冬。僕はきみの傍に、

008.宅配便

 ここからは18禁です。
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 照りつける太陽が容赦なく降り注ぐ真夏日。
 誉之(たかゆき)はエアコンの壊れた部屋で、時が過ぎるのをただじっと耐えていた。
 暑さだけの所為ではなく、今の誉之には一分一秒が辛く永遠に思えた。
 何をする気力も起きず、ダイニングの椅子に腰掛け、腕時計の秒針が時を刻む音をじりじりとした焦りと共に聴いていた。
 目の前のテーブルには一本のナイフが置かれている。
 誉之はそれを見るともなく見つめ、昨夜この部屋で起こった出来事をくり返し思い出していた。
 ひどい喧嘩だった。
 もう付き合い始めて5年になる恋人と、今までに無い激しい口論をした。あげくに恋人は一方的に別れを告げて出て行ってしまった。
 誉之は裏切られた気持ちで悄然となったが、次に沸き起こった感情は強い憎しみだった。
 胸のうちに渦巻き始めた感情は、誉之を衝動的に突き動かして、気が付けば誉之の思考は恋人をどうやって殺してやろうかと、そればかりを考えるようになっていた。
 ところが、いざ考えてみると「殺す」という行為は具体的にならず、気が付けば椅子に座ったまま誉之は眠りに落ち、そのまま夜明けを迎えていた。
 カーテンの隙間から差し込む朝日のまぶしさに、誉之は目を覚まして再びナイフを見つめながら、恋人への怨嗟の念を繰り返した。
 焦りと暑さが増すばかりの誉之は、麻痺する意識の中で「もう、いいか」と内の声を聞いた。
 あいつを殺したってどうなるものでもなし……。
 そう思ったとき――
『男相手に、お前のように本気にはなれん』
去り際の恋人の言葉を誉之は思い出した。
 途端、薄れ始めていた恋人への憎悪が再び増した。
――男だから? だから本気になれないと? じゃあ、今までのは一体なんだったんだ。僕の気持ちはなんだったんだ。「好き」と言ったあの言葉は嘘だったのか!?
 恋人を殺す方法が思いつかないなら、仕返しする方法はもうひとつはある。
 誉之は目の前のナイフを右手に取ると、刃を左手首に押し当てた。
 右手にグッと力を入れて、あと少しで皮膚が切れる――その時、絶妙なタイミングで家のチャイムが鳴った。
 突然鳴った音に誉之は驚き、腕が震えて僅かに皮膚が切れ、その痛みにまた驚いて手が震えてナイフを取り落とした。乾いた音を立ててナイフがテーブルに転がる。
 誉之は呆然として、転がりながら光を反射するナイフを見つめた。
 再びチャイムが鳴る。
 ナイフから目を離すと、誉之は玄関の方向へ視線をやった。
 誰かが来た、誰だ?そう思ったとき、咄嗟に恋人の姿を思い起こす。
 三度目のチャイムでやっと誉之は重い腰を上げた。
「はい……」
 玄関の戸を開けると、恋人とは似ても似つかない、見知らぬ仕事着姿の男が立っていた。
 服装からして宅配関係の者だと察しがついた。見れば足元にはやっと両手に抱えられるくらいの大きな荷物が置いてあった。
「お荷物が届いてます。ここにサインお願いします」
 額に汗を滲ませた男は、早く仕事を済ませたい様子で、相手の名を確認もせずに伝票を取り出し、ペンをこちらへ差し出すとサインをせがんだ。
 誉之はゆっくりとした手つきでそれにサインをする。男は「どうも」と言って荷物をそのままに、そそくさと去って行ってしまった。
 後に残された誉之は、やっとどこから来た荷物だろうということに思い至り、荷物に張りつけられた伝票を見た。
 すると宛名が違うことに気づいた。送り主も知らない会社名だ。
 それは誤送だった。その事にやっと気づいて、誉之は配達員が去っていった方を見たが、そこには当然配達員の姿は無く、下の方からトラックが走り去っていく音が聴こえていた。
 ひとつため息をつくと誉之は宛名の住所を見た。
 番地とマンションの名前が違うだけの、確かに間違えてしまいそうなほど似た住所だった。
 だが――
――こんなマンションあったかな。
 誉之は首をかしげたが、とくに興味も引かれなかったので気には留めなかった。
 さて、配達業者に電話して引取りに来てもらうか、と思いながら誉之はもう一度宛名を見た。
「人形 繰 (ひとかた そう)」
 珍しい名だと思った。
 まるで何かを示唆するような名につられ、今度はまた送り主を見た。
「幻人調査研究所」
――なんて読むんだ? まぼろし、ひと……げんと?
 どういう訳か誉之は興味を抱いた。
 この珍しい名前の人物にも、妙な名前の会社にも、荷物の中身にも。
 ちょうどいい、と誉之は笑んだ。これ以上部屋に居ても気が滅入るだけだ。
 気分転換のつもりで誉之は、誤送されたこの荷物を自分で送り届けようと思った。

 荷物はかなりの重さだったが、短時間なら持っていかれないほどでもない。
 宛名の住所にあるマンションは、誉之の住んでいるマンションとは目と鼻の先だった。
 自分の気まぐれにしろ、こんな重い荷物を遠くまで運ぶのは大変だったから、誉之は目的地が近いことに安堵した。それ故、目的地であるマンションに見覚えが無くても、特に気にすることもなかった。
 しかし、マンションの中へ入りエレベーターのところまで来ると、誉之は思わず声を上げていた。
「なんだよ、それ! 故障?!」
 エレベーターの扉には「故障中」という文字と、そのお詫びが書かれた紙が貼り付けてあった。
 しばらく呆然となった誉之だが、仕方なく荷物を抱えなおすと階段へと向かった。
 到着階数は5階。季節は夏である。
 誉之は途中、何度も荷物を放り出してやりたい衝動をなんとか押さえ、やっとという思いで5階へたどり着いた。
 そうして、目的の部屋の前まで来ると荷物を一旦下ろし、少し緊張しながらチャイムを押した。
 少々息を切らし滴り落ちる汗を拭いながら、部屋の主が出てくるのを待った。
 幾許か時が過ぎ、留守だろうかと思いかけたとき、ガチャリと鍵が解かれる音がした。ゆっくりと戸が開かれる。
 静かな少しだけ低いと感じる声で「はい」と応えながら出てくる男を見、誉之は一瞬だけ言葉を失くした。
――え……男、だよな?
 声の高さや体つきから男だろうと推測できるが、あえて「男だ」ということを確かめたくなるほど、その容姿は中性的で魅惑的だった。
 細い眉はきれいに整えられ、少し細い目は釣りあがり蛇を連想させられた。蛇が人になればきっと目はこんなだろう、と思える。
 筋の通った鼻は高いが大きいという印象は無く、薄い唇はほんのりと紅く色づいていた。
 「絶世の」ということは決してないが、中性的に過ぎるからだろうか――男の容姿に惹きつけられるように誉之はしばし魅入った。
「あの、何か?」
 玄関先で言葉も無く立ち尽くしている誉之に、不審な目を向けることも無くその唇に笑みを浮かべて男が訊いた。
 誉之はハッと我に返って用件を言わなければと慌てて口を開いた。
「あ、突然すみません。あなた宛の荷物が僕のところに間違って届いたので、持って来たんです」
 そう言って誉之は下へ置いた荷物を指し示した。
 男はそれを確認すると「ああ」と納得したようだった。
「確かに私のものだ。わざわざありがとう。大変だったでしょう?」
 労いの言葉を言うと男は目を細めて微笑んだ。
 蛇が笑むような、それでいて妖しい美しさが表れる、不思議な笑みだった。
 誉之はしどろもどろになりながら返答する。
「い、いえ……すぐ近くでしたから――あ、流石にエレベーターが故障してるのには辟易しましたが」
 思い出したように額に流れてきた汗を拭いながら言うと、男は少しだけ声を上げて笑った。普段の声より幾分高くなった笑い声は、疲れた誉之の耳に心地いい音楽のように聴こえた。
「それはそれは――では、少し休んで行きませんか? 丁度、昼時ですね。あまり人様に出せるものではありませんが、よろしければ昼食をご馳走いたしましょう」
 美しい声音で流れるような言葉に、思わず聞き入っていた誉之だが、男の申し出に慌てて首を振った。
「いや、そんな――お邪魔するわけには」
 しかし、男は更に目を細めて微笑むと言った。
「重い荷物をここまで持ってきていただいたお礼です。是非。でないと、私の気が済みませんから」
 誉之はこの時、男の微笑の美しい所以に、実はその形の良い唇がまるで口紅を塗ったかのように紅い、ということにあるのではと思った。
 笑みを模った唇を見つめながら、誉之は気が付くと「はい」と言葉を返していた。

 部屋の大きさとしては2LDKと、誉之の住んでる部屋とさほど変わりはなかった。
 最初ダイニングの方へ案内され、「荷物はその辺に適当に」と言われたので、部屋の隅に置いた。
 最初、男がそれを運ぼうとしたので、誉之が「中まで運びますよ」と申し出たのだ。
 伸ばされた手や腕があまりに細く白かったので、男にはこの荷物を持ち上げるのは、到底無理なのではと思えたのだ。
 荷物を置いたあと、キッチンへ向かう男を改めて誉之は眺めた。
 背は高い方だろうが、体つきは痩せていると言ってもいいかも知れない。病気かと思うほどではないが、それでも肌の白さが気になった。
 年齢は――と思ったとき、カウンター越しに男と視線があった。その目が細く形を変えた。
「どうぞ、座っていて下さい。今、作りますから」
「あ、はい……」
 若い、とも、老いている、とも、誉之には判断しかねた。
 だが、物腰から少なくとも自分よりは年上だろうと、それだけを頭に刻んだ。
 「座っていて下さい」と言われたものの、そうしていると手持ち無沙汰で落ち着かないので、誉之は最初に部屋に入って気になっていたリビングの方へ向かった。
 部屋に入って何に驚いたと言って、部屋に飾られてある芸術品の多さだった。
 この家にはテーブルや椅子や、そういった最低限の家具以外、テレビやオーディオ機器などは一切置かれていなかったが、代わりに絵画や彫刻、ガラス細工など、芸術品が数多く飾られていた。
 苦悶の表情で天の光を仰ぐ人の絵。
 喜怒哀楽を表した人間たちが、それぞれ右足で繋がっている彫刻。
 ピエロの格好をして踊っている人のガラス細工。
 この部屋ひとつで展覧会でも開けるほどの量だった。
 ただ、それらを眺めながら誉之は何か違和感を覚える。
 しかし、その違和感がなんなのか気づく事が出来ず、芸術品を眺めながら時は過ぎて、テーブルに料理が並べられ始めたので、誉之は一旦そこから離れてテーブルについた。
 突然、人を招いて作ったにしては上等な料理に、誉之は舌鼓を打ちながらすべてを平らげた。
 思い起こせば昨夜から全く何も食べておらず、誉之はかなり腹を減らしていた。
 がっつくように食べる自分を、少し行儀が悪かっただろうかと誉之は反省したが、男はキレイになった皿を見て喜んだようだった。
「お口に合ったようで良かった。食後の珈琲などはいかがですか?」
 誉之が頷くと男が早速立ち上がり、テーブルの上を片付け始めたので、せめて皿洗いくらいはと申し出たが、それはやんわりと断られてしまった。
「私があなたを持て成しているのだから、あなたはゆっくり寛いでいてください」
 言われて上げかけた腰をまた椅子に下ろす誉之。
 ほんの少し気分転換のつもりで、そして珍しい名の人物がどんな感じの人なのか興味を覚えて、ただそれだけで来ただけだったのに、と誉之は少し申し訳なく思った。
 そして、そういえば自分は悩んでいたのではなかったかと、ここへ来た理由を思い出すと同時に恋人へ抱いた感情をも思い出していた。
――そうだ、僕は恋人を殺したいと思うほど憎んでいて……
 そう内心で独白したとき、ふいにザワリと部屋に数人の人のどよめきのようなものが、広がっていったような気がした。
 驚き慌てて辺りを見渡すが、しかしそこに誰かがいるわけも無く、耳を済ませてみても当然何も聴こえなかった。
――気のせい、か?
 思ったとき、手にトレイを持って男が戻ってきた。
 トレイの上にはシンプルだが高級感のあるグラスがふたつあった。
 グラスには氷の入ったアイス珈琲が満たされ、他にトレイに乗っていたふたつの小さな器には角砂糖とミルクがあった。
 そのどちらもグラスに入れながら、誉之は気になっていたことを訊いた。
「人形さんは――あ、すみません。荷物の伝票を見て……人形さんで、あってます?」
 誉之と同じように、グラスに角砂糖とミルクを入れてかき混ぜながら、男は微笑んで頷いた。
「構わないよ。そう、“ひとかた”と言います」
「あ、僕は見里誉之といいます。すみません、そういえば自己紹介もせず――」
「いや、それはこちらも同じだよ。それで?」
「はい、人形さんは芸術家の方ですか?」
 部屋の芸術品を見て、それから男を見たとき誉之は、男が芸術家という雰囲気にぴったりだということに気づいた。
 細い指先も器用そうで、想像としては絵筆を滑らかに動かしながら、真白な用紙に風景画を描いている――そんな印象だった。
 ただ、風景画を……と思ったとき、また誉之の中で何かが引っかかった。
「そう、見えますか?」
「ええ……違いましたか」
 見当違いのことを言ってしまったか、と誉之が気落ちしていると、テーブルに両肘をついて手を組み、そこに細いあごをそっと乗せて男が微笑んだ。
「いえ、あっていますよ」
「本当ですか。やっぱり――では、あの絵はもしかして?」
 リビングに飾られた、「天を仰ぐ人の絵」を見てから誉之は訊いた。男の印象と絵の印象とはあまり繋がらないが。
 しかし、男はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、違います」
「そうですか」
 絵描きではない、では――?
 誉之が訊くより早く男が答えた。
「私は絵画は描きません。準備の段階で下書きとして絵を描くことはあるけど、飾るための絵は描きませんよ。
――私は“にんぎょう”を作ってます」
「人形、ですか?」
 誉之は目を見開いて驚いた。誉之の頭の中には、芸術家と言えば「絵描き」か「陶芸家」か「彫刻家」・・・更に考えても「水墨画家」くらいしか思い浮かばなかったが、人形を作るのもそれは同じ芸術家と言えるだろう。
 自分が考えてもみなかった答えに、そしてそれはあまりにも男の印象に合わず、誉之はしばし戸惑った。
「人形、とは――どんな?」
 「人形」と一言で言っても、様々なものがある。
 市松人形、仏蘭西人形、おもちゃの人形――。それらの種類がどういったものか誉之には分からないが。
「では、見られますか?」
「いいんですか?」
「ええ、どうぞ。こちらへ」
 男は立ち上がると誉之が持って来た荷物へ歩み寄った。
「実はこれ、しばらく前に私が作ってある方にお貸ししたものなんですよ」
 説明しながら男は箱の蓋を開け、無造作に中へ両手を入れると、軽い仕草で“それ”を持ち上げて見せた。
「っ!!」
 もう少しで誉之は悲鳴を上げそうになり、思わず手で口元を押さえた。
 箱の中から出てきたのは成人男性ほどの大きさの、人間と見紛うほど精巧に作られた人形だった。
 当然、男が大人の人間を軽々と持ち上げられるわけがなく、その動作でそれが人形なのだと認識することが出来た。
 しかし服まで着せさせられた人形は、本物の人間だと言われても納得してしまいそうなほど、よく出来ていた――が、それは「よく出来ている」で終わっていいようなものではないように誉之には思えた。
 何をどう言っていいのか分からないが、本物とも思えるような人形が服を着て、配達されているということに非常な違和感を覚えた。
 そんな誉之の表情を読んで、男が屈託のない微笑を浮かべた。
「おや、驚かせてしまいましたか」
 人形を持ち上げたまま微笑む男。
 誉之は初めてこの男に対する不信感を覚えた。
「その人形……一体何に使うんですか?」
 「貸した」ということは、誰かが何かのために使ったということなのだろう。
 一体何に使ったのか、誉之は不審に思って訊いた。
 しかし、男は人形を元の箱にしまいながら、「さあね」と笑った。
「私は頼まれて作るだけだよ。用途によって作り方も変わるから、ある程度は依頼者の話を聞くのだけどね。それは、関係のない人には話せない、守秘義務というのがあるし、信用に関わることだから」
 誉之は男が「芸術家」だということに疑問を持ち始めた。
 純粋に絵を描いたり物を作ったりし、それを鑑賞するのが「芸術」だと言うのが誉之の認識だった。
 この男の言うように依頼があって人形を作り、依頼者がその人形を何かに使うのなら、それは芸術というより仕事というのがより近い。
 そんな誉之の考えを読んだのか、男が更に付け加えた
「もちろん、観賞用の人形も作っているんですよ。見ますか?」
 そう言って男が向かったのは、ふたつある内の部屋のひとつだった。
「ここは私の仕事部屋にもなってますから、あまり不用意に辺りのものには触らないで下さいね」
 部屋へ向かいながら男が注意を促し、扉の前まで来ると一旦こちらを振り返って、今度は奇妙な事を言った。
「ああ、それから気をつけてください。人形は人の心の隙をついてイタズラをするのが好きですから――」
「は……?」
 思わず誉之は問い返すが、それには答えず男は扉の取っ手に手をかけて開いた。
 促されるまま扉の中に一歩入って、誉之はそこに並べられた人形の数と異様な雰囲気に驚いた。そして、夏のはずなのに部屋の涼しすぎることにゾクリとした。
 人形の大きさは様々で、小さな箱に入るサイズのものもあったようだが、やはり目を引くのは実寸大の人形だった。
 材質は様々なようだった。中身は分からないが表面は布張りしていあるものから、陶器のように硬く冷たそうなものから、木を削って滑らかにしたものから――多種多様だった。
 そして、服を着ていないために、より精巧な部分を誉之は目の当たりにする。
 首筋のラインや喉仏の出っ張り、鎖骨の辺りや腕・脚などの筋肉の付き方、それから足の付け根、股の部分――。
 誉之はそれを直視できず、思わず視線をそらせる。
――こんなに人ばかり……なんで――。
 そんな誉之の考えをまるで読んだかのように、男が自分の作品を愛でながら話し始めた。
「私は幼い頃から、人というものにとても興味を抱いていました。人の思考や行動もですが、体の造りには更に興味をかきたてられた。確かに、最初は絵から入ったのですが、その内それでは物足りなくなり、今ではこのように人形という形をとって様々な人を造っているんですよ」
 自分の作品から誉之へと視線を移し男は続ける。
「あなたの体もまた興味深い」
 途端、誉之はリビングの作品を見て感じた違和感の理由が分かった気がした。
 あそこには人を表した作品ばかりが飾られていたのだ。
 動物や自然などのモチーフで創られたものは無く、絵にしても彫刻にしてもすべてのモチーフは人間だった。
 そしてこの部屋――。
 男は芸術家かも知れないと誉之が想像したとき、想像の中で男が描いていたのは風景画。だが、そこにも違和感を覚えた理由はこれだった。
 人間への異様なまでの好奇心と執着。
 誉之は段々とこの部屋にいることが怖ろしくなった。
「あの、僕――」
「どうです、そこでひとつ」
 誉之の言葉を遮り男が一歩、誉之に近づいてきた。同じく誉之も一歩退く。  射抜かれるような蛇の目で見つめられ、誉之はこの場を去りたいと思いつつも、体が上手く動かすことが出来なかった。
「あなたの望む人形を一体お作り致しますから、あなたの体を私に――」
 妖しげな目が見開かれ、狂喜にも似た色がそこに浮かんでいるのを誉之は見た。
 誉之は今度はこの目の前に居る男が怖ろしくなり、もう一歩うしろへ下がったとき、背に棚に座らされた人形の脚が触った。途端、辺りに先ほども聞いた人々のざわめきが聴こえた気がした。
 驚いて辺りを振り仰いだその時、状況が一変した。
「誉之!」
 部屋の戸口に現れた男が居た。
 現れた人物を見て誉之は驚愕した。
「克明(よしあき)!!」
 昨夜、別れたはずの恋人だった。

 長身の逞しい体躯、褐色の肌、自分を見る力強い目、どこからどう見ても誉之の元恋人、克明だった。
 誉之は何故、彼が今ここに居るのか不思議ではあったが、彼が来てくれたお陰で、この奇妙な状況のなか幾らか安堵することが出来た。
 しかし、何故彼がここに居るのか訊かないわけにはいかない。
「克明、なんでここに?」
「お前の家に行く途中、お前がこの部屋に入っていくのを見た。しばらく待ったが出てこないから、心配になって――」
 自分を心配してくれたのか、と思うと嬉しかったが、昨夜のことを思い出すと気持ちはどんどん荒んでいった。
「知り合いですか?」
 克明に言葉を返すより先に、男がもとの微笑を浮かべた表情で訊ねてきた。克明が不法侵入してきたことに対し、特に不愉快と思っていない様子だった。
 どちらかと言えば、この状況を楽しんでいるようにも見える。
 誉之は男をチラッと見ると返答した。
「恋人でした。昨夜別れましたが」
 答える声は自然と小さくなる。打って変わって男の声はいつもと全く変わらない。
「そうですか。元恋人さんでしたか。では、別れた今は赤の他人ということですね」
 男の言葉に胸に痛みが走る誉之。
 そうだ、赤の他人なんだ。こいつは僕を裏切って僕を捨てた奴なんだ。自分から僕を切り捨てといて、今更心配だとか言われても――。
 誉之は昨夜から今朝にかけて、内心で抱いてきた憎悪を思い出していた。
 憎い、と思う。殺してやりたい、と思う。
「そう、僕を自分からフッておいて、今更何しに来たんだ、克明!」
「なんだよ、別れたら心配もしちゃいけないのか?」
「どの面下げてって言ってるんだ! あんな酷い仕打ち――」
 俯きかけた誉之の視界に、克明の左手薬指に光る指輪が見えた。
 途端に怒りが爆発する。
「僕を裏切って女と結婚なんかしやがって!しかも直後まで僕に黙ってるなんて――! それで別れてくれだって? 男相手に本気にはなれないって? だったら今までの5年間はなんだったんだよ! お前の気持ちは嘘だったのかよ!」
 悔しくて悔しくて、気が付くと誉之は泣いていた。
 溢れる涙を拭いながら、誉之は克明が否定する言葉を言ってくれるのを、我ながら女々しいと思いつつも期待した。
 だが――
「ああ、嘘だったさ」
「――は?」
 克明のいやに冷静な言葉の意味が、誉之は咄嗟に理解できずに聞き返した。
 見上げれば無表情で克明がこちらを見下ろしていた。
 無情にその口が開かれ、誉之には信じ難い言葉が出てきた。
「お前の言うとおり、全部嘘だったって言ったんだ。俺はもとから男と一生暮らすなんて考えてもいなかったし、お前とのことは最初から遊びのつもりだった。お前が本気だったんで、彼女が居ることも結婚することも言えなかったが――うざいんだよ。男の癖にベタベタと」
 克明はその先の言葉を続ける事が出来なかった。
 5年も付き合ってきた、本気で好きだった相手から聞かされる裏切りの言葉に、逆上して我を見失った誉之が、視界の端にナイフを認め、咄嗟にそれを掴んで克明に向かって突進した。
 どっとぶつかった瞬間、肉を切る手ごたえを感じ、ナイフを伝って暖かい血が自分の手に流れてくるのを感じた。
 頭上からは克明の呻き声が聴こえる。
 誉之はそっと体を離すと、まず腹にナイフの刺さったのが見え、そこからとめどなく血が流れているのを見た。
 さらに体を離して一歩退くと、克明の顔を見上げた。
 苦悶の表情を浮かべて克明が誉之を凝視している。その瞳に絶望の色が濃くなり、次いで瞼が閉じられたかと思うと克明はその場に倒れ込んだ。
 倒れ、絶命した克明を見下ろし、血まみれの両手で頭を掻き毟ると、誉之は涙を流しながら叫んだ。
 肺の中の空気が全て無くなると、再び息を吸い込んで叫ぶ。それを三度続けたころ、誉之は力尽きたようにその場に膝をついた。
 胸を掻き毟り喘ぎながら誉之は、愛しさと憎しみと後悔に苛まれた。
 しばらくそうして放心していた誉之の耳に、唐突に甲高い男の笑い声が聴こえてきた。
 辺りの雰囲気が更に変わった気がした。

 笑い声につられて緩慢とした仕草で、誉之は辺りを見回した。
 男の声ではなかった。
 もっと下品で人を不愉快にさせる声だった。
 部屋を見回す中で、その男の姿が見当たらないことに気づいたが、今はあえてそのことを誉之は無視した。
 警察に電話するため部屋を出たのか、それとも逃げ出したのか――どの道、自分は捕まるのだと誉之は高をくくって。
 それよりも今は、この野卑た笑い声が一体どこからしているのか、それが不思議で不気味でならなかった。
 だが、この部屋のどこにも男の姿は見えない――いや、
「こいつ本当に殺しやがったぞ!」
 笑い声の主がやはり甲高い声で喋りはじめた。
 耳障りな喋り声が、意外に近い場所から聞こえることに誉之はゾッとした。
 ゆっくりと顔を上げると、棚の上に座る一体の人形を見た。
 奇妙なくらいにやせ細った体躯の、20代後半くらいの男の人形だった。
 まさか、この人形が喋ったのだろうか、そう思ったとき――
「おやおや、気づいちまったのかい」
 正面を向いていた人形の顔がカクンと下を向いて、見開いた目と誉之の視線が合った。
 思わず喉の奥で「ひっ」と悲鳴を上げると、誉之はその場に尻餅をつき、そのままへたり込んだ。腰が砕けて動けない。
 そんな誉之を嘲笑うかのように人形が続ける。
「おい、化け物を見たみたいに驚かんで欲しいな。オレからしたら、よっぽどお前の方が怖い」
「おお、怖い怖い」
 痩せた男の人形の声以外にも、また別の声が聴こえてきた。
 声のする方を見れば、ちょうど痩せた男と向き合うように、部屋の反対側の棚に座らされている、太った男の人形がいた。やはり誉之の方を見下ろしているように見える。
「な……なんなんだ、これは――」
 震える体を抱えながら、誉之はやっとそれだけを言った。
 それはただの独白だったのだが、律儀にも人形は応えた。
「なんなんだと言われても、オレの方こそ『なんなんだ』と訊きたいねぇ」
「え?」
「そうだよ、あんた。なんだって恋人を殺しちまったんだ」
「あ?」
「怖ろしいねぇ。元恋人が自分より幸せになったからって殺すなんて――」
「ち、違うっ!」
 誉之は咄嗟に叫んでいた。
 違う、違う! 幸せになったから殺したんじゃない! 自分を裏切ったから――
「何が違うってんだ? 同じこったろ? そいつが自分を裏切って、自分より幸せになった。お前はそれが恨めしいんだろう? お前は一生結婚できないのに、そいつがさっさと結婚しちまって、それが悔しいんだろう?」
「違う! そうじゃない!」
「本当はあんたも、その男のことを本気で好きだったんじゃないんだろう」
「なっ……」
「だって、本当に好きなら相手の幸せを思って身を引くのが普通じゃないかい? そうだろう。違うかい?」
 誉之は返す言葉がなかった。
 呆然と人形を見返すしか出来なかった。
「お前が恋人にしがみついていたのは、自分と同じ境遇の男が傍にいて欲しかっただけなんじゃねーか? そうやって自分は一人じゃないと、慰めていたんじゃねーのか? だから、一人抜け駆けしたそいつに腹が立ったんだ」
「子供の癇癪のようだねぇ。怖ろしい、怖ろしい」
 何も口に出して言い返せない誉之だが、心中では必死に否定の言葉を探していた。
――違う、僕は本当に彼を好きだった。愛していたんだ。なのに、遊びだったって言われて頭に来て……。
 だが確かに、結婚したということに対する強い憤りもあった。
――そう、なのか? 彼が結婚して幸せになって、僕はそれが許せなかったのか? だからこんなに腹が立つのか? 憎いのか? 本当に相手の事を想っているなら、彼が幸せになる事を僕は祝福しなくちゃいけないんじゃないのか?
 人形の言った言葉が頭の中をぐるぐる回る。
「僕は彼の存在が嬉しかった。傍に居てくれて嬉しかった。それが無くなるのだと知って――怖くなった。ずるいと思った……」
 傍に倒れる克明の死体を見つめると、誉之は再び涙を流す。
「僕の――我侭だったんだ。子供の癇癪だったんだ……ごめん――ごめん、克明!」
 死体に縋り付いて誉之は泣いた。
 取り返しのつかない過ちに眩暈がするほど誉之は後悔した。
 亡くなってしまった命と、犯してしまった罪と、誉之は強い後悔の念と申し訳なさに、しばらく泣き叫んだ。
 泣いて、泣いて、泣き叫んで、体力も使い果たしたころ、ずっと黙っていた人形が再び喋りはじめた。
「でもまぁ、殺しちまったもんはしょーがねぇ。潔く諦めろ――ってぇ言いたいところだが、お前、運がいい」
「……え?」
「そうだ、運がいい。そいつは生まれ変わる」
「生まれ、変わる?」
 何を言っているんだ、と問いかけようとして、だが次の瞬間目の前で起こった出来事に言葉を失くす。
 死んだとばかり思っていた克明の体が、どういうわけか動き始めたのだ。
「克明――お前」
「生き返ったんじゃあない」
 誉之の言葉を遮って人形が言う。
「もともと生きていたんでもない」
「どういう、意味だ?」
「だから、生まれ変わったのさ」
「生まれ、変わった?」
「そう、生まれ変わったのさ。人形に」
 体を起こし、こちらへ向いた克明の顔は、確かに木彫りで出来た人形の造りだった。
 誉之は悲鳴を上げると気を失った。

 肌に何かが触れる冷たさに、誉之は意識を取り戻した。
 一体何が、と視線を動かせば克明が――いや、克明の形をした人形が誉之の服を脱がそうとしていた。
「ひっ!」
 さっきのは夢ではなかった。
 怖ろしい光景に誉之は悲鳴を上げて、なんとか人形から離れようともがいた。
 上から再び人形の声がする。
「何を怯えてるんだ。そこに居るのはお前の恋人だぞ?」
 しかし、到底そんなことは信じられなかった。
 触れてくる手は滑らか過ぎる冷たい感触がするし、見つめてくる顔は表情に乏しい。
 こんなの、克明じゃない!
「だが、これを待ち望んでたんじゃないのかい? 恋人に戻ってきて欲しかったんだろう? そうして、また抱いて欲しいって思ってたんだろう?」
「それは……」
「その男は生まれ変わって、あんたの元に戻って来たんだ。そいつはもう、あんただけの物になったんだぞ」
「……僕だけの、もの?」
「そうだ。お前が望むように傍にいて、好きなだけ抱いてくれる。お前だけの――人形だ」
 緩慢な仕草で克明の形をした人形が誉之に触れてくる。
 誉之はもう、それを拒むことはしなかった。
――僕だけの、人形……。僕だけの、克明。僕だけの――!
 誉之は目を瞑って、冷たい手が胸を弄る感触に神経を集中させた。
 胸を、わき腹を、下腹部を、撫でるように愛撫されて、誉之は「ああ」と吐息を漏らす。
 少ししてベルトが外され、パンツのジッパーが下ろされた。下着の上から少しだけ硬くなった誉之のものを、克明の人形はそれよりも硬い手で愛撫しはじめた。
 そして、ほぼ硬くなった誉之のものを、克明の人形が下着から取り出す。
 外の空気の冷たさを感じた誉之だが、次に克明の人形の手の触れる冷たさに、思わず体を震わせてしまう。
 冷たさとぎこちない手つきに、少しだけ泣きそうになる。
 それでも扱かれて感じる部分を刺激されれば、誉之は背を仰け反らせて先端から先走りを溢れさせた。
 あと少しでイク、そう思ったとき、ふいに手がそこから離れ、上り詰める感覚が途絶えた。
「あ――?」
 遠ざかる快感に不満の声を漏らし、もっとと懇願するように克明の人形をみれば、今まで誉之のものを触っていた手が下へさがるのを見た。
 次の瞬間、
「あっ――つっ……あっ!」
克明の人形の指が、誉之の後ろの入口に吸い込まれていく。
 また冷たさに鳥肌が立ったが、指の蠢く感覚にそれはすぐに快感のためのものに変わった。
 すぐに敏感な部分を刺激されて誉之は驚いた。
 知っているようだ、と思う。動きはぎこちないが、この人形は誉之の感じるところを全て知っているようだと。
――じゃあ、本当にこの人形は……克明なのか?
 自分の中で蠢く指が2本、3本へと増やされ、誉之は自ら腰を指の動きに合わせて振った。
 さっきよりも先走りを溢れさせながら、気づくと誉之は淫らに喘ぎ克明の名を呼んでいた。
「ああっ! よし、あきっ! 克明!――来て。僕の中に、挿れてっ!」
 欲望のままはしたない言葉を叫ぶ誉之。
 だが今はそれよりも切実に欲しいと思う。克明が、欲しいと。
 誉之の言葉を理解したのか分からないが、人形はそこから指を引き抜くと自分のパンツを下ろし、いつからそうなっていたのか勃起したそれを誉之の入口にあてがった。
 冷たさと、人のものでない硬さに、思わずゾクリとした誉之だが、それには構わずまた懇願する。
「挿れて、克明。奥まで、来てっ!」
 誉之の要求どおり、人形は自分のものを誉之の奥まで一気に突き入れた。
「ああーっ!!」
 あまりの硬さにか、それとも強い刺激にか、自分でも分からない感情に任せて、誉之は声高く叫んだ。
 奥までそれが納まると、人形はゆっくりと律動を始めた。
 少し湿っただけのそこが、最初は痛かったが内壁から滲む液が次第に動きを滑らかにした。冷たかった人形のそれも、誉之の中の温もりに暖かくなっていく。
 やはり人形は誉之の感じる部分を知っていて、時折そこを執拗に突いた。
 突き貫かれるたび、誉之は喘ぎ悶え、克明の名を呼びながら快感を貪った。
 律動は次第に激しくなり、肌のぶつかり合う音と、湿った接合部からの音が、誉之の羞恥心と興奮を煽った。
「あっ! いいっ! んっ、克明、よし、あきっ! もっと――もっと突いて、もっと!」
 淫らに喘ぎながら妖しく自らも腰を動かしている、誉之の絶頂は近かった。
 一際、激しく貫かれると、誉之はたまらず体を震わせ、脈打つそれから白濁の液を迸らせた。
 温かい自分の精液が胸や腹に飛び散る。その上から人形がまた愛撫し、ぬめった指が肌を滑る感触が心地良かった。
 しばらく息を整えると、自分の中から人形のそれが引き抜かれるのが分かった。
 すべて抜かれると、当然誉之の中からは何も出てこない。やはり人形がイッたり射精したりすることはないのだ。
 だが、誉之はその事実に目を瞑り、寝転がったまま人形を見上げて言った。
「克明。また僕をイかせてよ。もっと感じさせてよ。僕の――克明」
 人形が再び誉之の上に覆いかぶさってくる。
 誉之は体の向きを変えてそれを迎え入れた。
 先ほどと変わりない硬さと大きさの怒張で、誉之は後ろから貫かれながら善がる。
 人形は誉之が「もっと早く」と言えば早く律動し、「もっとゆっくり」と言えば言葉どおり、ゆっくりと挿し抜きした。
 誉之は人形に自分のものを扱かせながら、「もっと激しく」と要求し、前後の刺激に2度目の射精をした。
 白濁で床を汚しながら、気がつくと誉之は泣いていた。
 涙が溢れる理由は分かっていたが、誉之はそれをあえて無視して、今度は人形を床に寝かせるとそれを跨ぎ、人形のものを腰を沈めて自分で迎え入れた。
 人形にも動かせながら、それに合わせて誉之も動いた。
 次第に後ろの痺れる感覚に、誉之は喘ぎ声を上げ善がることで無視をしようとした。
 誉之の意識と呼応するように、人形の動きが早くなる。
 だが、今度の限界が来るのは長かった。
 人形のものが自分の中を擦る部分を、自分で向きを変えながら調節したり、自分で自分のものを扱いてなんとか快感を導いた。
 そうしてやっと、誉之は限界に達すると、精液を人形の腹に迸らせた。
 荒い息を肩で整え、誉之は人形を見下ろした。
 苦悶の表情を浮かべる自分とは違い、人形はただ無表情に自分を見返しているだけ。
 また涙が溢れた。
 身内で「違う」という声がする。こんなのは、違う、と。
 その時、今まで黙っていた人形の甲高い声が上から降ってきた。
「良かったなぁ。恋人が戻ってきて。お前はそれを望んでたんだろう? そうやって自分を慰める玩具が欲しかったんだろう?」
 途端に体の奥から激しい衝動が沸きあがると、それに任せて誉之は人形の胸に顔を埋めながら叫んだ。
「違うっ! 僕はこんなのこと、望んでたんじゃない! ただ、傍にいて欲しかっただけなんだ! それなのに、僕に何も言わず結婚して離れて行くから、とても怖くて悲しくて……。でも、こんなこと僕は望んでない! お願いだから、彼を元にもどして! お願い……だから……。こんなことになるのだったら、殺すんじゃなかった――」
 その時、耳元でいつの間にか消えていた男の声がした。
「本当に、人間と言うのは愚かだね。そして滑稽だ。だけど、そんな人間に惹かれる私もまた、滑稽なのでしょうね――」
 咄嗟に顔を上げようとした誉之の視界が暗転した。
 遠ざかる意識の中で、男の細く美しい手に頭を撫でられたような気がした。

 けたたましい何かが打ち付けられる音で、誉之は目が覚めた。
 顔を上げるとそこは自分のマンションの部屋で、椅子に座りテーブルに突っ伏した格好で寝ていたようだった。
 テーブルの上を見ると、ナイフが光を反射してそこにあった。
 昨夜、克明と喧嘩し別れを告げられ、恨み言を繰り返しながらそのまま眠ってしまったようだ。
 そこまで考えてハッとした。
 いや、その後配達員が来て荷物が届いたじゃないか。それは誤送で、自分はそれを正しい住所へ持って行って――。
 全てを思い出した誉之だが、しかしどう考えても自分が今いる部屋は自分の部屋で、あれから――あの人形(ひとかた)という男の部屋から戻ってきた記憶がない。
 あれは夢だった?
 だがしかし夢にしてはリアルで、今でも肌に人形の硬く冷たい手の感触や、硬い人形のものを受け入れた痛みや、快感に射精した余韻も残っている。
 夢か幻だったとは到底思えない。
 そう、あの時の克明をナイフで刺す感触や血の温かさだって――。
 何故か血で汚れていない両手を見下ろしていると、再び何かがぶつけられているような音が部屋に響いた。
 音のする方を見れば玄関で、どうやら扉を拳で誰かが叩いているようだった。
 その音にまぎれて扉の向こうから声がする。
「――ゆきっ――誉之っ!」
 誉之は息を呑んだ。その声はまぎれもなく克明の声だった。
「克明?」
 椅子を蹴倒して立ち上がると、誉之は玄関へ走った。鍵を解いて戸を開けると、そこには自分が殺したはずの克明がいた。
 もちろん、木彫りの人形などではなく、人間の――。
 克明は戸を開けて現れた誉之を見て、ホッと安堵したような表情をした。
「誉之、オレ……謝ろうと思って」
 克明が以前の恋人だった時の表情をして言ったとき、誉之は痩せた男の人形の言った言葉を思い出した。
『良かったなぁ。恋人が戻ってきて』
 しかし、克明の左手を見れば昨日と変わりなく指輪がそこにはめられている。
 だが、誉之は何故だかその事にとても安心した。
「誉之?」
「――いや、いいんだ。僕も・・・悪かったよ。本当は克明が離れていくのが怖くて、黙って結婚したことに腹を立てたけど……だけど、いいんだ。克明が生きて――幸せになってくれれば」
 それは心からの言葉だった。
 本当はまだ悲しいと思う。寂しいと思う。だが、克明がこの通り生きていてさえくれれば、それでいいと誉之は今は思う。
「誉之! ほんと、ごめんな」
「克明……」
 2人抱きしめ合うと、しばらくそのままお互いの肌の温もりを共有した。
 もう二度とないだろう、それは恋人同士の抱擁。
 だが誉之は名残惜しくも体を離すと、精一杯の笑顔を見せて言った。
「幸せにな」

 あれから数日が経った。
 日が経つにつれて「人形」という男の部屋に行ったことや、その部屋で起こった出来事や、そもそも誤送された荷物のことすらも、あれはきっと夢だったのだと誉之は思うようになった。
 そもそも、荷物の伝票に書かれていたマンションなど無く、一度だけ男のマンションへ行こうと試みたが、目的の建物はどこにも見当たらなかった。
 目と鼻の先にあったマンションが分からないとは、そのマンションが消えたのか、やはり夢だったのだとしか誉之には考えられなかった。
 しかし、あれが夢でなくて、今この時が夢の中なのだとしたら――。
 両手に残る克明を刺した感触や血の温かさが、思い出されるたびに誉之はゾッとした。
 思い出しては首を振って嫌な考えを払拭する、そんな日々を幾日かやり過ごした時、一通の手紙が届いた。
 送り名を見てギョッとした。
「人形 繰――」
 あの時の男の名だった。
 では、あれは夢ではなく現実? しかし克明は――。
 震える手で恐る恐る封を開け、中の便箋を取り出した。
 黒のペンで書かれた文字を目で追う。
『この度は、私の創作にご協力いただきありがとうございます。興味深くあなたの体を拝見させていただきました。そのお礼として提供いたしました、克明様の人形はいかがでしたか?
また、お会いできる日を楽しみにしております。それでは――』
 読み終わって誉之は呆然と立ち尽くした。
 創作に協力? 体を拝見? 克明の――人形!?
 では、あれは最初から人形だったのだろうか?いや、そもそもあれは本当に起こった出来事なのか?
 だとしたら、男のマンションが見当たらないのはどういう訳か。男のマンションから自分の部屋に戻った覚えがないのは何故か。男の部屋で時間を過ごしたのに、目が覚めてみれば全く時間が経っていなかったのは何故か。
 次々と出てくる疑問に当然答えることも出来ず、誉之は狐につままれたような気持ちでその場に座り込んだ。
 だがあの出来事はなんだったのか、その事に答えを出すことは出来ないが、しかしあの出来事がなければ自分は克明の別れを受け入れることも出来ず、「幸せにな」と言うことも出来なかったのだと、誉之はそれだけは確信することが出来た。
 もう一度、手紙に視線を落とす。
「『また、お会いできる日を』だって? 僕はもうごめんだ」
 口に出して呟いて、誉之はふっと微笑んだ。
 やっと心底、笑うことが出来たような気がした。

[終]

2008.11.25

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