冬。僕はきみの傍に、

25.囚われている

 最初はほんの少し気を利かせただけだった。
 それがなんで今こんなことになってしまったんだろうと、晃は小ぢんまりとした一軒家を見上げて思うのだった。
 始まりは――と話し始めると長くなるのだが、とりあえず先月の14日から始めることにしよう。
 世間はバレンタインだった。
 当日バイトは休みだったが、出られなくなったバイトの代わりに入ってくれと言われて急遽出ることになった。ついでにバイト先でチョコなどを買って、同居人である祐介へのお土産にでもしようと思っていた。
 チョコに深い意味はなかった。幼なじみではあるが晃と祐介は男同士だ。たとえ晃が祐介を想っていたとしても、チョコに深い意味はない。そう晃は自分に言い聞かせて、チョコを片手にシェアしているアパートへ帰った。
 すると玄関に見慣れない靴が一組あった。
 無意識に親しい友人の顔を次々と思い浮かべるが、すぐに思い当たる人物が脳裏に閃いた。
(来たのか……)
 胸中でそう呟いて晃はリビングダイニングへ向かう。
 晃が予想していた通り、ダイニングのテーブルに祐介と、そして密という青年が向かい合って座っていた。
 密は祐介が想いを寄せていた青年だった。だが密は男娼であり、それに拘るがゆえに祐介の想いには応えるつもりはないと言った。それでも祐介は諦めきれず、それどころか密が体を売ることをやめさせたいとも思っていた。
 そんな祐介の願いを密は「説教するな」と反発したが、一方で祐介に買われて抱かれたあとで何か思うところがあったらしい。自分の常連客から、体を売ることから距離を置いていた。
 しかし、常連客の数人がそれを許さなかった。
 密は手痛い仕打ちを受けることとなったが、祐介が手紙で、晃にいたっては直に密と会って、そんな現状を打破する勇気を持てと励ました。
 さらに晃は密にアパートの合鍵を渡していた。「いつでも来いよ」という意思表示のつもりだったが、どうやらやっと密は決心したらしい。
 そして今、2人の表情を見ていれば、話は良い方向にまとまったのだろうとすぐに察して、晃は少し話しをしただけでアパートを出た。
 せっかく想いが通じ合ったのだし2人っきりで居たいだろうと気を遣ったのだ。加えて、
(イチャこいてるとこを見せられたくもねぇしな)
というのも、もちろんあった。
 ところがだ、当然といえば当然だが密がアパートへ現れたのはその日だけではなかった。
 一週間はなんとか我慢したが、それ以上は無理だった。
 晃や祐介、密の事情を知っている歩の家に晃は転がり込んだ。
「頼む! 次の部屋が見つかるまででいいから!」
 歩にも何やら不都合があるらしい様子だったが、晃が手を合わせて懇願すると渋々という感じで了承した。
 だが、親からの多少の仕送りとバイト代だけで借りられて、大学からそれほど離れていない部屋を見つけるのは難しかった――というよりも選びきれなかったと言った方が正しいかも知れない。
 晃の中で、まだ祐介と同居を続けることに未練があり、その未練が新しい部屋を見つけることを阻害していた。
 そんな風に決めかねていると歩の我慢に限界が来たらしい。
「いつまでも居てもらっちゃ困るよ」
 しかし、単に家を追い出すだけではなく
「大学近くに知り合いの家があるから」
と代案を用意したのは、祐介に密を会わせたのは自分だという多少の負い目が歩にあったからかも知れない。
「兄貴の友人っていうか仕事仲間なんだけど」
 連れられた先は古いが立派な一軒家だった。そこに20代半ばの男性が1人で住んでいるようだったが、晃の予想ではどうやら両親はすでに他界しているようだった。
 失礼な話ではあったが、これなら歩の家よりも気が楽かも知れないと晃も思った。
 男は高次と名乗った。ヘビースモーカーで言動も粗野で、
「同居野郎が女連れ込むくらい気にすんじゃねぇよ。気のちいせぇ男だな。気にするくらいなら混ぜてもらえよ。3Pしろ3P」
などと初対面相手に言ってしまえる神経が晃には信じられなかったが、それ以外は干渉してくることなく自由に暮らせたので文句はなかった――はずなのだが。
 高次の家には度々女性が訪れてきた。しかも毎回違う相手なのである。家に来るのだから最終目的は知れているが、どちらももう大人なのでそれをどうこう言うつもりはない。だが、その相手が毎回違うのである。1日に昼と夜で別々の女性が来た日はさすがに晃は「モラルってなんだろう」と考えてしまった。
 次第に高次を見る晃の視線が冷めていく。
 それを感じとったのだろう。高次は有無を言わさず晃に荷物をまとめさせると、ある場所へ連れてきた。
 やはり一軒家の小ぢんまりとした家だった。ここで冒頭につながることになる。

「おれの兄貴の家だ。一人暮らしだし部屋は余ってるし大丈夫だろ」
 車の中から家の様子を窺いつつ高次が言う。
 晃もつられて家を見上げ、ついでに観察する。
 新築ではなさそうだった。高次が住んでいた家よりは新しいが、築年数はそれなりに経っているように見えた。
 もしかして、こっちが両親の持ち家だったのだろうかと、ふとそんな疑問が思い浮かんだが実のところそんなことはどうでもいいと、晃はその疑問をすぐに振り払った。
 次に今いる場所の地図を頭の中で思い描いて、これはもう早々にアパートを見つけなければなと晃は思った。
 理由は単純でここから大学までが遠いからだ。
 実家よりは断然近いし、駅もバス停もあるから行けないことはないが、自分が借りてたアパートや、歩や高次の家よりもやはり遠い。
 それだったら1日も早く、大学に近いアパートを見つけようと、高次に続いて玄関へ向かいながら晃は決心していた。
 高次は家のインターホンを押すこともなく、合鍵を使って玄関を開ける。やはり中に声をかけることもせず、我が物顔で家に上がると部屋の戸を開けて中へ入ってしまった。
 てっきり家の主を呼んで来てくれるのかと晃が玄関で待っていると、すぐに高次が廊下に顔を出して「ほら、さっさと来い」と手招きをするので、不審に思いながら晃も家に上がった。
 高次が入った部屋はリビングで、ほかに誰の姿もない。
「あの……家の人は?」
 恐る恐る訊ねると、高次が携帯をいじりながら答えた。
「あ? 仕事だ仕事。兄貴には言っとくから」
 やっぱり無許可だったんだと晃は頭を抱えたくなったが、「じゃな」と軽く言って高次が部屋を出ようとするので焦った。
「ちょ、ちょっと待って下さい! 居てくれないんですか?」
「はぁ? なに甘っちょろいこと言ってんだよ。お前もガキじゃねぇんだし、こっからは自分でなんとかしろ」
「……」
「大丈夫だって。お前のことはちゃんとメールしとくからよ」
 そして、今度こそ「じゃな」と言って家を出て行ってしまった高次を、晃は内心で恨めしく思いながらも仕方なく部屋の隅に荷物を置くとソファに腰掛けた。
 携帯で時間を確認すると午後を過ぎたばかりで、仕事だというなら帰って来るのはあと5、6時間は先だろう。
「あ……」
 そういえば家の主の名前すら聞いてないということに思い至って、晃はがっくりと項垂れた。こんな状態でこの家に泊めてもらおうとも思えず、とりあえず数日は祐介とシェアしているアパートで我慢して、すぐに新しい部屋を見つけようと晃は再度決意する。
 だが、荷物を持って出て行こうとして晃はハタと気づいた。
「鍵……どうしよう」
 鍵をかけないまま出て行くことは出来ない。勝手に押しかけておいて、そんな無用心なことはしたくない。かといって高次に戻ってきてもらおうとしても「めんどくさい」と言われて終わりだろう。第一、携帯の番号も家の番号も知らない。
 家の中に合鍵があったらいいが、合鍵を置いてるとも限らないし、それに家捜しするようなこともちょっとどうかと思う。
(もう、本当にあの人面倒なことしてくれるよな)
 自分のことは棚に上げて内心で愚痴る晃。
 結局、主が帰ってくるまで大人しく待っていることにした。

「――くん、晃くん」
 遠慮がちに呼ぶ声は聞きなれない男のものだった。
 誰だろう、と鈍い意識の中で呟いた途端、晃は瞬間的に覚醒した。
(やっば! 寝てた!)
 家の主を待つ間、持ってきていた本を読み返しながら、いつの間にか晃は眠ってしまっていたのだった。
 晃は慌てて起き上がるとソファに座りなおして、傍に立つ男性を見上げた。
 少しだけ困ったような柔和な笑みを浮かべて、優しげに晃を見下ろしている。
 背は晃と同じくらいの平均的な身長で、体格は細くも太くもない中肉だろう。目は二重で細くは見えないが、瞳が大きいせいかつぶらな印象がある。さらにほんの少し口角を上げただけで出来る大きな笑窪は、この男性の最大の魅力だろう。そのせいか、晃よりも大分年上であるはずなのに親しみやすい雰囲気がある。
「晃くん、だよね? そんなとこで寝てると風邪ひくよ」
 思わぬ気遣いと、見知らぬ人の家で眠ってしまった恥ずかしさに晃は顔を赤くした。
「あ、あのっ、すみませんっ! 俺、勝手に――」
 急いで頭を下げて取り繕うが、それを男性が制止する。
「いいんだよ。それより、お腹減ってないかい」
 男性はコートを脱ぎながらダイニングの方へ向かい、まるで親しい相手とするように話しかけてくる。
「口に合うかわからないけど、有り合わせで良かったらすぐに作れるよ」
 ダイニングのイスにコートを引っ掛けて、キッチンの冷蔵庫を眺める男性に、晃は慌てて声をかけた。
「いえ、いいです! あの、俺もう、すぐ帰りますんで」
「え? でも、泊まるって聞いてたけど」
「そうなんスけど……」
 これ以上迷惑はかけられないと言いかけて晃は、歩や初対面の高次にまでさんざ迷惑をかけていたことを思い出す。それを今更、迷惑だからという自分が滑稽だと思う。
「もしかして、迷惑だとか考えてる?」
「え、あ……」
「気にしなくていいよ。部屋は余ってるし、僕も話し相手が欲しいなと思ってたところだし。弟たちもたまに来てくれるんだけど、あいつらの話題はちょっと――度を越えててね」
「?」
「あ、いや、何でもないんだ。ま、とにかく、今日はもう遅いし泊まっていきなよ」
 結局そういうことになって、晃は1日だけのつもりで泊まることにした。
「そういえば、きみの名前は高次から聞いたんだけど、僕の自己紹介がまだだったね。僕の名前は一也。よろしくね」
「あ、よろしく、お願いします」
 差し出された手を握り返しながら、明日この家を出ればもう会うこともないんだろうなと晃は思っていた。
 だが、そんな晃の予想は覆された。覆った原因を作ったのは他でもない、晃自身だった。
「やっぱり、暖房も付けずにソファで寝るからだよ」
 一晩眠った次の日、起きた瞬間から身体のダルさと喉の痛みを感じた。それでも着がえてダイニングへ行くと、先に起きていた一也が晃の顔を見てすぐに異変を察し、晃の額に手を当ててそう言ったのだった。
「薬飲んで、今日は一日寝てるんだよ」
 否とは言えない雰囲気があって、晃は一也の言うとおりにすることにした。
(風邪が治ったら出て行こう)
 そう思っていた晃だったが、またもや予定通りには行かなかった。
 次の日の朝、まだ幾分喉は痛かったが熱も下がったので、今日にも帰ろうと思いながらダイニングへ行くと一也の姿がない。
 土日でも祝日でもないけど仕事は休みなのだろうかと、晃が不審に思っているところで一也が部屋から出てきた。そして、リビングに入って来た一也の様子を見て晃は愕然とした。
「一也さん……」
「おはよう、晃くん……いや、大丈夫だから」
 赤い顔をしながら枯れたような声で言われて、大丈夫だなどと信じられるはずがない。自分の風邪がうつってしまったのだと、自責の念を覚えて晃はせめて一也の風邪が治るまでは居ようと考えを改めた。
 どんなに辛くても仕事は休めないようで、晃が作った朝食を少しだけ食べると、一也は薬を飲んでマスクをして出勤していった。
「気を付けて」
 大丈夫だろうかと内心で心配しながら一也を見送った晃は、自責の念を払拭するように家事に勤しんだ。
 さすがに一也の部屋まで掃除することは差し出がましいと思い出来なかったが、キッチンからダイニング、リビング、バスルームと掃除して、少し溜まりかけてた洗濯物を片付ける。
 そうやって家事をしながら気づいたことは、家の主が――つまり一也のことだが――とても几帳面な性格のようだということだった。
 例えば掃除をしようと思ったとき、道具を探さなければいけなかったが、階段下の収納スペースを開けるとそこにすべて整然と納まっていたし、脱衣所の収納棚にあるタオルや下着類は丁寧すぎるほど丁寧に畳まれていた。
 また、キッチンを見ても鍋やフライ返しなどの調理器具の場所や、皿やコップなどの食器類の場所も細かく決められて、きちんと仕舞われていた。
 おまけにどこを見ても埃や汚れが見当たらない。
「上には上がいるもんだ」
 晃自身も几帳面な方だという自負のようなものはあったが、一也の几帳面さを見ると遠く及ばないなと思うのだった。
(もしかして、潔癖症なのか?)
 ふと、そこに思い至ったときに晃は、やはり早めにここを出て行った方がいいかなと、今度は別の意味で思う。
 もし一也が潔癖症なら、他人が家に寝泊りするどころか何かに触れられたり、物を動かされたりするだけでもストレスを感じるのではないか。表面上は何も気にしていないように振舞っているけど、本当は嫌だったのじゃないか。
「いらんことをしちまったかな」
 家事をしてしまったことを些か後悔しながらも、晃は今晩の夕食の準備をして一也の帰りを待った。
 夕方、昨日よりも早く一也が帰って来たが、無理をして仕事に行ったからだろう、未だに顔は赤く辛そうに咳をしている。
「おかえり。夕飯、食べます? 一応、すぐに作れるようにしてるけど……」
「いや……悪いけど、もう寝るよ」
 そう言って2階へ上がろうとする一也を慌てて晃は呼び止める。
「でも薬飲まないと」
「ああ――」
「良かったら、あとで部屋に持って行きますよ。少しでも食べて」
「わかった。ありがとう」
 マスクのせいで目元しか見えなかったが、微かに笑んで一也は2階へ行ってしまった。
「……俺んときより辛そうだな」
 申し訳なく思いながら晃は夕食に取り掛かった。といっても食欲のないときに食べられるものといったら大概決まっている。
 卵粥と梅干とお茶と、それから薬を持って2階に上がると、一也の部屋をノックした。枯れた弱々しい声で「はい」という返事があったので、戸を開けて中を窺うと思わず晃は「あ〜あ」と声を漏らしていた。
 部屋の電気と暖房は辛うじてついていたが、一也はスーツのままベッドの上に倒れこんでそのままだったのだ。
「一也さん、着がえないと。寝間着はどこにあるんですか?」
 晃の問いに一也は重そうに腕を上げてクロゼットを指差した。夕食の乗ったトレイを机に置いてクロゼットを開けると、作りつけられた背の低い棚の上に無造作に脱ぎ捨てられた萌黄色の寝間着があった。
(これだな)
 寝間着を持って振り返ると、一也がやっとで起き上がってスーツを脱ぐところだった。
 晃はほんの少し緊張しつつ、だがしっかりと一也が脱いでるところを眺めた。
(一也さんは俺がゲイだって知らないんだよな。もし知ってたら、たぶん目の前で脱がねぇだろうし。無用心だな。――いや、これが普通か)
 着がえるのを手伝おうかとも考えたが、会ってまだ数日なのにそれもどうかと思い、脱いだスーツをハンガーに掛けて仕舞うだけに留めた。
「悪いね、迷惑かけちゃって」
 着がえ終わった一也に夕食を手渡すと、一也がすまなさそうに言うので晃は焦った。
「いや、俺が、俺のせいだから」
 そんな晃の言葉には柔らかな苦笑が返ってきて、晃は余計に慌ててしまう。
「あの、俺――またあとで来ますね」
 なぜか緊張してしまう自分が居た堪れず部屋を出て行こうとしたが、
「いや、手間になっちゃうし、そんなに食べられないから、良かったら待っててくれないかな」
そう一也に言われて晃は遠慮がちにイスに座った。
 ずっと一也の食べているところを見るのも悪いと思って、晃は視線を空中に彷徨わせた。その視線が机の上に置かれた楽譜で止まる。さっきは気づかなかったが、どうやら一也は音楽が趣味のひとつらしい。
「ピアノ、ですか?」
 音楽には詳しくない晃だったが、それがピアノの楽譜だろうということは何となくわかった。
「ん、ああ、そう。子供の頃に習っててね。隣の部屋にピアノがあるんだ、安物だけど」
「へぇ〜、ピアノひけるなんてすごいですね」
「そう、かな……父親には男がピアノなんてって馬鹿にされたけど」
「そうなんですか? 俺はすごいと思うけど」
 晃の素直な称賛に、一也は一瞬だけ晃を見つめると満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう。風邪が治ったら聴い欲しいな」
「ぜひ」

 それからの生活はとても穏やかだった。
 一也の風邪も2日でほぼ治まり、その後、3、4日で2人の生活サイクルもできつつあった。
 朝はいつも一也の方が早く、そのため朝食は一也が晃のぶんまで作ってくれる。遅れて起きた晃がそれを食べつつ、仕事へ行く一也に「いってらっしゃい」と声をかけた後で洗い物を片付ける。その流れで家事に入ると洗濯物を洗濯機に放り込み、埃の気になる部屋に掃除機をかけたり雑巾掛けをしたりする。最後に洗い終わった洗濯物を干して午前中の家事は終了する。
 家事終了後、アルバイトが入っていれば仕事に出かけるし、なければ読書をしたり勉強をしたりして過ごし、夕方も近くになると干しておいた洗濯物を取り入れて乾いているものからたたんで仕舞い、晩御飯の準備に取り掛かる。
 一也が帰る時間に合わせて晩御飯を作り、一也も時間どおりに帰ってくるので一緒に晃も晩御飯を食べる。食後にはティータイムでテレビを見ながら語り、順番に風呂に入るとあとは自由時間になる。晃は入浴後もテレビの続きを見たりするが、一也は部屋で少しだけ仕事をしているらしい。
 寝る時間も思い思いで適当な時間にベッドに潜り込み、そして朝になって一也の作った朝食を食べる――。
 そんな生活が晃にとって穏やかだと思うのは、それだけ晃の身によく馴染む雰囲気がこの家には流れているのかも知れない。
『それで? 居心地がいいってんで一週間も居座ってるわけ? 高次さんのお兄さんの家に』
 その「高次さんのお兄さんの家」つまり一也の家の、あてがわれた一室に晃はいる。
 あてがわれた部屋はもともと使っていなかったようで、ソファベッドとローテーブルしかない。そのソファベッドに座って歩の携帯を取っていた。
 携帯の向こうから聴こえてくる声は些か呆れているように感じたが、それはたぶん気のせいではないだろう。
 レースのカーテンを赤く染める夕日に目を細めながら、晃は気まずいような、それでいてはにかむような曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
「そう。だってさぁ、誰かみたいに苛々してないし、とっかえひっかえ女連れ込まないし、料理もうまいし、言うことナシじゃん」
『悪かったね、苛々してて』
 憮然とした声の歩に、晃は調子に乗っておどけてみせた。
「いえいえ、押しかけたのは俺の方だし? それで、苛々は解消されましたかね」
『お・か・げ・さ・ま・でっ!』
 皮肉たっぷりの歩の言い方がおかしくて、晃は声を上げて笑う。そうして笑ったあとで、こんな風に声を上げて笑うのは久しぶりかもしれないと気づいた。
『で、晃はずっとそこにいるの?』
「まさか。大学からちょっと遠いし、前期が始まるまでには大学近くのアパートを見つけるよ。それより、電話してきたってことは何か動きがあったのか?」
 晃は少々強引に話を変えると、ついでに声も低くして訊ねた。
 訊いたのは祐介と密のことだった。祐介の想い人である密は男娼だったが、祐介との出会いをきっかけにそれをやめた。だが、常連客の中に面倒な男がいて付狙われる可能性があった。
 密と晃とは2回ほどしか会ったことはないが、祐介とは幼なじみで大事な親友だ。密が付狙われることで祐介にとばっちりが来ないとも限らない。現に一度痛い目に遭わされている。
 だから、祐介やもしくは密に何か変化があれば、自分のところに連絡してきて欲しいと予め歩に頼んでいたというわけだった。
 晃につられるようにして歩も声のトーンを落とすと頷いた。
『祐介から連絡があってね、密の様子がおかしいからそっちでも注意して見てて欲しいって言ってきたんだ』
「へぇ、祐介から直接……」
『オレもリオの動きとか気にしてはいたけどさ、祐介がオレんとこに言ってきたのはやっぱ、一応オレの方が密と付き合い長いからなんだろうな』
 リオというのは面倒な常連客の一人だ。
 歩がいやに回りくどい言い方をしたのは、自分のところには何の連絡もなかったという晃の不満が声に表れていたからだろう。
(全部お見通しか――)
 内心で呟いて晃は少々顔を赤くする。
 歩に顔が見られなくて良かったと思いながら晃は話を進めた。
「密くんはやっぱり相談してこないか」
『うん、しないね。自分ひとりで何とかしようって思ってんだろうね』
 そうやって一人抱え込むことで、余計まわりに心配をかけてしまうことがわからない年齢ではないはずだが。
「まぁ、わからんではないがなぁ。結局は自分が撒いた種なんだし」
『……晃もキツいこと言うね』
「歩には敵わないけどな」
『――』
 黙ってしまった携帯をそのままに晃は考え込む。
 今、晃の胸中に広がる感情は恐怖だった。
 もし、密と常連客との間で諍いが起こったら、そのとばっちりが祐介にまで来たら――それを阻止するタイミングを逸してしまったら、救いようがない状態に陥ってしまわないだろうか。
「怖いな」
『怖い? 何が』
「もしさ、密くんを助けることができなかったら、祐介はどうなるんだろうなと思ってさ」
『どうなるって……?』
「たぶん、守れなかったっつって一生自分を責め続けるだろうなって――」
『……』
「そうしたらあいつ、立ち直れんのかなとか」
『晃――』
 だが、歩は晃の名を呼んだだけで先を続けられないようだった。
 再び沈黙が訪れるが、それは互いにとって複雑な感情が生んだ沈黙だった。解決策は話を変えるしかないと思い、晃は声も元の調子に戻すと口火を切った。
「じゃあ、まだいつ対決するかは決まってないんだな」
『……うん、そう。わからないんだ』
「それがわかればなぁ。まだいくらか安心なんだけどな」
『オレなんかさ、祐介の話聞いてていっそ密の携帯盗み見てやりゃいいのにって思ったんだけど』
「ああ、そりゃいいんじゃねぇの?」
『ダメダメ。祐介が密に内緒でそんなこと出来るほど器用なやつじゃないって、晃が一番わかるだろ』
「あ〜……確かにな。絶対ムリだな。盗み見たことがバレてなくても謝りそうだ」
『だろ? オレが行っても警戒されんのがオチだしね』
 結局、また何かわかれば連絡するということになって話は終わった。
 携帯を閉じるとソファベッドに寝転がって、晃は先ほどの沈黙の意味を考えた。
 歩は晃の祐介に対する想いを知っている。だが、祐介が密への想いを遂げたあとでも未だ未練を残している晃のことを歩は危惧しているに違いない。
 だが、当の晃自身は歩にそう思われてるだろうことは承知で、でも親友として心配している気持ちの方が強いのだという、歩からすれば弁解に聞こえるだろう思いもある。
(いいや、言い訳なんかじゃない)
 内心で晃は強く否定する。
(俺は祐介と密くんが付き合っているのを知ってる。認めてもいる。俺が今さら祐介に告白しても、どーにもならないことも分かってる。それを俺は受け入れてる)
 なのになぜ歩は、祐介を心配する晃に言葉を失ったのか。
(なんで俺は、言い訳じみたことを考えてんだ)
 それは晃の中に、まだ祐介への想いを引きずる自分がいるせいかも知れない。
「告白、するべきだったのか……?」
 そうすれば、真面目で誠実な祐介のことだ。親友からの告白に驚き戸惑いながらも、きっぱりと「気持ちには応えられない」と断ってきただろう。
 断られれば晃だって、きっぱりと祐介を諦められたかも知れない。
 ただ、その時点で祐介との関係は壊れて、親友だった頃のようには戻れなかっただろう。それはそれで晃にとっても、また祐介にとっても望まざる結果であったはずだ。
 とくに不器用な祐介のことだから、晃の気持ちを知ってしまったあとでは気を遣いすぎて精神的ストレスを抱えてしまうかも知れない。晃が「忘れてくれ」と言ったところで、そんな器用な真似を祐介ができるはずがない。
 それを考えれば、やはりこれで良かったのだと晃は結論付け、そうしてからハッと何かに気付くと大きくため息をついた。
(結局、俺はいつだって祐介のことを優先してしまってるんだな)
 内心で呟いて苦笑すると起き上がる。
(俺があの部屋を出るのは2人に気を遣ってやってるからだ。それに男3人にはあの部屋は狭い。かといって2人を追い出して1人で住むには広すぎるし、家賃も1人で払うには高い。だから、あの部屋を2人に譲って俺は部屋を探す。大学近くで家賃も安いとこだ。そんでもって1人暮らしを満喫する!)
 自分に強く言い聞かせているという自覚を持ちつつ、晃はそれが自分にとって最良の選択だと思い込もうとした。
 元来、行動力がないわけではない晃だったので、決めてしまえば行動に移すのは早い。
 次の日から不動産屋を巡って部屋探しを再開し、大学の近くで幾つか晃の希望に近い部屋を見つける。
 どの部屋にしようかと悩んでいたとき、晃の行動に気づいた一也が「部屋探しをしてるのかい?」と訊ねてきたので、前期が始まるまでには出て行くので今まですみませんでしたと伝えると、一也は少し淋しそうな笑みを浮かべた。
「そうか、残念だよ。晃くんの料理は美味しかったし、一緒にいてとても楽しかったから」
 一也にそう言われて晃は胸が痛んだ。
 晃にとっても一也の家は居心地が良かった。だがそれは、ここに祐介がいないからだ。いや、祐介と密がいて仲の良いところを見せ付けられることがないからだ。そして、自分の想いが叶わないことを思い知らされることがないからだ。
 結局、晃は逃げているのだ。1人暮らしをしたところでそれに変わりはないかも知れないが、今はその逃避に一也を巻き込んでしまっている。
 一也は晃との生活を楽しいと言ってくれるが、晃自身は未だに祐介への想いに囚われているので、この生活の安穏が何によってもたらされているのか判断できない。祐介と密が居ないからなのかもしれないし、一也が居てくれるからなのかも知れない。
 だが、今この状況では一也の家に逃げ込んでることに変わりはない。これ以上、赤の他人である一也に迷惑をかけてはいけない、甘えてはいけない。

 次の日、いつものように会社へ行く一也を見送り、午前中の家事を済ませて昼食をとったあと、不動産屋へ行くため準備をしていると携帯電話が鳴った。待ち受け画面を見るとかけてきたのは歩だった。
 晃はさっと表情を緊張させ応答すると、いつになく硬い声で歩が告げた。
『どうやら今日、密はリオに会いに行くみたいだよ』
「今日……これからか?」
『ううん。昼間はアルバイトで終わったら一旦帰ってくるらしいけど、そのあと友人の家に泊まりに行くんだってさ。今朝、家を出る前に祐介にそう伝えたらしいよ』
「友人……」
『あいつにエッチなしで家に泊まらせてくれるような友人がいると思う? いいや、いないね』
 自分で問いかけておきながら自分で断言する歩に、お前それ偏見だろと言いかけて晃は止めた。晃も密にそんな友人なんていないだろうと思ったわけではない。思わなくもないが今はそんな議論をしている場合じゃないと思ったのだ。ただ――
「本当に今日なのか? 旧友に久しぶりで会ったとか、アルバイト先で出来た友人とオールで飲みに行くとか、そんなんじゃ……」
『たしかにね、普通の状況だったら怪しんだりしないんだけど』
 そうだった。密を取り巻く今の状況は到底「普通」とは言いがたい状況なのだ。
『友人の家に泊まるって言ったときの密の様子が変だったって祐介も言ってたし、それに晃は密と会って話してみて思わなかった?』
「なにを?」
『こいつ友達いなさそうって』
「うっ――」
 咄嗟に晃は言葉に詰まる。
 歩の物言いが情け容赦ないからというのもあったが、思い当たることがないこともなかった。というよりも、当の本人が言っていたのだ、友達はいないと。
 厳密に言うと晃が「ダチはいないのか」と訊ねると密が「うん」と答え、「今までの付き合い方しか自分にはできない」と言ったのだ。
 「今までの付き合い方」というのはもちろん男娼として、買う買われるという関係のことだ。
 歩の言葉を聞くまですっかり忘れていたが、確かに友達はいないと密自身も認めていた。
 もしかしたら、売春をやめてからそんな自分を変えようと努力して、友人の1人や2人作ってたりもするかも知れないが、売春をやめてから3ヶ月も経ってはいない。友人を作って親しくなる度合いや早さは人それぞれだが、今まで友人のいなかった密が1、2ヶ月で家に泊まるほど親しい友人が出来たとも思えない。
『あいつが今までに作れた関係なんて、自分の得になるかならないか――なんだから。ま、今は違うかもだけど』
 何だかんだ言いつつ最後には一歩譲歩した歩に苦笑して、晃は話を進めた。
「確かにな。密くんは要領は良さそうだけど、損得なしの関係に関しては不器用そうだったし、いきなり友人の家に泊まるってのは不自然かもな」
『だろ? それに、オレの情報網によるとリオの動きも怪しいんだ』
「あの男が?」
 あの男、とは言っても晃は会ったことがない。歩の話に出てくるだけなのだが、聞く限りではどうも面倒くさそうな男だなというのが晃の印象である。現に今の問題を作ってる原因はそのリオという男にあるのだから、面倒だという印象は至極当然だと思われる。
『何人か仲間を集めてるって話を聞いた。目的ははっきりわからないけど、陰険なあいつのことだから複数で密を輪姦そうとか考えてるんだと思うよ』
 歩の言葉に晃は眉間にしわを寄せると嫌悪を露にした。現実にそんなことが起こるのかという信じ難い気持ちもあるが、リオという男は数ヶ月前にも集団で祐介に暴行した。強姦ではなく暴力の方だが晃はそれを知っている。だから、リオが人を集めて密を輪姦するということは有り得ないことじゃないとも思う。
『それでね、今朝祐介から密の話を聞いて知人に連絡取ったら、リオが今日の夜、仲間に招集をかけたって聞いたんだ』
「それじゃあ、決まりだな……」
『うん』
 歩が神妙に頷くのを聞いて、いよいよ晃の緊張も高まる。
「んで、場所は?」
『それがね、場所まではわからなかったんだ。今からでも探ってみるけど、リオに気づかれるとまた面倒だし』
「そうだな」
『祐介は密が一旦帰ってくるっていうのを信じて、夜出かけるときにこっそり後をつけるって言ってるよ』
「本当に帰ってくればいいけどな。あと、バレなきゃいいけど」
 密を尾行する祐介の姿を想像して晃は思わず鼻で笑った。あの大きな体を必死に小さくして物陰に隠れる祐介は誰が見ても立派な不審人物に見えるだろう。
(警察に通報されないよう祈っとくか)
「密くんのアルバイト先は知ってるか?」
『うん、知ってるよ』
「じゃあ、俺がこれからそこ行って見張るわ。んで、とりあえずアパートまで帰るか確かめる」
『それで、ずっと見張ってるの?』
「まさか。アパートの周りは家ばっかだし、あんなとこずっと立ってたら不審者扱いだ。密くんがアパートに帰ったら俺は一旦離れるよ。近くのファミレスかどっか入ってる。密くんが家を出たら祐介から歩んとこに連絡来るんだろ? そしたら俺んとこにも連絡入れてくれ」
『わかった。オレもリオと密が会う場所わかったら知らせるよ』
 密のアルバイト先をメモして電話を切ると、晃は不動産屋へ行くという予定を変更してそこへ向かった。
 外に出ると途端に冷たい風が晃の頬を叩く。空は晴れて陽は射していたが、まだ冬の名残が晃の体から徐々に体温を奪っていった。
 密のアルバイト先まで来たとき中には入らなかったが、外でずっと待つには寒すぎるので道を挟んだ向かいのファミレスに入ることにした。
 平日で昼も過ぎていたため店内に人は少なく、密のアルバイト先が見える窓際の席に着くことができた。そうして、人を待ってる風を装いながら窓の外に注視し、夕方に密が出てくる前にファミレスを出る。
 このままリオという男に会いに行くようだったらすぐに歩に連絡しないと――と頭の中で状況を整理しつつ、アルバイト先から出てきた密を尾行する晃だったが、そんな晃の心配は杞憂だったようだ。
 密はまっすぐに祐介のアパートへ向かい、かつて晃と祐介が同居していた部屋に入っていった。まるで今日、リオと対決するというような緊迫感などない至って普通な密の様子に、晃は本当に今日密とリオは行動を起こすのかと疑ってしまう。
 それでも、まさかという事態に備えておくことは必要だ。晃は数分だけアパートとその周りの様子を観察すると、当初の予定通りその場から離れて比較的近くのファミレスに入った。そうして歩からの連絡を待つ。
 きのこの和風スパゲティとドリンクバーだけで4時間近くも居座る晃へ、さすがに店員がチラチラと視線を飛ばしてくる中で、ここで待つのももう限界かなと思い始めたころ、やっと携帯電話が鳴った。
『今、密がアパートを出てったよ。南の方に向かってるって』
「わかった」
『オレもリオの奴らを尾けてるんだけど、向かってる方角に思い当たるところがあるんだ』
「思い当たるところ?」
『確信が持てたら連絡するよ。携帯はマナーモードにね』
「りょーかい」
 携帯を切ると即座に伝票を持って立ち上がり、精算を済ませてファミレスを飛び出す。密とばったり鉢合わせにならないよう気をつけながら、アパートから南の方という言葉を頼りに足早に進む。
 昼間よりも冷気漂う夜の街はさすがに人もまばらで、点々と灯る街灯が夜の街を淋しげに映していた。これだけ人も少ないのだから密の姿もすぐに見つけられそうではあるが……。
 南の方ということは近くの駅前を通るだろうかと、そちらへ向かって密の姿を探すがそう簡単には見つからない。タクシーに乗られたら追うのも難しくなるが、歩から連絡が来ない以上まだそういうことにはなっていないのだろう。歩いて向かう場所ならそう遠くはないはずだが、この辺りで人に見咎められずリンチできるような場所などあっただろうか。
 様々な推測が頭の中で駆け巡りつつ、次第に晃は密を見つけられない焦燥感に襲われかけた。密のあとを祐介が尾行しているだろうし、歩もリオという男とその仲間を尾行していると言った。尾行がバレない限り見失ったりすることはないだろうが、自分だけがわからないことが余計な焦りを覚える。
 車もほとんど通らない狭い街道を見ると、すべてから取り残されたような感覚に陥って晃は不覚にも泣きたくなった。こうしてる間にももう密はリオと対峙していて、それどころか集団で暴行されているかも知れない。そこに駆けつけた祐介までもが手酷くやられ、目も当てられない惨劇が繰り広げられる。
 そんな手遅れの状態になってしまえば、もう誰も救えない――。
「っ!?」
 最悪の事態を脳裏に描いていた晃の手の中で、マナーモードにしていた携帯が2、3度震えて止まった。メールだ。
 微かに震える手で慌てて携帯を開き受信したメールを見る。もちろん歩からで内容は一言のみ。
『場所は運動公園』
 すぐに晃の頭に運動公園の景観が浮かぶ。周りを木々で囲まれた大きな公園で、中にはサッカーや野球、バスケットなどができるコートなどが設置されいる。正式名称は不明だが、ほとんどの人がそこを「運動公園」と呼んでいた。
 晃自身、そこを利用したことはなかったが、かなり広い公園とその公園を囲む青々とした木々の景観に強く印象に残っている。
 夜も遅くなれば周辺の人通りは少ないだろうし、木々に囲まれているので人目を避けることは可能だろう。リンチには絶好の場所かも知れない。
 ここからそれほど遠くはないし歩いて行ける距離でもある。晃は公園までの道順を頭の中の地図で導き出すと、ロスした時間を挽回するため走った。
 走ったおかげで10分もしないうちに公園に到着した。逸る気持ちを抑え、晃は公園の手前で立ち止まると乱れた息を整える。肩で息をしながら周りに視線を巡らせて不審な影がないか確認するが、時折、通りすぎる車以外に人の姿は見当たらない。
 まだ来ていないのか、それとももうみんな公園の中なのだろうか。
 完全に息を整えてから、晃はゆっくりと歩き出した。辺りに目を配りながら、何か物音や人の声が聞こえないか耳も澄ませて、注意深く歩みを進めていく。
 だが公園は広かった。しばらく歩いても人の影すら見つけられず、晃は次第に不安になった。本当に歩の言う『運動公園』はここで合っていたのだろうか。どこか別の公園だったのではないだろうか。
 不安に駆られた晃の足は次第に速まり、不審人物と言われても仕方ないほどキョロキョロと首を巡らせる。
 ふと、その視界に奇跡ともいえるくらいの狭い木々の間に人の姿を見つけた。晃はハッとして立ち止まると、またゆっくりそちらへ向かう。木々の間に作られた、煉瓦を敷き詰めた遊歩道を行くと、木々の間に見つけた人影の斜めうしろ姿が見えた。
(密くん……祐介!?)
 最初に見つけた人影は密のものだった。そして、近づくに連れて視界が開けるとその隣にはすでに祐介の姿もあった。尾行がバレたというよりは目的の場所に着いたので、祐介の方から出てきたといった感じのようだった。
 祐介も姿を現してるんだったら自分も出ていって大丈夫だろう、そう軽く考えて晃は歩調を速めると2人の斜め後ろから近づいて声をかけようとし
――。
「よう――げっ! なんだこれ……」
 晃からは木々に遮られて見えなかった向こう側に、複数の男らの姿があった。あえて数えようとは思わないが、ざっと見た感じでは両手で足りるか足りないかくらいの人数の男らが思い思いの表情で、新たに現れた晃を上から下まで眺め回す。
(すでにこんな状態になってたのかよ)
 どうやら対面は済み挨拶やら互いの主張やら、舌戦の類はもう終わっているらしい。
 もう少し冷静に陰から観察するべきだったかと後悔するが後の祭りで、出てきてしまったものは仕方ないと晃は密と祐介の傍へ行く。当然だろうが祐介も密も驚いた顔で晃を見つめていた。晃は微妙なタイミングで出てきてしまった居た堪れなさに、引きつった笑みを浮かべながら「よう」と手を挙げてみせた。
 晃の気の抜けた挨拶を聞いて、固まっていた祐介が我に返る。
「あ、晃! お前なんでここに!?」
「晃さん……」
 同じく呆気にとられていた密も困惑した様子で晃の名を呟く。
「ま、それはこの際置いといて――歩は?」
「歩? いや……」
 そこで興味深く傍観していた男らの1人が声を上げて笑った。わざとらしい笑い声だった。癪に障る笑い声に、晃は眉間にしわをよせて声の主を見た。
 少し離れたところにある外灯がやっとで届く闇の中でも、高級ブランドとわかるスーツに身を包んだ長身の男が、集団の真ん中に立って蔑んだ目を向けてきていた。
 たぶん、この男がリオという名の主犯格だろうと、晃は確信して男に向けた視線に力を込める。
 晃の視線を受けて男――リオが嘲笑を含んだ声で言った。
「助っ人が現れたかと思ったら、たった1人か。しかも歩だって? あいつに何ができる!」
 あからさまな悪意に晃は、咄嗟に何か言い返そうと口を開きかけたが、それよりも先に声を上げる者がいた。
「そうだね、オレは喧嘩なんか出来ないけど――」
 リオや男らはもちろん晃たちも驚いて振り返ると、晃が現れたのと反対の遊歩道から当の歩が姿を現した。歩は笑みさえも浮かべて全員の視線を受けながら、余裕を感じさせるほど悠然と晃たちの方へ歩いてくる。
(俺の間抜けな登場とは随分違うな)
 晃の内心の呟きはともかく、歩は笑みを含んだ目でリオたちを睨みつけ続けた。
「でも、助っ人を増やすくらいはできるよ」
 歩の言葉を受けて、歩が出てきた遊歩道から3人の男が現れた。1人は晃が数日前に居候の件で世話になった高次という男だった。
 だが、わかったのは高次1人で他の2人の男がどこの何者なのか晃にはわからない。わからないが歩と同じく余裕を感じる態度にケンカ慣れしていそうだなと晃は思った。現に歩と同じく――いや、歩以上に不敵な笑みを浮かべて腕を回したり骨を鳴らしてみせたりしている。
(ビビってんの俺だけかよ……)
 晃は表情が強張るのを意識しつつ、体が震えるのを何とか隠そうと必死だった。今までケンカらしいケンカをしたことがなく修羅場なども経験したことがない晃は、明らかにこの場の雰囲気に飲まれていた。
 歩に続き男が3人増え晃側の人数は7人になった。それでもリオとその取り巻きの人数の方が多かったが、リオも男らも高次と他2人が現れた途端、笑みを引っ込めると険しい表情になった。
 剣呑な雰囲気が辺りを支配する。
「やめるなら今のうちだよ、リオさん」
「誰がやめるっつった。やれ」
 リオが取り巻きの男らに号令し、それが合図となってケンカが始まった。
 男らの雄たけびを聞きながら晃は迫ってくる相手を、最初はただどうすることも出来ず凝視しただけだったが、見知らぬ相手に胸倉を掴まれて一発殴られてからは理性とかそういうものがブチ切れたように、無心で拳を振り上げたり相手に飛び掛ったりした。
 祐介は柔道部員らしく相手の攻撃を軽くかわしたり、華麗な一本背負いで相手の体を地面に叩き付けていく。傍にいた密は腕力こそないようだったが、その分すばしっこさを見せて攻撃をかわし、高い確率で相手の急所を狙っていった。
 格好いい登場をして見せた歩はといえば、助っ人3人の周りを走り回って器用に逃げ回っていた。どうやら戦うつもりはないらしい。
 それでも、勝敗がつくのは早かった。5分も過ぎればリオとその取り巻きの劣勢が見え、10分ほど経つ頃には高次と他2人がほとんど息も乱さず立ってた。そんな高次らから距離を置いて男らは、隙をうかがう様子を見せつつも足はじりじりと後退していた。彼らの目から闘争心はほとんど失われている。
 取り巻きの後ろに下がっていたリオも、いつの間にかケンカに引きずり込まれたようでスーツが乱れて鼻から血を流していた。
「なんだ、もう終わりかぁ?」
 高次と一緒に現れた若い方の青年が男らを挑発するも、終息に向かう雰囲気は止まらなかった。もう誰も動こうとしない。
 だがプライドだけは高いらしいリオが鼻血を拭きながら口を開いた。
「これで終わりだと思うなよ。次は――」
「強がりはそこまでにしておけよ」
 リオの言葉を遮って暗闇から姿を現した者がいた。暗い中でもわかるほどの色白の肌にすらっとした長身の男は、どこかやる気のなさそうな顔でリオを睨みつけている。
 デニムにシャツという極々ラフな格好と、どこにでもいそうな風貌に晃は一瞬、散歩に通りがかった近所の人が助けに入ってくれたのかと思ったが――
「兄貴!?」
 驚いた声を上げたのは歩だった。さらに、
「すっ、進さんっ!? あ、あに――兄?!」
リオまでも驚愕の表情で歩と歩が兄貴と呼んだ男を交互に凝視した。どうやらリオはリオで現れた男――進と知り合いだったようだが、その進が歩の兄だとは知らなかったらしい。
(歩の兄か。ってか兄がいたのか)
 状況が変わったようだったので、晃は傍観者として黙って事の成り行きを見守る事にした。
 進は弟の方を無視するとリオに2歩3歩と近づき、気だるげな表情で言葉を続けた。
「親父さんの金使って好き勝手すんのも大概にしとけよ。オレが親父さんにこのこと話したらどうなるか――わかってんだろうな?」
「あ、う……」
 明らかにリオは怯んだ様子で言葉もなく後退る。後退るぶん進が前に出る。
「今すぐ帰れ。そんで二度とこいつらと関わるな。そうしたら今日のことは親父さんに黙っててやる。わかったな?」
「ぅ……ぁ」
「わかったな!?」
「っ!!」
 進が怒声に近い声を張り上げると、リオは飛び上がるように怯えて体の向きを変え走り去って行った。晃と同じように傍観していた取り巻きも、リオに続いて三々五々散っていく。
「ケッ! 根性ねぇの!」
 助っ人の若い青年が本気でつまらなさそうに悪態をつくが、ろくにケンカもしてこなかった晃にしてみたらこれ以上続かなくて良かったと安堵するところだ。
 緊張から解き放たれて互いの状態を確認しあっていると、ケンカの輪の中にいながら逃げるだけで怪我ひとつしていない歩が詰るような声を上げた。
「兄貴! リオさんと知り合いならそう言ってくれればいいのに!」
 晃としては何で歩の兄を見てリオが怯えたのか知りたいところだったが――
「めんどくせぇ」
 歩の不満に進は本当に面倒そうにそう吐き出した。気のない返事に歩は今度は高次を睨みつけ、
「高次さん知ってたんでしょ。兄貴が出てきたらこうなるってことも!」
「まぁな。こいつに黙っとけって言われたんで言わなかったんだが。それに久しぶりのケンカだったからなぁ」
 歩に不満ぶつけられながらも満足そうに肩を回して高次は笑った。話にならないとばかり再び歩が進を睨みつける。
「兄貴!」
「うるせぇなぁ。1回怖い目みねぇとお前らガキんちょは思い知らねぇだろ」
(ガキんちょって古。それに俺ら成人してるけど――あ、密くんは18か)
 内心で突っ込みつつ、「怖い目を見ないと思い知らない」というのは、どちらかと言えば密やあるいはリオのことを言っているんじゃないかと晃は思った。
「じゃあ、兄貴はリオさんの父親とはどういう関係なの?」
(あ、それ俺も知りたい)
 だが、進は眉間にしわをよせ、
「関係〜? 説明がめんどくせぇ」
そう言って背を向けると元来た道を戻って行く。
「ちょっ、兄貴! あ、高次さん!」
 進に続いて高次と他2人も去って行こうとするので、慌てて歩が追いかけながら声をかける。
「高次さんは知ってるんでしょ?!」
「おれに聞くな。本人に訊けって」
「もー、あ!」
 そこでやっと晃たちの存在を思い出して振り返る歩。
「オレ帰るから、また学校でな! 密、礼ならいつでもいいよ!」
 最後は冗談のつもりなのだろう、そう言いながら手を振って晃たちの返事も聞かず、また進や高次たちの後を追って去って行ってしまった。
 後に残された晃と祐介と密は、しばらくの間呆然と立ち尽くしていたが、誰からともなく「帰るか」と言って晃が通って来た遊歩道に向かった。
「結局、なんだったんだろうな」
 歩きながらつい晃がぼやくが、誰もその答えはわからないようで「あー」とか「うん」以外の返事はなかった。
「歩の兄貴が最初から出てきてくれてたら殴りあいなんかせずに済んだみたいだし、なんか殴られ損だよな」
 くり返す晃のぼやきに、今度は「すみません」と密の謝罪が返って来た。
「あ、いや……ま、俺が勝手に首突っ込んだんだから、それはきみが謝んなくていいんだけど。でもさ、ほら、歩の兄貴を見ただけであの男すごい怯えただろ。それならもっと早く出てきてくれてもいいよなって思ってさ」
「確かにな。でも歩も知らなかったようだし仕方ないさ」
「まぁ、な」
 祐介にいなされて晃は大きく息をついた。
「それより2人とも怪我してるだろ。手当てしないとな。晃もアパート戻るだろ?」
 祐介の提案に頷きかけて晃は、いつの間にか密が立ち止まっているのに気づいた。同時に祐介もそれに気づき不思議そうに密を見つめる。
「密?」
 俯いて立ち尽くす密に心配そうに祐介が声をかけると、やっと密が口を開いた。
「2人とも、ごめんなさい……。僕のせいでこんなことに――僕が悪いのに」
 晃は口にも表情にも出さなかったが、内心で密の言葉を肯定していた。リオのような男と関係を持ってしまったことが不運といえば不運かも知れないが、そもそも男娼というような危険なことをしなければ関係を持つこともなかっただろうし、リオと知り合わなかったとしても男娼を続けていれば似たような問題は起こっていただろう。
 密の過去に同情する余地はあるのだろうが、それ以上に過酷な環境でも必死に真っ当に生きようとしている人間だっている。密にもう少し強さがあれば、あと少しで警察沙汰になるような目に晃も祐介も遭うことはなかったはずだ。
 だが、
(祐介は「お前のせいじゃない」とか言うんだろうな)
 そう晃は予想しつつ祐介がどんな反応をするのか伺った。すると、祐介は密に歩み寄り抱きしめ言った。
「殴られたのは密のせいじゃない」
(ほらな)
「きみは自分でケジメをつけようとして、それに首を突っ込んだのはおれの方だ。本当なら密を信じて待つべきだったかも知れないし、他の解決方法を提案するべきだったかも知れない。でも、結局おれはどうしたらいいかわからなくて、密のことを監視したり尾行したりして……。リオってヤツと話し合いしてるときについ飛び出してしまって火に油注ぐみたいなことをしてしまったのかも知れないし――」
「祐介さん……あれは話し合いじゃなくて言い合い、口喧嘩って言うんだよ」
「そうだったか? とにかく、人数集めて酷いことしようと考えていたのはあいつ等だし、密は殴りあいをしようと思っていたわけじゃないだろう。だから、こうなってしまったのは密のせいじゃない。ただ――」
(ただ?)
「あいつと会う前にひと言相談してくれたらな、とは思う」
「祐介さん――」
「おれは密が好きだ。密もおれのこと好きだと言ってくれただろ。だったら嬉しいことも嫌なことも分かち合いたいんだ。そのためだったら密の過去もおれはすべて受け入れるし、今日みたいなことがあったら一番におれに相談してほしい。おれはもう密に傷ついてほしくないんだ」
「祐介さんっ」
 密は両手を祐介の背中に回し、しがみつくようにして祐介の腕の中で泣いた。あとはただ黙って祐介も密の背中を優しく撫でている。
 その様子を羨ましげに眺めているという自覚を持ちつつ、晃はしばし呆然と立ち尽くしてしまっていた。
(こんなの見せ付けられて、俺にどうしろってんだよ)
 晃は心が荒むのを感じて2人に背を向けるとひとり歩き出した。その背中に祐介が慌てて声をかけてくる。
「おい、晃、どこ行くんだよ」
「俺は邪魔みたいだからな、居候してるとこに戻るよ」
 背を向けたまま手を振って、再度祐介が呼びかけても晃は応えなかった。
 そうして2人から自分が見えなくなったところで、晃は頬に手をやって涙を拭った。
(女々しいヤツめ!)
 そう自分で自分を罵りながら、それでも自分はまだ祐介を諦めきれていないのだと晃は思い知らされた。
(……どうしたらお前は祐介への気持ちを諦めることができるんだよ)
 晃は自問しながら居候先の一也の家に帰り着いたが、ついにその答えは得られなかった。

2011.06/2012.04.29

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