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7月に入って1週間が過ぎても、雨は降ったりやんだりを繰り返していた。陽が射す時間は短く、雨が降らない日でも雨雲が空を覆い、街をどんよりとした景色に変えてしまっていた。
朝から降り続いた雨は、深夜を過ぎて多少雨脚を緩めたものの、傘を差さなければ数分ほどで肩口がぐっしょり濡れてしまう程度の小雨は続いていた。
だが、濡れるよりも傘を差す、あるいは傘を持ち歩くのが煩わしかったのか、密は傘も差さず雨粒が顔に当たる度に目を細めながら、足早に道を横切ると馴染みとなった店のドアを開けて中に滑り込んだ。
途端にどこか懐かしさを感じる60年代の洋楽が密を迎え、視界の色を変える照明が密を別世界へと誘った。
カウンターに座ると店員に軽く声をかけて、いつも飲むノンアルコールのカクテルを頼むと、密は客が声をかけてくるまでの短い時間をぼんやりとやり過ごす。
昨年、その当時から関係を持っていた男にこの店を紹介されて通うようになったのだが、今では密の方が顔馴染みとなっている。
男と店員が親しかったため、密が未成年であっても嫌な顔をされることはなかったが、密が体を売っているということを耳にしたらしい頃から、少々迷惑そうな顔をすることはあった。
だが、そんな店員の視線に気づいた頃には、すでに密の体を買おうとする常連客も何人かいて、その常連客が密目当てで来るたびに店へお金を落としていくので、迷惑はかけていないだろうと密は思っていたし、嫌がられる理由はないとも思っていた。
今では携帯で客と連絡を取り合うという手段もあるが、携帯を持っていなかった頃の名残というのもあるし、結局は携帯で連絡を取り合っても、よくこの店で待ち合わせをするか、待ち合わせの時間までこの店で暇をつぶすことが多い。
今日はとくに待ち合わせをしている相手はいなかったから、誰かが自分に声をかけてきて、金を払ってくれるのだったら相手をしよう、そう思っていた。
ところが、この日はなかなか声をかけられなかった。
平日だからだろうか。それとも、雨が多くて店の客足自体が減ってるからだろうか。あるいは――自分の存在を忘れられているのか……。
こういう時、密はたまらなく不安になる。その不安がどこから来るものなのか、本人は気づいていない。
店を出て適当にぶらつこう、そう思って密は席を立ち上がりかけ――
(あの人―― ……)
今まさに入口から入って来た男を見て密は動きを止めた。
長身で逞しい体を持つ視線の鋭い男だった。表情はいつも真剣だが、それゆえ時折見せる柔和な表情にはどこか惹かれるものがある。
見知っていた男ではあったが、密の常連客などではない。先月、突然密に告白をしてきた――名前は祐介だったと、しっかり記憶に残っている。
そして、自分を抱きたいなら金を出せと言うと、「そんなことはやめろ」と本気で訴えてきた、初めての男だ。
男――祐介は入ってすぐ、密に気づくと真っ直ぐこちらへ向かってきた。店に入ってからずっと密を捕らえて放さない視線は、傍から見ればまるで怒っているように怖い。
ガタイのいい男に睨まれて、密は一瞬だけ怯んだが、そんな弱い自分を見せるのが嫌で、笑顔を作ると余裕を見せようとした。
「今日は何しに来たの? また説教?」
あいさつも前置きもせず、先手必勝とばかり密は先に口を開いた。だが、祐介はズボンのポケットに手をやると短く、だがはっきりと言った。
「今日は金を持って来た」
祐介の意外な言葉に、密は思わず声を呑んだ。
この実直で誠実そうな――あるいは自分より年上なのに、性に対して無垢に見える男を、こちら世界に引きずり込みかけていることに、密は多少の罪悪感と、そして口にはできない愉悦を覚えた。
口の端を吊り上げると、密は精一杯祐介を見下し、
「そんなに僕とセックスしたいの?」
と、わざと直接的な言葉を使って祐介をからかってやろうとした。
だが、密の悪意に気づいているのかいないのか、祐介はまっすぐに密を見つめると頷いて見せた。
「ああ、したい」
先月とは違い、まったく動揺を見せない祐介に、逆に密が動揺してしまいそうになるが、体制を立て直そうと密は笑みを引っ込めた。
「足りるの?」
そう祐介のポケットを一瞥して投げかけた密の言葉は、財布の中身はちゃんと入っているのかという、失礼にも程がある発言だった。
年下から言われれば傷つくか、あるいは憤然として怒鳴られても仕方のないような態度だったが、祐介は激昂することも表情を変えることすらもなく、もう一度首を縦に振って言った。
「おろしてきた」
口座から引き落としたということは、大学生なのだから親からの仕送りか、それとも自分でアルバイトをして溜めた貯金か。
どちらにしても、男を買うなどということに使うはずではなかった金を、何も知らなさそうなこの男に出させることの背徳的行為に、密は無意識に興奮していた。
「ふ〜ん、じゃあいいよ。行こう」
そう言って密は態度をコロッと変えると、祐介の腕を取って店の出口に向かった。
金さえ払ってくれるのなら、相手は客であり、愛想を売るのが密の務めなのだ。
祐介の持って来ていた傘に2人で入ると、密は祐介の腕を引いて先導した。
密は「行こう」とは言ったが「どこへ」とは口にしていなかったので、どこへ連れて行かれるのかと不安に思ったのか、途中祐介が「どこに向かってるんだ?」と訊ねてきた。
密は何を今さら、と思いながらも「ホテルに決まってんじゃん」と答えた。
客と行くところ言えばそこに決まっているし、大体セックスが目的なのだからそこしかない。
「ほら、あそこ」
密の返事をちゃんと理解できているのか、相変わらず堅い表情をしている祐介を振り返ると、密はそう言って目の前の建物を指差した。
そこには、緑とオレンジのライトに照らされた、どこか艶やかな印象のある建物があった。
ただ、両脇を建物に挟まれているためか、それほど大きいという印象はなく、また、高級そうだという印象もなかった。
慣れた様子で密は迷うことなくホテルに入ると、店員からほんの少し怪訝な一瞥をもらいながら、3階の一番安い部屋に入った。
部屋の広さは外観の印象と変わらなかった。家具類がなければそれなりに広いだろうと推測できるが、ダブルベッドと大きなソファが部屋を狭く感じさせた。
だが、壁に掛けられた鏡や部屋を仕切るガラスに描かれた模様が、どこかエキゾチックな雰囲気を醸し出し、シックな赤のベッドや照明と、緑のソファや壁が魅惑的に気分を高めた。
「それじゃあ、どっちが先に入る?」
密は身を投げ出すようにソファに座ると、部屋に入ってからずっと入口で立ち尽くしている祐介に訊ねた。
「……入る?」
密の問いが理解できなかったようで、聞き返してくる祐介の様子に、まったく初心なんだなと内心で呆れながら説明を付け足した。
「シャワーだよ。する前に体を洗うでしょう? それとも、このままする?」
「あ、ああ……いや、洗う」
「じゃあ、先に入る?」
「――あ、ああ。うん……」
繰り返される問いに、しどろもどろになりながら答える祐介は、「じゃあ先にどうぞ」という密の指示に従ってバスルームへと消えていった。
先月、祐介が密に告白をしてきたとき、自分がゲイだとは思わなかったというようなことを彼は言っていたし、ましてや男を買うなどということも初めてだろうから、きっと今とても緊張しているのだろうし戸惑ってもいるんだろう。
そんな純情な男が一体どんな顔をして、どんな様子で体を洗っているんだろうかと、密は覗き見たい自分の気持ちを必死に抑えた。
(ガラス張りのバスルームがあるホテルにすれば良かった)
軽い後悔を呟きながら、密は備え付けのテレビをつけて祐介が出てくるのを待った。
興味も引かれないような番組を、それでも眺めるように見ながら待つこと20分、腰にタオルを巻いただけの格好で祐介が出てきた。
「長かったね、瞑想でもしてたの?」
冗談のつもりで言った密だったが、視線を逸らす祐介の仕草に、まさか本当に瞑想していたのだろうかと想像して思わず噴出してしまう。
そうして笑いながら祐介の横をすり抜けバスルームへ入ると、密は鼻歌交じりに服を脱ぎはじめた。
今までの客とは大分趣の違う相手に、密は思いがけない楽しみを見つけて嬉しくなった。それは、子供の頃に欲しかったオモチャを買ってもらった時のような、純粋な喜びに近い気持ちだった。
早く遊びたい、そんな逸る気持ちを抑えて体を洗うと、密も腰にタオルを巻いただけの格好でバスルームを出て祐介の姿を探した。
付けっぱなしのテレビはそのままに、祐介はソファではなくベッドの端に腰掛けて、両膝に両肘を置くと、組んだ手に額を乗せて背中を丸めていた。
ともすれば「考える人」に近い格好をしている祐介を見て、きっと今自分を省みているところなのかも知れないと密は思った。真面目そうな彼のことだから、本当にこれでいいのかと自分のやろうとしていることに迷いを見せているんだろう。
だが、かといって密に祐介の思いを慮ってあげる気持ちはない。
金を出して密を買うと言ったのは彼なのだから。
「後悔しはじめてる?」
テレビを消しながら密が声をかけると、はじめて気づいたというように祐介が顔を上げてこちらを振り返った。密の質問に、何かを言いかけた祐介だが、密の裸体に意識を奪われたのか、空いた口から声は発せられなかった。
ベッドに座る祐介の目の前へ来ると、密は祐介の肩に両腕をまわし、膝を跨いでそこへ座った。向かい合った格好になって、互いの体の熱が伝わるほど密着する。
祐介の膝に乗っても、まだ僅かに見上げる形で見つめながら、密は誘うように囁いた。
「僕のことが好きなんでしょう? いいんだよ。今だけは恋人だと思っても」
「――密」
祐介の腕が密の腰を抱いた。腰にまわる祐介の腕を感じ、純朴な男を背徳な世界へ引きずり込んだという、優越感にも似た思いを密は持った。
「恋人にするように、僕を抱いて」
もう一歩踏み出させようというトドメのセリフを囁いて、密は軽く祐介の唇に唇を重ねた。感触を確かめただけですぐに唇を離すと、祐介の視線が物欲しそうに密の唇に落ちる。もう一度、今度は少しだけ深く重ねてから、わざと音を立てて唇を離した。そして祐介の様子を探る。
祐介の目は、密の唇しか見ていなかった。
無意識にか、祐介の両の手が密の頬を覆い、自ら引き寄せると密の唇を奪った。
息もつけない深く長い口付けに、密は時折声を漏らしながらも、完全に落ちた祐介を見て内心で「勝った」と思った。
もっと乱れて、もっと自分を求めればいいと、密自身も興奮して祐介の求めに応えていく。
気分が昂り、密が自然と腰を寄せると、タオル越しに互いのものが当たるのがわかった。思いのほか自分も興奮していることに内心で驚きつつ、密は祐介の腰に巻かれたタオルを退かすと、大きくそそり立つそれを握った。
「っ!――」
いきなり直に触れたからだろうか、祐介の体が一瞬震える。
夢中になっていた口付けをやめると、祐介は吐息を漏らしながら悩ましげに密を見つめた。
そんな祐介の視線に密は視線を絡ませて、握った手をゆっくり上下に動かすと、
「気持ちいい?」
と訊かなくてもわかるような質問を投げかけた。
半分以上、悪戯な思いを込めて言った問いを、だが真面目な祐介は普段のときよりも少々うわずったような声で「ああ」と答えた。
まるで素直な祐介の反応に密は嬉しくなって、握った手の動きを速めた。
「ああ――密っ」
時々、目を瞑って快感を追おうとする祐介を、密はもっと責めてあげたいと、逞しく隆起した胸に空いている方の手を滑らせた。そして、首筋から耳へと舌で舐めあげる。
「はあっ」
熱っぽい声を上げて、密の後ろ頭と腰に置かれた祐介の手が震えた。
密の指先は祐介の胸の突起を弄び、舌は耳の後ろや耳の中など、祐介の性感帯を探しながら這った。
「あっ、密……」
つい責めることに夢中になっていた密だが、祐介の思いつめた声音に確認すると、密が握ったその先端から先走りが溢れ、祐介の限界が近いことを示していた。
「出そうなの?」
これもまた悪戯を込めて訊いた密の問いに、だが今の祐介に答える余裕はないようだった。密の腰や太腿に置かれた手と同じように、祐介の体も時折大きく震えている。
「気持ちいい? イキそう? 祐介さん――」
「ああっ――密……っ!」
祐介の昂りに合わせて、密の手が激しく祐介のそれを責めると、祐介は顔を仰け反らせて密の手の中で射精した。白濁のそれが飛び散ると、すぐに密は手の動きを緩めて、最後の一滴までそれを搾り取ろうとした。
少し荒い息をつきながら、祐介はそんな密の手の動きを呆然と眺める。
気が抜けたような祐介の意識を刺激してやろうと、密は濡れた手を自分の顔へ寄せ、誘うように祐介を見つめながらそれを舐めた。そして、
「次は、僕を気持ちよくしてくれるよね?」
そう囁くように言って、手のひらにまだ残っているそれを祐介の口元に持って行く。
どうしろと言わなくても、どうして欲しいのかわかったのだろう、祐介は密の手に手を添えると舐めた。指の間まで丁寧に舐めて、1本1本咥えながらすべて舐めつくした。
「ああ、祐介さん……」
密の望むように、自ら吐き出した精液を舐め取る祐介を、密はうっとりと見つめた。
「――密」
手のひらのすべてを舐め取ると祐介は、密の体を抱き上げて優しくベッドへ押し倒した。そして、上から覆いかぶさるように密を見つめると言った。
「密、おれは初めてだから、どうしたらいいのかわからない。だから密がして欲しいことを教えてくれ」
「え?」
「密が気持ちいいと思うことをすべて、おれに教えてくれ。そうしたら、おれはそれをすべてやってみせるから」
「――祐介さん」
「密は、どんなことをされたら嬉しい?」
「あ……」
ゆっくりと、祐介の大きな手が密の体を撫でていく。また、密がそうしたように真似をしようとしてか、密の首筋に祐介の舌が這っていく。
自ら言ったことを実践しようというように、祐介は密の反応を窺いながら愛撫を繰り返し、密も感じるまま素直に反応を返した。
時折、祐介のあの言葉は本当だろうかと試すため、もっとして欲しいと思うことを密が口にして求めると、忠実に祐介はその思いに応えた。
胸の尖りを優しく舌で転がされ、もっと強く吸ってと言えばそうしたし、密の足の指さえも祐介は躊躇うことなく舐めた。そして――
「ああっ――祐介さん……気持ち、いいっ」
大きく開いた脚の間に祐介の顔が沈み、密の後ろのすぼみが何度も舌で愛撫され、恥ずかしい疼きを覚えたころに、祐介の指が密の中に入って来た。
入口を刺激され、中を擦り上げられ、そればかりか指が挿入されたところを舌が這い、そこへ集中する快感に密は身もだえ、喘いだ。
最近ではセックス時の羞恥心も忘れていた密だが、指が引き抜かれて祐介の舌先が入って来たのを感じたときには、久しぶりの羞恥を覚えて震えた。
「ああ……ゆ、祐介さんっ――気持ちいい、気持ちいいよっ……はぁっ」
後ろへの執拗な愛撫に、密は体中を赤く染めて快感に喘ぐ。
こうなると密の体は先の刺激を求め、知らず知らずのうちに手が自分の怒張したそれに伸びていった。
だが、それに気づいた祐介が、密の自身を握る手を退けると、いきなりそれを口に含んだ。
「あっ! んんっ――」
湿った咥内に包まれるのを感じ、生温かい舌が裏筋を這うのにゾクリと震え、窄ませた口で扱かれる度に密は悩ましげな声を漏らす。
前と後ろへの両方の責めに密は身もだえ、ベッドに左肘をつくと上半身を僅かに起こし、祐介が密のものを口で愛撫するのを熱っぽい視線で見つめた。
祐介は時に密のものから口を離し、根元から先端までを舐め上げてみたり、先走りの溢れる先を尖らせた舌先で刺激してみたりした。
まるで扇情的な光景に密もまたうわずった声を漏らしながら体を震わせる。
「あぁ、気持ちい……祐介さん、もっ、イキそっ――」
再び祐介の口の中に納まり、強く吸われた刺激に堪らず密がそう言うと、初めて祐介がそのままの格好で密を見上げた。自分のものを咥えながら、下から鋭い視線で見つめられて、今の密にはそれさえも身内を掻き立てられるものを感じた。
「ああっ、い、いいっ! ゆ、祐介さんっ、いいよっ――」
密の限界を知って祐介の責めが激しくなり、密は思わず祐介の肩に手をやると爪を立てた。
後ろの指は増やされて、湿った音を立てるほど抽挿が繰り返され、前でも恥ずかしい音を立てて強く扱かれ――
「あっ、イク……っ!」
限界が来て、密は身を堅くすると大きく震わせて、祐介の口の中で精液を放ち、祐介はそれと同時に動きを緩めると、最後の一滴まで吸い上げるように口と手を動かした。
そして、密のものから祐介がゆっくり口を離すのを感じてゾクリとし、口の中のものを全て飲み込むのを見て、またゾクリと肌が粟立つのを感じた。
思った以上の快感に、射精後の倦怠感もあって、密は早くなった呼吸を落ち着かせながらベッドへ倒れこんだ。
久しぶりの心地良さを覚え、密はこの男の愛撫や舌技の気持ちよさは何だろうかと、予想外なことに少々驚いていた。
(最初はあんな戸惑っていたくせに……)
同じ男なので自分にも持っているものへの知識はあるだろうが、後ろへの愛撫も初めてではないような動きだったと密は感じた。
ベッドの軋みに、瞑っていた目を開けると、目の前に祐介の顔があった。密に覆いかぶさるようにして、責めていたときの顔とは違い、どこか心配げな表情をしてこちらを覗きこんでいる。
何を窺っているのかわからないが、密は笑みを見せると話しかけた。
「気持ちよかったよ、祐介さん。初めてとか言いながら上手だよね。本当に初めて?」
密の言葉に安心したというように表情を和らげて、祐介は密の隣に寝転がりながら答えた。
「ああ……友人が、ゲイのDVDを貸してくれて、それを見て勉強した」
告白してきたときにも「勉強した」と言ってたなと、思い出して密は笑った。実直そうなこの男には、よく似合う――似合いすぎる言葉だった。
「その友人さんもゲイなの?」
「さあ……どうだろう。そのDVDには興味があるようだったが」
「じゃあ、ゲイなのかもね」
話しながら、祐介がそれ以上こちらに手を出してこないことを密は訝った。
「ねぇ、もう終わり?」
「……」
密の問いかけに、祐介は天井をじっと見つめて黙っている。やるのか、やらないのか、たったそれだけの疑問であるのに、何の答えを探しているのだろうかと不思議に思いつつ、密は質問を繰り返した。
「入れてもないのに?」
まだ互いのものを愛撫して出しただけであり、祐介にいたっては密の後ろも責めていたから、てっきりこの流れで続きに入るのかと密は思っていたのだ。
やっと祐介が体を横向きにして密の方へ振り返り口を開いた。
「――だが、アナルセックスをしないゲイもいると聞いた」
「そうなの? そんなので満足できるの?」
つい先月、祐介が友人に向かって言った質問と同じことを口にする密だが、もちろんそんなことは知らない。密の単純な疑問に、祐介が一瞬視線をそらしてから答えた。
「おれは……よくわからない。でも、おれは密が満足ならそれでいいし……その、したいと言うなら――」
言葉尻を濁して照れる祐介を、密は僅かに目を見張ってじっと見つめた。
(この人は、今なんて言ったの……?)
自分を抱きたいから金を出して買ったはずの男は、ホテルまで来て互いのものを扱き合うだけで、それで「密が満足ならいい」と言った。今までの密の経験からは理解できない言葉だった。
「信じられない――あなたはお金を払うんだよ? それなのに、僕がもういいと言ったらやめるの?」
もしかしたら、見掛け倒しの気弱な男なんだろうかと密は思い始めて、自分の問いかけに彼は微笑さえ浮かべて「ああ」と頷くのかも知れないと予想していた。
だが密の予想は外れ、祐介は真剣な表情を幾分曇らせると言った。
「おれには、きみが体を売っていることの方が信じられない」
また説教を始めようというのかと、密は頭に来て半身を起こすと祐介を睨み下ろした。
「僕を買ったくせに説教するの!?」
密の激昂に、それでも祐介は表情を変えず、同じように半身を起こすと密を見つめた。
「説教をするつもりはない。ただ、きみを一目見て好きになって――だから、おれはきみを守りたいと思ったし……きみが売春をするようには見えなくて……すまない、上手く言えないが」
沸き起こる怒りを叩きつけてやりたいのに、「好き」とか「守りたい」という言葉を聞いて密は、その怒りのやり場に困り
「意味がわからないよ……」
と祐介から視線をそらし力なく言った。
「つまりおれは、たぶん、きみを独占したいんだと思う」
「―― ……」
祐介の思ってもみなかった告白に、密はついに言葉を失くして沈黙した。
「独占したい」というのも初めて言われた言葉ではあった。似たようなことを口説き文句のように言われたことはあるが、誰も本気でそんなこと訴えようともしないし行動に移そうともしない。
誰もが甘いセリフで密の機嫌をとろうとするが、みんな目的は一緒――セックスだ。
密が黙っていると、再び祐介が口を開いた。
「訊いていいか? なんで、売春をしているんだ?」
自分が売春をする背景に、人には言えないような苦労があるんだろうと、そういう事情を聞きだして相談に乗り、こちらの心を開かせようというのか――そう思うと、密の中で祐介に対する反発心が芽生えた。
低くはない男娼としてのプライドもある。
密は強い視線で祐介を睨み上げた。
「セックスが好きだからだよ。お金にもなるしね」
それで怯むかと思ったが、祐介は少々間を置いてから再び質問を繰り返した。
「いつから、やってるんだ?」
「さぁ、忘れた」
「何人の、男と―― ……」
「数え切れないぐらい」
「……好きな奴は、いないのか?」
「そんなの今も昔もいないよ」
質問はそこで途切れた。
何を思っているのだろうか、祐介は視線を落として考え込んでいるようだった。
密は男娼としての自分を思い出すと同時に、この実直な男をこちらの世界へ引きずり込む愉しみを思い出した。それが反発心と重なって、密は祐介を押し倒すと腰を跨ぎ、誘惑するように上から睨めつけた。
「ねぇ、そんなことより続きをしようよ。せっかくなんだし、祐介さんだってしたいでしょう?」
そうして腰を振って互いのものを擦り合うと、そこは若い男である祐介も反応し、密は気分を高めると自ら祐介のものを迎え入れた。
再び気分を高め合うと、2人の行為はなかなか止まらなかった。
祐介を落として引き込もうと誘惑していた密は、気がつけば祐介の与えてくる快感にそれも忘れ、祐介と体を重ねることに没頭していた。
祐介の方は相変わらず「密を気持ちよくする」ことに熱心だったが、自身を密の中へ沈めて限界が近くなると激しく求めたし、更には熱に浮かれたように「好きだ」と密の耳元で繰り返した。
密も祐介に「恋人のように思っていい」と言った自分の言葉が頭にあって、無意識に密自身も自らの言葉に酔っていたのだろう。行為中、何度も祐介の名前を呼び、何度も祐介を求め、そして限界が近づくと祐介にしがみつき、背中に爪を立てて絶頂する。
最終的にはバスルームで互いの体を洗い合い、また体を重ねて、それでやっと終わった頃には深夜というより夜明けに近かった。
バスルームから出て服を着ると、行為後の倦怠感さえ心地良く、密はソファに座ると大きく息をついた。そんな密の様子をどう取ったのか、同じく服を着ていた祐介が「大丈夫か」と聞いてくるのを、密は笑って「平気だよ」と答えた。
だが――
「その……」
何か言いにくそうにしている祐介に、まだ何か心配事が? と密が見上げると、祐介がポケットから財布を取り出すのを見てサッと血の気が引いた。
「――幾らだ?」
そう気まずそうに声をかけられて、密はすべてを思い出すと、咄嗟に声も出なくなった。
密が答えようとしないので祐介が遠慮がちに名前を呼び、それでやっと密は憮然とした口調で料金を告げた。
料金を聞いた祐介が金額分の札を出し密の前に差し出すが、密はしばらく黙ってじっとそれを睨みつけた。そして睨みつけながら、傷ついている自分を知った。
(こんな光景、今までに何度もあったのに――)
何度も男らと体を重ね、その度に金を受け取ってきた。見慣れた光景のはずだった。しかし、今はそんな光景に初めて衝撃を受け、傷ついている。こんなに、目の前の金を受け取りたくないと思ったことはない。
「密……?」
それでも、再び祐介に名前を呼ばれて密は、ひったくるように金を受け取ると乱暴にポケットへ突っ込み、その勢いのまま部屋を出た。
ホテルを出ると、未だに雨がシトシトと降り続いていて、後から慌てて出てきた祐介が途中まで送ると言ったが断り、ホテルの前で立ち尽くす祐介をそのままに、足早に家路についた。
アパートの自分の部屋にたどり着いた頃には雨もほとんど止んでいたが、傘を差さなかった密の体は冷えてしまっていて、すぐに服を脱ぐと風呂場に向かった。そして、もう一度シャワーを浴びながら密は、声を押し殺して涙を流した。
激しい後悔の渦が密を襲っていた。
あんなに真っ直ぐな男を惑わしたことや、自分を本気で好きだと言ってくれた相手に金を払わせたことや、そんな彼を受け入れてしまったことや、無意識に彼に心を許してしまっていたことや、だが今までの男娼としてのプライドがそれを言わせなかったことや――
そして、自分を好きだと言ったくせに、金を払う祐介に対して、自分がそうしろと言ったにも関わらず、裏切られたと思うような身勝手な気持ちを、それでも密は抑えることができなかった。
そんなに長い時間ではなかったが、密は久しぶりに声を我慢できないほど泣いた。
ただ、夜明けまで行為に耽っていたこともあり、すぐに泣き疲れると密は風呂場を出た。そうして、洗面所の鏡を見ると少し目を腫らした情けない自分が映った。
「なんで僕、こんなことしてんだろ……」
それは、体を売るという行為を始めてから、初めての自問だったと密は気づいた。
ふと視線を僅かに下へずらすと、首筋や胸に赤い痣ができていて、それに手を触れると密は微笑んだ。
「初めてなのに、これも勉強したの?」
だが、力ない笑みはすぐに消えて、密の表情は物憂げなものへと変わった。
「祐介さん……」
もう、彼は会いには来てくれないだろうか、そんな自分の思いに気づいて密は、思わず首を振ると自分にそんな資格はないと思いなおす。
(それでも、夢の中でなら――)
ベッドへ潜り込むと密は、胸の痣に触れつつ今日の情事を思い出しながら眠りについた。