遠くから部員たちの掛け声や歓声が聴こえてきて、俺はその声に引かれるように手元からグラウンドへと視線を移した。朝靄の名残でかすかに白むグラウンドではサッカー部のみんながミニゲーム形式で練習を進め、その技術を磨くために必死で――遊んでいる。
そう、遊んでいるんだ。俺から見ればみんな楽しそうにボールと戯れている。羨ましい限りだ。
そんな俺はと言えば、昨日の靴磨きの残りに加えて、磨き終えたものの中から西森先輩にダメ出しされた分の靴も磨かされていた。
これが朝練の時間内で終わらなければ、放課後の練習でも引き続きやれと言われているけど、どう考えても終わりそうにない量に俺は、半ばやけくそになってクソ丁寧に磨いてたりする。
こうなったら二度とダメ出しなんかさせるかと、俺は少しムキになってた。
ただ、無心で手を動かしていたつもりが、気がつくと俺は頭の中でいろんな思いを巡らしていた。
例えば、朝練が始まる前の西森先輩のダメ出しに腹が立ったなとか、ダメ出ししてる西森先輩の傍で薄ら笑いを浮かべている枡田先輩や波多先輩の視線にむかついたなとか。
昨日、俺の不注意で練習中に枡田先輩とぶつかってしまったから、まるでその罰のように押し付けられる靴磨きに先輩たちは喜んでいるんだろう。
それでも俺は不満を口にすることなく――顔には出てたかも知れないが――すぐに靴磨きに取り掛かった。すると、ふいに視線を感じた気がして顔を上げると、副部長になったばかりの八坂先輩が何か言いたげな目で俺を見下ろしていた。
視線はすぐに逸らされたが、あれは一体何だったんだろうか――。
そう考えたとき、昨日の部活後に靴磨きをさせられたところに西森先輩が来たときのことを思い出した。俺に用があった西森先輩を、グラウンドの端で待つ八坂先輩の姿があった。遠かったせいで顔の表情まではわからなかったが、もしかしたらあの時も実は俺のことを、さっきのような物言いたげな視線で見ていたりしていたのだろうか。
俺、何か怒らせるようなことしたっけ……と、つい暗い考えに傾いてしまうけど、怒らせるほど八坂先輩と話をしたこともないし、怒らせるようなことをした覚えもないんだけど。
そういえば、以前、友明と雄樹で次の部長は誰がいいかっていう話をしていたとき、友明が「八坂先輩は間壁先輩と物腰や雰囲気が似てる」とか言ってたが、改めて比べてみると全然違うな。
いや、確かに見た感じの物腰や雰囲気なんかは似てるのかも知れないが、性格の部分がまったく違う。といって八坂先輩の性格なんてそれほど知ってるわけでは、もちろんない。ただ、同じ部活に所属してたら少しはそういうのが伝わってくるわけで、間壁先輩は誰にでも分け隔てなく気さくな態度で接していたけど、八坂先輩は人見知りがあるらしく誰でもというわけではない。
さすがに同級のチームメイトとは親しげに話したりしているが、3年の先輩や俺ら1年の後輩には明らかに壁があるように思う。3年に対しては憧れと尊敬という距離が、1年に対しては些か威厳を見せるような壁が。
そう考えると以前、部長は八坂先輩がいいんじゃないかと思いつきで言ったことがあったが、それはあり得ないことだったなと思う。副部長も西森先輩が部長になったから、意思疎通がしやすいとかいう理由で八坂先輩に決まったんじゃないだろうかと、穿った見方をしてしまう。
「橋谷」
名前を呼ばれてハッとし、俺は慌てて顔を上げた。見ると、今まさに俺が考えていた人――八坂先輩がすぐ傍にいて更に焦った。どうやらミニゲームから一旦外れて水分補給に来たらしい、手にはペットボトルが握られていた。
「手が止まってるんじゃないか?」
言われて自分の手元を見ると、確かにさっきから同じところばかりブラシで擦るだけで、それ以外の汚れを落とせていない。
「す、すみません……」
「まぁ、同じことばかりやらされて飽きるのはわかるけどな」
「あいや……」
「実際、飽きたろ。嫌にならないか?」
決め付けられた言い方に全否定することもできず、俺は言葉を選びつつ口を開いた。
「……正直言うと飽きますが、俺の自業自得でもあるんで、西森先輩に全部OK出してもらえるまで頑張ります」
俺がそう言って顔を上げると、八坂先輩は感情を見せない表情で「ふ〜ん」と相槌を打った。
「それじゃあ、西森のこと理不尽だとか腹立つとか思わないわけ? 間壁先輩や木原先輩にはこんなんさせられたことないだろ?」
「はぁ……いや、確かにさせられたことないですけど、腹立つとかそんなん、ないッスよ」
唐突な問いに脳の回転が一瞬止まるが、俺は慌てて八坂先輩の言葉を否定する。そりゃ多少はムカつくとかあるけど、まさか先輩に面と向かって「理不尽だ」とか「腹立つ」なんて言えるわけがない。
それに、西森先輩と八坂先輩は小学校からの仲で親しいってことはみんなが知ってることで、そんな関係を知ってるのに八坂先輩に西森先輩の悪口なんて――たとえそれが正当な批判であっても言えるわけがない。
なんで、そうと分かってて八坂先輩は俺にこんなこと聞いてくるんだろう。
それが不思議でつい八坂先輩をじっと見つめてしまったが、八坂先輩は「ふ〜ん、そう……」と言ってまたグラウンドに戻って行ってしまった。
一体、何が言いたかったんだろう。何を聞きたかったんだ?
「そういうとこ、ちょっと女っぽいよな〜」
朝練が終わって教室に行く途中、例によって目ざとい友明に「八坂先輩に何か言われてたろ。何を言われてたんだ?」と訊かれたんで話したら、傍で聞いていた雄樹の感想がそれだった。
本人が聞いたら顔を真っ赤にして殴りかかられそうな、遠慮も何もないことを言ってしまえるのが雄樹だが、いい加減それで身を滅ぼすことになるぞと思うも、そこはあえて指摘せず俺は「女っぽいって?」と問い返す。
「だってさぁ、つまり西森先輩に靴磨きなんかさせられて、内心くさってんだろとか腹立ててんだろってことを八坂先輩が探りに来たんだろ。そういうの、なんか女っぽくね?」
言われてみればそうかも知れない。八坂先輩の目的がそれなんだとしたら、なんというか、男らしくないとは思う。
「それにロッカーが超キレイだしな」
いや、それはあんまり関係ないだろ。女子でも整理できないヤツはいるし……。
「俺は女っぽいっていうより、そっち系だと思うけどな」
と、ギョッとするようなことを言い出したのは友明だ。
「そ、そっち系って……」
「おねえ系」
「マジでか!?」
思わず大声を上げて周囲の目を引きつける雄樹に、友明が人差し指を口元に当てて軽く睨みつける。危なかった……雄樹が先に声を上げなきゃ俺が上げてたぞ。
「2、3年の先輩でも何人か言ってるしな。部室で着がえるとき絶対壁の方向いて着がえるし、エロ本見せると嫌悪するんだってさ」
「へぇ〜」
「いや、でも普通のヤツでも嫌悪するくらいはあるだろ」
「まあな。でも好みの女のタイプを訊いても『とくにない』って言うらしいし、じゃあ好きな芸能人はって訊くと男の芸能人を挙げるらしい」
「男の……」
聞けば聞くほど八坂先輩がそれっぽく見えてしまって俺は戸惑った。こうなると俺の想像力が働き出して、やっぱり八坂先輩の想い人は西森先輩になるんだろうなとか、だとしたら西森先輩に敵意を持ってるヤツを憎んだり、あるいは西森先輩が誰かと親しくしてたら嫉妬したりするんだろうなとか、俺もそこらへんのことで探りを入れられたんだろうかとか思ってしまう。
「ま、実際はわかんねぇけどな」
そっけなく俺の想像を突き放す友明の言葉に、現実に戻ると同時に足を止めた。自分の教室の前まで来ていたので、そこで友明たちと別れて教室に入ると、待っていたかのように大野が声をかけてきた。
「橋谷、お届けもんだぞ」
言葉どおり、目の前に掲げて見せる大野の手には白い紙のようなもがあった。一見ぺらぺらのように見える5センチ四方のその紙は、よくよく見ればノートを1枚破って小さく折ったらしい手紙のようだった。
無意識に俺が手を差し出すと、その手に大野が手紙らしきものを置く。
「ほいよ、間壁とかいう3年からのお手紙」
「えっ!?」
ふいに飛び込んできた名前に俺はギョッとし、ひったくるように大野の手から手紙を受け取った。だが、その場で手紙を開けずじっとそれを見つめてしまう。
「サッカー部の先輩なんだって? なんかフワフワした感じの人だよな」
「ふわふわ?」
「そ。女子みたいな」
「じょっ!?」
「手紙を書くのだって女子がよくやるじゃん。言伝があるんならおれに言ってくれりゃいいのに」
大野の言葉に、ついさっき友明から聞いた話を思い出して俺は焦った。全力で頭をフル回転させて、大野の「間壁先輩は女子みたい」という印象を塗り替えなければと思った。
「ば、バカ。お前、部活や試合中の先輩の姿を見たことがないからそう思うんだろ」
「え、なに? 試合中はすんげぇの? 厳しかったりすんの?」
「ったりめぇだろ。人が変わったみたいに怒号が飛んだりすんだぞ。そういうのでも結構有名だったんだぞ、二重人格っつって」
「へぇ、おもしれぇな、お前の先輩って」
大野の間壁先輩への印象を変えることが出来たかどうかは不安だが、一応は練習や試合では厳しい(男らしい)先輩と思わせることは出来ただろうと胸を撫で下ろし、まだ話を続ける大野に適当に相槌を返しながら自分の席へ着いた。
そうして、大野への相槌の合間に前の席のニシに挨拶を返しながら、俺の意識はすっかり手の中の手紙に奪われていた。
朝練が終わって教室に現れた中川も合流し、4人でくだらない会話を続けていた間も、担任が出席を取ったり連絡事項を伝えたりする合間に、奥さんとのノロケ話をしたりするグダグダな朝礼の間も、1時限目が始まった今でも俺の頭の中は間壁先輩の手紙のことでいっぱいだった。
気になるんだからさっさと読めばいいものを、音戸沢競技場でのこととか俊也さんのマンションの前でのこととか思い出したり、あるいはついさっき友明や雄樹、大野が言った「女っぽい」という言葉が過ぎってしまい、つい読むのを躊躇してしまう。
2度告白されたとはいえ、先輩が部活を引退してからは校内で会ったときに挨拶をする程度で、告白される前と何ら変わりはなかった。ただ、教室まで来て手紙を置いてくなんてことは初めてで、だからこそ何か人に見られたら怪しまれるようなことを書いてるんじゃないかと思うと怖かった。
それでも、読まないわけにはいかない。教師が黒板に向かったのを見計らい、両手の中でそっと手紙を開いた。
『放課後、1号棟の3階、階段おどり場へ来てほしい』
それだけだった。ノート1枚分だったから、もっとたくさん書いてるのかと思ったけど、書いてある内容はその1文だけだった。何だか肩透かしをくらったような心持ちで、俺は何となくその1文をじっと眺めてしまっていたが、教師がこちらを振り返って説明を始めたため手紙をまた折りたたむとポケットに入れた。
授業に集中するフリをして、だが俺はやっぱり手紙の内容の意味をずっと考えてしまっていた。
1号棟といえば特別教室ばかりの棟で、そこの3階の階段おどり場に放課後ってことはつまり、2人っきりで会おうってこと……なんだろうな。何か話があるんだろうけども2人っきりってことは――いや、まさか。
それとも、もしかしたら部活での俺の様子が先輩に伝わって、その話をしたくて呼び出したんだろうか。それは有り得るかも知れない。
ま、行ってみればわかることか。間壁先輩と話すのは俊也さんのマンションの前で会って以来だ。引退式の日も会ったけど、話はあんまり出来なかったしな。
そういえば先輩は部活を引退してからもサッカーはやってるんだろうか。受験勉強で忙しいだろうけど、サッカーをやってない間壁先輩なんて俺には考えられないな……。