を拒否しているように感じ、これ以上何も言うことは無かった。
興味を無くした私は無言で踵を返す。
呆れたようにため息を吐いた小暮さんは頷くようにわずかに首を傾げる。
太郎さんも小暮さんも何か言いたいことがありそうだったが、私はそれに気付かない振りをした。
「あっ。」
ちょうど扉の前まで来たときだった。
私はふとあることを思い出す。
「一つ聞いても良いですか?」
後ろを振り返るように首だけわずかに回した。
視界の中に彼らの姿が入らないよう・・・・・
本当にわずかに。
太郎さんは何も言わない。
それを私は肯定ととると彼の答えを待たずに言葉を続けた。
というよりも最初から彼の答えなどどうでも良かったのだ。
どうせ、尋ねるつもりだったのだから。
「これ。」
そう言いながら指差したのは足元。
正確に言うなら足首の辺りにまかれた包帯だった。
「これしてくれたの太郎さんですか?」
彼の表情は変わらなかった。
温かみの無い顔、凍りつくような眼。
その全てに愛情などといったつまらない感情は僅かも含まれていない。
「昨晩、帰宅したお前の様子がおかしかったことに小暮が気付いたため、医者を呼んだ。その包帯を誰が巻いたのかと言われれば『医者だ』。」
まるで、三流役者が台本を読んでいるかのように、彼は抑揚の無い口調でスラスラとそう言った。
『これで満足か』とでも言いたげだ。
私はわずかに口の端を挙げる。
そして。
今度は体ごとしっかりと振り返って太郎さんの方を向いた。
そして。
「良かった。」
私は太郎さんの方に視線を向け、
満面の笑みを浮かべた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ちょうど同時刻。
「ったく、今日はとうとう朝練に来なかったな。」
朝練を終え、部室にて着替えている途中だった。
宍戸が、呟くようにそう言った言葉にその場にいたレギュラー達全員が反応する。
そう。
レギュラー達全員が。
「ったく、俺たちをなめてるとしか思えなよなぁ〜」
向日が言いながら不愉快そうに眉を顰め腕を組む。
「もう・・・・・なんやろうなぁ・・・・・・・・・これでもか!っちゅーほどムカつくなぁ〜目障りやなぁ〜〜〜〜。」
着替えもせずに、ソファに座り、寛いでいる忍足がやる気のないしゃべり方で天井を仰ぎながら言うと、向日がこれでもかってほど首を縦に振る。
周りで着替えながらさり気なく話しに耳を傾けていた、鳳や宍戸も目に見えるように肯定こそしないものの、内心では同じようなことを思っていた。
生意気で態度も悪くて、外見も決して良い印象を受けるものではない男の唯一の救いが仕事は真面目にしていることだけだったというのに、最近はそれすらも崩れつつある。
もはや本当に救いようが無い・・・・
そう思っていた。
「ふふふ。」
場の雰囲気にそぐわない和やかな笑い声に、一同は一斉にそちらを振り向いた。
その人物は何が面白いのか、お腹を抱えて笑っている。
ずっと沈黙を保っていた跡部もそんな彼の姿を不気味に思ったのか僅かに眼を細め
「何がそんなに面白い?
滝・・・・。」
そう尋ねていた。
そう。綺麗な鈴の鳴るような音で笑い始めたのは、レギュラーの一人の
滝萩之介だった。
「だって何だかんだ言いながら結局はクンのこと皆、気にしているんだなぁと思って。
さっきから一度も彼の名前出てきてないのに見事に皆、通じ合ってるよ。」
今までこのことに関して何の意見を言うこともなかった滝が意見を言ったことに驚いたこともあるが・・・
滝の言葉は確かにその通りだったため、向日達はグッと息を呑んだ。
それすら今の滝には面白いようで、また声を上げて笑い出す。
「ね?あっさりしててテニス以外にあまり執着しない君達がそこまで気にかけているクンってある意味凄いよね。
俺はあまりクンとあまり関わったことないから分からないけど、面白そうだ。」
そう言って滝はニッコリと微笑んだ。
さすがの跡部もその言葉に驚いたのか、滅多に見られないほど目を見開いて滝を見つめていた。
固まっている跡部を滝は片手を口元に持っていくと、面白そうに見つめる。
そんな彼の視線が居心地が悪かったのか。
跡部わずかに息を吐く。
それは、他のメンバーも同じようで、
「まぁ・・・・・・・・あれ程、嗜虐心をそそる人間はなかなか存在しないからな。」
跡部がそう言うと
「そ、そうだぜ!あんな胸糞悪い下品な人間は氷帝にはなかなかいないしさ!」
「ま、そういうことやな。」
と、向日や忍足も遅れて同意する様子を見せる。。
彼らは明らかに動揺していた。
というよりよりも改めて考えてみると本当に不思議だったのだ。
それほどまでに嫌いだといえばそれまでなのだが、何故かそれだけではない気が皆していたのだろう。
だから、答えるのに戸惑ってしまった。
今までそのことには気付かなかったから言いたい放題言っていたが、確かに考えてみれば不思議なことなのだ。
外見が悪い人間も、性格が悪い人間も、仕事をまじめにしない人間も今まで山ほど見てきた。
だったら、何故これ程までにという人物にだけは腹が立って、イラついて堪らないのだろう。
「ふーん・・・・・そういうものなんだね。」
そう言って滝はやはり笑う。
その時だった。
バタン!
滝の声を掻き消すように大きな音が鳴る。
「俺はそうは思わない。」
ロッカーの扉が勢い良く閉められ大きな音を鳴らしていたのだった。
一斉にそちらの方向に全員が同時に視線を向ける。
そして、驚く。
それは音に驚いたわけではなかった。
驚いたのは
その人物だったからだった。
「跡部、話があるんだけど・・・・・良い?」
そう言ったのは
普段はテニス以外は寝ている顔しか見ることの無い
芥川慈郎だった。