夜、雨が降った。
その雨をはじきながら、男の拳が自分に向かって来るのを彼は見た。
男の拳から撥ねた雨の雫が、ビルの看板の明かりに照らされて、小さな流れ星のように軌道を作って落ちていく。その様子がはっきりと見える。
だが、見えたと思ったのは錯覚だったのかも知れない。
次の瞬間には男の拳に殴り飛ばされた彼が、雨に濡れた地面に倒れ込んでいた。
“高級”とまでは行かないにしても、それなりに値のはるブランドもののパンツとシャツが、泥をしみこませて汚れていく。
(飲みすぎだな)
重い上半身を起こし、追い討ちをかけようと近づいてくる男たちを視界の端に認めながら、彼は――恭輔は妙に冷静にそう判断した。
ただ、冷静に判断したからと言って、その後、彼の身に降りかかる出来事に何ら影響を及ぼすことはなかったのだが。
恭輔が喧嘩で負けるのは珍しい――というよりは、無謀な喧嘩を売ったり買ったりすることが珍しい。
「負ける勝負はしない」と言えば聴こえは悪いが、言い方を変えれば世渡りが上手いということだろう。
ただそれは、友人や仲間のことが絡んでいない限りのことだが……。
今回の喧嘩は恭輔自身の鬱憤晴らしのつもりだった。
数日前に出席した高校の同窓会で、恭輔にとって自暴自棄になるような出来事があった。
その日からずっと同窓会でのことが頭から離れず、悩み、後悔し、更にはそんな風に考え込んでいる自分の女々しさに嫌気がさし、そして毎晩酒に明け暮れた。
自棄酒は今日も変わらずで、そんな飲み方だからか悪酔いするのは当然だった。
そうして通りすがりの集団の一人と肩がぶつかって、相手が「酔っ払いが」と悪態をついたので、恭輔も負けじと何か喚いて言い返した。
今となっては何を言ったのかは恭輔自身忘れてしまったが、相手を一発で怒らせるようなことを言ったのは間違いないだろう。
あっという間に剣呑な雰囲気になり、定石どおり人通りの少ない裏路地へ連れて行かれ、ふらふらな体で善戦したのは最初の2、3発で、あとは袋叩きというにピッタリの有様だった。
(情けねぇ……)
雨が降り続くなか、いつまでも地面に寝転がっていられず、体中に痛みを感じながらもなんとか半身を起こして、恭輔は壁に背を持たせると大きくため息をついた。
こんな時こそ精神安定剤を――つまり煙草を吸いたいと思うのだが、こんな雨の中じゃ無理というものだった。
そもそもポケットに入れておいた煙草は、滲みこんだ雨に濡れて駄目になっているはず。
予備の煙草ももうない。帰りにでも買いたいが確かさっきの店で、財布の中身をほとんど使い果たした。今や煙草を買う金もない。
(情けねぇよなぁ……)
恭輔はもう一度ため息をつくと、雨の降る夜空を見上げた。
これで月が、せめて星々が見えていたのなら、今の恭輔の気持ちも少しは和らいだかも知れないが、変わらず空は雨ばかり降らせて、恭輔の気持ちを更に物憂げなものにする。
(あ〜、パンツの中までびしょびしょだな)
「あの、どうされたんですか?」
雨はそれほど激しくはなかった。
降り始めてからずっとシトシトといった感じで降り続いていた。
だから、少し離れた所からかけられた声が、雨音で聴こえないことは無かったし、透き通るような明朗な青年の声はちゃんと恭輔に聴こえていた。
ただ、殴られ、体が熱を持ってだるいこともあり、すぐにはそちらへ振り向くことができなかった。
その代わりに――というのもおかしいが、恭輔は心中でつぶやいた。
(飲んだくれて座り込んでいるのか、体の不調で座り込んでいるのか、分からないにしても律儀に声をかけてくる奴も珍しいな)
居酒屋の並ぶ路地に近いことを考えれば、ただの酔っ払いだろうと放っておかれるか、あるいは警察に通報されるか、普通ならそのどちらかだろうと思う――少なくとも自分ならそうする、と恭輔は思った。
(ま、相手が自分好みだったら確実に声かけるけどな)
しかし、声をかけてきた相手は同性で、恭輔と同じ考えで声をかけてきたのではなさそうだった。
珍しくも、親切なただの青年のようだ。
「あの、大丈夫ですか?」
おずおずといった感じで恭輔に近づき、先ほどよりも幾分心配そうに聞いてくる青年に、恭輔は親切な青年を煩わせては悪いなと思い、なんとか顔だけを上げると「大丈夫だから」と無理に笑って見せた。
だがそれが良くなかった。
笑みを作った途端、顔の殴られた箇所が痛み、思わず「ぃつ」と声を洩らして反射的に背を丸めたが、体を動かしたことで更に体中に痛みが走り、ついには声にならない悲鳴をあげることになった。
(おれ、んなにヤられてたのか……)
再び地面に突っ伏しながら、些か見当違いなことを恭輔が思ったのは、男たちに袋叩きにあったときの記憶が、酔いのためにほとんど無かったからだった。
涼しげなドアベルの音をさせながらドアが開かれて、恭輔は青年に支えられながら中へ誘われた。
初め暗くて室内はよく見えなかったが、窓の外の看板の明かりで仄かに照らされて、次第に中の様子が見て取れた。
西洋風のオシャレなテーブルとイスが並び、店の奥にはカウンターが見える。一般的な喫茶店の風景だったが、明るいところで見ればどんな雰囲気が感じられるのだろうか。
今の恭輔には非常に興味のあるところだった。
なんと言っても、助け起こされた時に見た青年の容姿が自分好みであったから、ただそれだけなのだが。
きっと手当てを受けるならここでだろう、その為に店内のライトが点けられるはず――そう予想していた恭輔だったが、その予想は見事に外れた。
青年は一所懸命に恭輔を支えながら、店内を横切りカウンターの奥へ。そして更に奥の階段へ向かおうとする。
慌てたのは恭輔だった。
「ちょ、ちょっと待った」
階段の先にあるのは青年の住居スペースだろう。
1階に喫茶店、2階に店主の住居になっていることはよくあることだ。
(っつーか、見ず知らずの奴を――しかも飲んだくれて喧嘩売って逆に熨されるような奴を、普通自宅に入れるか?)
だが、青年は恭輔がなぜ立ち止まるのか分からないというようにキョトンとしている。
支えられているためお互いの顔が近くて、恭輔はあえて顔を前に向けたまま言った。
「あのさ、今日初めて会った奴を自宅に上がらせるのって、無用心すぎるとか思わないかね」
しかし青年はあっさりと返す。
「だって、あなたが救急車は嫌だって言うから」
思わず返す言葉を見失う恭輔だったが、しかしだからと言って簡単に引き下がるわけにもいかない。
「確かに救急車を断ったのはおれだが、放っておいてくれとも言ったろ?」
「だけど、こんな状態のあなたを放っておけませんよ、誰だって。それとも迷惑でした? それならそうと――」
「いや、誰も迷惑だなんて言ってねぇって……別に店の中でもいいとは思わないか?」
「そうは言っても、あなたびしょびしょじゃないですか。汚されたくありませんから」
放ってはおけないと言いながらも、言うことは言うんだなと今度こそ言葉を失う恭輔だった。
何も言わない恭輔の態度を納得したと受け取ったのか、青年も何も言わずにまた恭輔を支えつつ階段を上がろうとする。
恭輔も支えられつつ階段を上がりながら、思いついた言葉を――最後の足掻きをしてみる。
「……自宅なら汚していいんかよ」
しかし答えはやはりあっさりと、そして簡潔だった。
「階段上がってすぐにバスルームがあるんです」
「――そっか……」
本当に今度こそ頷く以外に返す言葉も無く、恭輔は青年のするままに身を任せたのだった。
やっとの思いでバスルームへ到着すると、そこで初めて青年は戸惑った様子を見せた。
酷く濡れて、汚れている恭輔の服を、脱がせてあげるべきなのかどうなのか、そのあたりを迷っているようだった。
しかし、今度はそんな青年の戸惑いを恭輔が気づけないでいた。酔いと痛みと熱で朦朧としているためだろう。
「あの、シャワー使います、よね。その、手伝った方が……?」
おずおずと尋ねられて、初めて恭輔は青年の様子に気づいた。
(普通、そうだよなぁ……)
特に脱がせてもらおうと思っていたわけではなかったが、青年の反応を見て自分の周りにいる奴等とは違うな、と恭輔は思った――というよりは、青年の戸惑っていることの方が、普通なのだと改めて認識したと言った方が正しいか。
「ああ、大丈夫大丈夫。それくらいは、自分で」
「そうですか。じゃあ、着替えとかを用意してます。何かあったら呼んで下さい」
青年はそういうとバスルームから出て、戸を閉めて行ってしまった。
(まぁ、なんつーか……あっさりしてるよな)
心中で一人ごちながら、体が痛むためゆっくりと服を脱ぐ恭輔。
服脱ぐのってこんなに辛いもんだったか、と思うほど時間がかかりつつもなんとか脱ぎ終えて、やっと脱衣所から浴室へ。
流石にタオルを借りて体を洗うのは控えたが、それでもシャワーで体を流せるだけでも気持ちいいと、恭輔は青年の好意を有難く思った。
ただ――
(いや、でもやっぱ親切過ぎるよな。それとも、お人好し過ぎると言った方がいいのか?)
青年に親切にしてもらって有難いとは思うものの、これで自分が悪い奴だったらどうするんだと、今日会ったばかりの相手がどうも心配になってくる恭輔。
(それとも、実はああ見えて空手か柔道の有段者とかか? 自分の身を守る自信はある、とか……まさかな)
青年の肩に腕を回し、そうして体重を預けながら運ばれていたとき、自分の体を持ち上げる力も些か弱く、幾分頼りなげに恭輔には感じた。
体に必要以上に筋肉がついているとも感じられなかったし。
(天然、じゃないしな。ま、それは別にいい。少し休ませてもらって帰ろう)
体を支えるため、壁に手をついた状態でシャワーを浴びていると、脱衣所の戸が開く音が聴こえ、振り返ると磨りガラスの向こう、手に何か持った青年が入ってきたところだった。
「あの、着替えここに置いておくので使ってください」
「ああ、悪いな。ありがとう」
恭輔の返事を聞いて青年が脱衣所を出て行く。
服を借りるのだから文句は言えないのだが、ちゃんと着れるのだろうなと恭輔は疑いつつシャワーを止めると浴室を出た。
そして用意された着替えを見て、思わずしばらくの間固まる。
「これ……着るのかぁ」
原色使いのアロハシャツにカーキのハーフパンツ。
用意されていたものはどう考えても自分は着なさそうなものだった。
(っていうか、遊ばれてんのか? 俺は)
「すみません、服。それしかなくて。ズボンは僕のだと短いかと思って、それなら大丈夫かなって思ったんで」
ズボンは分かるが、じゃあなんでアロハなんだ、と恭輔は思ったが口には出さず、引きつった笑みを浮かべると「いや、借りれるだけ助かるよ」と言った。
バスルームを出て廊下を右へ行くと、すぐにダイニングキッチンがあり、左手にはリビングがある。その間、仕切りはなかったが、ダイニングキッチンとリビングの間に、いつでも仕切れるアコーディオンドアがあった。
キッチンを使わない時などは、きっとそのドアで間仕切りをし、リビングでくつろいだりとかするのだろう。
だが今はそれも開け放しており、恭輔はそのダイニングのテーブルに着いていた。
そこで恭輔は軽く手当てを受ける。
腹や胸、背中などの打身にシップを貼ったり、擦り傷や切り傷を消毒したり。
擦り傷などはともかく、打身で熱くなった部分に冷感シップがあてられて、恭輔は心持ち痛みが引いたような気がした。
「明日にはちゃんと病院に行って下さいね。大丈夫だって思っても大丈夫じゃなかったりするんですから」
「ああ、うん。行くよ」
自分で脚の怪我を手当てしながら、青年の方も見ずに気のない返事をする恭輔。
しかし、返事をしたあと視線を感じて青年を見れば、ジトっと不審そうに恭輔を見つめていて、顔にこそ出さないが恭輔は内心で焦った。
今日はじめて会った相手に、あまりお節介なことを言われたくはないと思っていた恭輔だったのだが、先ほどの返事の様子で相手にそれが伝わったのだろうと思って――いや、それ以上になぜか、青年を怒らせてしまうのはマズイと恭輔は咄嗟に考えていた。
そして、そう考えた自分に驚く。
取り繕おうと恭輔が何か言うより早く、不審そうだった青年の表情がふっと和らいだ。困ったような笑み――苦笑したのだ。
「なんとなく、分かってはいたけど」
「え?」
「人の言うこと、あんまり聞きそうにないなって。第一印象が」
「……」
今日会ったばかりの相手に、本当にはっきりと物を言う奴だなと、思うよりも青年が(苦笑ではあるが)笑んだことに恭輔は意識を奪われた。
線が細くて整っている容姿は、もう少しどこかが変われば中性的、あるいは女性的に見えるくらい柔らかい印象がある。
そんな青年の笑みに恭輔の心臓が鳴った。
容姿が自分好みだったから――それもあるが、それ以外の何か別の理由があるような気もした。
「でも本当に病院、出来る限り行って下さいね。手遅れでどうにかなってしまったら、悲しむのは家族や友人なんですから」
「ああ……分かった。朝一で行くよ」
恭輔が真剣な口調で返すと、それに満足したのか青年は今度はニッコリと微笑んだ。
自分の返事に青年が喜んでくれたことに、なぜか恭輔も嬉しくなって気がつくと微笑んでいた。
「あ、そういえば自己紹介がまだでしたね」
キッチンに立って恭輔への飲み物を用意しながら青年が言った。
体の痛みが少し落ち着いてくると――普通そんなことは無いのだろうが――今度は酔いの方がぶり返してきた気がした。
そんな恭輔の様子にいち早く気づいて、青年が酔い覚ましに飲み物を作りましょうと言ってくれたのだった。
キッチンに立って何かをしている仕草が、なんだかさまにになってるなと恭輔は思ったが、よく考えれば彼は喫茶店の店主なのだ。
その彼が振り返って言った。
「僕は森修哉って言います」
森修哉。
青年の名前を心中で繰り返すと、恭輔は頭に刻み込んだ。
そして自分も名乗る。
「おれは高峰恭輔だ」
「高峰さんですね。なんだか思った通りの名前だな」
「なんだ? 今度は高飛車って言いたいのか?」
「違いますよ。峰って山の小高い所とか頂上とか、たしかそういう意味ですよね。そういう場所、とっても似合いそうだから」
「……それは孤高って言いたいのか?」
恭輔は思わず、山の頂上に自分がひとりで立っているところを想像した。
孤高とはまさに、そういうイメージだったからだ。
だが青年――修哉はただクスクスと笑って何も言わない。
そんな、楽しそうにしている修哉の背中を見ながら、恭輔は修哉の初めの頃の印象と大分違うなと、少し戸惑う。
しかし、そっけなくも普通にしているようにみえて、もしかしたら修哉も緊張なりしていたのかも知れない。
それでも自分を助けてくれたのは、やはりお人好しだからか、あるいは職業柄か。
接客業をしているのだから、こんな風に気さくに話している今の方が本当の彼なのだろう。
しばらくして飲み物が運ばれてきた。
「これは?」
差し出されたグラスを手に持ち、顔に近づけて匂いをかぎながら聞く恭輔。
グラスからは柑橘系の匂いが微かにする。
「グレープフルーツジュースです。果汁ほぼ100%ですよ。隠し味も入れてます」
「ふむ」
フルーツジュースなんてあまり飲まないなと、思いながら一気に二口喉へ流し込む。
途端にグレープの果汁が口の中に広がって、恭輔は思わぬ刺激を受けた。
眉をしかめ、思わず唇をキュッと結ぶ。
「すっぱ」
「酔い覚めにはフルーツジュースがいいらしいですよ。特にグレープフルーツがいいんだそうです。あとは柿とか梅干とか」
「そ、そうか」
そういうことに詳しいのも、やはり喫茶店をやっているからだろうか。訊ねてみると「そうですね」という返事。
「もともと料理とか好きだから」
男にしては珍しい――とは偏見だろうか。
今の時代ではほとんどの職で、男女の垣根は無くなりつつあるということだし。
「料理好きか。コックとかシェフとかは?」
「それも子供の頃は考えていたんですけど、今では人と接している方が好きで……」
「ああ、だから喫茶店」
「ええ、いつもお客様と接することができるし。僕は人の顔を、特に笑顔を見るのが好きなんです。あとは、喫茶店なら一人でも何とかできるかなって」
「なるほど」
人と接することが好きというなら、接客業は天職だろう。
「しかし、あんた歳は? 結構若いだろう」
ハリのある声も肌も、体つきも動作も、彼が20代前半だと指している。
ただ、それにしてはどこか落ち着きすぎているきらいがあるが。
「23です」
「23?!」
恭輔は思わず声を上げて驚く。
年齢が見た目と合わないということではなく、その若さで店を持つということに驚いたのだ。
恭輔の驚きの理由に気づいたのか、修哉が続ける。
「僕、中学の頃からずっとバイトしてたんですよ。子供の頃はシェフになるのが夢でしたから、ゆくゆくは海外へと思っていたんです。その為にはお金が無いと、と思ってバイトをしてたんですよ」
「へぇ〜」
「ただ高校へ上がって夢が変わって……まぁ店を出すってことでお金がかかるのは変わらなかったから、バイトは続けてました。高校を卒業したら喫茶店で働いて、つい最近ですね、そこを辞めて独立して自分のお店を開いたのは」
見かけによらず行動派なんだな、と恭輔は思ったが口には出さない。
「じゃあ、今が一番楽しいんじゃないか?」
「そうですね、楽しいです」
恭輔の言葉に頷いて、満面の笑みを浮かべる修哉。
その笑顔につられて恭輔もまた微笑んだ。
グレープフルーツジュースは、今やコーヒーに変わっていた。
2杯目に突入したのだ。
酔いも幾分マシになったら、今度はコーヒーが飲みたくなった、恭輔のリクエストだった。
喫茶店をやっているだけあって、自宅でのコーヒーもさぞかし本格的に違いない。そう期待を寄せながら――。
出てきたのは期待通りの、センスの漂うオシャレなカップに良い香りのするコーヒーだった。
「オリジナルブレンドですよ」
そう言って微笑む様子は、誇らしげでもあり自信に満ちているようだった。
修哉の笑顔に促されるように、湯気の昇るカップを口元へ持って行き一口啜る。
彼の見せた自信の通り味も美味しい。
恭輔自身がいつも作るものと、比べるのもおこがましいと思うくらいの。
「美味しいよ」
心を込めて言った。
ただ、心を込めようとしたら修哉の顔が見れなかった。
そんな恭輔の気持ちに気づいたのかは分からないが、満面の笑みを浮かべて修哉が「ありがとう」と返す。
嬉しそうに笑う修哉を見ながら、不思議な奴だと恭輔は思う。思いながら心のどこかで、少し戸惑っている自分がいた。
何に戸惑うかのと言えば、彼の笑顔に自分の荒んだ心が癒されているような気がするからだった。
それは彼が恭輔好みの容姿だからか、お人好し過ぎるからか。
だが、そもそも人と接する事が好きというだけあって、警戒心を抱かせず、逆に和ませるような雰囲気を纏うような技術なり経験なり培っているからなのかも知れない。
例えそうだとしても恭輔は、彼と一緒にいることで救われている部分が、少なからずあるように感じるのだった。
その修哉も自分で入れたコーヒーを啜り――ふと、何かを思い出したというように顔を上げて恭輔に問いかけてきた。
「そういえば、どうしてあんな所で倒れていたんですか?」
「……」
聞きたいことは迷わず聞き、言葉は決して選ばない。
これも好感の持てるところだ――とは、好意的に過ぎるだろうか?
忘れた頃に聞いてきやがってと、恭輔は内心で舌打ちをする。
どう答えるべきかと少しの間恭輔が悩んでいると、更に修哉が続けた。
「まぁ、喧嘩だっていうのは分かりますが、あんまりそういう事しなさそうに見えるんで、ちょっと不思議だなって思うんですけど」
この短時間でよく恭輔という人間を見抜いている。
恭輔は観念して話した。
「いや、おっしゃる通り喧嘩だよ。おれも酔っててね、野郎の集団にぶつかって喧嘩吹っかけてこの有様さ。情けないことだがな」
「そんなにまで酔うなんて、何かあったんですか?」
問われて恭輔は、そのあった「何か」を思い出した。
高校の同窓会でかつての級友と飲み交わし、談笑し、楽しく過ごして――それで終わるはずだった。
級友の中でも、特に恭輔にとって会いたい奴がいた。その人物と会えて、話が出来て、それまでは良かったのだが、話を聞いている内に段々と嫌になってきたのだ、自分が。
「あの……」
「高校の同窓会に行って来たんだ、数日前」
「――ええ」
「当時、好きだった奴がいて、でも結局告白せずに卒業してそれっきりで――。同窓会で久しぶりに会ったのが、卒業式以来の再会だった」
9年ぶりの再会だった。
大人になった相手は見違えるようで、でもやはりあの頃の面影はあった。
高校の頃のと今のその相手を思い出しながら、恭輔は続ける。
「そいつはとっくの昔に結婚してて、今では子供もいて幸せそうだった。その幸せそうなあいつがさ、高校の時おれに憧れてたって言うんだ――」
『憧れていたんだよ』。
そう言われたときの焦燥感を、今でも恭輔は胸に抱えている。
驚きと喜びと、そして「今更」という思いと、後悔と――そして様々に考えてしまう自分の女々しさを知って落ち込む。
「そいつはもう過去形で話しているのに、おれは『なんで今更』とか思うんだ。笑い返して『おれも好きだった』と言えなかった。まだあいつを想ってる自分がいて、憧れていたって言われて、今からでも何とかならないのかって考えてる自分がいて……そんな自分がすげぇ嫌になって――」
(ああ、本当に、情けないよな)
同窓会が終わってからの数日、恭輔の頭の中ではそんな思いがぐるぐる回って、堂々巡りを繰り返していた。
この思考をどうにか出来ないか、恭輔は話し終えるとカップに残ったコーヒーを、グッと一気に飲み干した。
口に含んでから「一気に飲んでしまっては勿体無いな」と思ったが、含んだコーヒーは少し温(ぬる)くなっていた。
「高峰さんは、その人が今幸せだっていうことを、喜んであげられなかったことが悔しかったんじゃないんですか?」
こんな一人語りに返答などないと思っていた恭輔は、はっきりとした修哉の言葉に驚いた。
また、言われたことがすんなりと自分の中に入ってきて、今まで巡っていた思考がピタリとそこで止まったことに、更に驚く。
そんな恭輔を真剣に見つめながら、修哉が続ける。
「後悔なんて、誰もが思うことですし、好きという気持ちはそうそう諦められるものじゃないと僕は思いますよ」
「――ああ」
「仕方ないんじゃないんですか、『好きだった』って言えなかったとしても。また言えるときに言えばいいんです。気持ちに整理がついたときにでも。また、伝えたことで始まる何かがあるかも知れませんよ?」
そう言って微笑む修哉を見ていると、思い返したことで甦った焦燥感が、嘘のように無くなっていった。
こうもあっさりと気持ちが落ち着くなんて信じられない気持ちで、恭輔はこの世の終わりみたいに悩んでいた今までの自分が馬鹿みたいに思えて、気がついたら恭輔も微笑んでいた。
「ああ、そうだな」
恭輔の笑顔を見て、修哉の笑みがいっそう深くなった。
(こいつは、どうしてこんな表情が出来るんだろうな)
今日会ったばかりの、赤の他人のことなのに、こんなに嬉しそうに微笑む人を恭輔は知らない。
その修哉の表情が笑顔から、今度は少しおどけた表情になる。
「まぁ、僕は略奪愛もありだとは思いますけどね」
途端に恭輔の笑みが固まる。
(こいつは――どうして会ったばかりの奴にそんなことが言えるのかな?)
悩んでいる相手にも包み隠さず思ったことは言う。
素直で建前の無い信頼に足る奴――とは、はたして言っていいものかどうか。
(そうか、こういうところはまだ“若さ”なのかも知れないな)
心中で納得しながら、とりあえず引きつったまま恭輔は返す。
「ああ、まぁ、どっちにしろ頑張るさ」
空は白み始めているようだった。
カーテンの向こうは薄っすらと明るく、室内はやや薄暗い。
窓の外では雀が鳴いていて、まるで朝が来たと知らせているようだった。
その声はどこか目覚まし時計のアラームに似ていて、恭輔は思わず目覚まし時計を探して、ぼやける視界で室内を見回した。
オフホワイトの壁と天上に、フローリングの床。青みのある白っぽい生地に、少し渋めの水色でデザイン模様がプリントされているカーテン。
天上にはオシャレな洋風のライトが吊り下がっていて、この家を建てた人物か、あるいは住人のものか、センスの良さが伺えられる。
(この家の、住人……?)
明らかにここは自分の部屋ではない、と気づくのに恭輔はゆうに1分を要した。
次いで昨晩、複数人の男たちに袋叩きに遭ったことも思い出す。慌てて起き上がろうとして、全身が痛んだからだ。
そして、この家の住人――修哉と話し込んだこと、勧められるままソファに横になり、そのまま寝入ってしまったことも思い出す。
痛みに声を洩らしながらも、なんとか上半身を起こしてダイニングキッチンの方を見れば、アコーディオンドアで仕切られている。
その向こうからは修哉が料理をしているのだろう音が聴こえる。
(初対面のやつに、ちょい迷惑かけすぎだな)
いくら人と接するのが好きと言って、長居しすぎるのも迷惑だろう。
だがどうも恭輔にとって、ここは居心地のよい場所になっていた。
そんな自分の気持ちに恭輔は気付きつつも、あえてそれ以上は考えないようにして……。
ゆっくりと体を動かし座った姿勢のまま床に両脚を着く。そうしてまたゆっくりと体重を足にかけて、その場に立ち上がってみる。
シップの効果か、昨晩よりは痛みが和らいでいる。歩いて表通りへ出て、タクシーを拾うことくらいは出来そうだ。
(その前に、この格好はどうにかしたいがな)
内心で呟きながら、自分の姿を見下ろしてみる。
派手なアロハとハーフパンツは、あまりに自分の趣味と違いすぎて、恭輔はそれだけで少し憂鬱になった。
料理と部屋のセンスはともかく、服のセンスが少し修哉は悪いのかも知れない。
それはともかくとして、修哉にお詫びとお礼を言って帰ることを伝えなければと、ダイニングキッチンへ向かった。
アコーディオンドアを開けると、目の前のキッチンでは予想通り修哉が料理を作っていた。
ドアの開く音に気付いたのか、料理の手を止めて修哉が振り返り、恭輔を見ると微笑んだ。
「おはようございます。もう起きたんですか? それとも、起こしてしまいました?」
「ああ、おはよう。……いや、その、寝てしまって、悪かったな」
「気にしないで下さい。それより、ご飯食べられますか?」
顔を戻し料理を再開しつつ修哉が尋ねる。見れば2人分用意されているようだ。修哉の心遣いを無下にすることは出来ない。恭輔は頷く。
「いただくよ。だが店の方は大丈夫なのか?」
「ええ、うちは10時開店ですから」
言われて壁の時計を見れば、時刻はまだ6時を回ったところだった。
そんなに早い時刻だったのかと恭輔は驚いたが、窓の外の薄明かりは日の長い夏の名残だろうか。
とりあえずテーブルに着こうとした恭輔は、イスに掛けられてある服に気付いた。
「これは――」
見間違いではない、恭輔の服だった。
恭輔の呟きに気付いて修哉が言った。
「あ、それ、乾かしておきましたよ」
「……ありがとう」
いくら夏の名残があるとはいえ、一晩で服が乾くとは思えない。
(乾燥機か? 金持ってんだな)
妙なところに感心しつつ服を着替えると、昨晩と同じ格好とは言え着慣れないアロハを着るよりも、断然落ち着くというものだった。
貸してくれた修哉には悪いが。
「やっぱり、そっちの方が似合いますね」
着替えた恭輔を見て修哉が言う。
「そうか?」と相槌を打ちつつも、内心では「当然」と思いながらテーブルにつく。
テーブルにはすでに朝食が並べられており、些か胃がもたれ気味だった恭輔だが、腹が減っているのも手伝って軽く平らげてしまった。
朝食はとても穏やかだった。
店の用意は何時から始めるのかとか、これからどうやって家まで帰るかとか、そんな取りとめのない話をしながら、時がゆっくりと過ぎていく。
和やかな雰囲気の心地良さと、もうすぐ帰らなければいけない名残惜しさとで、恭輔の心は複雑だった。
修哉は恭輔が思うほどに、きっと名残惜しいなどとは思っていないだろう。そう思うと尚更、恭輔は胸が苦しくなった。
(おれがこんな風に思うなんてな……)
朝食を食べ終え、後片付けも済み、いよいよ帰る刻限になった。
登ってきたときとは違い、一人で――壁に手をつきながらではあるが――階段を降り、厨房を横切って店の方に行こうとした恭輔だが、あとから来た修哉に呼び止められてしまった。
「ごめんなさい、こっちから出てもらっていいですか?」
見ると厨房の横手奥に勝手口らしいドアがあった。
普段の出入りや、届け物は全てこちらからということなのだろう。
「昨日はあっちからだったが?」
疑問に思って聞いたが、返ってきた答えは簡潔だった。
「だって、重たかったから」
恭輔が重たかったので、近い方の入り口から入った、ということらしい。
本当にはっきりと言う奴だな、と改めて感心しつつ苦笑する恭輔。
勝手口のドアを開けると少し狭い路地に出た。
そこで表通りに行く道順を修哉に聞いて、それから改めて恭輔は修哉に向きなおり礼を言った。
「迷惑をかけたな。それと、ありがとう」
心を込めて恭輔は言った。
自暴自棄になって飲んだくれて、ボロボロになっていたところを修哉に助けられた。
それは体だけのことじゃなくて、心も助けられ、癒されたような気がしていた。
見ず知らずの青年に本当に世話になって、恭輔は心から感謝していた。
だが修哉は礼を言う恭輔に、少しだけ困ったように笑った。
「いいえ、僕のお節介でやったことですから。その……ちゃんと病院に行ってくださいね」
恭輔も笑い返して頷いた。
「今度ちゃんとお礼に来るよ」
そう恭輔が言うと、今度ははにかむように微笑む修哉。
「お礼は別にいいんですけど。また、いつでも来てください」
修哉らしい返事だと思って、また笑いながら頷くと、恭輔は「じゃあ」と言って片手を上げた。
「気を付けて」と修哉も返して片手を上げる。
修哉の視線を背中に受けて、恭輔は表通りへと歩き出した。
歩くのもまだ大変そうだからタクシーを拾うまでつきそいましょうか、と修哉が申し出てくれたが、彼には店があるのでそれは流石に断った。それに、これ以上迷惑をかけられない。
修哉が見えなくなる角まで来て、恭輔はそういえばと思い出した。
見たかった修哉の店の中の様子を、明るいところでじっくりと見ることが出来なかったなと言うことを。
また、行こう。
彼の店がどんな雰囲気なのか見てみたいし、あそこは居心地が良かったから、きっと彼の店も居心地が良いに違いない。
だが――
(だけどまた、おれのこの想いは叶わないんだろう、な)
内心で呟きながら表通りへ出ると、東の空に上りかけた朝日が眩しく恭輔を包み込んだ。