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傷だらけになって帰って来た晃を、当然一也は驚いて迎えた。
だが、「何があったんだ」と訊いても答えられずにいる晃を、一也はそれ以上問い質そうとはしなかったし非難もしなかった。
そんな一也の態度を有り難く思いながら、勧められるままバスルームへ向かい汚れた体を洗う。
用意されていた着替えを着てバスルームから出ると、一也がリビングで救急箱を用意して待っていた。晃は自分で手当てできるところは自分でやり、手の届かないところは一也に手伝ってもらい、そうして落ち着いてから事の次第を説明することにした。
たぶん、一也の性格を考えれば話しをしなくても問題はなかっただろうが、晃の性格上それはできなかった。
とはいえ、詳細を言うわけにはいかず、ある程度のことはぼかすことにして。
「俺の親友が、ある人を好きになったんです。でも、その人は体を売ってお金を稼ぐような人だった……それを知っても親友はそいつが好きで、次第にそいつも親友が好きになった」
手当てを終えたあとで用意してくれたコーヒーを一也から受け取りながら、晃は帰り道の間ずっと抱えていた感情が溢れ出てこないよう淡々と続けた。
「そいつは体を売ることを止めたいと思い始めたみたいで――でも、客の中に悪い奴がいて、そいつが――」
そこまで言って晃は言いよどんだ。言いたくないとかそういう迷いではなく、名前を言いたくないばかりに「そいつ」などという代名詞ばかりで、どう相手に伝えられるかと困ってしまったからだ。
それに気づいた一也が優しく笑って助言した。
「親友の好きな人をA子、悪い客をB男ってことにしたらどうだろう」
「あー……はい」
本当は親友の好きな人は男なのだが一也は女だと思ったらしい。すぐに晃はその勘違いに気づいたが、あえて訂正する理由もないかと勘違いのままにすることにした。
「じゃあ――その悪い客のB男がですね、A子が親友を好きになって売春を止めようとしていることに気づいたんです。そうしたら、B男が親友を人質みたいにして、自分の言うことを聞かなきゃ親友を痛めつけると、そうA子を脅したらしいんです」
「そう、それは酷いね」
「はい……。それでA子はB男に逆らえなくなったけど、親友はA子を諦められなくて直接は会えないから手紙を出したりした。でもA子はB男が怖くて行動を起こせなかった……」
A子の――密のことを話すとき、表情が険しくなることを晃は自覚していたが、それを止めることはできなかった。
「そいつが今までやってきた結果だ。そいつが自分でケリをつけるべきだし、そいつが行動を起こさなきゃ親友も俺たちも何もできない。助けて欲しいなら助けてって言えばいいのに、黙って自分を犠牲にして親友を守ったつもりでいたんだろう。でも親友はそんなことで喜んだりはしないのに」
次第に感情が露になってきていることに気づき、晃は間を空けようとコーヒーを一口啜る。最初は熱いほどだったコーヒーが、いつの間にかぬるくなっていた。
「だから、俺や友人がA子に発破かけてやったんです。そしたらA子もやっと親友のとこに行ってめでたく両想いに……。ただ、B男はA子のことを諦めてなくて、A子はB男と一人でかたをつけようとしたんです。それは危険だと思ったんで、俺らがA子とB男に気取られず後をつけて――」
「それが今日だったんだね」
「はい。案の定、B男は数人男を連れて来てて、たぶん酷いことをするつもりだったんだと思う。俺と親友と友人と、友人の知り合いが3人ほど来てケンカに」
「そうだったんだ」
晃は一也の相槌に頷いて、続ける言葉もなく口をつぐんだ。
ほんの少し「こういうことがあってケンカした」程度で話すつもりだったのが、話し終えてみれば名前以外はけっこう詳しく話していることに晃は恥ずかしくなった。
(ここまで話すことはなかったんじゃないか……)
だが、誰かに聞いて欲しいという気持ちも確かにあった。
「それで、その、警察とかは大丈夫だったのかな」
遠慮がちな一也の問いに、晃はハッとして「そういえば」と思った。
「ああ、それは大丈夫でした。警察沙汰になる前に終わったっていうか」
大きい声で言い争うこともほとんどなく、人数が集まってすぐにケンカが始まり、晃側の助っ人が強かったのか決着はすぐに着いた。晃にとっては長く感じたが、第三者に見つからず警察沙汰にならないくらい、あの小競り合いは短かったのかも知れない。
ただ、歩の兄が最初から出てきてくれていたら、殴り合いにもならずすぐに終わったんだと思うと、未だに納得できない悶々とした気持ちになる晃だったが。
「……俺、初めてだったんですよ、あんなケンカ」
「そうなんだ。じゃあ怖かったんじゃないか?」
「ええ、情けないですけど」
晃が自嘲の笑みを浮かべると、同じソファに並んで座っていた一也が手を伸ばして、コーヒーカップを握る晃の手首に手を置いた。
「それは違うよ。ケンカになったら怖いと思うのが普通だ。ほとんどの人がそうなんだよ」
真っ直ぐな目で見つめてくる一也の視線を、晃は受け止めきれずに俯いた。
「でも、助っ人に来てくれた3人がすごく強くて、俺はいなくても平気だったみたいで――そう思うと俺って何のために殴られたんだろって……」
「A子さんを助けたかったから、だろう?」
だが、一也の答えに晃は首を振る。
「違う、んです。俺、A子を――親友があいつを好きな理由が未だにわからないんです。あんなことになったのもあいつの自業自得だし、あいつは――」
男だし、と続けそうになって晃は慌てて口をつぐむ。
「――とにかく、体を売るような奴のどこがいいのかわからない!」
祐介の前では絶対に言えないことを、晃はここぞとぶちまける。相手が祐介のことも密のことも知らないのをいいことに、自分の好き勝手に言っていることを自覚しつつも晃は止められなかった。
溜まっていた感情が押し留めようとしても溢れてきてしまう。
「なんであいつなんだ! 他の子だったらこんなことにもならなかっただろうし、俺だって殴られずに済んだだろうし普通に応援したさ! なんでっ――」
ふいに肩を抱かれて、気がつくと晃は一也に優しく抱き寄せられていた。
「よしよし、よっぽど怖い思いをしたんだね」
知り合ったばかりの一也に抱き寄せられていることに驚き、さらにそれが全然不快じゃないことに晃はもっと驚く。それでも、一也にもう一方の手で頭を撫でられると、恥ずかしいのとくすぐったさに笑い出しそうになった。
(よしよしって、子供じゃないんだから)
そう思いつつも晃は一也の手を振り払おうとはせず、されるままになる。
「たぶん、晃くんは今までそういう世界に触れて来なかったから、尚更怖かったんだろうね。だけど、それでも逃げなかったのはその親友をすごく大事に思ってるからだ」
大事という言葉に晃は敏感に反応するが、別に深い意味はないと自分に言い聞かせる。
「そんな大事な親友がわけの分からない女の子を好きになっちゃって、心配なんだろうけど――」
そこまで聞いて、一也は自分を諭そうとしていると思い晃は身構えた。だが、
「ごめんね」
(……ごめんね?)
「僕もなんで晃くんの親友がその子を好きなのかはわからないんだ。僕は恋愛経験がほとんどないから、『あばたもえくぼ』なんていうことくらいしか思い浮かばなかった」
一也は自嘲気味な笑い声を漏らす。
「でも、晃くんは親友のためによくやったよ。心配な気持ちはわかるけど、あとは2人に任せたらいいんじゃないかな」
本当は親友を大事に思う気持ちの中に、親友以上の感情があるからこんなにも苦しいのだと、晃は言ってしまいたい衝動に駆られたがそれはさすがに自制した。
「それから、晃くんが怖かったように、そのA子さんも怖かったんじゃないかな」
「……怖かったって、B男に脅されて?」
「ううん、その前。売春なんて普通はしないだろう? それをするってことは何か彼女か、彼女の周りの環境に問題があったんだと思う――違う?」
訊かれて晃は歩や密本人の言葉を思い出す。
「いや――複雑な、家庭環境だったらしい。友達もいなかったって……」
「そう。そういう環境が何かしら彼女に売春という行為を強要してたんじゃないかな。本人がそうとは知らずにね」
「……」
「子供のころの環境っていうのは、思う以上にその人の生活に影響を与えるものだから」
一也の言葉に再び晃は悶々とした感情を呼び起こされ、一也から体を離すと目を合わせないまま問う。
「だから、同情しろって?」
「いいや、同情して優しくしたら付け上がっちゃうかも知れない、だろ?」
意外な返答に晃は思わず一也を見上げた。その目は相変わらず優しく微笑んでいる。
「怖がってないでそこから出て来いよって発破かけてやったらいいんだよ」
「!」
「晃くんが彼女になんて言って発破かけたのかはわからないけど、僕はそれで良かったんだと思うよ」
それを聞いて晃はなぜか涙が溢れて止められなかった。それを見た一也が、強引ではない力で晃の肩を引き寄せるので、されるまま晃はまた一也に抱き寄せられた。
再び頭を撫でられながら、晃はなんとなく一也には敵わないなと思った。
次の日、晃はいつもよりも遅く目を覚ました。どうやらケンカの疲れは、本人が感じる以上に体に負担をかけていたらしい。ぐっすりと熟睡できたことは良かったのだが、ベッドから起き上がろうとして体の重さと痛みに晃は呻く。
鈍い痛みに耐えながら一階へ降りると、もう10時を回っているのにダイニングのテーブルについて一也が新聞を読んでた。それを見て晃は一瞬「会社は?」と思ったが、今日が日曜日だということを思い出して疑問は消えた。
ただ、昨夜一也に話して聞かせた内容や、一也の腕の中で泣いてしまったことなどを思い出してしまい、晃は気恥ずかしさに顔を熱くする。
「おはよう、晃くん」
「おはよう、ございます……」
いつもと変わらない一也の態度に感謝しつつ、晃は空腹を満たそうとキッチンへ向かうが、一也が立ち上がってそれを制した。
「朝食は用意してあるんだ。座ってて。昨日の今日だし体が痛むだろう?」
晃は礼を言ってイスに腰を下ろした。
素直に晃がテーブルにつくのを見て満足そうに頷き、朝食の用意をするためキッチンに向かいながら一也が声をかけてくる。
「よく眠れたみたいだね。ひどく痛むようなところはない? 腫れあがってたり動かせなかったりするところはない?」
「いえ……大丈夫です」
訊かれて改めて両手を握ったり開いたり、足を動かしたりしてみたが、尋常じゃない痛みを感じる部分はなかった。
(たぶん、ケンカが下手だったからだろうな……)
下手に拳で人を殴れば、殴った方の拳も無事じゃすまないことが多々あると聞く。だが、晃は今までケンカしたこともなく慣れておらず、相手にタックルして突き飛ばすことはできても拳を相手に当てられたことがほとんどなかった。当たってもかすった程度で打撃にもならなかったくらいだ。
(俺、本当に役立たずだったな)
晃は自嘲したが、ふと自嘲するべきことなのかどうなのかわからなくなった。
ケンカが強ければ大事な人をいざというとき守ることは出来るが、そういうことがこの先あと何回あるのだろう。
(あったとしても、せいぜい1、2回くらいだ)
そんな事のために、祐介のように柔道を習ったり、高次やその連れのように滅茶苦茶ケンカに強くならなくてはいけないのだろうか。そんなことはないだろう、と晃は思う――いや、思いたい。
(そういえば高次さんは一也さんの弟だよな。なんか全然そんな感じしないけど)
テーブルに朝食を並べる一也を晃はこっそり見つめた。
一也は物腰も柔らかで性格も温和だ。最初はきれい好きで神経質なところがあるのかと思ったが、実際はそこまででもないらしい。部屋が整っててきれいだと指摘すると、
「休日にやることもないから掃除してるだけだよ」
と言っていた。
理不尽なことは言わないし、人が不快になるようなことはしない。強いて欠点を上げるとすれば他人に気を遣いすぎるところだろうか。
一方、高次はと言えば女好きの女タラシで、毎回違う女を家に連れ込むような不道徳な奴で、口が悪ければ態度も悪い。行動力がありケンカが強いという点では頼りになるが、晃にしてみたらなるべくお近づきになりたくない人種だ。
そんな2人が兄弟というんだから不思議だと晃は思う。
「いただきます」と手を合わせて朝食を食べながら、晃の思考は続く。
(昨日こと、一也さんは何も知らないみたいだったけど、高次さんからは何も聞かされなかったのか?)
離れて暮らしているし、性格も間逆の2人に接点がないのはわかるが、家の合鍵を高次は持っていたし、やはりそれなりに行き来はあるのだろうとも思う。
(言った方がいいのかな。昨日のケンカに高次さんがいたって……)
弟のことだから知っておいた方がいいんじゃないかと晃は考えたのだ。
ただ、どちらももういい年の大人なのだし、年下の晃にそんな気を回されるのを嬉しいとは思わないだろう。
(黙っとくべきか)
そう晃が結論を出してすぐ、玄関の方で物音と人の声がしたかと思うと騒々しさと一緒に高次と昨日の連れ2人が現れた。
「おぅ、邪魔すんぞ、兄貴」
「おじゃましまーす」
「あーっす!」
高次のあとから、すらっとした線の細い青年と、その青年より少し背が高くごつい体躯をした青年がダイニングへ入ってくる。
驚いた様子で一也が立ち上がって声を上げた。
「高次! 来るなら来るって連絡してくれないと」
詰る一也に「わかったわかった」と手を振って高次は一也の隣に座る。一也もまだ何か言いたげではあったが、ひとつ息を吐くとイスに座りなおした。他の2人は断りもなくリビングへ行くとソファに座って、勝手に買ってきた食べ物を広げて食べ始めている。
「いきなり何しに来たんだ――ていうか、高次もケンカしたのか?」
一也の言葉に驚き晃も高次をまじまじと見つめると、確かに唇が一ヶ所切れて赤い線が見える。
「あれ? こいつから聞いてねぇの?」
高次の言うこいつとは晃のことで、指をさされた晃はギクリとしてしまった。やっぱり言った方が良かったかと思ったが――
「晃くんからって、じゃあ昨日のケンカにお前もいたのか?」
一也が目を丸くして高次を見つめ、高次はそんな一也の視線を肩をすくめて受け流した。
「こいつらだけじゃヤバイかもってんで手を貸してくれって言われたんだよ」
「高次……お前もいい大人ならケンカなんて――」
「じゃあなにか? こいつらを見捨てろって?」
「そうじゃない。もっと他の方法があっただろって言ってるんだ」
「そりゃ確かにあったけどな。時には人間、痛い目を見た方がいいこともあるんだよ、兄貴」
「それとケンカとはまた違う話だろう!」
自分の親友とその恋人のせいで起こったケンカで、一也と高次が口論するのを晃はハラハラするような思いで眺めていたが、その反面、一也も弟にはこんな風に強い口調で怒ったりもするんだなと珍しくもあった。
そんな晃の視線に気づいたようで、一也は咳払いすると語調を弱めた。
「お前にとってケンカは普通のことでも、そうじゃない人間もいるんだ。ケンカありきで考えるのはいい加減やめないとな」
一也の説教に高次はしみじみと言った感じで一也を見つめた。
「ふーん、今日はやけに突っかかるな。でも、おれだって別にいつもケンカしてるわけじゃねーぞ。昨日のは久しぶりだったしな。おかけでパンチ避け損ねてこのざまだ」
言いながら高次は親指で唇に触れる。
(“このざま”って唇切っただけだろ。俺なんて……)
晃は全身の痛みを感じて情けない気持ちが強くなる。
「ケンカが強いのがどうしたって? 進んでやる殴り合いなんて野蛮だと僕は思うけどね」
「なんだよ。本当に今日はやけに突っかかるな。目の前に敵がいて向かって来ようとしてたら、逃げずに立ち向かうことだってあるだろ?」
「確かに、逃げない勇気も大事だけど、殴り合いのケンカにならないように言葉だけで解決するのも大事だ。大人としての、それは責任だと思うよ」
ついに言い返す言葉をなくしたらしい、高次が怪訝な顔をしつつも口をつぐんで一也を見つめている。
そして、また肩をすくめると話と話し相手を変えた。
「そうだお前、歩から聞いたぜ。お前のダチと売春ヤローのこと――」
「うぉえああぁーっ!!」
急な方向転換と話題に晃は奇妙な叫び声を上げて立ち上がった。顔を真っ赤にしながら一気に息が上がったのか肩を上下させている。リビングにいた2人も何事かと晃を振り返っていた。
「なんだ、内緒だったか?」
何を、どこまでのことを内緒と言っているのかは分からないが、歩から聞いたとなれば今ここで言って欲しくないことはたくさんありそうだった。
「ちょっと」
晃はテーブルを離れながら、顎でクィっと部屋の端を指して移動する。高次もそれを察してニヤニヤしながらついてきた。その向こうでは一也が怪訝そうな顔をし、リビングでは話に入りたそうにしている年下の青年を、もう一人の青年が押し留めていた。
部屋の端に来た晃は一也に聞かれないよう小声で訊ねた。
「歩から聞いたって、どこまで聞いたんですか?」
「そうだな、お前が祐介って奴のことを好きだってこととか、その祐介を売春ヤローに寝取られて部屋追い出されたってこととか」
笑みを浮かべたままの高次の話に、晃は額に青筋を立てて歯軋りした。
(あ〜ゆ〜む〜めぇ〜! 口は堅いとか言っておきながらっ!)
ところが、
「うそうそ、歩はそこまで言ってねーって」
「は?」
あっけらかんと手を振って訂正する高次を、晃はぽかんと見つめた。
「歩は単に、祐介って奴の部屋に売春男が駆け込んで、同居してたお前が追い出されたのが可哀想だって言っただけだ」
「……それだけ?」
「ああ、で、おれがいろいろ推理して、さっきの仮説を立ててみたわけだが、見事当てたみたいだな」
晃は驚きと羞恥と怒りが混ざったような複雑な顔をして高次を睨みつけた。
つまり、さっきのはかまをかけたということで、晃は自分の反応で高次の推測を肯定してしまったことになったのだ。
今度は自分に向けられた怒りを、高次は軽くいなして話を続けた。
「ま、そう怒るなって。お前が売春男とダチとの交際を普通に受け入れてるからさ、そういう耐性っていうか理解があんのかなぁと思ったんだが、逆にお前がゲイなのかなと考えてみたわけよ。したらば歩の『可哀想』って言葉がどうも意味深に思えてきてな、もしかしたらそうなんかなと推理したわけよ」
たったそれだけのことで言い当てたこともすごいが、ほとんど確証もないことによくかまをかける気になったな、という呆れた感想も晃は持った。
「で、お前は昨日のこと兄貴に全然話してねーの?」
「いや……」
問われて晃は自分が一也に話した内容を高次に説明した。
「名前を隠して話そうとしたら、成り行きで密がA子ってことになってしまって」
「売春ヤローが女になっちまったのか」
「はい……」
「お前がダチに惚れてるってことは?」
「ほっ――言うわけないじゃないですか! 誰にも話すつもりないし、歩にだって俺から話したわけじゃないのに」
「ふーん、別に兄貴は知ったからってお前を軽蔑しねーと思うぜ?」
「……それとこれとは話が別です」
「2人とも」
待てなくなったらしい一也が声をかけてきた。
「何を話してるんだい?」
「い、いえ、別に――」
「今後のことをな。こいつのダチと恋人のことだから、あんまり誰にも聞かれたくなかったんだとさ」
気まずい思いを抱えながら晃はテーブルに戻ったが、高次はそのままリビングの2人に声をかけて、
「んじゃ、おれたちはこれで」
「えー、もう帰るんッスか!」
「じゃあ宗太はここに残るか」
「い、いやッス! 速水さんについて行くッス!」
「うっせーな。お前らが進に会いてぇっつーから連れて来てんだろ」
「でもホント、ここに何しに来たんスか? 一也さんに説教されに?」
「いんや。あ、そっか、忘れてた」
高次は2人が持って来た荷物の中身を漁ると、透明のケースに入ったディスクを見せた。
「これダビングしたやつだから兄貴にやるわ。この間のDVD鑑賞の続きな」
DVD鑑賞とはまた高次には不釣合いな言葉に、晃は少々引っ掛かったものの一也にはピッタリだなとは思う。思いながら何気なく一也を見たら、なぜだか一也の顔が赤くなっていて驚いた。
「あ、ああ……」
ついに一也はそれだけしか返事をすることができずに固まってしまう。それを察したらしい高次が嫌な笑みを浮かべて晃を見た。
「お前も見たかったら見ていいんだぞ」
「え? 何の映画なんですか?」
鑑賞という言葉に中身は映画だろうと決め付けて訊ねた晃だが、高次がそれに答えるより先に一也がうわずったような声をあげた。
「あ、晃くんはやめておいた方がいい! 見ても楽しいもんじゃないだろうから!」
「え……」
「楽しくないことはないだろ。勝手に決め付けちゃ可哀想なんじゃねーの?」
「いいから! お前はもう帰れ! 行くところがあるんだろう?」
一也が手を振って追い出す仕草をし、高次が楽しそうにケラケラと笑って出て行った。
それを呆気に取られて眺めていた晃だが、一也の普段見られないような表情を見ることが出来て、何気に嬉しいと感じる自分に気づく。
「一也さんも、弟さんにはキツく言ったりするんですね」
ついそう口にして晃は言うべきじゃなかったかもと後悔したが、一也はとくに気分を害した風もなく苦笑してみせた。
「まぁね、あんな弟が2人もいるとどうしても、ね」
「え、2人って?」
「ああ、そういえば紹介してなかったね。ソファに座ってたごつくて元気な方が僕の2人目の弟なんだ」
「ええっ!?」
晃はますますもって信じられないと驚愕の声を上げた。ケンカ大好きそうな弟2人の兄である一也が、温厚で優しい人格を持つ人間だということが、何か奇跡を見ているような気分になった。
「とはいっても、宗太――下の弟とは血の繋がりはないんだ」
「え、そうなんですか?」
「うん、後妻の子供でね、高次とはすぐに意気投合して仲良くなったけど、僕と普通に話ができるようになったのはごく最近かな」
ほんの少し寂しげな表情を見せた一也だったが、それもすぐに笑みに変えて
「ま、話ができるようになったのはいいんだけど、高次や宗太の話は僕にはついていけなくてね」
おどけたような表情をしたあとで、一也は晃を見つめて言った。
「晃くんと話してるときが一番落ち着くよ」
「あ、あの……どーも」
ふいに真っ直ぐな感情を向けられて、思わず晃は口ごもると顔を赤くして俯いた。
晃と一也の、そんな和やかな雰囲気をぶち壊したのは、他ならぬ高次が持って来たDVDだった。
12時を過ぎて昼食を取ったあと、体の痛みに晃は部屋に引きこもっていた。大学が始まるまでは治ってくれと思いつつ、ベッドに横になっているといつの間にか眠っていて、気がついたら3時前になっていた。
コーヒーでも淹れるかと1階へ降りると、リビングから妙な音が聴こえてきた。その妙な音は晃にとって聞き覚えがあるものだったので、まさかなと思いながらそっと晃は戸を開けて中を覗いた。
すると、入口から一也の様子は見えなかったがテレビ画面はしっかり見えて、そこに裸の男同士がナニをしているのが映っていた。晃はそれを見て初めはかなり意外で驚いたが、その後で「なるほど」とも思った。
(高次さんが持ってきたのはアレだな。しかも男同士って……もしかして一也さんもゲイだったとか?)
晃は今までの一也の言動を思い返してみたが、一也がゲイだと確証できるようなものは思い当たらなかった。
ただ、恋愛経験がないと言っていたことが気になりはしたが。
思考を巡らせつつ晃は一也を観察していたが、一也がテレビ画面を眺めるだけで何もしていないことに気づく。
(……もしかして、見てるだけで反応とかしてないのか)
興味本位で見てるだけで、その表情や内心は冷めていたりするのかも知れない。そう思うと、一也にとっては理不尽な苛立ちが晃の中で沸き起こる。
しかし、
「はぁ……」
一也が大きく息を吐いてソファの上で身動ぎした。それを見て、晃は確実に一也が何らかの反応を見せていることを知った。
一也の吐息に晃は、言い表しようのない衝動に駆られた。普通なら、あるいは今までの晃なら考えられないことだったが、今すぐにでもリビングに入り一也が反応しているか確かめ、反応しているなら自分が――と晃は妄想していた。だが、
(一時の快感を得たいからって、そんなことしたら一也さんは俺のこと軽蔑するだろうな……)
相手を怒らせて「出て行け」と言われ泊まるところを失くすことより、晃は一也に軽蔑されることの方を恐れていた。
晃はリビングから離れると2階の自室に戻り再びベッドに横になった。しばらくそのまま考え込んでいたが、携帯にメールが届いているのに気づいて半身を起こす。
メールは2通で、祐介と歩からだった。最初に来ていた祐介のメールから開く。
『昨日はありがとうな。密も晃にお詫びとお礼が言いたいって言ってる。大学始まるまでには帰ってくるだろ?』
(怪我の心配もないんだな……)
次は歩のメールを開く。
『昨日はお疲れさま。話もできず帰っちゃったけど、怪我とか大丈夫だった? ま、これでリオさんも密にちょっかいかけて来ないだろうし、お役御免ってところかな。晃も早くいい人見つけなよ』
(余計なお世話だ)
それぞれのメールにそれぞれ悪態をついて、晃は返信もせず携帯を閉じた。それをベッドに投げ捨てて寝返りを打つと目を閉じる。
なぜか殺伐とした感情と物寂しい気持ちが身内に渦巻き、晃はそんな自分の感情を持て余した。
目を閉じているうちに再び睡魔がやってきて、晃はまたいつの間にか眠ってしまっていた。
目を覚ましたのは誰かに呼び起こされたからで、薄く目を開けると部屋は真っ暗だった。緩慢な動きで寝返りを打ち仰向けになると、晃を見下ろす一也の顔が見えた。その一也の顔はなぜか心配げな表情で、かと思うと目を覚ました晃を見てホッとした表情を見せた。
「……あの」
「良かった……ずっと起きて来ないから心配したんだ」
一也の言葉を聞いて晃は思わず時計を探した。だがここは人の家で壁に時計は掛かっていない。それを思い出して晃は自分の携帯を手探りで取ろうとし、それを見た一也が察して「今は夜の7時だよ」と言った。
「7時……」
どうりで部屋が暗いはずだと晃は目を擦り大きなあくびをした。あくびをしながら、ついさっき一也が言ったことを思い出す。
「あの……心配したって――?」
「ああ、その」
晃の疑問に一也は恥ずかしそうにはにかみながら答えた。
「ほら、よくあるだろ。頭を打ってしばらくは何ともなかったけど、急に痛みだして倒れてしまうとか、眠ったまま死んでしまうとか――」
あまりにも心配性な一也に、晃は咄嗟に返す言葉を失うが、
「晃くんがずっと下りて来ないし、部屋を覗いたらずっと寝てたみたいだし、一瞬もしかしてって思ったんだよ。でも、そうじゃなくて良かった」
そう言って微笑む一也を見て、晃は別の意味で言葉が出てこなかった。
心配かけてしまったことを申し訳なく思ったし、心配してくれたことがとても嬉しく感じられたが、それをどう感情として表したらいいのかわからなくて、晃はただ「すみません」と言っただけだった。
夕食を用意しているというので晃は一也に言われるまま1階に下り夕食を食べ、先にどうぞと風呂を勧められたがそれは断り、そしてまた部屋にこもる。
昼間十分に眠ったせいで目が冴え、これ以上眠れる気がまったくぜす晃はベッドに座ると投げ出していた携帯を開いた。
着信も何もなかったが、祐介と歩からのメールに返信していないことを思い出して晃は受信箱を開いた。
届いた順番どおりに祐介から返信する。
『どういたしまして。密くんには気にするなと言っておいてくれ。大学が始まるまでには、近くに部屋を見つけたいと思ってる』
送信ボタンを押し、次は歩のメールに返信する。
『歩もお疲れさん。歩が連れてきた助っ人は強かったな。あの人たちのお陰で袋叩きは免れたけど、俺はそこそこやられちまった。でもひどい怪我じゃないから大丈夫だと思う。歩の兄貴がもっと早く出てきてくれたら良かったんだけど。ま、これで2人のこと心配しなくて良くなったんだから、一安心だな』
歩の『早くいい人見つけなよ』という部分は丸々無視して、晃は送信ボタンを押す。
ほんの少し携帯画面をぼんやり眺めていた晃だが、部屋の中でとくにやることも見つけられず、近くのコンビニに立ち読みにでも行こうかとベッドから腰を上げ、それとほぼ同時に着信音が短く鳴った。
(祐介か)
そう検討をつけてメールを開くと送信者は歩になっていた。
(早いな)
ついさっき送ったばかりなのにと思いながら本文を読む。
『返事が遅い! 兄貴とリオさんの関係だけど、結局教えてもらえなかったんだ。すげぇ気になるよな! 怪我してたんなら一也さんびっくりしてたろ。何があったのか話したのか? 一安心って言っても、晃のことだからこれからもイロイロ心配したりするんだろ。でも、あんまり気を遣いすぎるなよ』
再び返信する。
『一也さんには話したよ。適当にぼかしながら。そういえば今日助っ人2人と一緒に高次さんが来た。あの高次さんと一也さんが血の繋がった兄弟だって信じられないよな。高次さんにケンカするなって説教してたし』
『オレ一也さんに会ったことないんだ。そんなに性格が違うんだな。説教してたって、晃は説教されなかったのか?』
『俺はべつに。怖かっただろって、そんな感じ。兄弟じゃないからな』
書き終えて送信ボタンを押し、送信完了の文字を見たと思ったら、またすぐに着信が鳴った。
「早っ……じゃねーな」
メールの送信者は祐介だった。一瞬の間を開けてから本文を読む。
『部屋を探すって、やっぱりここを出てくのか? それだと悪いから自分がこの近くで部屋を探すって密が言ってるんだが』
荒々しく携帯を閉じると晃は部屋を出て1階に下りた。階段を降りるとリビングから廊下に出てきた一也と鉢合わせになる。
「晃くん――どこか行くの?」
携帯と財布をズボンのポケットに入れるのを見て気づいたらしい一也が問うので、晃は曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、暇つぶしにコンビニに。今日は寝れそうにないし――。何か買って来ましょうか?」
「いや、僕はいいよ。気を付けて」
「はい」
ついでといった感じで玄関で見送られ、晃は家を出ると肌寒い夜気の中コンビニに向かった。
コンビニには何人かの客がいて、そのうち2人の男性客が雑誌コーナーで立ち読みしていた。晃もその中に混じりしばらく立ち読みをして時間を潰したあと、家に帰ってからの暇つぶしに1冊雑誌を買い、他に酒やつまみも一緒に買って帰った。
家に帰ると時刻は10時前で、玄関先とリビングの明かりが点いたままにされていた。いつもなら一也は風呂を済ませ寝る準備をし、そのあと自室で持ち帰った仕事をしている頃だ。
たぶん今日もそんなところだろうと検討をつけて、晃はリビングに入るとテレビを付けた。そしてソファに座り買っておいた酒とつまみをテーブルに広げ、テレビを見るともなく見ながら無為な時間を過ごした。
酒が3分の1に減ったころ、晃はDVDレコーダーの電源が入りディスクが入ったままになっているのに気づき、その原因に思い至ってドキリとした。本体の再生時間が表示されている画面を見ると30分ほどで停止されているようだった。
(入ってるのって、もしかして一也さんが見てたやつ……?)
昼すぎにリビングを覗いたときのことを思い出し、晃は今頃アルコールが利いてきたみたいに体が熱くなった。
ゆうに3分間、晃は迷いに迷ったあげく再生してみることにした。テレビの入力を切り換えて念のため音声を下げ再生ボタンを押す。すると、途端に画面に男同士のナニをするシーンが映し出された。
(マジか……無用心だな)
だが、今までは一人で暮らして来たのだから、これくらいの不注意は当然なのかも知れない。
それにしても、と思う。高次はなぜ一也にこのディスクを持って来たのだろう。親しければ兄弟間でもこういう貸し借りはあるのかも知れないが、それでも普通は男女のAVをやり取りするものではないだろうか。
(ゲイものを持ってくるってことは、やっぱり一也さんも……?)
30代前のいい年をした男が恋愛経験も少なく、恋人もいないということはやはりその可能性は少なくない。
しかし、だからといってどうだというのだ、とも思う。一也がゲイだからといって自分に何の関係があるのか。数日一緒に暮らして気まずい雰囲気になったことも危険な雰囲気になったこともない。つまり一也がゲイだとしても晃に対して居候という以外の感情を持っているとは思えない。
年が離れていることも関係しているかも知れない。たとえ親しい感情を持っていてくれていたとしても、それは弟に対するものとほとんど変わらないだろう。
(俺には関係ない、よな)
身内でそう呟いた晃だが、なぜだか自分の言葉に胸が痛んだ。
10分ほどそうして見続けていると、画面の中の男たちはクライマックスを迎えようとしていた。晃もそれにつられて感情が昂っていくが、ここは他人の家だということが晃を抑制していた。ズボンの真ん中に手を伸ばしたい欲求に駆られ、それを自制する理性との狭間で晃は悶えた。
「晃くん――っ!」
突然リビングの戸が開いて一也が現れ、かと思うと素早い動きでテレビの前まで行くと電源を切ってしまった。
「……あ、あの」
いきなりのことに晃は顔を赤くする以外の反応ができなかった。が、振り返った一也の顔も負けじと赤く染まっている。
「その、晃くんはこんなの、見ては駄目だ」
他人の家で他人のディスクを勝手に見たことを責められたのかと思い、晃は咄嗟に謝ろうとした。だが、それとは少しニュアンスが違うと感じて、晃は気がつくと「なぜ」と疑問を口にしていた。
「どうして、見ては駄目なんですか?」
「えっ……」
思わぬ反論に言葉を失くす一也だが、少し考えてから口を開く。
「その……男同士のなんて――しかもAVなんて……」
それでも言いにくそうにしている一也の言葉尻を晃が引き継いだ。
「気持ち悪い、ですか?」
「っ!」
昼間、リビングで一也がこれを見ていたとき、一也は確かに何かしら反応をしていたと晃は思っていたが、あれは気のせいだったのかも知れないと考えを改める必要があるようだった。
晃はなぜだか心がささくれ立つのを感じ、自然口調がとげとげしくなる。
「一也さんにはそうかも知れないけど、俺は別に気持ち悪いとは思いませんよ」
「……そ、そう」
「今までにも見たことあるし、それに俺――ゲイですから」
晃の唐突といえば唐突な告白に、一也の息を呑む音が聴こえた。
自分で告白しておきながら晃は一也と目を合わすことができず、訪れた沈黙にしばらく耐えて一也の言葉を待ったが、一向に反応が返ってこないのできっと引いているのだと晃は部屋を出ようと立ち上がった。
「あ、晃く――」
「すんません、こんなこと言うつもりなかったんですけど……気持ち悪いですよね。俺、明日にでも出て行くんで」
「待って、待ってくれ! ち、違うんだ」
晃の手を取って引き止める一也。相手は年上で親しい間柄でもないので、手荒に振りほどくこともできず、だが晃は一也を振り返ろうとはしなかった。
「何が違うんですか」
「その、僕は別に気持ち悪いとか、そんな風には――ただ恥ずかしかったし、晃くんがAVなんて見るとは思わなかったから……」
「……」
気持ち悪くないなんて、自分がゲイだと告白したから言うんだろう、と晃は言葉そのままを受け入れることはしなかった。しかし、
「それに僕……僕もゲイ、だと思う」
予想外の一也の告白に今度は晃の思考が空転してしまう。ゆっくりと一也を振り返り、それから晃はまじまじと彼を見つめて言った。
「思うって……?」
「うん、その――昼過ぎにあのDVDを見てたとき思い出したんだ。小学生高学年の頃、近所の子供と班を作って登校していたとき、その中にいた低学年の男の子を僕はすごく気に入ってたんだ。毎朝一緒に登校するのが楽しくて、彼が休みのときはとても残念だった。僕が小学校を卒業すると学年も3年以上離れていたから、もう二度と会えないと思うと本当に辛かった。だから彼との接点を持ちたくて、彼が通ってる音楽教室に通いたいって親に頼んだんだ。でも――」
一也は一瞬言葉を切って恥ずかしそうに苦笑いした。
「前にも少し話したけど、僕の父は堅物で考えの古い人でね、男がそんな軟弱なものするもんじゃない!って、そんな感じの人だったんだ。でも、僕はどうしても行きたくて何度も父に頼んだ。そうしたら、知り合いにピアノを教えてる人がいるから、そこへ習うなら中学に行く間だけ許してやるって――笑えるだろ」
一也としては気になる男の子の通う音楽教室へ行きたかったのに、親は楽器を習いたいんだと当然の成り行きだがそう思い、そこまで習いたいならと知り合いのピアノ教室を選んだ、その皮肉に一也は笑えると言ったのだ。
晃は笑い出しこそしなかったが続きが気になってしまった。
「それで、どうしたんですか?」
「ん、行ったよ。知り合いのピアノ教室。僕は彼の通う音楽教室に通いたかっただけだったんだけど、親がこれならいいだろうっていう折衷案を出してきたとき、それは嫌だとは言えなかったんだ。僕は表向き音楽を学びたいとしておきながら、その実はあの子と離れたくないからなんていう下心を持ってたから、それ以上の我侭は言えなかった……下心を持って通いたいなんて思った罰なんだろうと最初は思ったよ」
「――でも、ピアノ好き、なんですよね?」
それには一也の笑顔が返ってくる。
「ああ、もちろん。中学の3年間だけって約束で通ってたけど、いざやってみると本当に楽しかった。中学からっていう遅い年齢で始めたもんだから、大会で好成績を残せるほど上達はしなかったけど、そこそこは弾けるようになったんだ。本当は趣味程度でも続けて行きたかったんだけど、父との約束だから中学卒業と同時にやめたけどね」
「今は習ってないんですか?」
「うん、今は独学みたいなものかな。誰かに聞いてもらいたいとか、そういうんじゃないから本当に趣味で弾いてるだけって感じだよ。それで、ええっと、何の話だったかな」
「小学校で気になる男の子がいて――」
「ああ! そうそう。結局、その子とはそれっきりで、なぜだか今までそういうことがあったってことも忘れてたけど、あれが僕の初恋だったんだと思う。――それに父が僕に男らしさを強いるもんだから、僕は父の言うように男らしくしなければならないと思い込んで、高校では柔道部に入ったし勉強も頑張って上位をキープしたし、男同士だったら必ず出てくる好みの女のタイプとか性的な話とか、今思えば必死に合わせてたような気がする」
晃自身も女の好みを聞かれたところで適当に合わせるか受け流したりするが、それよりもずっと一也は真剣にそれと向かい合って来たんだろう。一也のような真面目な人間にとって、他人に嘘をつくような言動が積み重なれば、それはそれで辛い事のように思う。
「でも、僕は女性を友人としてなら好き嫌い区別できるけど、恋人としてタイプ分けすることは出来なかった。大学生のとき、一度だけ年上の女性に誘われてセックスをしたことがあるんだけど……確かに気持ちいいとは思ったんだけど――イクことは出来なかったんだ」
未だ晃の腕を掴む一也の手に力がこもる。男として、それは屈辱的な告白かも知れない。握られた手が熱く汗ばんでいる。
「去年のクリスマスだけど、弟たちが家にやってきて、なぜかAVの話になったんだけど、僕がAVを見たことがないって言うと下の弟がレンタルしてきて、それで初めて見たんだ。もちろん男女の。でも、そこまで興味が持てなかった。僕が正直にそう言うと、弟が今度は男同士のを持って来てね、それを見て僕はすごく――反応してしまった」
一也の続く告白に晃は、どう返答していいのか戸惑い俯いてしまう。
「僕は男らしくいなければならないっていう考えを持っていたし、普通男なら女性の裸を見て興奮するものだろう。僕は晃くんがゲイだとは知らなかったからあんな風な言い方をしたけど、僕はゲイを気持ち悪いなんて思ってないよ。まして晃くんのことを気持ち悪いだなんて、そんな風に思うことは絶対ない」
強く断言されて晃はなお反応に困ってしまった。手首から伝わる一也の熱のせいか、晃の手のひらもじんわりと汗が滲む。
一歩、一也が晃に歩み寄る。
「晃くん、信じてくれるかい?」
だが、晃はまだ答えられない。すでに事は信じる信じないではなく、この場をどう収めたらいいのだろうかと晃は考えていた。しかし、一也にとっては晃に自分を信じて欲しいと、それだけしか今は考えられないらしい。さらに晃に歩み寄ると不思議なことを言った。
「もし、信じられないなら証明してみせてもいい」
証明するというのは一也が、ゲイや晃を気持ち悪とは思っていないということをだろう。それをどう証明するのかと晃は不審に思って一也を見上げた。すると、一也はその視線に視線を合わせたかと思うと、その視線を下方に向けた。俯いたのではない意味深な視線の動きに、その意味を考えた晃だったが、
「っ!?」
意味が分かった途端、体中が熱く汗が噴出した。
一也の視線は晃の中心に向けられたのだ。そこには先ほどDVDを見て反応した晃のものがズボンを僅かに押し上げていた。晃自身なるべく考えないよう、気にしないよう振る舞い、一也も見逃してくれるよう祈っていたのだが。
再び一也の視線が晃の視線を捕らえる。まっすぐに向けられた視線は真剣そのものだった。
「きみさえ良ければ」
「きみ」という言葉は距離を感じるもののはずなのに、なぜか晃は胸が鳴った。距離を感じさせるということは、晃を単に年下の青年とか弟のような存在として見てはおらず、一人の対等な青年として見てくれているような、それはそんな気がした。
「俺は別に……でも、一也さんは経験ないんでしょ。気持ち悪いんじゃ――」
「それを証明するんだよ、座って」
多少の強引さをもって手を引かれて、晃は抵抗もせず言われるままソファに座った。一也も浅くソファに腰掛けて晃の方に体を向けると、晃のズボンに手をかけた。そしてベルトを外そうとする一也の行為に晃は焦った。
「あ、あのっ、じ、自分で、するからっ!」
「……そう?」
少し残念そうな声を出した一也だが、晃にピッタリくっつくように座りなおして、晃がベルトを外すのをじっと待っている。
「あの……本当にする、んですか?」
「うん。嫌?」
「嫌じゃ、ないけど……」
急な展開に戸惑いつつベルトを外しジッパーを下げると、
「触るよ」
「っ」
一也の手が下着の上から晃のものを撫で上げ、久しぶりの他人の手の感触に晃はまず羞恥を覚えた。
それでも、一也の手の動きに晃のそれは確実に反応を示し、下着から出されると一也の手に握られてしまう。反応を確かめるようにゆっくりと上下に扱かれ、晃はこの快感すらも久しぶりだということを思い出した。
「晃くん、気持ちいい?」
耳元で熱っぽい一也の声がして晃は思わずゾクリとしたが、羞恥と快感に返事をする余裕がなく首を縦に振ることしかできない。
大きく硬く膨れ上がった晃のものを、上下に扱く一也の手の動きが少しずつ早くなると、先端から先走りが溢れて一也の手を濡らす。
晃は両手に拳を作りソファに押しつけた格好で歯を噛み締め俯くと、すでに込み上げてきている射精感を耐えた。しかし、そんな晃の衝動を一也は感じ取っているのかも知れない。
「晃くん、我慢しなくていいんだよ」
そう耳元で言って一也は少し手の動きを荒々しくした。まるで自分のものに絡みついてくるような手指の動きに、晃はたまらず吐息を漏らしながらソファにもたれかかり首をそらす。
「あ……か、一也さっ」
胸を大きく上下に息を乱しながら、思わず晃は一也の名を呼んだ。
「うん、イきそう? いいよ、手の中に出して」
気持ちの高揚とともに一也に責め立てられて、晃は背を仰け反らせながら一也の手の中に射精した。熱い液の塊が数回にわたって晃の中から放出されると、一也はそれをすべて手で受け取った。
全部を吐き出したあとで瞑っていた目を開くと、一也の手に受け止められた白濁したそれを見て晃は泣きたくなった。
今日ずっと感じていた殺伐とした感情、それが欲求不満のためだと晃はわかってしまったからだ。
自分の気に入らない男を好きになった祐介への苛立ちや、晃の気持ちを知らない密の気遣いや、知っておきながら「いい人を見つけろ」なんていう歩のお節介や、晃をからかって笑う高次の無神経さや、そんなものが全て一緒くたになって晃を責め立てていた。
そんな感情の捌け口がなく欲求不満となり、リビングでAVを見ていた一也に欲情したり、今まさに一也の提案を受け入れて欲求不満の解消に利用してしまった。
一也に対して申し訳なく、自分の情けなさで晃は泣けてきた。
「あ、晃くん?」
手の中のものをティッシュで処理していた一也が晃の異変に気づいた。鼻を赤くして目に涙を浮かべる晃を見て動転する。
「す、すまない! てっきり僕――嫌だったんだね。本当にごめんっ」
慌てて謝る一也に晃は首を振った。鼻を啜ってズボンを直しながら、
「違うんです……俺、一也さんに申し訳なくて」
「――申し訳ない?」
「わかりますよ、俺。一也さんが気持ち悪くないって言うんだったら、本当にそうなんだろうって。だから、こんなことして証明する必要はなかったんです。でも、しなくていいって、信じるって言えなかった。期待してたんだ、たぶん」
一也とこういう関係になることを。知り合ってまだ日の浅い一也と、こんな関係を期待してしまう自分の浅ましさが恥ずかしいと晃は自分自身に嫌悪する。
「じゃあ、嫌じゃなかった?」
少しの間を開けて向けられた一也の質問の意味を、晃は理解するのに少し時間がかかった。
「――えっと、嫌じゃないって……?」
「僕に触られるのが」
「……はい。その、嫌じゃないけど」
「それなら良かった」
一也は言って微笑んだ。あまりにも自分の感情とかけ離れた笑みに晃は不審に思う。この人は自分の言ったことを理解してくれているんだろうか、と。
晃の表情からそれが伝わったのか一也の笑みが苦笑に変わる。
「もしかして、僕を騙してこんなことする自分は最低だとか、そんな風に思ってる? でも、それなら僕もそうだよ。晃くんが僕を信じる信じないは自由だし、晃くんがいつかは僕の言うことを信じてくれるのを僕は信じて待つ、それだけでも良かったはずだ。なのに、強引にこんなことをした。正直に言うときみに触りたかったんだ」
触りたかったということを体言するように、一也が晃に手を伸ばし頬に触れる。そこから熱が伝わって晃の体が熱る。
「こんなこと今言うのは卑怯だって言われそうだけど――」
言いながら一也が晃に近づいてくる。間近に迫る一也を晃は拒めなかった。
「僕は晃くんのことが好きだ」
一也が顔を僅かに傾けて、その唇を晃の唇に重ねる。優しく、だが確かな強引さをもって触れ合わせるだけのキスは、晃にとって十分にそれ以上のものを感じさせた。
長いとも思える口付けが終わり、離れていく一也の唇を目で追ってから、晃は一也を見上げて言った。
「ずるい、です……」
晃の言葉に一瞬一也は目を瞬かせてから困ったような笑みを見せた。
「やっぱり、そうだよね。ごめんね」
「でも、だったら尚更こういうの、良くないですよ」
「うん、本当にごめん」
一也の手が、体が離れて行きその表情が曇っているのに気づいて晃は慌てた。
「あ、いや、一也さんを責めるつもりはないんです。ただ……」
「ただ?」
晃は逡巡したが、意を決してすべてを話すことにした。
「昨日話した親友とA子のことだけど、俺、ずっとその親友が好きだったんです」
「晃くん……」
「もちろん男だし、そいつとは幼なじみだし、そいつは全然俺をそんな風に見たこともない。親友が好きになった相手をA子ってことにしたけど、実はそいつも男なんだ」
「――じゃあ、高次が売春ヤローって言ったのは」
「A子のことです。親友は今までずっと柔道ばっかでそれしか頭になくて、だから女にも興味を持たなかったんだろうって――でも、いつか好きな女性が現れて普通に結婚するんだろうって思ってました。ところが、そんなあいつが初めて好きになったのが売春なんかするような奴で、しかも男だった……ショックでした」
膝の上で握りしめた晃の手に一也の手が重なる。晃はその暖かさを感じながら、その気遣いに嬉しく思いながら続ける。
「本当は誰が誰を好きになろうが自由なんだけど、ノーマルだと思ってずっと気持ちを打ち明けず親友として振舞ってきたのに、その親友が売春なんかする奴を好きになるなんて……そのせいで痛い目にも遭ったのに、それでもあいつの気持ちは変わらなかった」
「……裏切られたような気がした?」
一也の問いに晃は頷く。
「勝手な話だけど、そう思った。でも、俺も同じようなことしたんです」
「同じようなこと?」
「親友は今まで柔道しかしてこなかったし、性格も真面目っつーか実直で……天然? 馬鹿? とにかく、初めて好きになったのが男で、男同士だったら何をしたらいいんだとかセックスできるのかとか、本気で悩んでたんです。それで友達にゲイのAVを借りて見せたら、俺に『あれは気持ちいいのか』って聞いてきてさ」
「それは――」
そう言ったきり一也は曖昧な笑みを浮かべて黙ってしまった。何と言っていいのかわからなかったんだろう。構わず晃は続けた。
「ちょっと意地悪するつもりで『試してみるか』って言ったんだ。それで困ったら笑ってやろうと思ったし、試してみるって言ったら俺がその……入れる方になるんだろうって思ったから。でも、親友は入れる方をしたいとか言い出して――」
「受け入れたんだね」
再び晃は頷く。
「最初は男同士を試してみるってそれだけだった。だけど、そのあとも何回かやった……。俺、その度に虚しくなるのがわかってるのに、そいつのことが好きだからつい、2人でやる自慰みたいなもんだって言って――」
「それは辛かったね」
晃はその言葉には首を横に振って、
「自業自得なんです。俺はゲイであいつのことを恋愛対象として見てた。でも、あいつは俺のこと完全に恋愛対象から外してた。あいつとそういうことするってなったとき、俺は恋愛対象として見てるんだってことを本当なら言わなきゃいけなかったんです。そうしたら、あいつも少しは考えただろうし……俺の方が卑怯で最低です」
「晃くん……」
「それでも俺はつい『傷ついた』なんて思ってしまうんですよね。あいつは他の奴が好きだってわかってるのに、体だけの関係を持ってしまうのって――確かに辛いですよ。俺はたぶん、まだあいつのことを忘れることができずにいるんだと思う。だから、一也さんの気持ちを受け入れることはできないし、尚更こんなこと――」
「待つよ」
晃の言葉を遮るように一也が言った。ハッとして一也を見上げると、まっすぐに晃を見つめる視線とかち合う。微かな笑みを浮かべて一也は繰り返した。
「晃くんが彼を忘れられるまで、僕の気持ちを受け入れられるまで、待つよ」
「一也さん……」
「僕は今まで初恋すら忘れていたし恋愛らしい恋愛はしてこなかった。でも、今晃くんに会って僕は確実にきみに恋をしてる。この気持ち、簡単に諦めるなんてできないんだ。だから、ずっと待ってる。いいかな?」
その視線から、あるいは触れ合った手から伝わる一也の気持ちに、晃ははにかみながら小さく頷いた。
晃の中にも確かに一也に惹かれかけている心はある。だが、まだ祐介への気持ちに区切りをつけることはできていない。そんな状態で一也の気持ちに応えてしまうことは、一也にとっても晃自身にとっても良いはずがない。
一也が待ってくれるというなら、それでいいのなら自分もちゃんと気持ちの整理をして、しっかりとした形で一也の気持ちに応えよう、と晃は思う。
「でも――」
(でも?)
ふと、離れたはずの一也の体が再び近づいてきているのに晃は気づく。
「もう1回だけ、キスしていいかな」
一也の意外な積極性に驚く晃だったが、ふっと笑みをこぼすと返事の変わりに目を閉じた。すぐに触れてくる唇に晃からも反応を返して、さっきよりも深く口付けながら晃は、一也とのキスが人生で初めてのキスだったと思い出した。
すべてを告白した解放感からか、それともまっすぐに向けられる一也の好意にか、晃は心地良い至福を感じている。
思うよりもずっと自分は一也の存在に揺れているのかも知れない――そう思いながら晃は一也の長いキスを受け入れ続けた。