気がつくと無意識に俺の口からため息がこぼれていた。
今日、起きてから1時間も経っていないというのに、これで何度目だろうか……そう思っていると向かい側から視線を感じた。
ハッとして顔を上げると、テーブルを挟んで一緒に朝食を食べていた俊也さんが、新聞から顔を上げて少し困ったように苦笑していた。
俺は慌てて取り繕うとして口を開き、
「ごめんっ」
そう言ったら、食べかけていたパンの欠片がテーブルに飛んだ。汚い。
焦りつつ口に手をやると、今度はきちんと口の中のものを飲み下してから、もう一度俊也さんの方を窺いつつ「ごめん」と謝ったが、すでに朝からため息ばかりついていることへの謝罪か、口から食べ物を散らした行儀の悪さに対する謝罪か、自分でもよく分からなくなっていた。
そんな俺の様子を、朝からずっと黙って見守っていた(んだと思う)俊也さんは、読んでいたページを表にして新聞を小さく畳むと、テーブルの上に置いてから改めて俺に向き直った。やっぱり苦笑を浮かべたままで。
「そんなに嫌なのか? 家に帰るのが」
日曜日に部活の練習を休んで実家に帰るのが母さんとの約束になっていた。それが今日なのだ。
「うん……」
なぜ、そんなに実家に帰るのが嫌なのか、俊也さんはその表情で問いかけてきたけど理由は知ってるはずだった。だから俺はとくに説明しなくてもいいだろう――というよりは説明したくないと、口をつぐんで朝食を片しにかかる。
すると今度は困ったような苦笑から笑みだけ引っ込めて、心配そうな顔になると俊也さんは俺を覗きこむようにして言った。
「今日、一日帰るだけじゃないか。日曜日だから、彼も家に居ないかも知れないよ」
彼、とは義理の弟のことだ。
言い諭すというよりは気を楽にさせようという俊也さんの気遣いを感じて、俺は視線を上げると俊也さんと目を合わせた。だけど、ずっと合わせていると思考を読まれそうで、すぐに視線を外す。
俊也さんは知らないからな……。
俺が腹痛と嘔吐で倒れたあとに、母さんからの電話で言われたこと。
『今回みたいなことがこれから無いとも言えないし――そろそろ、こっちに帰ってこない?』
ひやり、とした。心臓が凍るような、冷水を浴びせられたような。
ずっと俊也さんの部屋に居候するつもりはなかった。だが、そう思う一方でずっとここに居れたらいいのに、とも思っていた。もちろん、甘えだということは分かっている。
ちょうどもうすぐ1年になるというのも、なんだかキリが良すぎて家に帰るには絶妙なタイミングとも思えるし。
まるでそれを計ったように、俊也さんのマンションへ来て初めて倒れて迷惑をかけて、ますます俺を実家に帰りやすくしてくれた。
今が帰るタイミングなんだよと、そう誰か別の存在から言われてるような気がする。
「おばさんに、何か言われたのか?」
驚いて顔を上げると、さっきと変わらない心配げな俊也さんの顔があった。ずっと俺の表情を読みとっていたんだろうか。視線を合わせてたら思考が読まれるとか心配するまでもなかったようだ。
それでも俺は首を横に振った。
もしかしたら俊也さんには、それは「うん」と頷いているように見えたかも知れないけど、俺も、俊也さんもそれ以上は何も言わず、あとはただ静かに朝食を済ませた。
暇だから家まで送るよ、という俊也さんの申し出を俺は丁重に断った。
せっかくの休みなのにそれは申し訳ないっていう遠慮もあったけど、少し長い距離を自転車で走りながら行けば、気持ちを落ち着けるには丁度いい時間の長さになると思ったからだ。
俊也さんが住むマンションから俺の実家へは、方向で言えば北東になり、距離で言えば約10kmほどになる。
時間はどれくらいかかるかと言えば約1時間で、実のところ実家から根湖高校までの距離もそう変わらないから1時間強ぐらいで行けるはずだ。
友明や雄樹なんかはそれ以上遠いから、駅まで自転車で行ってそこからバスに乗り換えて登下校してるが、俺は自転車で登下校しようと思えば本当は出来るし、それが辛かったとしても友明たちと同じように、自転車+バス通学にすればいいわけで……。
だが、母さんにもそう説得されたけども俺は、俊也さんの部屋に居候させてもらうことにした、それしかその時は――今もだけど考えられない。
その理由は母さんが再婚して出来た義理の弟だった。
再婚の話を聞いたのは中学2年の終わりごろだった。それ以前にも、毎日楽しそうにしていたり、休日にはオシャレして出かけたりと、母さんの様子が変わったなってのは気づいていた。
それである日の夕食時に急に改まって「再婚しようと思うの」と言われて、俺は驚くこともなく「やっぱりな」と至極納得するだけだった。
とくに反対する理由もないし、母さんがそれで幸せになるならと俺は「良かったね」と祝福した。
ところが、そのあとで「かずくんに弟ができるのよ」と聞かされて、予想もしていなかった展開に今度はさすがに驚いた。嫌だと感じたわけじゃないと思うが、今まで父親もなく母さんは仕事で居ないことがほとんどで、祖母も俺が成長するにつれて来なくなり、家では1人でいることに慣れていたから、たぶん戸惑ったんだと思う。
しかし、かといってたかがそれだけのことで否とも言えず、せめて脳内でシュミレーションでもしておくかと、妄想して作った弟の姿は自分より背の低い、どちらかと言えば可愛げのある少年だった。そして、更に言ってしまえば従順だったとも思う。
そのうち、相手方と4人で食事をすることになって、再婚相手とその息子との初対面ということになり、そこで見事に俺の妄想は本当にただの妄想に成り果てた。
「一幸くん、はじめまして。僕は橋谷英二で、こっちが息子の鋭(さとき)です」
食事会の場となった洋風のレストランで会ったその優男風の中年男性は、優しいというだけでなく柔弱な雰囲気が漂う感じもあった。だが、それはその男性――英二さんが紹介した息子の方が、父親のはずの英二さんよりもデカかったからかも知れない。
俺だって身長は平均的で低くはなかったはずだが、1歳年下だというそいつは平均を10cm以上もゆうに超えてデカかった。しかも、長身というだけでなく体躯も逞しくて、見ようによっては細く見えてしまうこともある俺からしたら、かなり羨ましい身体の造りだった。
思わず数秒ぼうっとしてしまったが、隣にいた母さんに肘で突かれて我に返り、
「あ、その、はじめまして。よろしく……」
と慌てて返事をするも、英二さんの方は相変わらずニコニコ顔だが、一方の息子はブスッとして何の応答もなかった。
そこでまずカチンと来たのだけども、初対面ということもあり気にしないことにしたのだが……。
ところが、その後も会話には一切参加することもなく、いち早く食事を終わらせるとあとは携帯を取り出し、ひたすらメールなのかゲームなのか弄っているのみで終始した。
時々、英二さんがそれを窘めていたが、その叱り方もやんわりとしたものだから、息子も平気な顔で適当に相槌を打つだけだった。
食事も終わり会話もそこそこで切り上げて、「じゃあ」と別れたころにはすっかり俺の中で、義理の弟になるだろう相手の印象は最悪なものとなったのは、当然と言えば当然だと思う。
それでも、だからといって再婚に反対する理由にはなり得ないと俺は思って、あえてそのことを論って母さんに「考え直したら」なんてことは言わなかった。何よりも再婚相手である英二さんが、息子とまったく正反対で悪い男だという印象がこれっぽっちもなかったからだ。
そして中学3年の春、母さんは英二さんと再婚した。どちらとも2回目ということだったから式も披露宴も質素なものだった。
結婚後は互いにアパートやマンション暮らしだったので、俺と母さんが住んでたアパートに、比較的近い場所に新築の家を買ってそこへ引っ越した。
だから、実は“実家”と言っても1年しか暮らしたことがなく、本音を言えば実家という感じはしない。
白を基調とした洋風の家は、新築ということもあってかまさに“新婚”や“新生活”というイメージにぴったりだった。
その2階北側の部屋を充てられたが、俊也さんの部屋へ引っ越すときにベッドや机なんかも持って行ったから、今は本棚くらいしかないほぼ空の部屋へ行ったところできっと何の感慨もないだろうなと思う。それどころか、もしかしたら義弟が使っていて様変わりしてるかも知れない。
そんな複雑な気持ちを覚えつつ、約1時間かかってやっと自宅前に着いた。降りた自転車を押しながら小さな門を通って、駐車場横の開いたスペースに自転車を置き、ついでに義弟の自転車もあることを確認して、少しだけ逡巡してから玄関を開けた。
「ただいま」
靴を脱ぎながら家の奥に声をかけると、バタバタと少し騒がしい足音がして、リビングダイニングに続く左の扉から母さんの姿が現れた。
「お帰りなさい、かずくん」
約10ヶ月ぶりの母さんの姿は、以前の働き通しだった頃よりも若々しく見えた。
「もぉ、待ってたのよ。遅かったのね」
言いながら俺がマフラーや手袋を取るのを見て、少しだけ驚いたような顔をした。
「かずくん、自転車で来たの?」
もしかしたら、外の冷気で鼻や頬が赤くなり、風に煽られて髪もボサボサだったかも知れない。その髪を直しながら頷くと母さんが今度は不満気に言った。
「それだったら迎えに行ったのに」
そう言われても、自転車で来たかったんだとか、頭を冷やしたかったんだとか、心の準備をしたかったんだとか、そんな説明をするつもりもなく黙っていると、母さんはふっと息をついて「ま、いいわ」と俺をリビングへ行くよう促した。
「本当はね、どっかに食べに行っても良かったんだけど、かずくんの予定が分からなかったから手料理を作ったのよ」
母さんの話を聞きつつリビングに入ると、ソファに腰掛けて英二さんが居て、俺に気づくと締まりのない笑顔で「おかえり」と俺を迎えた。
「じゃ、座って待ってて。もうちょっとで出来るから」
座ってと言うのはきっとソファのことなんだろうな。英二さんはテレビに向かい合うように、2人掛けのソファに座っているから、俺はジャケットを脱ぐと扉に近い方の1人掛けのソファに座った。
部屋はしっかりと暖房が効いてて暖かく、急な気温差に反応して鼻をすすりながら、ついていたテレビを何気なく見ていた。そうして、英二さんとするような会話もなく沈黙が続く。
ただ、時々英二さんが思い出したように「外寒かったろ」とか「学校にはもう慣れた?」とか在り来たりな質問をしてくるので、俺は「はあ、まぁ……」とか適当に答えるだけだった。
少々気まずい雰囲気をやり過ごしていると、あまりにも静かで気配も感じなかったので、居ないのかも知れないと思っていた義弟のだろう、足音が階段の方から聞こえてきた。
階段はリビングやダイニングキッチンの奥の扉を開けた先にある。足音が1階まで降りてくると扉を開けてそいつが姿を現した。といって、俺はそっちの方向に背を向けてることになるので、わざわざ振り返ったりはしないんだけど。
そいつはそのままリビングダイニングを通って、玄関に出る扉へ向かっているようだった。慌てたようにキッチンから母さんが出てくる。
「鋭くん、出かけるの? もう料理ができるんだけど、食べない?」
だが、母さんの問いかけに足は止めつつも、その問いは無視する形でそいつがはじめて口を開いた。
「ああ、居たんだ」
声は後ろからしたが、はっきりと俺に投げかけた言葉だと分かって、俺は座ったままゆっくりと振り返った。立ってしまったら歴然とした身長差を見せ付けられて、そこでもうやられてしまうから、座ったまま睨み上げるようにそいつに視線をやった。
黒のタートルネックのセーターに黒のデニムと、手には濃い茶色のジャケットを持って、いかにも威圧感のある相変わらずのデカい体躯が俺には腹立たしかった。
さらに、一重の切れ長な目と薄い唇には、憎ったらしいほどの人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
横では英二さんが咎めるように息子の名を呼ぶが、それさえもこいつは無視して。
「本気で誕生日とか祝ってもらうんだ。その年で? 恥ずかしくない?」
羞恥と馬鹿にされた怒りを覚えて頬が熱くなるが、俺はグッと堪えて沈黙を保った。
キッチンから今度は母さんに声をかけられて、やっとそいつは振り返りもせず答えた。
「ああ、すぐ帰るし。久臣呼んでるから、そいつのも残しといて」
めんどくさそうに言うと、また皮肉げな笑みを戻し俺を見下ろして、
「そうそう、あんたの部屋、漫画置き場とゲーム部屋にしてっから、上がってくんなよ」
そういうと俺の抗議も聞かず、ジャケットを着こんでリビングを出て行ってしまった。
――上がってくんなよ?
あまりの言い分に呆然としていると、後ろで英二さんが遠慮がちに「ごめんね」と謝っているのが聴こえたが、見なくてもその顔には息子に甘い父親の苦笑が浮かんでいるんだろうと分かった。
なにが「ごめんね」だよ。