静かな教室に居ると、校内のどこかから演劇部の発声練習が聴こえてくる。
グラウンドの方からは運動部のかけ声が、体育館からも同じく運動部のかけ声とボールがはじく音が反響して聴こえる。
放課後、教室で僕は机に向かいながら、いつの間にか外の音に耳をすましていた。
あ、今演劇部の子が発声間違えた、とか、バスケ部のシューズの音って何であんなキュッキュッていい音するんだろ、とか。
ノートに視線を落としながら、僕はそんな意味の無いことを考えていた。
それは本当に無意識だったわけで――
「っ! いてぇ」
僕の傍で勉強を見ていた藤井に、手元にあった教科書で頭を叩かれるまで、自分で気づかなかったりする。
僕が無意識に勉強以外のことを考えていたのを、どうやら藤井に気づかれたらしい。
だけど、一応悪あがきはしてみる。
「ってぇな。何するんだよっ!」
ジンジンする頭をさすりながら藤井を睨むが、持っていた教科書を放るように机に戻して、藤井は僕を睨み返して来た。
その彼の手には相変わらず携帯が握られている。
全くその癖だけは直らないんだな。それで酷い目に遭ったって言うのに。
「『いてえな』じゃねー、ばぁか」
「は、ばぁかって――」
「バレバレなんだよ、思考が脇道それてんのは!視線がさっきから動かねぇし、シャーペンもいじってるだけだしな」
全く呆れる、っていう表情を付け足して藤井がたたみかける。
僕は言い返すこともできず――当然図星だからね――うつむいて口を尖らせる。
まだ残暑を思わせるほどの暑さの中で、なんで僕だけが勉強しなきゃいけないんだ。
まぁ、藤井は更にその僕の勉強を見てる立場だから、藤井の方が「なんでだ」って思っててもおかしくはないかも。
それをこうやって付き合ってくれてるんだから、感謝しなくちゃとは思うけど。
「なぁ、なんで藤井は勉強しないんだよ。僕だけ勉強してお前は見てるだけなんて、つまんなくね?」
だが、藤井は悠然とした笑みを浮かべて言った。
「だって俺がこれ以上勉強したら、もうお前、絶対俺に追いつけないぜ?」
「くっ――!」
なんて人を馬鹿にした言い方っ!!
だけど本当のことだから何も言い返せない。
そう、僕ら高校は同じところを受けようと思っていて、それで僕が藤井に合わせるために猛勉強しているのだ。
藤井に言われて授業はちゃんと聞くようにしてるし、宿題もちゃんとして分からないところは藤井か先生に聞くようにしている。
お陰で先生には「珍しいな」なんて喜ばれるし、クラスメイトからは「天変地異の前触れだ」なんてオリジナリティのない激励も受けた。
それもこれも聞き流し、受け流しして放課後に勉強までして頑張ってるのは、この藤井と同じ高校へ行くためだ。
とにかくもっと勉強しなきゃ、藤井のレベルになんて合わせられない。
そんな事は知っていたけど、当の藤井からそんな言葉を貰うなんてな。
「ふんっ! 受ける高校のレベル下げやがったらただじゃおかねぇからな!」
他にも何か言ってやりたかったが、出てきた言葉はそれだけだった。
僕の挑発ともとれる言葉を、さっきと同じ笑みを浮かべて受け流すと、そこでおしゃべりは終わりだとばかりに、藤井はまた携帯に視線をもどした。
ったく、勉強見るって言っても僕が詰まったときだけだし、それ以外はずっとああやって携帯いじってるけど、なんか腹立つよなぁ。
僕がまた余計なことを考えていると、再び藤井の視線が携帯から僕に移った。
もう何も言わないが視線が「今度は何を考えてる?」と言っている。
「分かったよ! 勉強すればいいんだろ? 勉強すれば!」
僕は慌ててノートに視線を戻し、難解な古典に意識を集中させた。
僕らは中学に入ってすぐ親しくなって、気がつけば部活動のない放課後はいつもこうやって教室で駄弁るようになった。
3年の二学期――つい最近だ――からほぼ毎日だけど。
それが2年の途中から僕が授業で居眠りすることが多くなり、ノートを取ることが出来なくなった――いや、自分のせいなんだけど。
それからは、放課後に駄弁るのと一緒に、藤井にノートを写させてもらっていたりしていた。
最近は目下、それが受験勉強に変わりつつある。僕だけ。
そういえば僕と藤井ともう一人、森っていう女子とも藤井と同じく中学に入ってすぐ親しくなったな。
森の場合はいつもってわけではなく、時々僕らの会話に割って入ってはおしゃべりを楽しんだ。
僕もこんな風に女子とおしゃべりをした事が無かったから、女子ってこんな事を考えているのかって思って、とても楽しかったな。
3年になって森だけ別のクラスに行っちゃったって言うのもあるけど、最近とある事件――という言い方は大袈裟かな――で森とは少し距離が出来てしまった気がする。
それもこれも、みんな藤井の携帯いじりっていう癖のせいのような気が僕はする。
いや、そもそもは夏休みに藤井と森が偶然学校に居て、たまたま森の好きな人を藤井が知ってしまい、それを知った森が恥ずかしいのか藤井を避けるようになったって所から話は始まるんだけど。
でも、それは藤井から聞いた話で、実際は少し違ったようだ。
とにかく、森が不自然に藤井を避けはじめ、二学期が始まって少しして藤井の携帯いじりが祟った。
携帯の画面を盗み見たクラスメイトが、「藤井は森が好きなんだってさ」と恥もモラルもなく叫び言いふらしたんだ。
あの時、せめてもの救いは森が同じクラスでなかったことだろうな。
もし同じクラスであの場にいたら、更に教室内は騒然となっていたかも知れない。
女子である森にとっては、あの時あの場に居ることは耐え難い苦痛だったと思う。
だけど、「藤井は森が好き」という噂も、森のクラスにまでやはり飛び火していたらしい。
やはりクラスに1人や2人は同じような奴が居るらしく、噂を聞きつけた心ないクラスメイトが、森のクラスにもあの噂を広めてしまった。
ただ、僕のクラスよりは大分マシだったようだけど。
でもこの噂が原因で森の“闘争心”に火をつけてしまったみたいだ。
そして藤井にも……。
あの噂のお陰で僕は、2度もとんでもない目に遭ってしまったんだから。
「今度は頭叩くだけじゃ足んねーか?」
藤井の殺意のこもった言葉に僕はハッとなって我に返った。
見ると藤井が眉間にしわをよせて、僕を睨みつけている。
いかんいかん。
ついこの難しい字の羅列を見ていると意識が飛んでしまう。
「だ、だってさ、む、難しいんだもんよ」
本当に叩かれる前に僕は慌てて言った。
嘘ではない。本当にチンプンカンプンだった。
「分からないところは俺に訊けって言ったろ? ったく、別に同じ日本の言葉なんだし、英語よりは全然マシだろ?」
「マシなもんか。古典も英語みたいなもんじゃないか。訳辞典とかあるし今と意味違ったりすんの多いし、ほぼ外国語じゃん!」
「あのな、どういう理屈だ。まったく」
そういうと藤井は呆れつつも、どこが分からないんだと訊いてきたので、僕は問題第一問を指差した。
案の定、電光石火の勢いでまた頭を叩かれた。
「最初ッから詰まってんじゃねーか!」
当然の如く藤井の怒声が教室に響いた。
こんな僕らだが実はつい先日から、どうも妙な関係になっている。
初め僕にその気は無かったし、藤井の気持ちなんて知る由もなかった。
ところが、携帯の画面を覗かれるという事件が起きたその日、僕は初めて藤井の気持ちを聞くことになる。
その時に流れた噂を信じていた僕は、てっきり藤井は森に告白するだろうと思っていたが、森に告白する練習として僕に告白していた藤井の言葉は、実はすべて僕に向けられているものだと知り仰天した。
どんな説得力のあることを言われても、何度「好きだ」と言われても信じられなかった僕は、ついに「これなら信じるか?」と言われ藤井にキスされ・・・。
魔が差したとしか言いようが無いけど、僕はどういうわけか藤井の気持ちを受け入れてしまったみたいだっだ。
だけど、あまりその時の記憶はない。
ところで、その時の噂がもとで本心を打ち明けてきたのは、藤井ばかりじゃなかった。
森もその数日後、僕の帰り道の途中に待ち伏せすると、僕に告白してきたんだ。
まぎれもない、女子からの告白を僕は初めて受けた。
「私、篠丘くんが好き。もし私は藤井くんが好きなんだって思われてたら嫌だから――だから言っておくね」
藤井のときのような頭が真白になることはなかったけど、それでもやっぱり驚いたし、藤井が藤井の口から、森の好きな相手を言わなかった理由もやっと分かった気がした。
でも、「なんで、僕?」って心底不思議に思って訊いたら、頬を染めて森が答えた。
「理由訊かれると難しいけど、最初は優しそうな人って印象だったのに、話していくうち意外に鈍い人だって分かって、でもやっぱり人を気遣う優しいところも本当にあって――それで良いなって思ったから」
それは素直に誉め言葉として受け取っていいのかな?って、思わず少し考え込んでしまったけど、でも微妙に嬉しくて頬が緩んだのを覚えてる。
だけど、「じゃあね」と彼女がそのまま帰ろうとするので、僕の方が慌ててしまい思わず呼び止めてしまった。
「ちょっ、えっ、森っ?!」
「なに?」
「え、な、なにって――それだけ?」
「え?」
「そ、その――す、好きって言って――それだけ、かと思って……」
やっぱり僕の方には女子と付き合うとかいう気持ちは無かったが、それでも自分がその後の展開をまるで期待しているような言い方に、自分でも恥ずかしくなって思わず顔が熱くなったけど。
だけど森はすべて了解している、というように微笑んだ。
「うん、そうよ。いきなり付き合ってって言うのも悪いかなって思って。
それに、篠丘くんにはまだその気はなさそうだし、私と藤井くんの噂もまだ納まってないうちに、それもどうかな?って思うし。
ただ、篠丘くんに勘違いされたままは嫌だから、篠丘くんに気持ちだけは伝えておこうって――迷惑かも知れないけど」
「迷惑だなんて……思ってないよ」
想い人に「好きだ」って自分の気持ちを言うのってすごく勇気のいることだ。それを僕が「迷惑だ」なんて思ったり言ったり出来るわけがない。
真剣な表情で否定すると、森が笑って「ありがと」と言った。
迷惑だなんて思わない。ただ、そんな中途半端なままで森はいいのかなって思っただけなんだ。
僕が森をどう思ってるかとか、付き合うのか付き合わないのかとか、今はそうでなくても僕が森を将来好きになることがあるのかとか、そういったことを本当に明らかにしなくていいのかなって。
だけど、「今度こそ、じゃあね」と言って去っていく彼女を見て、僕はもう何も言えなくなった。
こんなことはまだ、僕が訊いたりする権利は無いんだろうなと思って。
気持ちを決めかねている僕に、「森はそれでいいのか」なんて訊けない。
ぼうっとしている僕の視界に、サッと藤井の手が動くのが見えた。
ハッと我に返って――これで今日三度目だ――「引っ叩かれる!」と思った僕は咄嗟に目をギュッと閉じた。
ところが、藤井の手は僕を引っ叩くどころか、思いも寄らぬ優しい手つきで僕の額にあてられた。
藤井の顔が曇る。
「熱があったのか」
「え?」
「すまん、分からなくて」
「あ、いや……」
確かに今日はもう9月も下旬のくせに暑いなとは思ってたけど……。
だけど、僕に熱があったことに気づかなかったのを、藤井が謝るのは変だ。僕だって気づいていなかったのに。
「藤井が謝るなよ」
「いや、気づかずにお前に無理させてた。悪かった」
本当に申し訳無さそうに謝る藤井。携帯をいじるのもやめて、しゅんと項垂れている。
逆に僕の方が申し訳ない気分になるじゃないか。
でも、藤井がこんな風に表情を出すのって滅多に見られないから、ちょっと珍しいかもな。
いや、そうでもないか。最近はよく感情を表に出してるように見える。
あの告白の日以来――。
「帰ろう、家まで送る」
しょんぼりしていた藤井だが、「こんな事をしている場合ではない」とばかり、僕のノートや教科書、筆記用具などを鞄に片づけると立ち上がった。
急な展開に僕が慌てる。
「ちょっと待てよ。そんなにしんどい訳でもないし、すぐに帰らなくても――」
「何言ってんだ。悪化したらどうするんだ」
こういう時、普段は藤井の押しが強くて、抵抗する力も意志も弱い僕はすぐに流されてしまうんだけど、この日の僕は少し違った。
「大丈夫だって言ってるだろ。それに僕、藤井と放課後こうやって駄弁ってるの、好きなんだ――」
僕がそう言った途端、僕の腕を掴んで引っ張ろうとしていた藤井の手が止まった。
少し驚いた表情で藤井が僕を見つめる。
何か僕は変な事を言ったかと内心ビクビクしたが、次第に変化する藤井の表情に僕は「しまった」と思った。
色白の頬がピンクに染まり、表情が嬉しげに緩む。
「藤井――」
「篠丘、初めて言ってくれたな。『好き』って」
「あ、いや、あのな――?」
「篠丘」
藤井の顔が近づいてきた。
避けたかったが腕を掴れて出来ず、どうするべきか迷ってるうちに藤井の唇が僕の唇に重ねられた。
これが2度目のキスだった。
僕が言った「好き」には深い意味はないのに、それをどうも誤解されたみたいで僕は困った。
本当の事を言うべきだろうか。
でも、嬉しそうに微笑んだ藤井のあの顔――。
いつも無愛想で仏頂面していた藤井の、あんな幸せそうな顔なんか見たことない。
親友としてそんな藤井の気持ちを、故意にではないにしても踏みにじることはしたくない。
黙っているべきだろうか……。
「――んんっ!」
僕が悩んでる最中、藤井のキスは終わらずそれどころか舌を入れてきた。
初め唇に触れていたかと思うと、唇を割って入り歯列をなぞり、縮こまった僕の舌に舌を絡め始めた。
っていうか長いわ!
僕は藤井の手を振り解くのは無理とみて、もう一方の空いてる手で藤井の胸元を強く押して引き剥がした。
ゆっくりと藤井が離れ、僕の咥内を蹂躙していた舌も、涎の線を引きながら離れていった。
僕のものか藤井のものか、涎で妖しく濡れる藤井の唇に思わず見入っていると、その唇が動いた。
「森に告白されたんだろ?」
「ええっ!?」
ど、ど、どうしてそれをっ!!?
僕が目を白黒させて慌てていると、藤井がクスッと笑った。
「やっぱな。なんとなく、そうだと思った」
な、なんとなくって――当てずっぽうかよ。
僕の思っていたことが分かったのか、藤井が苦笑するような表情をしたと思った次の瞬間、もう真剣な表情に戻って僕を見下ろした。
「で? なんて答えたんだ?」
「あいや、それが――」
僕は告白のときの一部始終を話した。
森が僕を好きだと伝えてきたことと、答えは今はいいというような事を言っていたことと。
話している間中、藤井は無表情で聞いていた。
そして僕が話し終えると「そうか」と言って、しばらく黙ってしまった。
ちょっと深刻そうに考え込んでる藤井を見て、僕もふと疑問が浮かんだ。
それは、森は藤井の気持ち知っているのかな、とういこと。
実は気になる事が一点ある。
森は藤井に自分の好きな人を知られたから、藤井を避けるようになったって言っていたけど、僕に森が自分の気持ちを打ち明けたあとも、森が藤井と以前のように会話しているところを見たことが無い。
もしかしたら、好きな人を知られたということ以外、この2人の間で何かあったんだろうか?
まさか藤井が「俺も篠丘が好き」とか森に言うわけはないだろうし。
僕がそんな事を考えながら藤井を見つめていると、その視線に藤井が気づいた。
「どうした、篠丘」
「あ」
「大丈夫か?」
「――ああ、なんでもない」
急に心配そうに聞いてくるので、僕は少し焦った。
もう、こういう時は「見惚れたか?」とか言って、普通冗談言うところだろ。
なんでいきなり真面目になるんだ。
そんな風にされるとドキドキするじゃないか。
「――それより離れないか、僕たち」
まだ藤井に腕を掴れたままで、僕との間は20センチほどと近すぎる。
こんなところ、誰かに見られたらどうするんだ。
そのことに今気づいたというように、藤井が掴んでいる僕の腕を見て「悪い」と離した。
そして、自分の鞄と僕の鞄を持つと言った。
「帰るか」
「……」
僕が顔逸らして黙っていると、藤井が繰り返した。
「――帰るぞ。今日は家で安静にしてろ、な?」
子供を諭すような感じで言われ――同級のくせに――僕は諦めると頷いた。
「――うん、分かったよ」
頷く僕に更に藤井が言う。
「それから、明日も熱があるようだったら休め」
そして教室の出口に向かう藤井。
その後姿を見つめながら相槌を打つ僕。
「そうだな。熱があったらな」
だけど、僕はやっぱりたとえ熱があっても学校に来るよ。
「藤井と放課後に駄弁るのが好き」という理由以外、また別に藤井の知らない理由があるから――。
なんて言葉を飲み込みながら、僕も教室の出口へと歩き始めた。
でも一体あとどれくらい藤井と一緒にいられるんだろう。
赤い夕日で染まる廊下を歩きながら僕は思う。
同じ高校へ行ける保証はどこにもない。そうしたら、こうやって放課後、教室で駄弁ったりするのなんて卒業までだ。
もし別々の高校へ行くことになったら僕はどうなるんだろう。
僕らはどうなってしまうんだろう。
赤く染まる藤井の横顔をそっと盗み見た。
歩きながらも携帯をいじってるのは相変わらずだけど、僕の体調を心配してくれるこの男は、やっぱりさすが親友だよなと思う。
そして、残り少ないかも知れない藤井との放課後の時間を、僕はこれから大事に大事に過ごそうと思う。
なんて事を考えていたら、ふいに藤井と目があった。
藤井の口が開く。
「なんだ? 見惚れたか?」
「もうっ! んなわけ無いだろっ!」
僕の怒声が人気の無い廊下に響いたのは言うまでも無い。
[終]