夏は真っ盛りの晴天だった。
強い日差しは視界を歪ませる幻影を見せ、人々の肌をじりじりと焦がしていく。
だが、その暑さに不満を漏らしながらも、多くの者は夏にしか味わえない季節感やバカンスを楽しんでいるように見えた。
来年から就職活動が始まる歩にとっては、今回が本当に何も考えることなくゆっくりできる最後の夏期休暇かも知れないと、そんなことを思いながら疎ましく空を見上げ、足早にキャンパス内へ入っていった。
来年の秋から再来年の春にかけて内定が取れればいいが、取れなければ再来年の夏が勝負なんだろうと思う。
まだ大分先の話だとはいえ、今から弱気なことを考えてしまう歩だったが、これは弱気というよりも積極性の問題かも知れない。
前期の試験では単位の危ないものが幾つかあった。幸いギリギリで落としたものはなかったが、それさえも歩にはどうでもいいと思ってしまうところがあった。
卒業できればいい。なんなら留年してもいいとさえ思っている。
親も好きにしろと言うし、歩自身それほど世間の目も気にならない。
ただ、あくせくせず自分の望むように生きられたらいい、そう思っていた。
それでも、のらりくらりと生きるため、知恵と体を使って抜け道を作ることもあったりする。普通に勉強し努力すればいいだけの話だが、そこには歩なりの信念にも似たこだわりがあるようだった。
今日も抜け道を作ったためにできた関係を、継続させるために大学に来ていた。
「歩っ!」
研究室のある棟へ入ると、ロビーを横切り階段を上がろうとして、聞きなれた青年の声が歩を呼び止めた。
振り返るよりも先に声の主の姿を思い描いて、笑みを見せると歩もその青年の名を返した。
「晃」
振り返った先に思い描いた通りの青年――晃の姿があり、歩を追いかけるように入口から駆けて来るところだった。
どちらかというと目尻はつり上がっているが、二重で細くはないのでそれほどキツい印象はなく、決して誰が見ても美形だと断言はできないが、平均的に見て形の良い鼻と唇が親しみのある好青年を演じていた。概ね好かれる容姿をしていると言える。
平均身長が高くなった現代では、170センチ半ばある晃も中背に入るのかも知れないが、160センチ後半の歩にとっては見上げる形になるので充分長身に思える。
高校ではテニス部に所属していたという彼の肌は適度に焼け、一見細身に見える体は意外に逞しい。ただ、思ったよりもというだけで、晃の幼なじみであり柔道部に所属する祐介には程遠いが。
「ちょうど良かった。これ、返しとく」
晃が歩のそばまで来て、そう言って辺りの視線を気にしながら取り出したのは、夏期休暇に入る直前に歩が祐介へ貸したDVDだった。黒い袋に入って中身は見えないが、それでも晃が恥ずかしそうにしているのは、DVDの内容が内容だったからだろう。ゲイDVDだった。
祐介に貸したものが、なぜ晃から返ってくるのか、理由はわからないがそうなる原因はわかる。晃と祐介はアパートの部屋をシェアしているからだ。だから祐介に貸したものが、晃から返って来たりすることは間々ある。それはともかく、
「あ、ごめん。今日は別の持って来てなくて」
「いいよっ! もうっ!」
顔を真っ赤にして声を荒げる晃を笑ってから、歩は意味深な視線を彼に向けた。
「祐介は楽しんでたかい?」
晃に対してではなく、本当なら祐介に対して向けられるはずの意地悪な笑みを浮かべて歩が聞くと、苦々しい顔で晃が頷いた。
「食い入るように、穴が開くほど、何度も繰り返して、な」
「へぇ、そんなに気に入ったんだ」
歩は少々目を見張った。
実はDVDの内容は、金が欲しいから何でもすると言った青年を、男たちが犯しまくるというもので、祐介に対してあてつけていたりする。
「祐介は相変わらずのようだね」
嘆息して、歩はここ2ヶ月ほどの祐介に関する記憶を呼び起こした。
6月、晃の幼なじみであり、歩にとっても大学での友人である祐介を、とあるBARへと連れて行ったのは、ある意図を持ってのことだった。
実はその店は出会いを求めるゲイが多く集まる店で、祐介をそこへ連れて行った理由は、彼が実はゲイなんじゃないかと思ったからだった。
本人に自覚はないようだったが、どんな女性の話にも興味を示さなかったし、歩がAVの話をすると嫌悪さえしてみせた。晃は「そういうことに関して潔癖なんだ」とは言っていたが、歩にはそれだけではないように思えた。
だから、そういう店に連れて行って、そういう男らと触れ合えば、何か変化が訪れるんじゃないかと、そう思ったのだ。
ところが、いざ連れて行ってみると思わぬ誤算が生じた。
歩の見込み通り祐介は自分の指向に気付いた。気づいたのは店で出逢った2歳年下の青年――密(ひそか)に一目惚れをしたからだ。だが、その相手が良くない。
よく、この店で顔を合わす相手だったので、表向きは親しげに会話するくらいの付き合いはしていたが、歩はその青年のことが大嫌いだった。
親に捨てられたとか、親戚も面倒を見るのを嫌がったとか、そういう噂は聞いたことがある。本当かどうかは分からないが、孤独な一面があるのは確かだろう。しかし、だからといって悲劇ぶって悦に浸ってる様子が歩には気に入らない。
体を売る男娼の真似事をして、セックスが目当てだけの男にはモテるが、それで孤独な淋しさを紛らわしているのだろうというのが理解できないし、ましてそれを本人がわかっているのかどうかも疑わしい。
そんな相手を祐介は好きになってしまったのだ。
祐介と密が出逢った当初は、方や生真面目な男と、方やいい加減に日々を過ごしている売春男と、そんな2人の相性が合うわけはないと歩は放っておいた。もし祐介が再び密に会いに来ても、体を売ってるとわかればそこで幻滅して終わるだろう、そう思ってもいた。
しかし、歩の誤算はまだ続いた。
案の定、再び密に会いに来た祐介が、密が体を売っているということを知ってショックを受け、そんな祐介に「あいつは、諦めな」と歩は忠告した。ところが先月、晃から聞いた話では、祐介は密に金を払ってセックスをしたというのだ。
金を払えば誰でもセックスするのかと密に対しても腹が立ったが、そんな密を好きだという祐介に対しても腹が立った。
晃に対しては、密には陰があるからお節介な男は放っておけないかも、というような説明をしたが、それは主観を除いた感想であり、歩自身も信じられない展開だった。
それでも、現在は「金がない」と言って会いに行けないようだ――というのが歩の持ってる最新の情報だった。
そしてもうひとつ、晃は幼なじみの祐介に想いを寄せている。本人はどうも一生隠す気のようだが。
祐介を密かに想い続ける晃が、歩の呆れ顔を見て「そういやぁ」と口を開いた。
「夏休み入る直前にさ、柔道部のやつに会って『祐介が部活を辞めようとしてるから思いとどまらせてくれ』って言われて驚いたな」
腕を組みながら言う晃に、歩は首を傾げて見せた。
「初耳だね。それってどういうこと?」
「たぶん部活辞めて空いた時間をバイトに使いたいんじゃないか? この間、金がないって言って嘆いてたから、なら働けって言ったんだけど、本気でそのつもりのようだ」
祐介が多くの時間を練習に費やした柔道を、こうも簡単に辞めると言い出したことにも驚いたが、想いを寄せる相手が男を買いたいと言っているのに、それを応援するようなことを言う晃にも驚いた。
「晃は買春をやめさせようとは思わないの?」
「俺は……」
歩の問いに戸惑うように視線を泳がせる晃。自分の感情を推し量っているような、あるいは言い訳を探しているようにも見えるが、その視線が少しして床に定まった。
「あいつが恋愛に関して行動を起こしてんのって、初めてなんだよ。だから、上手く行けばいいと思ってるし――それに、あいつは一度思い込むと止まらんからな」
言いながら見せる笑みは苦笑というより自嘲に近いように歩には見えた。
(まったく晃は……)
内心で呆れつつも歩は、晃に付き合って苦笑して見せた。だが、
「ま、でもこんなこと言いたかないが、病気はちょっと気になるよな」
という晃の言葉に歩は引っかかった。
何と言うこともない、ただの心配だろうと思う。祐介の相手は男娼でいろんな男とセックスをするので、それだけ病気感染のリスクは高いだろう。それが、まだ1度だけとはいえ祐介にうつっていないか、それを気にしただけのようにも見えた。
しかし、同時に歩はあることに思い至って自分自身でギョッとした。そのあまり思わずそれを口にしてしまう。
「もしかして晃、祐介とやってるの?」
「っ!」
晃の顔色が変わった。
(やっぱり!)
驚愕する晃の顔を眺めながら、歩も内心で驚愕していた。
どういうつもりか――いや、そうなった理由はわからないではないが、それは晃にとって自分で自分の首を絞めるようなものじゃないかと思う。
「晃……」
どういうことか説明してくれるよね、という思いを込めて歩が晃の名を呼ぶと、観念したように晃が視線と肩を落とした。
「最初は男同士のやり方がわかんないとかで……な。今じゃお互い出すためにやってるよ」
祐介に思いを寄せる晃にとって、それは「出す」だけじゃないだろうと歩は思ったが、本人もわかってやってるのだから何も言えない。
そんな歩の考えがわかったのか、今度ははっきりと晃が自嘲の笑みを浮かべた。
「自業自得だよ。だけど、密ってやつが憎たらしいったらねーよ」
「……気持ちはわかるよ」
返事を返しながら、歩には密に対してだけでなく、祐介に対してさえも苛立ちを覚えた。こんな献身的に想ってる晃の気持ちに気付かないばかりか、本人が許したとはいえ欲求不満の捌け口にするなんて。
「晃も、もっと年上を好きになったらいいのに」
歩は祐介や密に対する怒りを晃にぶつけるわけにもいかないので、晃に対してはそんなことを言ってみた。
「年上?」
「そう、年上はいいよ。先を読むのが上手いから、こっちが言うよりも早く、して欲しいと思ってることをしてくれるし、分別があるから無理なことを押し付けないしね」
「それは相手によるだろ?」
ごく真っ当な意見に歩は笑った。
「確かにそうかもね。でも、オレは年下とか絶対に嫌だし、相手の我侭で振り回されるのはごめんだからね。あ、ごめん」
思わず口に手を当てて謝ったのは、自分の言葉が相手にグサグサ刺さっているからだ。晃は祐介が好きだが、祐介が好きになったのは年下で、その年下に振り回されてる祐介を励ましなら、晃も同時に振り回されていたりするのだ。それをはっきりと「ごめんだね」と言われれば、晃の立つ瀬がないというものだろう。
晃は顔を引きつらせて「いや別に」とは言ったが、かなり歩の言っていることを気にしているようだった。取り繕うつもりで歩は明るい調子で晃を励ました。
「ま、祐介が密のこと諦めてくれたらいいけどさ、晃も次に好きになる相手は年上にしなよ」
「ああ……」
相変わらず落としたままの晃の肩に手をやって、それで「じゃあ」と別れるつもりだったが、ふと思い出したように顔を上げて晃が口を開いた。
「そういえばお前、単位やばいって言ってなかったか? 特にほら、外国語だっけ?」
もしかしたら、「ごめんだね」と言った仕返しかも知れないが、歩は怪しげな笑みを浮かべて返した。
「大丈夫だよ、オレはね」
そういうと今度こそ「じゃあね」と言って晃と別れると、歩は目的だった研究室の一室へと向かった。
「失礼します」
扉をノックして歩が研究室に入ると、そこに1人の男性が座り心地の良さそうなソファに座って、こちらを振り返った。
確か年齢は50代後半くらいだったはずだが、見た目は初老だなという印象が歩にはある。まぁ、40歳くらいから初老というのが基本のようだが、平均寿命が伸びた今では50代でも充分若い人は若い。
髪がほとんど白髪になってしまったその男性は、静かな笑みを作って歩を迎えた。
「待っていたよ」
同じように笑みを返して、歩は鞄を床に置くとソファに歩み寄った。そして、男性の膝を跨ぐとそこに腰を下ろして、首に腕を回すと深く口付けた。大きく口を開き、舌を絡ませ、音がするほどに吸い付いて離す。
何度かそれを繰り返してから少しだけ歩が上体を離すと、間を置かずに男性の手が歩の服を脱がしていく。
自分の服を脱がしていく男性の手を眺めながら、歩は内心で微笑んだ。
(ギブアンドテイクさ)
去年、単位取得が難しいと言われ、男性――教授にどうにかならないかと歩が頼みに来たら、歩にとって馴染みのある雰囲気をまとって教授が言った。
『きみ次第だよ』
歩には教授が何を求めているのかわかったし、付き合っていた恋人に振られたばかりだったので丁度いいと思ったのだ。
それから、単位などには関係なくても、歩はこの教授と度々体を重ねていた。
(こんな楽な相手もなかったよね)
胸を弄る教授の手に、あるいは滑る舌に吐息を漏らしながら、歩は床に置いた鞄を盗み見た。
(やめたくなったら、いつでもやめられるし)
鞄の口が僅かに空いて、そこからカメラのレンズが覗いていた。
(教授には奥さんも子供もいるしね――)
股下へさがっていく教授の手を視線で追いながら、歩は情欲を煽るように吐息交じりに声を漏らした。
「教授っ……」
それが歩の、誰にも言えない恋人だった。