思った以上に外の空気は冷たかった。もう秋も終わりに近づいているのだから当然だ。
どこに行こうかー、なんて言いながらのんびり隣を歩く悟志に、貴幸はそっと目を向けた。 ――今更だけど、悟志は意外に大人っぽい服を着ていた。彼の私服なんて久々に見たけれど、何だか随分と落ち着いた服である。黒を基調とした今風の、しかし浮ついたところのない衣服は、彼の淡い髪の色によく合っていた。 悟志は今でも子どもっぽい性格で、貴幸としては彼に幼い印象を持っていたのだけれど、こうして普段とは違う格好をしていると随分と雰囲気も違って見える。 それに、何て言うか。 (格好いい、……かも) 見慣れた学生服とは違って随分とシックだ。悟志ってこんなに男らしかったっけ、なんて思ってしまう。 「どっち行こうか、タカちゃん」 「あ、じゃあ、左……」 何でもないただの呼びかけにも、ついどぎまぎする貴幸だった。 「りょーかい」 そう言ってにこっと笑う、彼の柔らかい表情も日ごろより大人びて見えた。ただいつもとは格好が違う、それだけで。見慣れていて気づかない悟志の整った顔立ちに、改めて気づいたようだった。 (結構モテるって言ってたよな、前に) 確かにこれだけ格好良いなら納得である。性格だって、ちょっと頼りない感じではあるけども優しいし、彼を狙っている女生徒は結構いるのではないだろうか。 (って言っても、もう悟志には恋人がいるわけだけど) しかも男の。――そのことを思うと、つきんと心臓に針を刺されたような痛みが走った。痛みを感じる自分に嫌気が差し、貴幸は考えを振り切るようにして顔を上げた。 と同時に、悟志がふと斜め前の方を指差す。 「あ。タカちゃん、鯛焼き売ってるよ」 「本当だ」 指の先には鯛焼き屋のトラックがあった。進路方向にある公園のすぐ脇だ。きっと、ここへ来た親子をターゲットに売っているのだろう。実際トラックの前には幼児と手を繋いだ親が立ち、店主から鯛焼きを受け取っていた。 「おいしそうだなー」 貴幸はふと正直な感想を洩らした。すると悟志が振り返る。何だか期待するような目で。 「食べたい!?」 「え、まあ、うん」 答えると悟志は、貴幸の腕をぐいっと掴んで引っ張ってきた。 「じゃあ行こう! 奢るね、鯛焼き!」 「走るなよ、転ぶぞ!」 手を引いて走り出した悟志に注意をするも、聞き入れるような様子は無い。どうやら、悟志はどうしても貴幸に何かを奢りたくて仕方がないらしかった。その対象が見つかって大喜びというわけだ。 トラックの近くまで行くと悟志は貴幸の手を離した。 「えーと、僕、クリームにしようかな。タカちゃんは?」 「甘いの好きだよなあ、悟志。……俺は抹茶餡を頼むよ」 「了解。じゃ、ちょっと待っててね!」 言うなり悟志は走っていき、少しして鯛焼きを二つ手にして戻ってきた。『貴幸に奢る』という目的を取りあえず達成したからか、満足そうな笑みを浮かべながら。 「はい」 「ありがとな。いただきます」 差し出された鯛焼きを受け取り礼を言うと、悟志は照れ笑いをするのだった。 「こっちこそ、いつもありがとうございます」 「何だよ、その畏まった言い方は」 「あは」 近くのベンチに二人で座り、鯛焼きに口をつける。 「悟志、クリーム熱いから気を付けろよ」 「大丈夫大丈夫。――あ、熱っ!」 せっかく注意してやったのに、悟志は聞かずに食べて早速熱がっていた。慌てるその様子は……どう見ても子どもだ。さっき、服を見て意外と大人っぽいと思ったのは間違いだったかもしれない。 「あー、もう、大丈夫か? 冷えた飲み物買ってくるか?」 「ら、らいようぶ……」 しょうがない奴だと立ち上がりかけた貴幸に、悟志は怪しい発音で返事をした。手を口の前でパタパタ動かして風を送り込み、冷やしている。そんなのに効果があるのかは分からないが、とにかく少しすると落ち着いたようで、今度はゆっくりと食べ始めた。 少々心配ながらも貴幸も鯛焼きを口にする。あんこの独特の甘さが広がり、体中に染み渡るようだった。 「おいしいよ。ありがとな、悟志」 「うん」 貴幸がもう一度感謝を述べると、悟志は嬉しそうに目を細めた。 目の前では、幼児たちが滑り台や鉄棒、シーソーなどの遊具を使って遊んでいる。きゃはは、あらあら、ママー。そんなたくさんの声が耳に届く。穏やかな時間がゆっくり流れていくようだった。 「懐かしいよな、ここも」 「そうだね」 この公園は家から一番近い。つまり、貴幸も悟志も子ども時代にちょくちょく連れられてきていた場所である。ここで美幸も含めた三人でよく遊んだものだ。 昔はとても大きく見えた遊具も、大きくなった今見てみると驚くほど小さい。本当に同じ場所だろうかと疑ってしまうほどだ。 二人はしばらくぼんやりと、目の前できゃあきゃあと遊ぶ子どもたちを見ていた。と、不意に小さな足をもつれさせてすぐ側で男の子が転ぶ。 「あっ」 何気なくその子をずっと見ていた貴幸は思わず声を上げてしまった。転んだ子どもは手をついてムクリと起きあがったが、見る間にその瞳に涙を溜めていく。そして体を震わせたかと思うと、うわあああん、と泣き出した。 公園で子どもが泣くのなど別に珍しいことでもない。怪我もない。だけど貴幸は心配で、残り僅かになった鯛焼きを手にしたまま動けなくなってしまった。 ふと、悟志が優しく笑う。 「大丈夫だよ」 「え?」 聞き返すと悟志は転んだ子から少し外れたところに視線を向けた。つられて貴幸も端に目をやる。すると、転んだ子のところに他の子どもたちが駆け寄ってきていた。 「あ……」 ぱたぱた、という擬音がつきそうな走り方で子どもたちが走り寄る。そして泣いている子どもの側まで行くと、頭を撫でたり服の泥を叩き落としたり、大丈夫かよーと声を掛けたりと、思い思いの方法でその子を慰め始めた。 ひっく、ともう一度だけしゃくり上げたあと、転んだ子どもは目元を拭って立ち上がった。それから他の子たちに紛れて一緒に走っていく。まだ顔は少し赤かったけれど、もう転んだことなど忘れたような笑顔だ。 「ね。大丈夫だったでしょ」 「本当だ……良かった」 安心して、はあーと息を吐く貴幸に悟志は再び笑った。 「そんなに心配することないよ。子どもなんて、転んで泣いて成長するものなんだから」 「まあ、そうだけどさ。見てる側としてはやっぱり心配だろ」 「心配性ー」 相変わらず悟志は笑っているけれど、それは決して馬鹿にした笑いなどではないのだった。 (俺たちも、周りから見るとあんな感じだったのかなあ) 子どもの動きって、端で見てる大人の方が心配に感じるものだ。はらはらして思わず手を出したくなってしまう。いつも助けてばかりいちゃ、本人のためにはならないんだけれど。 そう言えば悟志の母も、ずっと昔は公園で悟志が泣くと心配そうに駆け寄ってきていたものである。いつの頃からだろう、悟志が泣いても見守って、貴幸が慰めるのに任せるようになったのは。 (おばさん……ずっと、会ってないな) 悟志の家に行っていないのだから当たり前だけれど、疎遠になってから二年の間、悟志の母にも会えていない。近ごろどうしているのだろうか。 「な、悟志。おばさん元気?」 「元気だよ」 尋ねてみると悟志は再び鯛焼きを食べ始めた。 「元気だしそれに……結婚するかも」 「え!?」 もぐもぐ。話す合間に悟志は鯛焼きを口に運んでいるが、貴幸は驚いてしまってそれどころではない。 悟志の家庭には父親がいない。つまり母親は始めから未婚だったわけで、誰か相手ができたら『再婚』ではなく『結婚』なのである。 何と言ったものか戸惑いながらも貴幸は言った。 「それは……おめでとう」 「ありがと」 鯛焼きを食べ終えて悟志は、一瞬冷めた目をして視線を逸らした。いくらか面倒くさそうな口調である。 「僕の父親がようやく奥さんと離婚できたとかでさ。やっと、うちの母さんと結婚できるって」 「へえ……」 「二十年も浮気され続けた挙げ句に離婚か。奥さん可哀想だよね」 「…………」 想像もつかなかった話に、貴幸は悟志に掛ける言葉も見つからなかった。祝うのも悟志に同調するのも、批判するのも違う気がする。 悟志は空になった鯛焼きの包みをぐしゃりと握りつぶして言うのだった。 「結婚しても別居して、結婚しなくてもずっと続いて……。何なのかな、離れたりくっついたり。馬鹿みたい」 ……ヒヤリとした。まるで、勝手に離れておいて結局今は悟志といる、貴幸自身のことを言われているようで。 「だから最近はちょっと複雑で、寂しいよ。タカちゃんに側にいて欲しい」 貴幸の気持ちなんてきっと知らずに、悟志は貴幸に笑いかけた。いつものように優しく。 「……タカちゃん、側にいてくれるよね。明日いきなり離れていったり、しないよね」 脅しみたいだと、貴幸は思った。そんなはずがない。だけど悟志にそうして問いかけられると、二年前のことを責められているように思えてしょうがないのだった。 「ああ」 短く答えて貴幸は残りの鯛焼きを食べた。既に冷めていた。 貴幸が頷いたのを見て、悟志は安心したように空を見上げた。 「もっとタカちゃんと過ごしたいな。昔みたいに一緒に登下校したり、今みたいに遊んだりしたい」 「そういうことは恋人としろよ」 何のための恋人だ。貴幸が軽く言ってやると、悟志は納得いかなさげに眉を寄せた。 「そうだけど」 その不満そうな顔を見て、貴幸は思うのだった。 (悟志って、ずっと俺といたからそういう常識を知らないのか……?) 休日や登下校は、疎遠だった幼なじみよりも恋人と過ごすものだとか、その辺りの常識を。いや、こんなことを知らなかったら『ぼんやりしてる奴』では済まない無知である。いくら何でも分かっているはずだ。だけど、じゃあ何故悟志は、恋人がいるっていうのに貴幸と過ごしたいなんて言うのだろう。そして何故、『練習』なんて言ってあんなことをするのだろうか。 (まずいよな、……やっぱり) すぐにでも言うべきなのかもしれない。その辺りの悟志の感覚はずれてるよ、と。どうして言えないのだろう。言いづらいことだからだろうか。断言するほど貴幸も恋愛事の常識に詳しくないからだろうか。それとも、……心のどこかで、この状況を喜んでしまっているから、だとか。 (まさかそんな) 馬鹿馬鹿しい考えを一瞬で否定する。しかしすぐに疑念が沸いてきてしまう。 絶対に違うと言い切れるだろうか。悟志のことを好きだった――今でも密かに好きな自分が、練習と称したキスや行為を喜んでいないと。どこか心の端の方で、どうせ打ち明けられない思いなのだから今だけでも、と思っていたりするのではないだろうか。 頭がくらりとした。 (いや、無い。そんなわけ) 改めて強く否定し、貴幸は立ち上がった。少し遅れて悟志も腰を上げる。 「ごちそうさま。美味かったよ」 貴幸が声を掛けると、悟志は顔を輝かせた。 「良かった、タカちゃんに奢れて! 次はどこに行こうか?」 鯛焼きのゴミをくずかごに捨て、並んで二人で歩く。 「そう言えば、この前商店街のたこ焼き食べたんだけどさ」 悟志は先ほどの真剣な話など無かったかのように、楽しそうにあれこれと話すのだった。 |