冬。僕はきみの傍に、

23.恋人達のイベント

◆◇◆ 英斗 × 歩 ◆◇◆

『サクラサキ、サクラチル』
 携帯に晃からメールが届いて、開いてみると題名にそう表示されていた。
 人通りの多い路地を行きながら、歩は不可解な題名に思わず目を瞬かせると本文に目を通す。
『密くんがアパートに来ていた。どうやら納まるところに納まったようだ。できれば今日1日歩ん家に泊めてもらいたいんだが、いかがなもんだろうか』
 普段の口調と違う文面に笑いを誘われて、つい一人で笑ってしまった歩だが、本文はそれだけで結局題名には触れていない。
 それでも、歩にはそれがどういう意味か分かる気がした。
 晃と同居している友人の祐介は、密という青年に恋をしていた。密が同居先のアパートに現れたということと、『納まるところに納まった』という文面から考えると、祐介の恋は実ったということなのだろう。
 だから『サクラサキ』とあるのだろうが、一方で『サクラチル』が何を指しているのかと言えば晃の心境だろうと思われる。
 晃は幼なじみである祐介が好きだった。歩の予想ではかなり長いこと、その想いを胸に秘めていたのだろうと思うし、今もそれは続いている。結局、祐介に打ち明けないまま晃の恋は破れて、春を待たずに桜散ってしまった――ということになるのだろう。
(可哀想だよなぁ)
 晃としては同情などされたくはないだろうが、そうだと分かっていても歩はそう思わずにはいられなかった。
 晃ほど献身的に祐介を想ってきた奴はいないと思えるほど、晃はよく祐介に友人として以上に尽くしてきたと歩は思う。傍から見ていた歩がそう思うのに、尽くされた当の祐介にはそれが伝わらなかった。それがとても可哀想だと歩は思うのだ。
(鈍感にもほどがあるよな)
 そもそも歩は密という青年があまり好きではなく、初め祐介には「あいつはやめておけ」と忠告したこともあった。今では問題も起こった中で厳しい立場に立たされた密を応援する自分もいて、つまるところ他人事だから後は成るように成ればいいと歩は達観していたのだが、本当に成るように成ったらしい。
(オレん家か……部屋は余ってるから別にいいけど)
 なんて返信を打とうかと歩が思っていると、通りがかったデパートの入口から数人の女の子が出てきて、手には赤やピンクの可愛らしい袋を持っているのに目が行った。
(バレンタインか――)
 呟く歩の脳裏に過ぎったのは英斗という同じ大学に通う同級生だった。
 大学の教授と関係を持ちながら、英斗が自分を好いているのに気づいて悪戯に歩は英斗を誘惑した。好きとか嫌いとか以前に、ただ欲求をぶつけ合うだけの関係ではあったが、それでも英斗は喜んでいるようだった。
 歩に心底惚れているというような英斗の態度に、ふと教授とのことを言ったら英斗はどうするだろうかと歩は思う。いや、思うだけでなく実際に歩は言った。
 すると英斗は凍りついたように動かなくなり、そして歩の言ったことには触れず去って行ってしまった。それが9月ごろで、その後はずっと避けられたが10月に入り、密を探して夜の店に行ったときのこと、店から出るとそこになぜか英斗がいた。
 歩をつけてきたようだが、何を思ってのことだったのか未だに歩には分からない。
 数日後、教授と関係を持っていることが教授の妻に知られ、引っ叩かれて「別れて」と言われてしまう。彼女にバレたからというだけではなかった、バレたあとも関係を続けたいと思うほど入れ込んでもいなかったし、英斗の凍りついた表情が頭から離れないのもあって、歩は教授との関係を断とうと思った。
 ところが、教授と2人きりになれる時間を探して教授の研究室へ行くと、その研究室から英斗が出てくるところを目撃し、歩はそれだけのことに驚愕した。
 単に教師と生徒の話があって居ただけかも知れないのに、なぜか歩は2人の関係を疑って怖ろしくなった。そして、胸に渦巻く感情が嫉妬とわかって歩は愕然とする。
(そっか、オレも祐介のことは言えないんだっけ)
 そんな状況にならないと自分の本心に気付けなかった歩は、祐介を鈍感な奴だと言える資格はないのかも知れない。
 あれからずっと英斗と会話をしていない。大学の構内で見かけることはあっても、避けられているのだろう視線が合うこともない。
 歩は無意識に体の向きをを変えると、デパートの中に足を踏み入れた。
 そうして、デパートを出るときには小さな紙袋を手にして、以前、アルバイトをしていると聞いていたコンビニへ向かった。だが――
「あ〜、あいつなら今日は休みッスよ」
 同じアルバイト学生の言葉を聞いて、歩は体から力が抜けるのを感じた。どうやらかなり緊張していたらしいと自覚して、歩は思わず苦笑しながら家路についた。
(諦めるしかないか……)
 タイミングの悪い自分に向けて歩はそう呟いて、家の近くまで来ると晃のメールに返信していなかったことを思い出し、再び携帯を取り出して「いいよ」と打ち込もうとした。
 しかし、またもやその手が途中で止まる。
 自宅の前まで来たとき、玄関先に英斗が立っているのが見えたのだ。
 まさかと思った。何かの訪問客が英斗に似ているからそう見えるんじゃないかと、歩は自分の目を疑ったりもした。だが、何度瞬きを繰り返してもそこにいるのは英斗だった。
 玄関の前に立ち尽くし、インターホンを押そうかどうしようか迷っているようだ。
「英斗」
 歩が近づいているのに全く気づかない英斗に、自然と歩は声をかけていた。声をかけると英斗は小さく飛び上がって驚き、慌てて歩を振り返ると固まる。
 やっぱり固まるんだなと内心で苦笑いする歩。
 だが、どんな用があるのかは分からないが、英斗から訪ねて来てくれたことが歩は嬉しかった。
「丁度よかった。オレ、さっき英斗のバイト先に行ったところだったんだ」
「……え?」
「休みだって聞いて帰って来たとこだよ」
「俺に会いに?」
「そ」
 わざと軽く返して、歩は手に持った小さな紙袋を掲げて見せた。
「バレンタインチョコ。ま……その、お詫びみたいなもんだよ。いろいろ嫌な思いさせただろ」
 歩としては思い切って言ったつもりだったが、英斗は驚いた顔のまま紙袋を見つめて、反応といえばそれだけだった。
(やっぱり今さらだよな……)
 こんなもので、こんな言い方で許してもらえるわけがないと、歩は軽く考えてしまう自分の癖に腹立たしさを覚える。それでも、そんな風にしかできないのが歩で、すぐに変えられるものではなかった。
 紙袋を掲げていた腕を下ろすと、歩は俯いて「ごめん」と謝った。
「え?」
「いろいろ、ごめん……」
「歩」
「ホントごめん」
 歩自身、何に対しての謝罪なのかはっきりしたものはなかった。
 ただ、惑わせてしまったことや、好いてくれている気持ちを踏みにじったことや、それなのにずっと謝りもしなかったことや――そういったすべてをひっくるめての謝罪であり、とにかく謝ることで何とか英斗を繋ぎとめておきたいという女々しい気持ちもあった。
 ところが、返って来たのは意外な言葉だった。
「謝るなよ、歩」
「……英斗?」
「俺、歩と体だけの関係でも嬉しかったのは本当なんだ。それに、俺以外に本命がいるんだろうなっていうのも思ってた。それなのに、歩の口からそれ聞いてショック受けたりして――」
「英斗」
「俺がフラフラしてるからダメだったんだよな、ごめん」
 思いも寄らない英斗の謝罪に歩は胸が痛んだ。
 英斗が謝ることなどひとつもないのに、なんで謝るんだよとつい詰ってしまいそうで、歩は咄嗟に言葉が出ない。
 しばらく沈黙が続いて、それ以上続ける言葉が見つからなかったのか、英斗が「それじゃ」と言って立ち去ろうとするのを、歩が慌てて呼び止めた。
「ま、待てよ。訊きたいんだけどさ、英斗はオレの、その、相手の教授が誰かって……」
「――知らないけど。知ってても誰にも言わないし」
「違うんだ! それはどーでもいいんだけど、だってお前、あの人の研究室から出てきただろ。それ見てオレ――」
 必至に訴えようとしながら、何を訴えたいのか自分でも分からなくなって、歩はそこで言葉が途切れる。
 英斗の方でも歩が何を言いたいのか推し量るような顔をして、
「俺はどの教授ともそういう関係には――もしかして、俺に嫉妬してる?」
「違うっ! 教授に嫉妬してんの!」
 言ってから咄嗟に歩はしまったと思った。英斗の心がもう自分にないとしたら、何とも恥ずかしくて虚しい告白だと思ったのだ。
 だが、英斗はそれを聞いて、歩に向き直ると自分の耳を疑っているのか再度訊いてきた。
「俺が教授と親しくするから、俺に嫉妬してるんじゃなくて?」
 なんでそんな詳細に訊くんだと思いつつ、この際だと歩は頬を染めながらきっぱり答えた。
「教授が、お前に手を出したんじゃないかと思って、想像したらオレは教授に嫉妬したんだ」
 言ったあとで、そんな風に考える自分の思考もでたらめだよなと歩は思った。
 妻子持ちの教授と付き合っておきながら、その教授が自分を好いている英斗に手をだしたかも知れないと想像して教授に嫉妬する。そんなこと、胸を張って言えるようなことじゃない。
 咄嗟に歩は俯いて地面に視線を落とした。
「無茶苦茶なこと言ってるって自分でも思うよ。他の男と関係持ちながら、英斗が他の男のものになるのが嫌だなんてさ。呆れたろ?」
 ところが、再び英斗は意外な答えを返してきた。
「ううん。あの、俺、嬉しいんだけど」
「え?」
 驚いて顔を上げると、頬を赤く染めて英斗が歩を見つめていた。
(本気か?)
 歩の表情を読み取ってか、英斗が困ったように頭をかいた。
「あ、歩の方こそ呆れてるよな……」
「……うん、少し」
 正直な歩の感想に英斗は苦笑いして、
「でも俺、歩のことが好きなんだ。あれからずっと忘れようって頑張ったんだけど、どうしても忘れられなかった。すごく浅ましいんだけど、夏の頃のような関係でいいから元に戻れないかなって思ったりして……それで俺も、これ」
 そう言って英斗はズボンの後ろポケットから、縦長の箱を取り出してみせた。
 歩と同じらしかった。バレンタインのチョコを持って、互いに仲直りできたらと考えていたのだ。
 だが、英斗の手の中の箱を見つめながら歩が言った言葉は、
「元のようには無理だよ」
「――そ、そっか。うん、だよな。ごめん」
「いや、そうじゃなくてさ。教授とはもう別れたし、やるだけじゃなくて本気で付き合いたいんだけど」
 途端に英斗が驚愕の表情で固まるが、顔はすでに真っ赤だった。
「え、あの、今、なんて」
「だから、オレは今フリーで、誰とも付き合ってないし、英斗のことがオレもずっと忘れられなくて、英斗のことが好きだから、オレと付き合ってくれって言ってんの!」
 歩の告白に、しかし答える余裕もなくなったのか、英斗は湯気でも立てて倒れそうなほどテンパっている。
「わかった?」
 つい歩が心配になって訊ねると、英斗がぎこちない動作で頷く。それを見て一安心すると、続きは部屋で話そうと英斗を家の中へ招こうとして、そこで歩はあることを思い出した。
 ポケットから携帯を取り出すと、まだ返信していなかった晃のメールに「今日はダメ」と打ちながら、
(友情より愛情だよな。やっぱ晃って可哀想)
と晃にしたら余計な同情をしてみたり。
 送信を終えてみても未だ英斗は固まったままで、そんな英斗の手からバレンタインチョコの箱を受け取ると、代わりに自分の紙袋を持たせ英斗を家の中へ招き入れた。
「オレもサクラサクだったな。晃も早く “サクラサク” といいんだけど」
「え、誰か受験?」
 正気に戻った英斗の問いに歩は肩をすくめた。
「こっちの話。で、オレたちの話だけど、両想いになれた記念ってことでやってくだろ?」
 玄関に入って靴を脱ぎながら、わざと刺激するようなことを言って再び英斗の顔を真っ赤にさせる歩。そして、そんな英斗に堪らず歩はキスをした。

2010.10.04

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