あいつが友人と2階へ行ったあとも、1階では食事が続けられていて、上に食事を運び終わった母さんから再び、諦めもせずに「帰って来い」という説得が繰り返されたけど、俺は含みを持たせることもなく頑として首を横に振り続けた。
「学校にも部活にも馴染んで来たとこだし、今の生活にも体が慣れてるから、それを変えたくないんだ。また変わってしまったらそれに慣れるのが大変だし、これから2年に上がるともっと勉強に集中しなきゃいけないし、それにサッカーも辞めるつもりはないし……」
それでもまだ母さんは納得していないようだったが、
「まぁいいじゃないか。一幸くんが今のままの方がいいって思うなら、他人に迷惑がかからない限り自由にさせるのも親の務めじゃないか?」
そう英二さんが母さんを諭した。
英二さんのその言葉は、俺からしても意外でも何でもなかったし、いつだって誰にだって甘いことを言う人だから、もしかしたら加勢してくれるかなっていう予想はあった。
それは有り難いと思う反面、英二さんのこういうところがあいつの我が儘を助長させたのは確実のはずで、だから本心から素直に感謝できないんだけど……。
だが、そんな言葉でも母さんを引き下がらせるには充分だったようで、
「もしまた病気になったり、俊也くんに迷惑になるようなことがあったら、その時は帰って来てもらうからね」
という条件は出たものの、現状維持で行くことをやっと承諾してくれた。
俺にとって煩わしい話が終わると、すっかり食卓の上の料理もきれいに無くなっていて、まるでお預けのようにキレイに残っているケーキを、じゃあ最後に食べようかということになった。
母さんが2階の奴らの分もケーキを切り分けていると、丁度それを見計らったかのように、トイレに降りてきたあいつがついでのようにダイニングへ顔を出してきた。
「あ、鋭くん。ケーキ食べるでしょう? 今――」
どうやら飲み物でも取りに来たらしく、キッチンへ入って冷蔵庫を開けるそいつに、母さんが話しかけるも聞いているのかいないのかろくに返事すらしない。そして、
「あぁ、持って来て」
と、さもそれが当然というように言うから、俺は瞬間的に頭に来て、出て行こうとする後姿に荒げた声をぶつけた。
「持って来てじゃねぇだろ。持って行けよ」
辛うじてトーンは抑えたものの、内心の苛立ちは如実に表れていたのは確実で、途端に部屋の空気が一変する。
確認はしていないが母さんも英二さんにも緊張が走って、身動きひとつせずことの成り行きを見守っている様子が感じられた。
そう言えば母さんや英二さんの前で、こんな風にあいつに怒ったのは初めてかも知れない。
俺に呼び止められたそいつは、だが振り返るとハッと鼻で笑って、
「めんどくせぇ。そんなに母親をこき使われたくねぇんだったら、あんたが持って来いよ、お兄さん?」
と、まるで……というよりははっきりと俺を揶揄するように言った。
当然またカァっと頭に血が上るが、俺が言葉を返すより先にそいつはさっさとダイニングを出て、2階へと上がって行ってしまった。
俺は椅子に座りなおして大きく息をつくと、怒りを治めるのに苦労した。
向かいの席では英二さんが申し訳無さそうに俺を見ていたが、たとえ英二さんが謝ってきたとしても今は、その謝罪を受け入れる気持ちはなかったのであえて無視をして、その英二さんの横でいそいそとケーキを皿に移している母さんを見て、俺はもう一度大きく息を吐き出すと立ち上がった。
「俺が行くよ」
俺の申し出に母さんは「でも……」と戸惑っていたが、俺はそれ以上何も言わず無言で待った。それで俺が何を言っても聞く耳は持ち合わせていないということを察したようで、母さんもまた無言でトレイにケーキを2つ乗せると差し出した。
トレイを受け取るとダイニングを出て階段を上がり、上がりながらどっちの部屋にいるんだろうかと思ったが、友人が家に来たならゲームでもして遊んでるんだろと検討をつけて、俺の部屋の方へと向かった。
ところが、俺の部屋の扉をノックしようとしたその時、あいつの部屋の方から話し声が聴こえてきて、どうやら俺の予想は外れたようだとわかった。ノックするために上げた手を引っ込めて、声のした方を見ればあいつの部屋の扉が大きく開いていて、その開いている扉を見たとたん、俺はふと疑念を抱いた。
まず、絶対ケーキを持ってくる俺のためじゃないと言い切れる、扉の開けっ放しに不信感を覚え、そして大きく開いているにしては洩れてくる声がくぐもっていることに疑問を抱いた。
俺は自然と足音を立てないように廊下を進み、あいつの部屋の扉へと近づいた。
あいつの部屋は扉をあけると1mほど狭く短い通路になっていて、普通の四角い部屋よりは戸口からの死角が多い。ゆっくりと近づいて行くと、その狭い通路の壁が見えた。
近づくにつれて声は少し大きくなっていったが、そうしてはっきりと分かったのはその声が、会話が成り立つような単語を発していないということだった。
当然、男の声ではあったがそれは、何か辛いのを我慢しているような喘ぎだと分かった。
分かったとたんに俺は動悸が早くなった。頭の中では一体何やってるんだとか疑問に思ってみたりするも、実は本能の部分で何となく俺には分かっていたと思う。
だから、近づくにつれて死角を作っている壁から、あいつとあいつの友人2人の密着した姿が見えて、自分の予想が大体当たっていたことに内心で驚愕した。
密着したと言って互いの一部と一部が、だ。
扉がある方の壁、つまりこちら側に向かって立つあいつと、その前にしゃがんで腰の辺りに顔を近づけている久臣。その久臣の頭はしきりに前後に動いて、その口からはくぐもった喘ぎを漏らしている。
もちろん、目の前でこんな行為を見るのは初めてだったが、こいつ等がやっている行為が何なのか、俺は知っている。俊也さんや陽平さんのことを知って、同性愛があるということも知っている。
だが、本当にそういう事があるということを目撃してしまったことと、他人の行為を実際に見てしまったことに、激しい後悔と嫌悪を覚えた。
ふと、何気なく視線を上げた。上げたことで、俺はずっと久臣の後頭部を凝視していたということに気づいたのだが、上げた視線の先にはあいつの嫌みな笑みを浮かべた顔があった。
そいつの視線は間違いなく俺を見ていて、覗いている俺にいつからか気付いていたのだ。
まったく故意にではなかったが覗いてしまったのは事実で、目が合った途端うしろめたさに固まってしまったが、あいつは俺が居るということに驚くどころか、覗きをした俺を嘲るように笑みを見せた。
その瞬間、俺は部屋の扉が開いていた理由を悟って、思わず怒りが湧いてくるが、そうかと言って今この状況で怒鳴り込むことも出来ず、乱暴に廊下にケーキを乗せたトレイを置くとその場をあとにした。
足早に廊下を降りて、その勢いでダイニングの扉を開けたら、母さんと英二さんの心配げな表情が並んで俺の方を見ていた。その様子を見て我に返ると、乱れる動悸を抑えながら平静を装いつつ席に着いた。
あえてなのか、母さんも英二さんも2階で何かあったのかと訊いては来なかったが、英二さんは「あいつ、ほんと我が儘で……ごめんね」とフォローし、母さんはそのフォローに対して「思春期だもの、あれぐらいのこと何でもないわよ」とフォローしていた。
あれぐらいのことが何でもない……?
母さんの言葉に引っかかって、俺は思わずさっき見たことを思い出した。
中学3年のヤツが部屋に友人を呼んで、やっていたことと言えば性行為――それが何でもないことか?
いや、たぶん母さんはそのことを知らないだろうし、「あれぐらいのこと」が指しているのはあいつの我が儘な態度のことだけだ。
それにしても……あいつはケーキを持ってくるのが俺だと思って、わざとあの行為を見せようと部屋の扉を開けていたに違いないが、もし持って来たのが母さんだったら、あいつはどうするつもりだったんだ?
それでも構わないと思ったんだろうか。久臣も見られることに何の抵抗もなかったのか?
それとも、もしかしたら今までにも母さんに対して、同じようなことをしてきたのだろうか。だから、母さんはあえて今俺に何も訊いてこないのか……?
ケーキを食べながら、会話を続ける母さんの様子を盗み見たが、俺の目から見て動揺しているようには感じなかった。明るくて、よく笑ういつもの母さんだ。
そのことにホッとしながら、でも考えてしまうことは、この上の階で続いてるかも知れないあいつの行為だ。たぶん俺に嫌がらせするためだけに、久臣にあんなことをさせているんだろう。
俺に向けられた悪意を、思ってもみない方法で見せ付けられて、俺は激しい嫌悪感を覚えた。
内心であいつへの恨みを募らせて、ケーキを味わう余裕もなく食べながら思うことは、一刻も早く俊也さんのマンションに帰りたいということだった。
ところが、ケーキを食べ終えて「俺もう帰るよ」と席を立とうとすると、
「ちょっと待って、プレゼントがあるのよ」
と母さんがいうので、そのプレゼントがどこから出てくるのかと待っていたら、そんな俺の様子を見て母さんがクスリと笑った。
「プレゼントはこれから買いに行くの」
言いながら母さんと英二さんが出かける用意をはじめるので、思ってもみなかった成り行きに驚いた。
そういえばプレゼントを貰えるかもという期待があったことを思い出したが、今の俺は俊也さんのマンションに帰りたい気持ちの方が強い。
プレゼントは遠慮して帰ろうかなと逡巡していると、そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、母さんが先を続けた。
「買うものは決まっててね、携帯にしようって」
それを聞いて俺は、買ってもらわない手はないなと即座に考えを改めた。