冬。僕はきみの傍に、

俺の日々の煩悶[3-1]

 父親が死んだのは、まだ俺が小学校に上がる前だった。
 仕事の移動中、脇見運転していた車に横から追突され、それが運転席側だったものだから衝撃は激しかったに違いない。
 事故現場から病院まで父親の意識はあって、知らせを聞いて駆けつけて来た俺や母さんや父方の祖父母とも対面したが、その後、手術中に力尽きて亡くなってしまった。
 幼かった俺は、すぐには父親が死んだことを理解することができなかったが、病院のベッドの上で眠る父親の周りで、みんなが泣いてるのを見てやっと、もう二度と父親には会えないんだと悟った。
 母さんに抱きつき、抱きしめられながら一緒に泣いて、思い出したのは生前父親が言っていた、
『お前は男だ。だからもし父さんに何かあったら、お前が母さんを助けるんだぞ』
という言葉だった。
 今それを聞けば「何ベタなことを」って笑ってやるんだけど、小さかった俺は一人前きどって葬式ではずっと泣かずに母さんの傍についていたのを覚えている。
 一方、父親の葬式が終わったあとは、母さんにとっての修羅場が待っていた。
 父方の祖父母がなぜか父親が死んだのは母さんのせいだと言い出し、一方的に母さんを責め始めた。母方の祖母は一人息子を亡くして錯乱したんだろうと言っていたが、未だになぜそれで事故が母さんのせいになるのかは分からない。
 父方の祖父母は母さんを責めるだけじゃなく、孫である俺を引き取ると言い出したらしく、母さんは最後まで話し合いで解決したかったと言っていたらしいが、最終的に弁護士を挟むことになり今はほとんど没交渉になっている。少なくとも俺は葬式後に2、3回会ったあとは全く見ていない。
 夫が亡くなり母さんは1人で俺を育てなきゃいけなくなって、でも1人では大変だからとそれまでは父方の祖父母の近くに住んでたのを、母方の祖父母――つまり母さんにとって実家の近くに引っ越し、祖父母の助けを得ながら働きつつ俺を育ててくれた。
 そんな父方の祖父母との軋轢は中学の頃、口が重い母さんに代わって祖父母がポツポツと話してくれて知ることができた。
 幼い頃はそんなことも知らず、だが幼いながらも母さんを助けたいと思って、家事とかを積極的に手伝うようにしていた。
 まだ俺が小さい頃は祖母がよく家に来て家事をしていたし、俺が悪いことをすると厳しく叱られたりもした。祖母は躾とかには厳しくて叱られるときはとても怖かったけど、それ以外では優しいから好きだった。今でも好きだけど、最近は正月くらいにしか会っていない。
 祖父はあんまり家に来なかったが、たまに会いに来たてくれたり祖父母の家に会いに行ったりしたときは存分に甘えさせてくれた。あんまりにも甘えさせ過ぎるので、時々祖母とケンカになったりしてたんだけど、俺は祖父も祖母と同じくらい好きなんだ。
 そんな家庭で育って、他の家庭とは少し違うってことは分かっていて、でも俺はそれほどそのことを気にしたことはなかった。
 時々、父親に会いたいなって思うことはあるけど、無理だってことは分かってるから家事をしたり、勉強したり、趣味をしたりしてやり過ごしていた。
 母さんは朝から晩まで仕事をしていて忙しそうにしているけど、週末にはいつも一緒に食事をしたり出かけたりするから、淋しいと思うことはあまりなかったと思う。
 それよりも俺は、母さんを助けたいと思っていたし、心配もかけたくなかったから家事を頑張ったし、勉強も遅れをとらないよう努力した。
 それほど勉強が嫌いではなかったので、小学校からずっとそこそこ良い成績をキープしてきていたと思う。とくに問題も起こさず学校生活を楽しんでいた。
 だが、小学校6年のときに一度だけ大きな問題を起こしたことがある。
 俺はいじめというのが大嫌いで、それまでも人の嫌がるようなことを面白がってやってる奴に注意したりすることはあって、それでちょっとしたケンカにはなってもまだ子供だから途中で教師が間に入って来たりして、それほど大きな問題にはならなかった。
 ところが、その時はそれまでと何かが違った。
 問題を起こした奴とは6年で初めてクラスメイトになり、こんな奴もいるのかと驚くほど人をいじめるのが好きな奴だった。
 俺は最初、ちょっと注意するだけだったし、相手もそれで引き下がることがほとんどだったが、その時はなぜかお互いに引くことができず言い合いになった。
 ちょっと言い合いになるだけなら誰かが教師を呼びに行き、あるいは仲裁が入って終わるんだけど、その時そいつが俺の母子家庭を持ち出して「給食費も払えない貧乏人」と言って俺を突き飛ばしてきたので、事実とは違う中傷に頭に血が上った俺は気が付くとそいつに飛びかかっていた。
 実際、その時の記憶はあまりないんだけども、何発か俺はそいつを殴ったようで教師に止められたときには、そいつは唇が切れて血が出ていた。
 俺も最初に突き飛ばされて背中を打っていたし、頬も殴られて赤くはなっていたが、明らかにやり過ぎだといって俺の方が分が悪かったようだった。
 すぐに互いの親が呼び出されることになったが、俺の親は母さんだけだし仕事中で不在だということで、祖父母が呼び出されることになった。
 相手は母親だけだったが、自分の子供が怪我をしているのを見て最初から最後までヒステリーみたいに喚いていたのを覚えてる。
 他所の子供を怪我させたってことで祖父母は何度も頭を下げて謝っていて、それを見て俺は相手よりも祖父母に対して「何てことをしてしまったんだろう」とひどく後悔した。
 最初に手を出してきたのは向こうだし、俺も怪我させられてるのに俺が相手に謝らなきゃいけない理不尽さに、泣きそうになりながらも俺はこれ以上祖父母が頭を下げるのを見たくなくて、悔しい思いを噛み殺しながら頭を下げた。
 ところが、相手の母親から浴びせられた言葉は、
『片親だから躾が行き届いていないのね』
だった。
 下げた頭の上から冷水を浴びせられたような衝撃だった。
 何も知らないくせに――自分の子供がいじめをしていたことを棚に上げて――父親を事故で無くした子供に向かって――なんでそんなことが言えるのかと、頭を下げながら俺は歯を食いしばった。
 それと同時に、俺が殴り合いのケンカなんかしたから他人から母さんや祖父母が悪く言われたんだと思い、激しい後悔と説明できないもやもやとした気持ちを抱え、俺はその日なかなか家に帰ることができなかった。
 家の周囲をフラフラしたり公園でぼうっとしたり、コンビニに入って立ち読みしたり――。
 俺がクラスメイトとケンカして祖父母が呼び出されたことを知った母さんは、その日仕事を早引けして帰って来ていたようで、なかなか帰って来ない俺を心配して探していた。
 そんなことも知らず俺が、陽が落ち暗くなっても帰らなかったせいで、祖父母や母さんの姉、伯母や伯母の息子、つまり俊也さんも一緒になって探し、それでも見つからなくていよいよ警察に――というタイミングで俺がやっと家に帰り、母さんには引っ叩かれて泣かれて、結局輪をかけて心配をかけてしまった。
 久しぶりに泣く母さんを見て俺は、改めて心配かけまいと心に誓い、問題を起こさないようにと学校生活を送った。
 その頃からだったと思う。まだ大学生だった俊也さんが、よく俺の家に遊びに来てくれるようになったのは。
 恐らく母さんから、もしくは伯母さんから俺の様子を見てやってと言われたんじゃないかと思う。でも、その頃の俺はそんなことに気づくでもなく、俺の遊びの幅を広げてくれる大人な俊也さんの存在が珍しくて嬉しくて、俊也さんが来るのをいつも楽しみにしていた。
 この頃にはもう俊也さんは車の免許を持っていたから、時々週末の休みに車で遠くまで乗せてくれたりもしたし、大学のサークル活動と称した遊びに参加させてくれたりもした。
 でも、その頃とくにハマっていたのはテレビゲームで、俊也さんは根気よく俺のゲーム遊びに付き合ってくれたんだ。
 それまでと違う日々を3ヶ月ほど過ごしたある日、やっぱり俊也さんとゲームをしながら土曜の午後を潰していると、ふと俊也さんがあの日のことを訊いて来た。
 つまり、俺がクラスメイトとケンカして祖父母を呼び出されて、その後なかなか帰らなかった日のことだ。
「ユキはどうして、あの日すぐに帰らなかったんだ?」
 俺はゲームをしながらどう話せばいいのかと迷った。その頃の俺自身、自分の気持ちを上手く説明できずにいた。
 俊也さんはそんな俺の様子を察してか、じっと黙って俺の返事を待ってくれていた。
 俺はまずケンカになった発端を話した。罪を擦り付ける気持ちはなく、相手の言動が許せなかったことを伝えたかった。そして、相手に『母子家庭の貧乏人』と揶揄されたことに頭に来て、我を忘れて手を出してしまったこと、でも相手が先に手を出してきたことを話した。
 俺は手を出したことは良くなかったと思ってはいるが、相手も悪いのだから俺だけが謝るのは違うと思うのに、相手の母親が俺や祖父母に怒鳴ってきて、祖父母が何度も頭を下げてるところを見てショックだったこと、最終的に自分も謝ったが理不尽だと感じたこと、ちゃんと謝ったのに相手の母親が『片親だから躾がなってない』と言ってきたこと、それが悔しかったこと――。
 最後は泣くのを堪えながら俺はポツポツと話した。
 涙がこぼれそうになって言葉が続けられない俺に代わって、俊也さんは「そっか」と言うと優しく話し始めた。
「確かに、いじめっ子の母親はユキに対してひどい事を言ったと思う。でも、自分の子供が怪我させられてびっくりして、思わずひどい事を言ってしまったのかも知れないよね。ユキにとっては理不尽だけども、子供を怪我させられた母親の気持ち、ユキなら分かるよね?」
 そう言われて、俊也さんまでいじめっ子やその母親の肩を持つのかと、俺は頷くことができなかった。
 でも、俊也さんはそれを責める様子もなく続けた。
「僕もいじめっ子やいじめっ子の母親が悪いんだと思ってるよ。どんな理由があってもいじめは良くないし、母親も大人げない言動だったと思う。でもね、今後もし会うことがあったとして、やっぱりいじめっ子の母親はユキを責めるかも知れないけど、心のどこかでは自分や自分の子供が悪いって分かってるんだと僕は思うな」
「……?」
 相手の母親は俺を責めながらも自分が悪いって分かってる、ということが分からなくて、俺はつい俯いていた顔を上げると俊也さんを見た。
「うん、自分たちが悪いって母親は分かってるんだよ。だから、それを周囲に知られたくないし責められたくないから、必死になって周りを攻撃することで自分を守ってるんだと僕は思うんだ」
 砕いた説明に俺は何となく分かったような気がして、小首を傾げつつも頷いた。それを見て俊也さんも頷き返し、さらに説明を続ける。
「つまりね、いじめっ子もいじめっ子の母親も、ユキを責めてるわけじゃないんだよ。わかる? 相手はそれらしいことを言ってるだけで、ようは自分自身を守ってるだけなんだ。だから、そんな相手の言うこと真に受けることないんだよ」
 俺は完全にでは無いにしても、腑に落ちた気がしてもう一度頷いた。
「彼らもきっと、いつか自分の間違いに向き合わないといけないときが来るだろうし、そんな日が来なかったとしてもそれは彼らの問題だから、ユキは相手から手を出したというきっかけがあったとしても、自分も手を出してしまったということだけは反省して、あとは全部無視していいからね」
 優しく言い諭されて俺は理不尽だと思った相手への怒りが薄れていった。
 だが、怒りが薄れて行くと今度は母さんや祖父母に心配をかけてしまったことや、いじめっ子の母親から責められてしまい謝らせてしまったことや、そういう家族に対する申し訳なさみたいな、もやもやとした気持ちが浮上してくる。
 でも、それも俊也さんには想定内だったんだろう。俺の表情を読み取ると優しい口調はそのままに俺の気持ちを代弁する。
「それで、だ。ユキはお母さんやお祖父さんお祖母さんが悪く言われたことが自分のせいだって思ったんだよね?」
「……うん」
「でも、いじめっ子やいじめっ子の母親のことを理不尽だと思ってたなら、こうも思わなかった? 『なんで謝るんだ?』って」
 そう言われた瞬間、俺はハッとなった。ずっとその思いを抱えていたはずなのに、無意識にその思いを避けていた自分にこの時初めて気づいた。
 そんな俺の表情でわかったのだろう、俊也さんはひとつ頷いて続けた。
「そう思うよね。だって彼らにだって悪いところはあるのに、一方的に謝るのはやっぱり違うもんね。でも、お祖父さんもお祖母さんも、ユキがこれ以上責められたくないから、ユキを守りたいから必死に謝ったんだってこと、ユキは分かってるよね?」
 それは……わかる。
「それでも、お祖父さんやお祖母さんを責めてしまう気持ちとか、『母子家庭じゃなかったら』って思ってしまったりとか、ないかな?」
 この辺りは当てずっぽうに近いようだったけど、そう言われて確かに俺は祖父母を責めたり、初めて母子家庭という環境が嫌だと思ってしまったり、そういう感情は持っていて、それが「もやもや」の正体だったんだと俺もこの時にになってやっと気づいた。
「それで、顔を合わせづらくて帰れなかった――違う?」
 俺はたぶん、問題を起こしてしまったという後悔だけなら、普通に家に帰ることはできたと思う。祖母の小言も母さんの叱責も、自分が悪いと分かっていたら避けようとは思わない。
 でも、その日帰れなかったのは祖父母を責める気持ちや、母子家庭が嫌だと思う感情や、そういった自分の気持ちが後ろめたいのと自己嫌悪で、どうすればいいか分からなくなっていたから、なんだろう。
 その事に俺はようやくこの時気づいた。
「でもね、ユキ。無意識にその気持ちに気づかないようにしていたのかも知れないけど、そういう自分の感情は良い悪いじゃなくて、自分自身で認めてあげてほしいんだ」
 自分で自分の感情を認める? 祖父母を責めたり、母子家庭が嫌だって思ったりすることを?
「ユキが感じた思いを、全然責める必要はないってこと。そこに善悪はないんだよ。それで、お祖父さんお祖母さんに『なんで一方的に謝るのか』とか、お母さんに『母子家庭が辛い』とか、そういうの、ちゃんと言った方がいいと僕は思うんだ」
 自分の感じた思いを責めずに認める、そこは理解できたけど、その感じた思いを祖父母や母さんに言うということを考えた瞬間、俺は強い拒否感を覚えた。
 そんなことはできない、これ以上迷惑はかけたくない。手を煩わせたくない――。
「難しそう?」
 しかめた俺の顔を見て、俊也さんが苦笑を浮かべながら首を傾げた。
 俺は視線を下に彷徨わせたまま小さく頷いた。
「それはなんで?」
 問われて、渋々俺は口を開いた。
「……迷惑とか、かけたくない……から」
「そうか。でもさ、家族っていうのは迷惑かけるものなんだと僕は思うんだ。『迷惑』っていう言い方もちょっと違う気もするんだけどね」
 そんなもんだろうかと俊也さんを見ると、苦笑に近い笑みを浮かべて首をかすかに傾げながら俊也さんは続けた。
「僕だって、今は詳しく話せないけど両親に怒鳴られたことも泣かれたこともあるんだよ。でも、やっぱり家族だからどんな僕でも受け入れてくれて、理解してくれようとしているんだ」
 俺は、目の前の優しい俊也さんが、両親に怒鳴られたりしている場面を想像できなくて、俊也さんでも家族とケンカしたりするんだろうかと思うと信じられなかった。
 でも、ケンカしても受け入れてくれる家族が羨ましくもあった。
「ユキのさ、そういう責めたりとか母子家庭が嫌だって思う気持ちとかさ、たぶん伝えてすぐは戸惑ったり怒られたりするかも知れないし、もしかしたらずっと理解してくれたと思えるようなことはないかも知れない。でも、そんなことで家族って壊れたりしないんだよ。むしろ、意見をぶつけ合うことで絆が強まるんじゃないかな。それに、ユキは責めたり母子家庭が嫌だって思った気持ちを、自分で責めてるだろう。それはユキが家族のことを思ってるからだし、お祖父さんもお祖母さんもお母さんも、そのことはすぐに気づいてくれると思うんだ。例えその思いを伝えたとしても、僕はお祖父さんもお祖母さんもお母さんも、ユキを嫌ったりは決してしないと思うよ」
 優しく語りかける俊也さんの言葉に、ついに我慢できず俺は泣いてしまった。そんな俺の頭をポンポンと撫でつつ、俊也さんが優しく問いかけてきた。
「ユキだって、逆の立場になったら嫌ったりなんてしないだろう?」
 俺は頷きながら、家族ってそういうことなんだと理解しホッと安堵して、そうするともっと我慢できず長いこと泣き続けてしまった。
 その日から俺は、無理に「母さんを助ける、みんなに心配かけない、迷惑かけない」と気負うことなく、いつも通り生活できるようになったと思う。
 そして、俺の中で俊也さんの存在が家族と同じくらい大きくなっていった。

2015.08.19

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