重いボールが床を打つ音が体育館に響く。
ボールを追う選手たちのバッシュが、どことなく小気味よく床を鳴らす音がする。
それぞれの選手が互いを牽制しあい、仲間を呼び合う声がこだます。
背の高い逞しい男たちが、ただひとつのボールを奪い合い、相手のバスケットへシュートしようと飛び跳ねて――。
バスケットへ鮮やかな弧を描きボールが吸い込まれれば、それに合わせたように歓声と、そして女の子たちの甲高い悲鳴が聴こえる。
そんな中にいて一良は、2階の観客席から選手に声援を送るでもなく、歓声をあげるでもなく無表情で試合を眺めていた。
選手たちを見ていれば、自然と一良も一緒にコート内を走り回りたい衝動に駆られるが、一良はすでにバスケット部を2ヶ月ほど前に辞めていた。
当然、試合になど出れるわけがない、と思ったあとで一良はさらに自嘲する。
(たとえバスケ部にいたとしても、到底試合になんて出させてもらえねぇだろうけど)
一良は中学1年から高校2年の夏までの約4年と少し、ずっとバスケット部に所属していたが、試合に出たのは数えるほどしかない。
運動神経のいい一良だったが、致命的に背が低かったのだ。
それをコンプレックスに思わなかった日はないが、それでもまだ中学の頃は「いつか絶対」と思っていた――思えていた。
後輩に追い抜かれても、来月には来年には身長が伸びているかも知れない。身長が伸びなくても、人より高くジャンプすれば勝てるかも知れない。この身長を活かした攻撃ができるかも知れない。
そう自分に言い聞かせて頑張れた。
だが、高校に入って1年と少しバスケ部に所属して、一良はもう「いつか」などとは思えなくなっていた。
一向に伸びる気配のない身長や、どんなに頑張っても同級にすら追いつけない現状や、入って来たばかりの後輩にも追い抜かれるという焦りや――そんなことを考えていると次第に一良の中で、諦めようと思う気持ちが強くなって行った。
「もともと背を伸ばそうと思って入っただけで、別に初めからバスケが好きだったわけじゃないし」と、そんな言い訳じみたことも思ったが、実際にバスケに対し時間を割いて頑張ろうと思えるほど興味も沸かなくなったのも事実だった。
顧問に退部の意を伝えたとき、顧問が「そうか」と言っただけで終わったことも、一良のバスケに対する熱をさらに冷まさせる要因にもなった。
とくに引き止められるとも考えてはいなかったが、あっさりとし過ぎている顧問の態度に、よほど自分は必要のない部員だったのだなと、改めて思い知らされた気がした。
もともとバスケを好きで始めたわけではないにしても、バスケをやっていくうちに一良の中で愛着のような気持ちはあった。
だが、顧問が目指しているものは趣味程度でやるバスケではなく、今よりも高い目標を目指して日々練習している。
そう思うと悔しいばかりだが、同時に、どちらにしろ自分がこれからずっとバスケを続けても、ほとんど自分にプラスになるようなことはないだろうと一良は思ったのだ。
だからバスケ部を辞めた――逃げた。
体育館に笛の音が響き、拍手と歓声が沸いた。
試合が終わったらしい。
コートを見下ろすと互いの選手たちが握手を交わしているのが見えた。
真面目に試合を見ていなかった一良は、どちらが勝ったのかわからず咄嗟にスコアを見た。そして、ほんの僅か目を見張った。
大きな点差で一良の高校のチームが負けていた。
少し押され気味だとは思ったが、こんなに点差が開くとは思っていなかった。
もう一度、選手たちの方を見ると皆一様に肩を落とし、自分たちの荷物をまとめにかかっていた。
その中に一人の姿を認める。
背の高い集団の中でも一際目立つ長身の後輩。1年生ながら瞬く間に頭角を現し、即レギュラー入りを果たした強者。
だが、伸び悩みの時期なのか近頃は、いつもの明るい表情さえも精彩を欠いている。
近くにいた女子生徒が辺りもはばからず口々に言うのが一良の耳に届いた。
「うちの高校って弱かったんだぁ。がっかり」
「だねぇ、なんか見掛け倒しかっつーの」
バスケという競技も身長が高ければ有利だ。
しかし、身長だけというわけでも当然ないのだった。
弱い者が負ける。それが理であり必定なのだ。
ふと、下から見上げてくる視線に一良は気づく。
他より長身のくせに、そしていつも自分を見下ろしてくるくせに、心許なさそうな表情でこちらを見上げてくるその男を、一良は内心で戸惑いながらも無表情に見返した。
(誠……)
ひとつ下の後輩の名を心中で呼ぶと、一拍おいてから彼――誠から顔をそむけ、一良はまばらな人並みに紛れて体育館を出、学校を後にした。
学校と自宅の間に「運動公園」と呼ばれる広い公園があった。
その名に相応しい広大な敷地内には、サッカーや野球、バスケなどが出来る環境が整えられていた。
公園の周りや随所には木々が植えられ、公園の真中辺りには人の通る遊歩道のようなものもあった。
一良はいつもその公園を迂回していたが、今日は何となく気が向いて公園の中の道を行くことにした。
木々に挟まれた遊歩道を一良は自転車を押しながら進んだ。
歩きながら考えることは、やはり今日のバスケの試合と、そして誠のおどおどとした目だった。
思い出しながら一良は、あんな表情をするのだったら最初から試合に出なければよかったのだ、と思わず舌打ちしそうになる。
あんな表情をするなら、なぜ試合の見学に来るよう誘ったのだろうと思う。
そして、この最近の彼の元気の無さは一体どうしたのだろう。
物思いに耽っていると、唐突に左の方向からボールが飛んできた。咄嗟に左手でボールを受け止めると、地面に一度だけバウンドさせてからまた左手で、手のひらにバランスよくボールを乗せた。
よくよく見ればそのボールはバスケットボールだった。
誰かが遊んでいたものかと思っていると、20代中頃から後半くらいの長身の男が駆けてくるでもなく、ゆっくりと歩いて一良の前に現れた。
白のカッターシャツに上等そうな濃いグレーのパンツ姿の、会社帰りか休憩中のサラリーマン風の男だった。
一良がボールを持っているのを見ると、厳つそうな見かけとは裏腹に人懐っこそうな笑みを浮かべて手を上げて言った。
「あ、悪いな。当たったか?」
ボールが一良のどこかにぶつからなかったか、と聞いたらしい。
一良は「いえ」と答えながら首を横に振った。
男にボールを手渡しながら、一良はこの人物に親近感を抱いていた。
声や口調にではないな、と思ったとき「ああ」とすぐ納得した。
長身なところと屈託ない笑顔。
(誠にどことなく似てる、か……?)
しかし、そう言ってしまえば背が高い男が笑えば、誠に似てるように感じるのかと疑問にも思ってしまうが。
では容姿が似ているのかと男を眺めていると、その視線に気づいた男が片方の眉を持ち上げて言った。
「なんだ? おれが好い男なんで見惚れてるのか?」
(なんでだよ)
心中で返しながらも一良は憮然とした表情で男を見た。
大胆な男だと思う。見も知らない自分に対してこんな冗談を言えるなんて、と。
一良の表情に満足そうに笑うと、男は一良に背を向けた。仲間の居るところに帰るのかと思っていたら、遊歩道脇にある木製のベンチに座りこみ、ズボンのポケットから煙草を出すとおもむろに吸い始めた。
男が何を考えているのか分からなくて、一良は思わず立ち去るのも忘れて男を見つめ続けた。
おいしそうに煙草を吸う男に、ついに一良は気になって仕方なくなり問いかけた。
「あの、友だちとバスケやってたんじゃないんですか?」
すると男は口から白い煙を吐き出すと、肩をすくめて笑ってみせた。
「いいんだ、休憩だよ。あいつらに付き合ってたら、こっちの身がもたん」
どうやらかなり疲れているらしい。
長身で人よりは逞しそうには見えるが、現役のスポーツ選手とも思えない。どこかの会社で働いているサラリーマンか何かで、きっと普段の運動不足がたたっているのだろう。
年齢は20代も半ば、あるいは後半。ということは、バスケットの相手は男の子供という可能性もあるが。それにしては「あいつら」と言ったりするような、少し突き放した物言いでは家族相手とも思えない。一良が「友だち」と言ったのも否定しなかったわけだし。
体力有り余ってる友人か、会社の後輩か――誘われて仕方なく付き合ったのだろう。
なんにしても、これ以上自分が関わることでもないなと、一良は思い「そうですか」と言うとその場を去ろうとした。
ところが――
「恭輔さん、何休んでるんですか」
男が現れた方向から再び人が現れた。
こちらは20代前半の青年で、男とは違うパーカーにジーパンというラフな格好の若者だった。
ベンチで寛いでいる男を見つけて青年が言ったあとで、彼は思わず立ち去る機会を逸して立ち尽くしている一良を見た。
少しだけ驚いた表情をした青年だったが、次にはニヤっと嫌な笑みを浮かべて男に言った。
「ナンパですか? 恭輔さん」
「いやいやいや」
慌てて否定の言葉を言ったのは一良だった。
(っていうか、さっきからなんなんだこいつらは)
先ほどの男の言葉といい青年の言葉といい、どうも係わり合いにならないほうがいいような気がする。
そう思った一良は失礼にならない程度に、この場から立ち去る機会を窺う。
「ボールを拾ってくれたんだ。それよりおれはもう降りるからな」
「えー、まだ決着はついてませんよ」
「もう無理っつったら無理だ。年寄りをいたわれ」
「何言ってるんですか、まだ27でしょ? 変わらないじゃないですか」
「22のお前には言われたくないな。5歳も違うんだぞ」
「そうは言っても人数が……」
言いながら青年の視線が一良のところで止まる。
まさかな、と思いつつも嫌な予感を覚えて、一良は「じゃ、ボクはこれで」と歩き出そうとした、が――。
「そこの少年、きみでいいや。恭輔さんの代わりしてくれないか?」
「い、いえ……あの、ボクは……」
「別に勝とうとか思ってくれなくていいよ。その辺、適当に走り回ってくれればいいだけなんだから」
身長の低いお前になんか、何も期待はしていないんだから。
一良はそう言われた気がしてカチンと来た。気が付けば足は青年の方へ向いていた。
息巻く一良の視界の端で、男がなぜか「やってしまった」という表情で首を振ってるのが見えた。
男のそんな動作も一良は、きっと「小さい少年が翻弄されてしまう、可哀想に」と思ってのことだと、この時は思った。
一良は久しぶりに体を動かす気持ちよさを体感していた。
ボールを追いかけコート内を走りまわり、ボールを持てば相手の攻防をかいくぐってシュートする。
相手が点を入れればこちらも入れ返し、ボールを取られれば当然取り返す。
2ヶ月ほどブランクはあるものの、やっていくうちにどんどんと体が動きを思い出し、一良は年長のしかも自分より背の高い相手に対し、容赦なく得点を重ねていった。
「ったく、誰だよ。こいつ呼んだの」
はじめは一良を見て余裕の笑みを浮かべていた相手も、一良の動きを見、シュートを次々と決められていくのを見て、終いには忌々しそうにそう吐き捨てた。
だが、一良自身はと言えば内心では自嘲していた。
(素人相手なら通用するんだな、俺ってば)
しかし思いながらも手抜きはしない。
再びボールを受け取ってバスケットへ走ると、遮る男たちを右へ左へしのぎ、そしてジャンプする――。
手首の力を利用してボールを投げる、その時、一良の視界が揺らいだ。
いや、揺らいだのは自分の体だった。
一良がジャンプをした瞬間、傍にいた男も同時にジャンプし、その男の体がやけに勢いよく迫ってくる思ったら、あっという間にぶつかり空中で一良ははじき飛ばされていた。
明らかに故意あっての動きだった。
一良が地面に倒れこみ、着地した男が一良を見下ろして言った。
「チビが、うざいんだよ」
その言葉で充分に含みがあることが分かる。
地面に背中を打ち息が詰まりながら、一良は自分の身体的弱さに情けなく思った。
場がしらけた。
自分の所為だと思った一良は口を開こうとし、コートの外からの声に遮られた。
「先輩っ!」
自分を呼んでいるらしき声に、咄嗟に振り向けばいつの間に現れたのか、誠が駆けてくるのが見えた。
「誠……?」
起き上がって地面に座った格好で、一良は駆けてくる誠を不思議そうに眺めた。
今はもうユニフォームから制服へ着替えている誠は、駆けつけながら一良を見て、次いで一良を突き飛ばした男を睨みつけた。
「今のわざとだろっ! あんた、どういうつもりなんだ! 謝れっ!」
今にも掴みかかりそうなすごい剣幕で男に怒鳴る誠を、一良はしばし呆気に取られながら見上げていたが、慌てて声を上げて制止した。
「誠、やめろって」
言いながら立ち上がろうとした時、一良をここへ誘った青年が手を差し伸べてきた。
「悪いな、大丈夫か?」
仲間の変わりに謝ってくれたらしい。頷きながらその手を取ろうとして、それを遮ったのは誠だった。
一良の伸ばそうとした手を握りしめ、それを見た青年の差し出された手が止まった。
青年はどこかおどけたように驚いてみせると、手を引っ込めて誠を見上げた。
静かに見つめ、睨みあう2人を見上げながら、一体この状況はなんなんだと一良は思わず眉をしかめた。
そして、誠に握られた手の痛さに一良は苛立つ。
「誠! いい加減にしろって」
後輩を叱りながら手を振り解き、自力で立ち上がると誠を睨みつけた。
「これは遊びなんだ」と、そう言ってから自分を突き飛ばした男に向き直った。
「それなのに、俺もついムキになってしまって、すいませんでした」
頭を下げる一良を、男がバツの悪そうに見下ろし、何を言っていいのか戸惑っている様子だった。
そこに周りの男たちがからかうように、口々に仲間を責めた。
「あ〜あ、お前が悪いのになぁ」
「謝らせてどーすんだよ。お前、謝れよな」
「そーそー。遊びにマジでキレてどうすんだよ〜」
「ダセェ」
固まりかけていた空気が和らぎ、あっという間に元の雰囲気に戻った。
一良はホッとして頭を上げると、仲間に責められてしかめっ面した男と目があった。男は視線をそらせながらも、「ごめん」と口の中で呟くように謝った。
仲間がまたそれを囃したてるのを見ながら、一良は思わず笑っていた。
だが、隣にいる誠だけはムッとした表情で黙り込んでいた。
バスケの試合はそこでお開きとなった。
険悪になりかけていた雰囲気が元に戻ると、今度は仲間同士でじゃれあう男たち。その中から青年が出てくると一良に言った。
「試合はオレらの負けだなー。ほんと、お前を誘ったのは俺の失敗だ」
青年が言いながら一良に笑いかけた。
「実はオレら晩飯賭けてたんだよ。負けた方が奢るってやつ。どう? お前も来るか? 何か奢るぞ――良ければ、そちらさんも」
青年の視線の先に一良も目を向けると、未だ暗い表情で目も合わさない誠が突っ立っている。
一良は首を振った。
「いえ、俺はこいつと話があるんで」
青年は少しだけ残念そうに「そっか」と言うと、仲間に向かって「行くぞ」と声をかけた。
去り際に青年や男たちは口々に一良に労いの言葉をかけて行く。
去っていく男たちを見送っていると、遠くで一良が最初に会った長身の男がこちらを見ているのに気づいた。
ずっとそこで見学していたのだろうか。
男がこちらに向かって手を上げたので一良は軽く会釈して応えた。
その男もこちらに背を向け去っていく。
しばらくして誰の姿も見えなくなって一良は、やっとひとつため息をついた。そして傍らに佇む誠を見上げた。
「お前、俺のあと追ってきたのか?」
「……はい」
「なんでここにいるって分かったんだ?」
「先輩の自転車が見えたんで」
自分の問いに素直に答える誠を、一良は不思議な面持ちで見つめた。
またひとつため息をつく。
「さっきは、なんであんなことした?」
一良を故意に突き飛ばした男に、掴みかかりかねない程の勢いで怒鳴りつけたことを、一良は言外に責めながら訊いた。
誠は項垂れながらも、思い出したかのように両手をギュッと握り締めて言った。
「だって……あの人、わざとだったじゃないですか。わざと先輩を突き飛ばして、先輩に怪我させるところだったんですよ!?」
腹立たしげに言う誠の言葉を、一良は複雑な心境で聞いた。
そんな感情をここで出すのか……と。
「確かにわざとだったな。そのことでお前が怒ってくれるのは嬉しいけど、でも場の雰囲気も読んで欲しい」
「……」
「あそこで喧嘩になったら、あの人たちみんな嫌な気分になるだろ。俺を誘った人だって気まずいだろうし、俺だって俺のことでお前が誰かと喧嘩するなんて気分悪い。だから――」
そこまで言いかけて一良は言葉を切った。
見上げた誠の目の周りが赤くなっていることに気づいて。
そして思わず叫ぶ。
「泣くなーっ!」
「っ!……な、泣いてませんっ!」
突然の一良の大声に驚いた仕草をする誠だが、反射的に叫び返してきた。
だが言葉とは裏腹に目尻を手でぬぐい鼻をすする誠を、一良は少しだけ呆れて見つめた。
「お前、そんなだから今日の試合も負けるんだぞ。分かるか?――優しすぎるんだよ、お前は」
叱るつもりで言った言葉は、気がつくと自分の思った以上に柔らかくなって、囁くように誠を慰めていた。
誠と肩を並べて歩きながら、一良は取り留めの無いことを考えていた。
球技大会の賭けで負けてから、誠の「お願い」で普通にしゃべることを約束させられた。
それからというもの、誠から話しかけられれば仕方なく返しているが、同じ中学、同じバスケット部にいた頃でさえこんな風に話したことも一緒に歩いたこともないのに、バスケット部を辞めてから話すようになるなど、皮肉な感じがすると一良は思う。
そもそも同じ高校に入って来たと知った時は「なんでだよ」と思った。
引く手数多ではないにしても、どこかバスケットの強い高校から声もかけられただろうに、特に強くも無いこの高校を選んだということが一良には意外だった。
なんでこの高校に? と訊きたい気はするのだが、球技大会の日に一良に対する誠の気持ちを知ってしまってから、どうにも訊き辛いような訊くのが怖いような気がするのだった。
『オレ、先輩のこと尊敬してるんです!』
誠は確かにそう言った。
後輩に、しかも自分より背の高い男に、更に言えばバスケットやバレーをしている自分の姿を見て、そして「尊敬している」と言われることは一良にとってかなり嬉しい。
だが反面「もし俺を追ってこの高校へ入って来たのだとしたら?」と考えると、よく分からない“責任”が圧し掛かってくるようで怖かった。
それに誠の気持ちは嬉しいのだが、今まで逆恨みで敵視してきた相手だったりするので、イマイチ心から打ち解けることが出来るとは思えないのだ。
「先輩、まだ怒ってるんですか?」
恐る恐るという声音で訊いてくる誠の声で、一良は我に返った。
大分長い間考え込んでいたと思ったが、気が付いてみれば運動公園を出てすぐの交差点に差し掛かっていた。
誠との帰り道はそんなに長く一緒ではない。もうすぐ別れ道がくる。
最初の頃は誠に「家まで送ります」と真顔で言わたこともあった。咄嗟に一良は頭に来て、「お前などに送ってもらわなくとも帰れるわ、ど阿呆っ!」と怒鳴ったりもした。当然、それ以後はもう「送ります」とは言わなくなったが。
「んー、ああ……そうだな」
気のない返事をしつつ、一良は今日のことを思い出す。
とくに見たいとも思わなかった他校との練習試合を、どうしてもと誠に言われて見学させられた。しかし見せられたのは情けない試合で、誠の情けない表情で……かと思えば、公園で知り合った男たちとバスケットをして一良が突き飛ばされると、試合でも見せない表情を見せる。
なぜその激情を試合で見せないんだと一良は苛立たしく思うのだ。
なぜ今ここでその激情を見せるのだと一良はそれが理解できない。
信号の無い横断歩道で車をやり過ごし渡ろうとした一良の耳に、誠の鼻をすする音が聴こえてきた。
驚いて振り返ると、眼と鼻を赤くして誠がこちらを見つめていた。
「な……泣くなって、言ったろ?」
こいつはこう見えて実は女なのか?!
そう一良は疑いたくなるほど、誠の泣く姿を信じられない思いで眺めた。
鼻をすすりながら誠が口を開いた。
「お、オレ、先輩のこと、尊敬してるんです。先輩のこと、好きなんですよ」
「や、ですよって言われても……」
「なのに、その先輩にそんなこと言われたらオレ……オレ泣きますよ」
「いや、だからもう、泣いてるし、な……」
一良は思わず周りを見回した。
見知らぬ奴らならまだいいが、これが同じ学校の奴らか、または家族にでも見られたら……。
そんな一良の心配をよそに、さらに誠が言う。
「先輩と話が出来て、オレ嬉しかったんです。憧れの先輩と並んで歩いたり、先輩に試合を見に来てもらったり……でも、先輩はオレのこと嫌いなんですよね?」
誠の言葉に一良は心臓が鳴った。
自分の中では「あいつが憎い」と逆恨みまがいなことを思ってはいたが、それを実際に本人の口から言われると、今までは感じなかった罪悪感をなぜか覚えた。
そうだ、自分は誠のことが嫌いというよりは憎いのだ。
逆恨みだったが、自分より年下のくせに長身で即レギュラーで、一緒に並んだら“お似合い”とも言えないほどの身長差で、きっと女子からは「格好いい」と言われているに違いないんだ。一良自身は「可愛い」なのに。
分かっている。これは逆恨みだ。だから本当はこんな感情、相手にぶつけてはいけない。だけど――
「尊敬してる先輩に、オレ嫌われると辛いです。悲しいんです――」
「いい加減にしろよ」
誠がはっとした表情で一良を見つめた。
思った以上に冷たい声音が出たことに、一良自身も驚いたが一度出た言葉は消せない。
そう思うと一良は箍が外れ、言葉が溢れた。
「お前の妄想にはもういい加減うんざりだ。俺は格好よくもなければすごくもない。バスケもお前には敵わないし、尊敬されるようなことなんて俺には何ひとつ無いんだ!」
一息で言い終わると、一良は手で引いていた自転車に乗り、呆然としている誠をその場に残し走り去った。
後に残された誠は呆然と、次いで肩を落とし悄然と一良の後姿を眺め立ち尽くしていたのだった。
玄関を出て空を見上げると、重そうな灰色の雲が辺りを覆っている。
もう一度家に入って傘を取り、再び玄関を出たころには一条二条の白い線が上から下へと落ちて行くのが見えた。そうかと思えばあっという間に数は増えて、木の葉や草や地面に当たっては、ザアザアと騒がしい音を立てていく。
あと少し待ってくれればと、言っても詮無いことを心中で呟きながら傘をさそうとしたとき、ふと視界に見たことも無い車が止まっているのが見え、その車から誰かが出てくるのが見えた。
傘をさす手を止めて見ていると出てきた男に見覚えがあって、一良は思わず驚き目を見開いた。
「お――あ、あなた、は」
「よぅ、久しぶりだな。一良くん、だっけ?」
なかなか良い体躯の長身で、意外に人懐っこい屈託のない笑顔をする男性。
先日の学校からの帰り道、運動公園の中を通って行ったときに出会った男性である。
「ええ、公園のときの――恭輔さん、でしたよね?」
「お! よく覚えてんな。そうそう。ちょっと話があるんだが、いいか?」
「話……?」
一良はとっさに身構えた。
一度だけしか会ったことのない男性に「話がある」などと呼び出される理由が思いつかない。
唯一思いつくことと言えば――やはり最後に揉めたことと関係があるとしか……。
だが、一良の警戒心を払拭するように男が笑った。そして、思ってもみなかったことを言うのだった。
「誠のことで話があるんだ。おれの従弟どののことでな」
結局、車に乗るよう言われ一良は、手に鞄と傘を持ったまま車に乗り込んだ。一体どこへ行くのだろうかと発車した車の進行方向に注意したが、とくにどこへ行くというあてはないようだった。
ただ、朝ということもあり渋滞は避けているようだ。
両手でしっかりとハンドルを握り、ときに慣れた手つきでギアを変えつつ運転しながら、男――恭輔は口を開いた。
「最近、あいつと――誠と喧嘩したんだって?」
従兄弟ということは何かと接点があるんだろう。家も近いようだし誠自身からあの日の事を聞かされているのかも知れない。
一良は素直にうなずいた。
「ええ、そうですね」
数日前のことを思い出す。
誠が「まだ怒っているのか」と訊くので「そうだな」と返すと突然泣き出した彼。慌てた一良だが「尊敬している」とか「好きだ」とか、好き勝手なことさんざ言ってくるのに段々腹立たしくなってきて、気が付いたら怒鳴っていた。
『尊敬されるようなことなんて俺には何ひとつ無いんだ!』
まったく今思い返してもそうだと思う。
自分の事を慕ってくれている相手に対して、あんな風に怒鳴らなくてもと今なら思う。しかも人前で、相手はここ最近ずっと落ち込んでいるような状態だったのに。
だけど――
「誠のこと、嫌いか?」
恭輔のふいの問いに一良は心臓が鳴った。
焦る自分を落ち着けながら、以前にも同じ事があったと一良は気づいた。
あの日、誠本人から同じようなことを訊かれたのだ。あの時は質問ではなく確認に近かったが――。
「いえ……嫌い、というか――ムカつくだけで」
自分の気持ちをなんて表現すればいいのか一良は困った。
決して嫌いというのではない。だが、好きというのでもない。正直に言えば年下のくせに長身でレギュラーで、自分よりも一段も二段も先を行っているようなやつに「尊敬してる」と言われてもからかわれてるとしか思えなくて。
それに、まさか「逆恨みしてます」とも言えない。
一良が答えると恭輔は声を上げて笑った。一良の返事が彼の気に入ったらしい。
「そうか、ムカつくだけか」
まだクツクツと笑いが治まらないらしい恭輔に、一良はもう少し説明しておいた方がいいかも知れないと思って言葉を続けた。
「あいつ、俺のこと……その、尊敬してるとか言うんですよ。俺なんて誠より背低いし、バスケもそれで途中で諦めて辞めたし、レギュラーだって一度もなれなかったのに――そんな俺を尊敬してるって」
「ああ」
「俺にはあいつが俺の何を尊敬しているのか分からないんです。俺より背が高くてバスケの才能あって、格好よくて女子にモテて――」
「だが、お前もモテるって聞いてるぞ?」
「それは――!」
恭輔の唐突な茶々に一良は焦った。
友人以外からそんな事を言われたことが無く、一体誰からそんなことを……と思ったが答えは明瞭だった。
恭輔は誠の従兄なのだ。
一良は恭輔を睨みつけるとつっけんどんに言った。
「それは俺が小さくて“可愛い”って言って面白がってるんです! モテてるんじゃない、馬鹿にされてるんです!」
「そうか?」
薄く笑みを浮かべながら、本当のところ興味があるのかないのか分からない様子で相槌を打つ恭輔。
その様子を見て一良は力が抜け、ひとつ息を吐くと話を続けた。
「えっと、つまり俺には誠から尊敬されるようなところなんてひとつも無いのに、誠が何度も何度も言うから、いい加減腹が立ってきて――」
「ふ〜ん」
「そもそも、あいつは俺と“友だち”になりたいなんて最初言ってて、でも普通友だち同士で“尊敬”なんて、少しはあってもあんな風に言われるものじゃないと思うんですよ」
「そうかもな」
「なのに、あんな下手すると崇め奉られるように言われたら、俺じゃなくたって腹立ちますよ、きっと……」
自分よりも上を行っている相手から、行き過ぎた尊敬の念を抱かれると、どんどんそれは重たくなって、ついには煩わしくなり苛立たしくなる。
最初、誠から「尊敬している、友だちになりたい」と言われたときは嬉しかった。自分のどこが? と思う前に、単にそう言われたことが嬉しくて。
だが、いつも一目置いて話しをされたり態度に表されたりしていると、そのうち段々と卑屈になっていく自分がいた。
俺はあいつより劣っているのに。
あいつに勝るものなんて俺にはないのに。
なのにあいつは俺のことを尊敬しているだなんて、からかってるのか? 馬鹿にしてるのか?
そんな気持ちが渦巻いて、そう思うようになってからは少しずつ、誠の言葉が一良の神経を逆なでするようになった。
そして、ついに先日それが爆発してしまった――。
「ま、一良くんの気持ちも分からんでもない」
恭輔の落ち着いた声がして、一良は物思いから我に返った。恭輔が言葉を発して初めて、車中に沈黙が下りていたのかと一良は気づいた。
信号が赤になって車が止まると、恭輔は一良を見つめながら続けた。
「確かにあいつは思い込みの激しいところがある。だけど、根は純粋無垢で優しい奴なんだ。――それは一良くんも分かってくれてると思うが……あいつの言うことに他意はないんだ」
一良はひとつ頷いた。
そうだ、それは分かっている。あいつは目の前にいる人間に「尊敬している」と言いながら、心の中でその相手を罵ることが出来るほど器用でも陰険でもない。逆に不器用ではあるのだが。
「誠はちょっと、口下手でもある。想像力は豊かなんだが、言葉が追いつかんらしい。だから、その辺は辛抱してやってくれないか。それと、もう一度話をしてやってほしい」
信号が青になって、恭輔は顔を前へ戻すと車を再び発車させた。前を向いたまま恭輔は続けた。
「あいつ、お前に心底嫌われ拒絶されたって、落ち込んでたからさ」
やっぱりな、と一良は思った。
つまりは恭輔が、一良と誠の仲を取り持とうと出てきたわけだ。それは恭輔が誠の従兄だと聞いて薄々は思っていたことだったが、果たして恭輔が自分で取り持ってやろうと来たのか、あるいは誠が恭輔に泣きついたのか――。
いや、後者は有り得ないだろうと一良は思う。
だが従兄がわざわざ出てくるほど、誠はそんなに落ち込んでいたろうか?
実は図書委員会などで誠と出会っても、ほとんど無視していたので様子はわからなかった。
喧嘩した日から昨日までを思い返していると、隣からまたクツクツと笑う声が聴こえてきた。
今度はなんだ? と思いながら見ていると、一良の視線に気づいた恭輔が口を開いた。
「いや、誠の落ち込んでるとこ思い出したら笑えてな」
「……?」
従弟のことを心配して一良のところへ来たのでは無かったのだろうか?
不思議に思って首を捻っていると、恭輔が更に続けた。
「ほら、あいつからかうと面白いだろ?」
「そう、ですか?」
「ああ、そうなの。子供のころもよくからかって遊んだなぁ。おれが飼ってた猫がある日いなくなってな、誠に『死期が近いからどっか行ったんだ。でも最後はおれが看取ってやりたい』って嘘泣きしながら言ったら、あいつオタオタしながらも町中おれの猫を探し回ってさ、あんな馬鹿ホント見たことねぇよ」
そう言って恭輔は声を上げて笑ったが、一良には笑えなかった。
もしかして今の誠のオドオドした態度の原因は、実はこの人のせいなのでは? と一良は思い始めていた。
「今回のこともな、おれが勝手に推測したこと言ってったら、赤くなったり青くなったり、終いには真白になったりしてな――いや、久々に楽しませてもらったわ」
目の端に涙まで薄っすらと浮かべながら、恭輔はゆっくりと道路わきに車を寄せて止めた。
よく見れば車の外はよく見知った風景で、左を見れば自分の通う高校が目の前にあった。ただ、すでに登校する生徒の姿はない。もうすっかり朝のホームルームの始まる時間は過ぎている。
いつの間に着いたんだろうと不思議がっている一良に、恭輔が向き直って少しだけ真面目な顔に戻ると言った。
「ま、そういうワケで誠のことが少し心配でな、一良くんの話を聞かせてもらいたかったんだよ。今日、一良くんがおれに言ってくれたこと、良かったら誠にも言ってやってくれ」
「はい……」
「それと、従兄のおれが口を挟むことじゃなかったかも知れんが勘弁してくれな」
「あ、いえ」
「それから誠のこと、できればこれからもよろしくな」
「――はい」
車を降りて走り去るのを見送りながら、一良は大きく息を吸って吐いた。
確かに恭輔の言う通りなのだろうと一良は思う。
先輩、後輩の――あるいは友だち同士の喧嘩に、どちらかの親族が仲裁に入ることなんて滅多にあるわけじゃない。
だけど、そうなってしまったのには自分にも責任がある。
突き放すような言葉をぶつけるだけぶつけ、あとは徹底して無視などと子供じみたことをしている自分が悪い。
話し合ってどちらに転ぶにしろ、こんな気持ちにも関係にも早く決着をつけたい。
一良は意を決すると、校舎までの人気のない道のりを力強く歩き出した。
よく響く体育館に教師の怒鳴り声が反響する。
放課後、バスケット部やバレー部などが場所を分け合って活動する時間、顧問である教師の檄が飛ぶことはよくあることだ。
一良はその怒鳴り声を聞きながら、開け放された出入り口に立ち中を覗き込んだ。
見れば怒鳴っているのはバスケット部の顧問で、肩を落とし俯いて怒鳴られているのは誠だった。
やっぱりなと一良は思った。
今までもさんざ動きが悪かったから、そろそろ顧問に怒られるのではと予想していたのだ。
何を怒られているのかは声がはっきりと聞き取れないので分からないが、たぶん「やる気があるのか」とかその辺りだろう。そう一良はあたりをつけて聞き耳をたてていると、「やる気が無いなら帰れっ!」という顧問の怒鳴り声が聞こえた。
「帰れ」などという言葉は、裏を返せば生徒にやる気を出させるためだったりするのだろう。本当に「帰れ」と言う場合もあるが、今回の顧問の言葉は誠を奮起させようと思って言った言葉だと一良は受け取った。
しかし、項垂れたまま誠は踵を返すと更衣室へと消えていった。それを見た顧問は当然腹を立てたようだが、ひとつため息をついて普段の部活動に戻った。
部活が終わるまで待たなければいけないだろうと思っていた一良は、「帰れ」と言われた誠には同情しつつも「ラッキー」と思ったのだった。
出入り口の手前にある段差に腰掛けて一良は誠が出てくるのを待った。
数分――いや十数分ほど待って、出入り口に人の気配がしたので振り返ると、かなり驚いた表情の誠が立って一良を見下ろしていた。
やっと出てきたかと思いつつ一良は立ち上がって、未だ驚いたままの誠に言った。
「話があるんだ、付き合えよ」
自転車を押して歩く誠の隣に並んで歩きながら、そう言えば自分は恭輔さんに送ってもらったせいで自転車がなかったなと、一良は初めて気づいた。
そのことに誠も当然気づいてはいるようだが、気まずさからか訊いては来ない。
「公園で話しをしよう」と学校を出るときに言ったのだが、ただ黙々と歩くのも嫌で一良は会話を試みた。
それに、並んで歩きながら何も喋らない2人を、不思議な顔をして見てくる者も少なからずいたのだ。
「お前さ」
「……はい」
「さっきなんで怒られたんだ?」
近ごろ動きが鈍かったのは知っているし、「やる気がない」からというのも先ほど怒られているところを見ているので知っている。
それ以前に、なぜそういうことになったのかが一良は知りたい。
誠はあまり一良の方を見ようとせず、オドオドとしながらも答えた。
「練習中……オレ、別のこと考えてて、それで……」
心ここにあらず、という状態だったのだろうか。
一良は推察する。今はたぶん自分と喧嘩したことを考えていたのだろうと思うと、少しだけ罪悪感を覚えた。
それでも喧嘩する以前はなんだったんだ? と思いつつも、そんな風に問うことも妙な気がするので訊かないでおく。その代わり――
「何を考えてたんだ?」
核心を突くだろう部分を訊いてみる。
だが、やはり言いよどむ誠。ハンドルを強く握った手が、とても緊張していることを伝えている。
「え、っと……その、あの――」
「俺のこと、か?」
「……はい」
言い辛そうにする誠の変わりに答えを言うと、躊躇いつつも頷く誠。
返事を聞いて一良はひとつため息をついた。分かってはいたことだが、自分の態度が誠に悪影響を及ぼしていたのだということを、本人の口から聞くと更に罪悪感が胸に広がる。
そんな一良の思いを察したのかどうなのか、慌てた誠が訂正する。
「あっ、あの! 先輩のことっていうか、そのオレ……オレ自身のことです! オレ、精神的に全然ダメで、せっかくレギュラー取れても、試合になると――全然ダメで……」
「でもお前、夏ぐらいまでは活躍してたろう」
「そう、でしょうか」
「ああ」
「……」
再び沈黙が下りた。
誠が何か言ってくるだろうかと一良は待ったが、何も言わないのでそのまま放っておいた。
目の前には運動公園が見えていた。
どうせ自分が話したいのはそのことじゃないと、一良は話を切り替えようと準備した。
しかし、なんとなく先ほどの誠の言葉がどこか引っかかるような気がする。
「精神的に全然ダメ」だと自分で言う誠は、確かに一良も見てて「優しい」と思ってしまうほど闘争心の乏しいプレーヤーだ。だが、一良も言った通り「夏までは活躍して」いたのだ。とすると、その途中以降からは活躍できていなくて、活躍できなくなった何か“理由”が誠の身に起こったのだ。
さて、その理由はなんなのか――。
想像し、考えて、それでも一良には分かるはずも無かった。ましてや、本人でさえ分かっているのかもあやふやな様子だ。
考えているうちに公園に着いたので、一良は一旦そのことを考えるのはやめ、適当にあまり人目につかない場所を見繕うとそこへ向かった。
手作り感あふれる木製ベンチに腰掛けると、誠にも座るように促す。自転車を止めて誠が座るのを待って、一良は会話の軌道修正を図った。
「今日、俺が話したかったのはな、この間のことなんだ。俺、お前に怒鳴っていろいろ言ったろ。それを、謝ろうと思って……悪かった」
一良は謝ると誠の方へ体を向けて頭を下げた。
慌てたのは誠だった。目上の者に頭を下げられて、戸惑ったようにオロオロと一良の後頭部を見下ろすと否定する。
「そんなっ……先輩は悪くないです!」
だが、顔を上げた一良はしっかりと誠を見返し、続ける。
「いや、悪いだろ。一方的に怒鳴って、あとは無視なんて――悪かったと思ってる」
「先輩……」
きっぱりと言い切って謝ると、それ以上は何も言えなくなったらしい誠は言葉をなくしたように押し黙った。
そんな誠の様子を、謝罪を受け取ってくれたと判断し一良は話を先へ進めた。
「ただな、誠の俺に対する尊敬とかの感情が、俺にとって負担なのは本当なんだ。俺は背が低いし、だからバスケも途中で諦めた。そんな俺からしたら、背が高くて1年でレギュラー入りしたお前がすげぇ羨ましいし、正直な話――逆恨みした」
話しながら、ふと「なんでだろうな」と一良は思った。
背が高くてレギュラー入りした者なら、一良と同じ2年にもいる。年下だからというのもあるが、逆恨みするなら2年の部員にしたっておかしな事でもないはずだ。
誠に対する感情も中学の時にだって抱いたことはないのに。
それに高校に誠が入学し、同じ図書委員になってから話すようになって、誠がとてもいい奴だということも知った。
なのになぜ、今まで以上に誠を羨み憎く思うようになったのだろうか。
図書委員の3年女子が一良と誠を見て、「“お似合い”とも言えないくらい身長差がある」と言ったことがある。それを聞いた周りの生徒が笑い、笑った生徒の中に一良が気になっていた女子生徒もいた。
一良は表立っては何も言わなかったが、心の中ではその3年女子に対して腹を立てた。自分の気にしていることを遠まわしに指摘したからだ。
だからといって怒鳴ることはしなかったが、逆に「そうですか〜?」などと言って調子を合わせることもしなかった。ただ黙ってやり過ごしただけだった。
だが誠は違った。ニコニコと笑いながらこう言った。
「それ言ったらオレ、ほとんどの人とそうですよー。身長ありすぎなんで、身長差で似合うなんて言ったら、バスケ部かバレー部の人しか居ませんよ」
またしても、ドッと笑いが起こった。
一良のことをフォローしての言葉かどうか分からないが、それでも一良は笑うことが出来なかった。
確かに背が高すぎるのも、女性側が好みでなかったら敬遠されることもある。背が低い一良にとってだけでなく、3年女子の言葉は背が高すぎることにコンプレックスを感じている者にとっても、傷つく言葉でありえるのだ。
誠の言葉でそのことに気づいた一良だが、気づくと同時になぜそこで怒らないのかと訝しく思った。
「でもオレ、それでも先輩のこと――」
誠の言葉に一良は我に返った。隣を見れば組んだ両手を握り締めて、少し辛そうな表情で誠が俯いていた。
途切れた言葉のあとに、なんて続けようとしたか一良には簡単に分かる。「尊敬しているんです」だろう。
逆恨みしていると言われた相手でも、落胆したり見限ったり軽蔑したりせず、初めからそう思った相手を尊敬し続けられるのは、相手を信頼しているからか優しすぎるからか……。
(そうか、だからかも知れないな)
一良は誠だけをなぜ逆恨みしたのかという疑問の答えが分かった気がした。
誠はどうも人が良すぎるのだ。優しすぎる。何を言っても怒らないようだし、コンプレックスを指摘されてもやんわりと返すことの出来る男なのだ。
ある意味、誠の軟弱に見えるところに気の強い一良は苛立ち、もう一方で誠の優しいところには甘えてしまっているのだ、一良が。
自分が人に甘えているなどと、あまり思いたくは無いが―― ……。
「わかったわかった、もういいよ」
一良は自分の甘える気持ちに気づいてしまったことを誤魔化すように、わざと大きな声を出して言った。
驚いた誠がこちらを見るので、苦笑してみせる。
「わかってる。『尊敬してる』って言いたいんだろ?」
「あ――」
「もう別に思いたきゃ思えばいい。だけどさ、口に出してはあまり言わないでくれ。俺は今まで人にそんな風に言われたことなかったから、そういう敬われるような気持ちを受け入れる度量がないんだ」
「……」
「分かったか?」
「――はい」
まだ何か言いたそうにはしていたが、誠はひとつ頷くと微笑んだ。どこか少しホッとしたような表情でもあったが、悲しげに見えたのは気のせいだろうか。一良はそんな誠の表情に引っかかりを感じたが――
「それじゃあ、またオレと話ししてくれますか?」
なんていう誠の言葉に一良は肩を落とした。
「だから、そんな風に気を使うなって。今どき先輩後輩でもそんな気ぃ使わんぞ」
「そ、そうですか?」
慌ててオロオロする誠の姿に、また一良は苦笑をもらす。
誠の従兄の言っていたことが少しだけわかったような気がした。
「ああ、もっとフレンドリーでいいぞ」
「あ、はい。えっと、え〜っと――ふ、フレンドリーですか?」
突然そう言われても、いきなり“フレンドリー”な態度をとることは難しいらしい。
どうしたらいいのか、と頭をフル回転させて脳内を修正している誠の姿を見ながら、自分も誠のこういう所を見習わないとなと一良は思った。
「俺も、お前のこともう逆恨みしないようにする」
「先輩……」
途端に神妙な顔つきになる誠を見て一良は思わず噴出した。言ったあとで自分の言葉がおかしいことに気づいたのだ。
「なんつって、そりゃ当然のことだ!――じゃなくて、俺もお前がもっと気軽に話しかけられるように努力する。お前に『尊敬してる』って言われても、受け入れられる度量を持った人間になれるよう頑張る」
一良の言葉に感銘を受けたのか、一良を見つめてくる誠の目に熱がこもる。自分の言った言葉に照れながら、一良も誠を睨みつける格好で見つめ返しながら続ける。
「だから、お前もフレンドリーになることとバスケと、頑張れよな」
「はい!」
馬鹿みたいに元気のいい誠の返事を聞いて、一良は我慢しきれずまた笑い出した。
辺りに自分の笑い声が木霊するのを聞きながら、一良は久しぶりに心の晴れる気分を味わった。
どう頑張っても身長とバスケとでは叶わない一良を、誠は今もまだ尊敬していると言う。人を逆恨みするような性格があると知ってもなお。
そんな真っ直ぐで純粋な誠を、一良は自分より背が高いからとか年下なのにレギュラーだからとか、そんな理由で逆恨みしていた。
それが今、取り払われようとしている。そのことが一良には新鮮で、そして嬉しかった。
「よし、帰るか」
ひとしきり笑ってすっきりすると、一良は立ち上がって誠を促した。
両腕を上げて一良が伸びをしていると、自転車に手をかけた誠が思い出したかのように訊いてきた。
「そういえば先輩、今日自転車はどうしたんですか?」
「ん? ああ。今朝な、誠の従兄どのが来て送ってもらった」
瞬間、誠が固まる。だがそれも一瞬で、すぐに「ど、ど、どういうことですか!?」とどもりながら訊いてくる。
それを面白そうに見ながら答える一良。
「誠が俺のことで落ち込んでるのを知って来たんだろ。いろいろ訊かれたし」
「き、恭輔兄さん……何か言ってマシタ?」
「んー、お前のことよろしくってさ」
「そ、そうデスカ……」
余程あの従兄のことが苦手だったりするのだろうか。
誠の様子はどこか怯えているようでもあった――だが今は、自分の中ではひとつの問題が解決して良い気分なので、それには見て見ぬフリをした。
「そうだ、自転車のうしろ乗せろよ。お前の従兄のお陰で今日自転車ないんだからな。家まで送れ」
「え? あ、はい!」
返事を待ってから自転車の荷台に跨ると、「じゃ、行きます」と誠の折り目正しい言葉が上から降ってきて、そして自転車は走り始めた。
最初はよたよたしていた動きも、次第に安定し始めて乗り心地がいい。
ゆっくりと流れる街の風景を眺めながら、一良は誠に対する自分の気持ちに変化が起こったことを改めて感じていた。
誠が高校へ入学した時、中学の時には抱いたことのない感情を持った。そして、その理由を知ったとき自分は誠に甘えていたのだろうと知った。
更に、自分が醜い感情も持っていると聞いても、それでも「尊敬している」と言ってくれる誠の純粋さと真っ直ぐさに、逆に「すごい奴だ」と一良は思う。
だけど、呆れるほど単純で優しすぎるということも――。
だから、自分がずっと一緒にいて守ってやらなきゃな、とも――。
「誠」
「は、はい」
「明日ちゃんと部活に行けよ」
「は……はい」
「顧問にも謝っておくんだぞ」
「――はい」
「レギュラー取られないように、頑張れよな」
「はい」
「バスケやってるお前、格好いいって――」
「せ、先輩っ」
「女子が言ってたぞ」
「あ―― ……はい」
甘える代わりに激励するのも自分の役目かと、一良は一人楽しげにしゃべりながら、聞いてる誠がどんな表情をしているのかも分からず、自宅に着くまでずっと誠を励ましていたのだった。
そう、誠がどんな思いで聞いているのかも知らずに――。