冬。僕はきみの傍に、

14.嫉妬

 夏期休暇が終わり大学が始まってしばらくして、顔を腫らした祐介をキャンパス内で見かけた歩は、驚くよりも先に血の気が引くのを感じた。
 左の目元と頬を腫らし、貼られた湿布が痛々しい。
 中学から柔道部に所属していたらしい祐介が、練習中にあのような怪我をしたとも考え難いし、喧嘩なら尚更やられるとも思えない。
 歩自身に「もしかしたら」という思いがあり、祐介を呼び止めると怪我の理由を聞いた。だが、祐介は誰が見ても誤魔化してるだろうというような顔で言うのだ。
「いや、街中で……ケンカしてる人たちがいて、止めに入ったらやられたんだ」
 祐介の性格を考えると“喧嘩の仲裁”というのは有り得ない話ではないだろうが、それでやられてしまうような祐介ではないんじゃないかと歩は思った。
 しかし、それ以上は聞くなと言わんばかりに「何でもない」を繰り返されては、歩もそれ以上は聞けない。
 じゃあ、祐介の幼なじみでアパートの部屋をシェアしている晃なら何か知っているかと訊いてみたが、やはり晃も祐介の怪我の原因は知らないようだった。
「大学が始まってすぐくらいだったよ。その日は深夜過ぎても帰ってこなくてさ、明け方近くになってやっと帰ってきたと思ったらボコボコにやられてて。理由を訊いても答えねぇんだ、何にも」
 もしかしたら、晃自身もこれはあの青年が関わっているのじゃないかと思い始めているのかも知れない。
 だが、歩がそう思ったのは別に晃の表情を読み取ってというわけではないのだろう。歩自身に思い当たるところがあったからだ。

 夜を待って歩はいつも行く店へ向かった。
 照明は鈍く、年代を感じる音楽が流れる、男らが出会いを求めて来るバーである。
 歩も気の合う男らとの会話を楽しむため時々通っていたし、一度祐介を誘って来たこともある。そして、ここで祐介は密という青年と出会い、一目惚れをし、関係を持ったのだと聞いている。
 ただ、関係を持ったと言っても恋人同士になったわけではない。密は男相手に体を売っていて、密に恋をした祐介が買ってしまったのだ。
 どうも祐介自身「お金がない」とか、あるいは買春に抵抗があったりするようだが、それらはすべて祐介の幼なじみである晃から聞いていた。
 そして、祐介に買われ抱かれてから、密が売春を避けているらしいというのは、歩と密の共通の知人から聞いている。
 その時、つい「密に好きな奴がいるのかも」と、その知人に言ってしまったことが歩は気になっていたのだが……。さらに、その知人の男の後ろにリオという男の陰があることに、歩は少々危機感を抱いてもいた。
 薄暗い路地を渡ってバーの扉を開けると、馴染みの雰囲気が歩を迎える。
 抑えられた照明の中、カウンターにつく一人の青年を目ざとく見つけて、歩は真っ直ぐ歩み寄った。
 華奢な体躯、暗い照明でもわかる色白の肌、細い顎と大きな目が青年の美しさを際立たせていた。その整った顔が歩に気づいて振り向いた。
「歩さん……」
 歩の険しい様子に驚いたように、密が歩の名を呟く。歩はそんな密をしばらく見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「お前、祐介が今どんな状態なのか知ってるのか?」
 途端、密の表情が強張り、次いでサッと赤味が差した。羞恥などではない、怒りのための紅潮だった。その様子からすると、どうやら歩の質問の答えを知っているようだが。
 密はキッと歩を睨みつけると言い返した。
「歩さんが変なこと言ったからなんじゃないんですか」
 痛いところを突かれて歩は一瞬、返す言葉を失くす。確かに不用意に、しかも不確かなことを言って波紋を呼んだのは自分かも知れない、と。
「僕は一度も、誰にも祐介さんが好きだなんて言ったことない」
 僅かに密の語尾が強くなり、店員が怪訝な視線でこちらを見たが、今2人はそれどころではない。
 歩も簡単に引き下がるつもりはなく、周りの視線も気にせず声を上げた。
「オレは祐介の名前なんか出してない。それに、そう言うってことは祐介のあの怪我はやっぱお前に関係あるんだね」
 言い返すと密の顔が再び強張った。否定せず顔色を変えるということは、やはりそういうことなのだと歩は悟った。
 どういうことが起こったのか大体の検討はつく。密の客の1人であるリオという男は、密との関係にある種の執着を覚えていたようだし、金だけは持っているような奴だから売春を避ける密を取りもどすために手荒な真似のひとつやふたつはするだろう。そのひとつが密が好きになったかも知れない祐介を殴り飛ばし、密に近づくななどと言って脅してみせる、とかそういうことだろう。
 歩は密の胸倉を掴んで体ごとこちらを向かせると、歩にしては珍しく凄みをきかせて相手を睨む。
「そもそも、お前が売春なんかやってるからだろ。しかも考えなしなんだよ! 誰とでも寝るなよな!」
「歩さんには関係ない!」
「関係ならあるよ。祐介はオレの友人だ。お前は祐介が自分のこと好きだって知ってたんだろ? それでよく金払ったら抱かせてやるなんて言えたよね。最低だとは思わなかったの?」
「それは祐介さんが望んだからだ! それに、祐介さんに怪我させたのは僕じゃない!」
「分かってるよ。どうせお前の客がやったんだろ。それで、客が祐介に怪我させて、お前はなんとも思わないのかよ!」
「それは……」
 ふと密の目から力がなくなり視線が下に落ちていく。
 今までになく密の深刻な表情に、何かしゃべるかと胸倉を掴んだまま待っていると、やっと視線を上げた密の目が見開かれた。どうやら驚いているようだが、歩を見てではもちろんない。密の視線は歩の後ろを見ていた。
 ハッとして振り返ると、見覚えのある男が歩の背後に立って、薄笑いを浮かべながらこちらを見下ろしていた。背は高いが細身で、一見すれば好青年に見える顔だちの男――リオだった。歩も何度か会ったことがあるが、見た目とは違って強引でしつこい性格に、歩は避けることができるならそれに越したことはないと、なるべく関わらないようにしていた。
「やぁ、歩くんじゃないか。どうしたんだい、何だか穏やかじゃないな」
 作られた笑みを浮かべてリオが言うと、密の胸倉を掴んでいる歩の腕に手を置いた。置かれたリオの手の力は強くなかったが、何の用意もないところにリオと対立することだけは避けたいと思い、歩はゆっくりと密から手を離すと、同時にリオの手も軽く振り払った。
「こんなところで喧嘩か? 周りに迷惑がかかってるじゃないか。続きは――」
「別に」
 なおも続けようとするリオの言葉を、歩は不機嫌な色も隠さず遮った。
「話はもう終わりましたから」
 そして、密を一瞥すると出口へ向かう。リオもそれ以上、追求する気はないのか、視線で歩を追うだけでとくに引きとめはしなかった。
 出口の扉を開けて出る間際、もう一度歩が振り返ると、密の肩にリオが手を回しているのが見えた。

 店の外へ出ると、夜の闇と秋の涼風が歩を待っていたが、待っていたのはそれだけではなかった。
 数えるほどのネオンや街灯しかない薄暗い路地に出ると、照明が抑えられていたとはいえ明るかった店内から出たため、ほんの少しの間だけ夜闇に目が慣れるまで時間を要した。
 出入り口の前で僅かに立ち尽くしたあと、家路につこうと歩き出したとき店の近くに立っていた人物に気づいて歩は驚いた。
「英斗……」
 淡いネオンに照らされ、闇に溶け込むようにぼうっと立っていたのは、歩と同じ大学に通う同級の英斗だった。
 夏期休暇のとき、歩が強引に誘って体の関係になり、やはり歩から「オレのこと好きだろ?」と強引に告白をさせたが、その後すぐ教授と関係を持っているとカミングアウトすると、その後まったく姿を見せなくなったから、てっきり自分のことを幻滅してしまったのだと歩は思っていた。
 だが再び、しかもこんなところで英斗と会うとは一体どういうことなんだろう。
 まったく予想だにしなかった再会に、思わず呆然としていた歩だったが、英斗がもの言いたげに、だが黙ってこちらを見つめてくるので、歩の方から声をかけてやることにした。
「こんなとこで何してるの?」
 歩が訊ねると、英斗は駄々っ子のように口をへの字にすると恨めしげな声で言った。
「歩こそ……」
 言いながらチラッと英斗の視線が店の方へ流れる。もしかして、中を覗いていたりしたんだろうか?
「オレは別に、飲みに来ただけだけど」
 平然と嘘をついてみせて、歩は英斗の表情を探った。
「英斗、もしかしてオレのあとを――?」
 歩の問いに英斗の視線が地面に落ちた。どうやらそうらしい。英斗は地面を睨みつけたま頷いた。
「ああ」
 そして、もう一度店に視線をやると、
「このバーに通ってるんだ。さっき少し覗いてみたんだけどさ、客が男ばっかじゃん。こういうとこってさ、あれだろ。ハッテン場とか言うんだろ?」
 彼の趣味のひとつだと聞いていた、インターネットで仕入れてきたのだろう単語を、英斗は少々うわずった声で言った。
「こ、ここで教授と会ったのか?」
 歩が通う大学の教授と、構内ではなくバーで出会ったのかなどという質問に、どのような思考回路をすれば辿り着くのだろう。焦ってでもいるのか、考えが上滑りしているというか、空回りしているようである。
 歩は大きなため息をつくと「いいや」と否定しておいてから、ハッとして英斗を睨みつけた。
「言っておくけど、英斗は入っちゃダメだからね」
「な、んで……」
「きみみたいな男に免疫もなくて、振り回されるのが好きなんて言うヤツは、絶好のカモなんだよ」
 もちろん多少は皮肉をこめて、だが祐介のことも頭にあったので歩はきっぱり言った。
 祐介ほどではないにしろ性に未熟で単純そうな性格の英斗に、密やリオといった男らの世界は触れさせたくないと歩は思ったのだ。
 それは心配してのことだったが、歩の言葉に途端、英斗の眉間にしわが寄った。暗闇ではっきりとはわからなかったが、英斗の頬が赤くなったように見えた。
「確かに俺は騙されやすいけど――」
 もしかしたら歩との関係を思い出しているのかも知れない。歩から誘われて、夏の間歩と体を重ねることに夢中になったが、突然、歩から「教授と寝てる」と告白された。英斗からしてみれば、歩に騙されたと思うのは当然だろう。
「でも、歩には言われたくないよ」
 英斗は強い視線で歩を睨みつけると、歩が何か言うよりも早く背を向け、足早に夜の闇の中へと消えていってしまった。
 残された歩は微動だにせず、しばらく英斗の遠ざかる背中を見つめながら、胸の中にある確かな痛みを感じていた。

 午前の講義が終わって、大学の食堂でひとり昼食を取っていると、時間を確認するためテーブルの上に置いていた携帯が数回振動した。
 メールだなと思いながら歩は手に取って、携帯を開き受信箱を開くと僅かに目を見開いた。
 誰かに見られたときのためにアドレスに登録した名前は、自分だけがわかるように別の名前をあてているが、送信者に表示されているのは歩と関係を持っている教授の名前だった。
 大学で教授と生徒の、しかも男同士との関係など、周りに知られてしまっては事だし、互いにそういうことは避けようというのがほぼ暗黙の了解となっている。
 なので、関係を持っていると言っても頻繁に会うような、傍から見ると怪しまれる行動はしないし、だいたい教授の体が空いてる時間だってそうそうない。会える日もほぼ決まっているから、教授からメールが来ることは珍しかった。
 しかも――
『今夜はゆっくり話がしたい』
とあり、市街地を少し外れたところにある大きな公園を待ち合わせの場所に指定してきた。
 大学の外で会うのも滅多にないことだったが、もちろん今までになかったわけではない。だが、外で会うときはいつも決まった場所だったし、必ず教授が車で歩を拾うことになっていた。
 メールの文面を読み進めていくうちに、歩の疑念は深くなっていったが、しかし、最後に添えられた『愛してるよ、私の歩』という一言を見ると歩はわからなくなった。それは会うたびに教授がいつも囁く言葉で、メールがくれば最後にはそういつも添えられていたからだ。
 疑いようもない送信者のアドレスを確認し、もう一度メールを読んで、何を疑うことがあるのだろうと歩は思い直し、それ以上は深く考えることなく携帯を閉じた。
 指定されたのは場所だけでなく時間もだった。夜の10時。
 夕方に大学を出て、9時半ごろまで適当に時間を潰し、ガレージの奥から自転車を引っ張り出すと、30分かけて指定された公園に向かった。
 その大きな公園は周りを背の高い木々で囲まれ、広い敷地内にはサッカーや野球などができるコートなどが設置され、多くの人はそこを「運動公園」と呼んでいた。
 ただそれだけではなく、公園を横断する遊歩道もあり、ところどころにはベンチも置かれている。
 当然、夜の10時ともなれば人の気配はほとんどなく、歩は自転車を入口付近に止めると、まず公園周辺を歩いてみることにした。
 待ち合わせに公園を指定されたが、どこで待っているのかといった詳しい場所は指定されなかった。教授がどこかに立って、あるいはベンチに座って自分を待ってる姿は想像できなくて、歩は公園周辺の道路に教授の車が停車していないかどうか確認していくことにした。
 だが、一周しても教授の車はない。もしかしたら遅れているのかも知れないと、もう一周してみようかと思いかけたとき、ズボンのポケットの中の携帯が振動した。今度は電話かと思ったらまたメールで、『バスケットコート近くのベンチにいる』とあった。
 再び歩は不審に思う。
 この公園に駐車場はない。近くに駐車場があったかどうかもわからないが、ともかく、夜とはいえこんな風に外で教授と会うなんて今までになかった。
 何かが起こってそうなったのか、あるいはもしかして――
 歩は不安を胸に入口から続く遊歩道を進み、バスケットコート近くにあるベンチへ向かった。
 その目的のベンチの傍まで行くと、灯されている外灯の下にひとつの影があった。ベンチの傍にいるというのに、座るでもなく立ったままその人影は、俯いて口元に手をあてながらじっと地面を見つめているようだった。
 影は明らかに教授のものではないと、歩にはすぐわかった。教授にしては背が低いし、痩せ型ではあったがそれにしては華奢すぎる。何よりもそのシルエットで膝下の長いスカートを履いているのがわかったから、それが女性だということは明白だった。
 歩はそれですぐに、これがどういう状況なのか察知して、ジャケットのポケットに両手を入れると、ゆっくりとその影に近づいていった。
 向こうも気づいたのだろう。はっとして顔を上げると歩に振り向いて、その影が固まったように動かなくなった。近づくにつれて灯に照らされた相手の姿がはっきりとし、その整った顔立ちが淡い外灯の中とはいえ子細に見えた。
 ワンピースの上に薄手のカーディガンを羽織った、一般的に美しいと言える容姿を持ったその女性は、どう上に見ても40歳前半の若い女性だった。
 若いと言っても歩から見れば「おばさん」と言っていい年齢だが、教授の携帯を使って自分をこんな風に呼び出す女性に、思い当たるといえばひとりしかおらず、それを当てはめれば十分に若いと思った。
「お待たせ。教授、の奥さん――かな?」
 わざとらしく笑みを浮かべて明るく声をかけると、歩を凝視していた女性の顔が引きつるのが見えた。
 そう、まず間違いなく目の前にいる女性は、教授の妻なのだろう。教授の年齢を考えれば、何かを疑いたくなるほどにその女性は若かった。
 何らかの形で教授の妻に、歩と教授の関係を知られてしまったらしい。そして、知った教授の妻は関係を持った歩を、教授の携帯を使って呼び出したのだ。苦情を言うため、あるいは罵るために。
 だが、驚愕に見開いた目は歩に釘付けのまま、女性は先ほどから身動きひとつしない。僅かに開いた口からも、小刻みな呼吸の音がするだけで何も言わない。
 そんな沈黙が嫌で、歩は短くため息をつくと肩をひとつすくませて言った。
「何とか言ったらどうですか。オレに何か言いたくて呼び出したんでしょう?」
 歩はそうぼやきつつ視線を夜空に巡らせてからまた戻すと、女性の表情は微かに変化しているのに気づいた。歩を凝視している目は変わらなかったが、口を開いて言葉を発しようとしているのがわかって、何を言うだろうかと歩は待った。
「あ……あなたが、あゆみ……?――あゆむ?!」
 その時、胸の前で組んでた女性の手が、何かを握りしめているのに歩は初めて気づいた。咄嗟にはそれが何かわからなかったが、女性の言葉の意味を考えて「なるほど」と思った。
「そう、オレの名前は歩。漢字だけだと、よく女子に間違われるんですよね」
 女性はきっと、最初は夫の態度から不倫を察知したのかも知れない。そして堪りかねてか、あるいは偶然にか夫の携帯を盗み見たのではないだろうか。そこに、歩とのメールのやりとりを発見して不倫を確信した。
 ところが、不倫の相手は女性だろうという先入観はあるだろうし、メールの文面にある名前が「歩」だったから、てっきりそれを「あゆみ」と読んで女だと女性は思い込んでいたに違いない。
 いつから気づいていたのかはわからないが、夫が不倫をやめる気配がないとみてか、我慢ならず不倫相手の「歩」に直接抗議しようと今日、夫の携帯を使って呼び出した。
 なのに、現れたのはまだ20代前半の若い男で、どうやらこの青年が夫の不倫相手に間違いないという。
 てっきり不倫相手は女性かと思ったら青年で、不倫されているだけでもショックだっただろうに、さらに相手が男だと知って女性は何を思うだろうか。
 だが、女性はその感情を言葉ではなく行動で示した。嗚咽をもらしながら涙を流し、顔を両手で覆って肩を震わせた。
 夫が男も抱けるバイセクシャルと知って余程ショックだったのか――。
 あるいは、今まで女性は教授に抱かれたことがなかったのかも知れない。教授はゲイで女性が抱けず、子供は女性の前の夫との子供で再婚だった――。
 泣き続ける女性を眺めながら、勝手に推測していた歩だったが、実のところそんなことに興味はなかった。女性にとって、その子供にとっても悪いことをしたなという気持ちはあっても、教授とのことは大学にいる間の遊びのようなものだと思っていた。
 抱かれている間はそれを楽しむために、気持ちや雰囲気を盛り上げるような甘い言葉を発しても、歩自身本気ではないし、教授も本気にしているとは思っていない。教授の家族をどうにかしようなどとは少しも考えたことはなかった。
 潮時がくればやめたらいい、歩はそんな軽い気持ちでいた。
 しかし、それは歩が独身で恋人もいないから言えることなのかも知れない。
 女性を気遣うことも、気持ちを察することもできず、こんな面倒なことになるなどと考えていなかった歩は、やはり軽い気持ちで口を開いた。
「あのさ、そんな泣かなくても――」
 言葉を発した途端、顔を上げて女性が鋭い視線で睨みつけてきたので、歩は「遊びみたいなものだから」と続けようとした言葉を寸前で押し留めた。
 一見、大人しそうな女性の、睨みつける目が外灯を反射して鈍く光り、まるで闇に溶け込もうとする獣にも似て歩は思わず怯んだ。その隙を狙ったわけではないだろうが、顔を上げた女はその勢いのままに歩に向かってくると、向かいながら大きく振り上げた右手を歩の頬へめがけて振り下ろした。
 手のひらが頬を打つ音は、辺りの闇に吸い込まれて消えたが、歩の耳の奥ではジンジンと痺れるように鳴り響いている。いや、これは頬を打たれた衝撃によるものなのかも知れないが。
 叩かれた衝撃で顔を右へ背けたまま、つい呆然とその先の地面を見つめている歩に、女性は声を震わせながら一言、
「あの人と別れて」
そう言って歩の前から消えた。

 教授の妻に知られてから、歩は教授と2人きりで話せる機会を探した。
 携帯で連絡を取ろうとも思ったが、また彼女に知られてしまってはと考えると出来なかった。
 だが、今回に限ってなかなか2人きりで会うことが出来ない。
 教授は教授で忙しいし、構内にはいつだって人が行き交っている。
 それでも、週末にいつも会うその日だけは確実だろうと、仕方なくその日を待って歩は教授の研究室へ赴いた。
 ところが、階段を上がって廊下を曲がれば、教授の研究室の扉が見えるという所まで来て、その扉が内側から開かれるのが見え、思わず歩は一歩下がって壁に身を隠した。
 なぜ、そうしようと思ったのかわからないが、壁からそっと顔を出して見れば、教授の研究室から出てきたのは英斗で、歩は驚愕して息をのんだ。不安が歩の呼吸を乱して胸が苦しくなる。
 研究室から出てきた英斗は、部屋の奥に向かって一礼すると扉を閉めて、こちらへ向かって来たので歩は慌てて階段を上へ登ると身を隠した。
 急いで階段を登ったせいか胸を激しく叩く鼓動を感じ、自分を誤魔化そうと「運動不足か」などと内心で呟いてみるが、鼓動が激しいのは決してそれだけではないことを歩は知っていた。
 英斗が教授の研究室にいた。しかもたぶん2人きりで。一体何の話があったんだろうか。部屋から出てきた英斗の様子は普通に見えてはいたが、教授と2人で何の話をしたのだろうか。
 ほんの少し階段を急いで登っただけなのに、しばらくたっても心臓の鼓動は早く、しかも手足の震えまで出てきた。それを感じながら歩は心の中で自重した。
 こんなにも自分が何かに怯えることがあるとは思わなかったと。
 英斗に、自分は大学の教授と関係を持っていると、歩は話したことがあった。なので、もしかしたら英斗がその相手の教授が誰かわかったのかも知れないし、あるいは教授の方から英斗に言ったのかも知れない。  教授にも、自分を好いてる同級がいると話したこともある。それで興味を持ってしまったとしたら――。
 歩がそう考えたとき、自分の内に表れた強い感情に眩暈すら覚えて、階段の端に座り込むと強く目を瞑った。
 頭の中で打ち消そうとしても繰り返される、英斗が教授に組み伏される光景に歩は、暴れたくなるような掻き立てられる感情を持て余して、そして気づいた。
「そうか……これが嫉妬か」

2010.08.30

PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル