正月三が日を過ぎて歩は寒風吹きすさぶ中、晃と祐介がシェアしているアパートへ向かった。
予め晃に連絡を入れ「これから行くよ」と伝えておいたのだが、歩が彼らのアパートへ赴くのは初めてであり、晃たちの方では来意が何であるのか気になっていることだろうと思う。
歩の方でも何をどう伝えるべきか迷う部分ではあったが、生来の楽天的な性格のせいか着いてから考えればいいと、それほど悩んでいる様子もない。
もしかしたら怒られるかも知れないし、最悪友人を2人失うかも知れない。
それはそれで悲しくはあるが、去る者は追わずの精神で歩はそれも仕方ないと思うのだった。
ただ、謝罪の意だけはしっかり伝えておこうと胸に刻んで。
アパートに着き部屋のチャイムを押すと、少しして晃が出迎えた。
「遅かったな。迷った?」
「うん、少しね」
大学の構内以外で会うことは滅多になく、なんとなく互いに違和感のようなものを覚えているのかも知れない。どうも居心地の悪い微妙な顔をしている。
さらに歩の方は謝りに来たという、今までの自分から考えれば珍しい行為に、気恥ずかしいような居た堪れない思いを抱えていた。
そんな歩の思いはともかく、「あがれよ」と促されて部屋に入ると、リビング兼ダイニング兼キッチンへ通された。見るとリビングの方にはすでに祐介がいて、ローテーブルの傍に置かれた座布団に落ち着いている。
歩も座布団のひとつに腰を下ろすと、晃が飲み物を用意するまで気を紛らわせようと祐介に話しかけた。
「正月は実家に帰ったりした?」
すると祐介は無骨な表情を変えないまま首を横に振った。
「いや、ずっとバイトだ」
「マジで。じゃあ雑煮も御節も食ってないんだ?」
ところが、それにも首を振る祐介。
「晃が御節持って来てさ、雑煮も作ってくれたよ」
「? 晃が雑煮と御節を作ったの?」
「違うよ」
祐介の説明に歩が軽く混乱していると、トレイを持って戻ってきた晃が訂正した。
「俺は大晦日に一度実家に帰ったの。1日にはこっちに戻ったんだけど、そん時に持ってけって親が御節を持たせたんだよ。んで、雑煮は俺が作って食べたってわけ」
「へぇ〜」
そこで一旦会話は途切れて、運ばれたインスタントコーヒーを受け取ると、砂糖やミルクを入れている間に沈黙が広がった。
先に連絡を入れたとき「話がある」と歩は伝えたが、そのためか晃も祐介もある程度は何の話なのか察しはついているのかも知れなかった。
しかし、こう緊張されてはどう切り出すべきか、いつもこんな場面でものらりくらりとやってきた歩も迷ってしまう。
「それで――話って?」
そんな沈黙を嫌がってか、そう切り出したのは晃だった。
祐介に深く関わる話ではあるし、祐介に想いを寄せている晃としては気になって仕方ないのかも知れない。
歩は多少自分を奮い立たせる意味で「うん」と頷いて話し始めた。
「9月の終わりごろかな、時々通ってるバーに行ったんだ」
珍しく落ち込んでいる時期だった。妻子持ちの大学教授と関係を持ちながら、悪戯に同級生の英斗とも関係を持って、しかもその英斗に教授と寝ているということを出来心でバラしてしまった。
英斗は当然ながら驚愕し、それ以後歩を避けるようになった。
そのことで歩は少々むしゃくしゃしていた。
「そこで顔なじみに会ってね、密を探していたようだった」
「密を?」
「そいつはリオっていう男に言われて探してるって感じだったけどね」
「そのリオって……」
「密の常連だよ。まだ大学生だけど家が金持ちでね、鬱陶しいからあんまり敵にしたくないような、ねちっこい嫌なヤツだよ」
言いながら眉をしかめて、祐介には「2度目に密と会ったとき居たヤツだよ」と付け加えておく。
そのリオという男が他の男を使って密を探させているらしいと知った。
ということは、その頃密は売春から遠ざかっていたのだろうかと歩は推測したのだ。
密は男が自分の体を求めるなら、代価として金を払ってもらわなければいけない。それ以外は受け付けないと頑なに売春に拘るような男だった。それだけ拘っていた密が、もしかしたら売春をやめたがっているのかも知れない。それは驚くべき展開だった。
これは祐介にとっては朗報かも知れないと歩は思う。思う反面でなぜか腹立たしくもあった。
ビジネスとして成り立たせておきながら、祐介という一心に自分を想ってくれる相手を見つけた途端、もう売春はしたくないと言う。それは今まで売春を金儲けではなく、自身の慰みとして行っていたと言っているようなもので、そういう自己中心的な密の態度が歩には腹立たしくて仕方なかった。
「オレはさ、そのリオってヤツがどんなイヤらしい男かって知ってたんだけど、でもつい言っちゃったんだ。密に好きなヤツでもできたかもなって」
歩は告白をしながら2人の顔を見ることができなかった。ただ、手の中のカップを見つめて淡々と話す。
「言ったらそいつしつこく聞いてきて、もちろんそれ以上は何も言わなかったけどさ、たぶんそれがリオに伝わったんだと思う」
そこで一度言葉が途切れる。
だが、晃も祐介も何も言わないので、さらに歩は続けた。
「夏休みが終わってすぐにさ、祐介、顔腫らしてたじゃん。あれ、本当はリオの仲間にやられたんじゃないか?」
「……」
「リオはやたら密に執着してたから、密が売春やめてもらっちゃ困るってんで、密が好きになったかも知れない相手を探して、それでお前に行き当たったんだと思う」
「祐介……」
「本当は襲われたとき、何か言われたんだろ? あいつに」
歩と晃の視線が祐介に注がれるも、祐介は口を閉ざしたまま何も言おうとしない。
それでも、祐介の表情から歩の問いかけはほぼ肯定されたも同然に思われた。
「ごめん」
静かに、そう言って歩は頭を下げた。
「オレのせいだよ、祐介が襲われたのは。オレが余計なことを言ったから」
「歩……」
「たぶん、密も危険なことになってんじゃないかなって思う。全部オレのせいだ、ごめん」
室内がシンと静まり返った。
この沈黙は歩の謝罪を受け入れ難いと思う2人の心境が表れてるようで、そう感じとった歩は潔くこの場は去ろうと思って頭を上げた。
ところが頭を上げ祐介を見たとき、歩は驚きのあまりどう反応していいのか戸惑ってしまった。
「祐介、泣いてるの?」
「え?」
どうやら晃も視線を落としていたのか、歩の言葉に驚いた声を上げる。
そう、歩の指摘したように祐介は泣いていた。目と目元と鼻を赤くして、震える口元を強く引き絞って、辛うじて涙は流れていなかったが明らかに泣いていた。
戸惑ったのは晃も同じだったようで、困った表情で祐介を眺めながら、
「なんで泣いてんだ? 悲しいのか? 怒ってんのか? もしかして感動か?」
と矢継ぎ早に訊ねていく。
落ち着くまで待った方がいいんじゃないかと歩が思っていると、晃の最後の言葉に反応して祐介が頷くのを見てさらに驚愕した。
「えっ!? 感動!?」
思わず歩と晃は顔を見合わせた。
今の話のどこに感動する要素があったのかと、不思議でならなかったが祐介の視点から考えれば当然なのかも知れない。
「密が、売春を考えなおしてるって聞いて、おれ、嬉しいんだ」
そう声を震わせて言う祐介に、歩はもうなんて言葉をかければいいのかわからなくなった。
(いくらなんでも純粋すぎるんじゃねぇの?)
それでも、本人が感動しているというなら他人が口を挟む問題でもないんだろうと、歩も晃も「そうか」と頷くだけでそれ以上は何も言わなかった。
とにかく、晃にも祐介にも歩は責められることなく、謝罪は受け入れられることとなった。
そして、祐介からは密への手紙を歩は預かった。祐介が密と接触してしまうと、またリオを刺激してしまうだろうし、自分はともかく密が危険な目に遭うかも知れないというので、歩から手紙を渡してくれないかと頼まれたのだ。
また帰り際、近くの駅まで送ると言ってついてきた晃に、密と会うことのできる店の場所を教えてくれと頼まれる。思わず歩が不審な顔をすると、それを牽制するように晃が首を振って言った。
「大丈夫だ。無茶はしない。でも、腹が立って仕方ねぇんだ。直接、密って奴と話がしたい」
晃も歩と同じ、いやそれとはまた別の思いで密に苛立ちを覚えているのだろう。
心配する気持ちは拭えなかったが歩はひとつ頷くと店の住所を伝えた。
「でも、リオってヤツには気をつけろよ。あれは粘着質だからな」
「わかった」
祐介からの手紙を預かった日から、歩は毎晩バーに通った。
密に対して思うところはあるが、祐介に痛い思いをさせてしまった負い目もあるので、義理は通そうと1日でも早く密に手紙を渡そうと思ったのだ。
リオに祐介のことがバレてから、また売春を始めたのだろうと思うし、それならバーにも顔を出す頻度は多くなってるんだろうと歩は思っていたのだが、一週間通っても密に会うことが出来なかった。
さすがに変だなと思い店主にそれとなく訊ねると、密の店に来る頻度は依然として少なく、来るとしてもリオと一緒に現れるのだと言う。
それはやっかいだなと内心で舌打ちし、それでも手紙を渡さなければならないと、やはり歩には密が現れるまで待つしか方法がなかった。
ただ、二週目に入ってさすがにこれは避けられてるのかと訝る歩だったが、二週目も終わるという頃になってやっと会うことが出来た。
今日も会えないのだろうと、歩はいい加減うんざりして足取りも重くなっていたせいか、いつもより遅く店に入るとカウンターではなくテーブルに、複数の男に囲まれて密がいた。
男らの中にリオの姿もあり、楽しそうでない密の表情にそれがどういう付き合いか歩には分かる気がした。
店の入口から一直線にテーブルへ向かうと、歩の存在に気付いた密が少し驚いた表情をし、続いて他の男らもチラチラと歩に視線を投げてくる。
歩はテーブルの傍まで行くと、密だけを見て「話がある」と顎で外を指した。
だが、それに答えたのはリオだった。
「話ならここでするといい。歩も座れよ」
些か酒に酔っているのか気だるそうにするリオを、刺激しない程度に歩は拒否した。
「今日は遠慮しときます。2人だけで話したいことがあるんです。それくらい許してくれますよね?」
ある程度下手に出ておいて、否とは言わせないような歩の物言いに、リオは一瞬苦々しい表情を見せたものの、好きにしろと言うように手を振ってみせた。
リオの了解は得てあとは密の返事待ちだが、密も男らに囲まれることに飽き飽きしていたのか、再度歩が声をかける前に立ち上がって先に歩きはじめた。それを追って歩も店を出たが、出る間際にテーブルの方へ視線をやると、歩の予想していた通りリオの絡むような視線が追って来ていたのだった。
これは早く話を終わらせようと、建物の間の狭い路地に密を連れ込んで、まず初めに二週間も胸に暖めておいた手紙を差し出した。
すると、差し出された手紙を見て密が不審な表情をするので、「祐介から」という一言を付け加える。歩の一言に目を見開く密だが、なぜだか手紙を受け取ろうとしない。
「早くしなよ。見つかったら取り上げられちまうよ。したら、また祐介に迷惑かかんでしょーが」
「……なら、そんなもん持って来なきゃいいじゃん」
いつものはっきりした言動とは違う、ぼそぼそと呟く密の頭に、歩は持っていた手紙で軽く叩いた。
「なに、すんですか」
「バカ。お前ってホントバカ」
「……」
「そんなバカなお前を、こいつは純粋に好だと思ってて、心底心配して、こんな古風な手紙なんか用意して――こいつも相当バカだけど。お前と直接会ったらお前に迷惑かけるんじゃないかって我慢して、それで手紙だよ? バカじゃん!」
「……歩さん、支離滅裂です」
「うるさい。とにかく、お前らバカ同士お似合いだって言いたいんだよ。早く受け取れ!」
再び手紙を密の前に突き出すと、密は渋々といった様子で受け取った。そして、暗がりの中で手紙をしげしげと眺める。
「ちゃんと隠しときなよ」
「うん……」
歩の注意に素直に頷く密だが、いつもの奔放な明るさがないのが歩は気になった。やはりここ3ヶ月ほどで、あのリオという男にいいように扱われてしまっているのだろうか。酷い扱いをされているんじゃないだろうか。
そんな風に歩は密を心配し、心配している自分に気づいて驚く。
あんなに嫌っておいて、腹を立てていたはずなのに、意気消沈している密を見るとあまり責める気になれない。
冷たい風が狭い路地を吹きぬけて、次第に歯が鳴るほど寒さを覚えながら、それでも互いに動こうとせず沈黙を続けるのは、やはり互いに何か言いたいことがあるからかも知れない。
それで先に口を開いたのは歩だった。
「あのさ……あー、うー、そのぉ、さ」
「うん……?」
「ごめん」
「え?」
「祐介があんなことになったのは、確かにオレのせいだよ。それに、密だって辛いことになってんじゃない? だから、ごめん」
歩が軽く頭を下げると密が息を呑んで、そして首を振った。
「違うよ、歩さんのせいじゃない。僕が――」
だが、その先の言葉は続けられないでいる。
構わず歩は話を続けた。
「オレさ、密を非難する資格なかったんだよね。妻子持ちの大学教授と関係持ちながら、同級のヤツにも手ぇ出したりしてさ。その同級に教授のこと言ったらドン引きされた。んで、3ヶ月くらい前に教授の奥さんにバレて『別れろ』って引っ叩かれた」
話しながら歩は自嘲する。
「ダチも一人なくして、教授に別れるって言ったら『単位落とすぞ』って脅されたりして――自業自得なんだけど自分が嫌になったんだよね」
「歩さん……」
「密も、もしかしてそうなんじゃないの?」
歩が地面に落としていた視線を上げると、今度は密の視線が地面に落ちていく。
返事はないがきっと同じ気持ちなのだと歩には思えた。
「報復が怖いんならさ、そん時はオレが協力するし。お詫びにね」
「……でも」
「オレの兄貴の同僚とか、その同僚の弟や、弟の彼氏さんが強くて頼りになる人なんだよ。だから、あんな金だけのヤツに怯えんな」
「……歩さん、僕――」
「おい!」
視線を上げた密が何かを言いかけたとき、それを遮るように男の声が割って入った。
振り返ると路地の入口に一人の男の影が見えた。
「いつまで話し込んでんだ!」
男はリオではなかったが、リオの取り巻きの一人には違いなかった。いつまでも帰って来ない密を呼び戻して来いと言われたのだろう。
密は慌てて手紙を懐に隠し、歩はため息をついて密に向き直った。
「とにかく、よく考えて。どうするかは密次第だよ」
歩の言葉に密が小さく頷き、再び怒鳴る男のもとへ去って行った。その小さくなるうしろ姿を見送って、歩は密が救われてくれればいいのにと、気がつくとそう祈っていた。
そして、あれほど密を嫌っていたのは、もしかしたらただの同族嫌悪だったのかも知れないなと思うのだった。
教授との関係も結局は単位のためでもあったし、自身の慰みとして行っていたことでもあった。そこに英斗という自分を好いてくれる存在を見つけて、歩はどこか教授との関係が虚しくなったような気がした。
密を罵りながら、自分も似たようなことをしてきたのだ。
歩は教授との関係を終わらせたが、同時に英斗も失ってしまった。だが、密はまだ間に合う。諦めないで欲しいと思う。
(オレも、英斗にラブレターでも送ろうかな)
寒風吹きすさぶ路地を行きながら、歩はそう嘯くと笑った。