冬。僕はきみの傍に、

3P番外編−獲物

「もし! どなたかいらっしゃいませんかっ! この深い森の中、夜闇に道を見失ってしまい困っております。不躾なお願いではありますが、一晩の宿をお願いしたいのです。もし!」
 静かな夜だったものが、一人の青年の現れたことで騒々しくなって、家の主である男はうんざりとしながら立ち上がった。
 戸の閂を外して開くと、商人風のまだ若い青年がそこに立っていた。重たそうな荷物を担いで、現れた男を見上げてまた先ほどと同じようなことを、同じ調子で繰り返そうとするので、男はそれを手で制して言った。
「一晩だけだ」
 ぶっきらぼうな言い方だが青年は感謝して礼を述べると中へと入った。
 重たい荷物を土間へ置くと、青年は無意識に室内を見渡していた。何も無い簡素な佇まいに青年は一瞬だけ違和感を覚えるが、それが何か気付かないのはまだ経験の浅いせいかも知れない。
「酒は飲めるのか?」
 居間に上がって座りながら男が言うので、青年は反射的に「はい」と答えてしまってから慌てて「いいえ」と言いなおした。
「どっちなんだ」
 眉間にしわを寄せて男が言うので、青年は更に焦って言った。
「飲めますが、いただくわけには……」
「何か食べるものは持ってないのか?」
 酒をやる代わりにそちらは食べ物を出せと男は言っているのだと分かって、青年は荷物から干し肉を取り出した。そして、男の勧めるまま居間に座って酒をいただいた。
 酔いが回ると、もともと口から先に生まれたような青年はひたすら話に高ずる。
 あの客は値切りが酷いだとか、あの商家はやり口が汚いだとか、そういったことを相手の相槌の有無も気にする様子もなく延々と話し続けた。それを男は黙って聞いてはいるが、興味深いと思うはずもなくただ聞き流しているに過ぎなかった。
 どれくらいかして、青年は男が自分の話を聞いてはいないということにやっと気付いて、話を変えて今度は男に訊ねてみることにした。
「あなたはずっとここで、一人で暮らしているのですか?」
「――いや、最近住むようになった」
「では、以前はなにを?」
「いろいろだ。旅をしたり雇われてみたり」
 それでは、自分と近いものがあるのかも知れないと青年は男に親近感がわいた。
「実は私も自由に旅をしてみたいと思っているのですよ。この仕事は元々親から受け継いだもので、やりがいはありますが自分のしたいことはもっと違うことなのじゃないかと思うことがあるのです」
 しかし、それにも男は「ふん」と相槌を打つだけだったが、構わずに青年は続けた。
「親の言うことに間違いは無いと思うのですが、それでももっと自分の思うことを自由に出来たなら、もっと違う今があったのじゃないかと、ふとした瞬間に思ったりするのです」
 すると、今度は男は酒を飲む手を止めてニヤリと笑って「そうだな」と答えた。青年は男の様子に我が意を得たりと更に続けた。
「私は勉強が好きで、もっと勉強を――と思ったのですが、それは親に反対されてしまい勉強するよりも家業を継げと言われ泣く泣く諦めました。あのまま続けていれば私は今どうなっていただろうかと、考えても仕方ないとは思うのですがそれでも考えずにはいられないのです」
 そこまで熱く語ってから、青年は急に恥ずかしくなって声を落とした。
「すいません……こんな話、面白くないですね」
「いや」
 男はそう言うも、それ以上を言うことは無くまた酒を飲み続け、青年も高揚した気持ちを落ち着けようと少し黙った。
 青年が来てからの初めての沈黙だった。
 自分の話ばかりしても仕方ないと、青年は話題を探そうと男の家の中を見回した。だが、初めに思ったように何も無い簡素な室内で話に出来るようなものもないように思えた。
 しかしそれにしても、これほど何も無いのはどうしたことだろう。ここで一人で暮らすならば、畑の一つでも耕していそうなものだが、それらの道具は見当たらないし、炊事するための道具も見当たらない。辛うじて火を焚く薪と酒を飲んでいる器はあるが。
 青年は素直にそれを口にした。
「何も、ないのですね……」
「ん?」
「食事はどうしているのですか?時々、町へ下りているのですか?」
「……いや、待ってるんだ」
「待ってる? 待ってるって食事が来るのをですか?」
「ああ」
「それはどういう――」
 青年が言いかけて、男の手が伸びてきたのに言葉が途切れた。男の口が開いて
「こういうことだ」
と言うと、青年は自分の首が噛み千切られるのを見た。
 温かい血が体を濡らすのを感じて、それを最後に青年の意識はなくなった。



「しかし、うるさい奴だったな」
 数十分後、そこに荷物だけを残して青年の姿は消えた。
 男――鬼は悪態をつきながらも満足そうにまた酒を口に運ぶ。
「だが、確かに自分の好きにしていれば、俺に喰われることもなかったろうに」
 憐れむというよりは楽しむように言ってから、鬼はすぐ次の獲物に思いを馳せて、それ以後もう青年のことを思い出すことすらしなかった。

2008.05.31

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