恐る恐る麗は首を動かし、下を見た。……いた。そこには、穏やかに優しく微笑む葉弥翔。そして、口の両端に手を当てて大声で呼んでいる力哉の姿があった。
何ということだ。外から室内を覗くという醜態を見つかった上に、こうして直に会いに来られるとは! どうしたものだか良い考えが浮かんでこず、取りあえず麗は動揺を鎮めるためにはさみで枝を切り落とし続けた。 「伊月さん、おーい、伊月さーん!」 「麗ー!」 けれども、無視をしたところで彼らがそこにいるという事実は変わらない。それに葉弥翔にまで呼ばれてしまえば、これ以上知らんぷりはできなかった。仕方なく麗は、まるで何事もなかったかのような顔をして振り返った。 「はい。いかがなされましたか?」 上下に離れての会話だ、自然と声は大きくなってしまう。答えると力哉は笑いながら言った。 「ハイじゃねえだろー、あんなとこから見られてるなんて思わなくて、びっくりしましたよー!」 「みっ、見ていたわけでは、ありません!」 反射的に麗は体ごと振り返って言った。苦しい言い訳だとは分かっていたが、覗き見を認めるわけにはいかなかった。麗自身の評価が下がるだけならばまだしも、下手をしたら、そんな執事を雇っている華宮が悪く思われてしまう。 「またまたー。あんなにバッチリ目が合ったってのに、そりゃねえだろー」 麗の心配とは裏腹に、力哉は何とも楽しそうだった。恐らく彼は、たまたま麗があの位置にいて、話題が気になって偶然様子を窺っているとでも思ったのだろう。実際は違うというのに、もっと悪意を持って見張っていたのだというのに、彼は麗を疑っていないのだった。 そのことを思うとまるで罪悪感のようなものが麗の内側に沸き起こってくる。そんな気持ち、感じる理由がないはずなのに。 「麗ー。お疲れさまあ。僕、一杯だけ紅茶が飲みたいなあ」 葉弥翔はにっこりと微笑んで労ってくれている。なんて愛くるしい微笑みなのだろう。可愛らしくて仕方がない。 「おい、ハヤト。だから、そんだけの用事のために作業中の伊月さんを使うなって……」 力哉が葉弥翔を諫めている。しかし葉弥翔はきょとんとするばかり。麗にとっても同じだ。使用人である麗にとっては、主君に必要とされ、些細なことにでも関わっていくことこそが幸福なのである。力哉がこうして止めることなんて言語道断、上流階級の常識を分かっていない庶民の愚かな考え、のはずだった。 それなのにどうしてだろう。彼の言葉が、憎めない。 「麗ー、それじゃあ、後でいいよ。いつもありがとう」 下の方から葉弥翔が、口元に手を添えて語りかけてきてくれる。彼の優しさに麗は感動していた。 「なあ伊月さーん、さっきの俺とハヤトの会話、聞いてたんだろ?」 そして今度は力哉。彼は目を細めて笑っていた。 「どうだったんスかー? ちょっとは、嬉しかった?」 「嬉しくなど、ありません……!」 厳しく言い返す。けれど力哉はそれを聞くとますます楽しそうになるのだった。 「またまた、んなこと言ってー。ほんとは嬉しかったくせにー」 「喜ぶ要素などありません! 妙なことを仰らぬように!」 「だって、毒気のない顔で見てたじゃないっスかー」 「見ていません!」 否定をすればするほど、力哉はにやにやとするばかり。思わず麗はカッとなってしまって、梯子に乗ったまま勢いよく振り返った。これまでよりもずっと、強く。 「妙な思い込みで……、あっ!」 それが悪かった。元々安定の悪い梯子に腰掛けていたのだ。その上で思い切りよく体勢を変えなどしたものだから、当然、体は不安定になってしまう。あっと思ったときには遅かった。 「麗!」 「伊月さん!?」 梯子が揺れる。遠心力も加わって体が投げ出されるようにぐわりと回り、足が梯子の段に引っかかったことも災いして、麗は完全に体勢を崩してしまった。梯子の上でそうなるというのはつまり、落ちるということ。 そこからはほんの一瞬で、声を上げる暇もなかった。驚いて口を開いたまま、麗は地面へと向かって落下していった。 (しまった、ぶつかる……!) その衝撃と痛みとを思い麗は強く目を閉じた。直後に、ドスンと背に掛かる反動。跳ね返るように背が持ち上がり、再び落ちる。落下と浮遊感に、くわんと気味の悪い回転が脳の中に起こった。衝撃を自覚できたのは、その後だった。 が、しかし。その苦痛は覚悟していたほどのものではなかった。地面は確かに固い土だったはずなのに、何故か背には柔らかい感触があった。足は土にぶつかってしまったが、背中から落ちたために、その柔らかな何かにほとんどの衝撃が吸収されていって麗を包み込んだ。 「……うっ…」 くらくらする。高いところから落ちた恐怖と、その際の感覚に背筋が冷える。それでも麗は瞳を開けた。何にぶつかったのだろうかと思いながら、そっと。――すぐ目の前に、力哉がいた。 「大丈夫か!」 「麗っ、麗ー!」 ぽかんとしている間に、二人から声が掛けられる。力哉も葉弥翔も必死の声音だった。麗は一瞬面食らったが、即座に状況を理解した。 背に当たった柔らかな感触。すぐ近くにある力哉の顔。自分を包み込むような腕。 落下した自分を、力哉がすぐ下で受け止めてくれたのだ。 「おい! 大丈夫かよ! 怪我は!?」 「麗、痛いところない!? 痛い!?」 葉弥翔は泣きそうな顔をして麗に抱きついてきた。力哉は一切ふざけたところのない真剣な面持ちを麗に向けていた。 「は、……はい、大丈夫です。全く無傷で…」 落下してしまったという驚きと、それを力哉が受け止めてくれた事実。どちらも衝撃的で麗は混乱気味だった。けれど怪我は一切ない。少しだけ足が痛むが、無事だろう。 それを答えている途中で気がついた。あっと言う間に麗は正気を取り戻した。 「って、私のことよりより、力哉さん! だ、大丈夫なのですか!? 手は! 体は!」 麗は充分な背丈を持った成人男性だ。そんな自分が梯子から落ち、その衝撃を力哉が自身の体で受けたのである。麗なんかよりも彼の方がよほどダメージが深刻なはずだった。麗は慌てて体を離し、彼の手足を忙しなく観察した。 「ああ、平気。……っつ。ちょっと体が痛いけどな」 「ええっ!」 「そんな……!」 手をぶらぶらと振りながら苦痛に顔を歪める力哉に、葉弥翔と麗は同時に声を上げた。こうなると今度は、麗ではなく力哉が心配される番だ。二人は力哉に群がった。 「大丈夫なのですか、そんな! 専属の医師をお呼び致しましょうか!?」 「力哉、……い、痛いの!? 力哉、力哉…!」 先ほどから瞳を潤ませていた葉弥翔は、ついに涙を零してしまった。そんな彼に苦笑で応えてから、力哉が麗の方を見る。 「ほんのちょーっと、衝撃が来たってだけ。すぐ治るから医者とかいらねえよ」 「いけません、そんな!」 言いながら、無意識のうちに彼の手を引いて駆け出していた。向かう先は決まっている。彼に手当てをするのだ。麗は全速力で力哉と走った。たった今、麗をその体で受け止めた力哉は手足が痛むようで、引っ張られながら「ちょっ、ま、待てっ!」などと言っていたがそれを聞く余裕もなかった。葉弥翔も涙を手で擦り、不安げな表情のまま追いかけてきた。 執事の仕事には体力も気力も必要だ。けれど常に優雅な動きをする麗にとって、全速力で走るのは本当に久しぶりのことだった。薬などが置いてある場所へ着く頃には、完全に息が上がっていた。手足が痛むのに無理矢理走らされた力哉も同じ。葉弥翔は遥か後方から必死に追ってきていた。 「っ……、はあ、っはあ、……はっ」 「おい、……はあ、伊月さ、はあ…っ、い、伊月さん、……はあ…」 ぜえぜえと肩で息をする。冷静に考えてみれば力哉を連れてくる必要などなく、包帯などを持って麗が場に戻れば良いだけだったのだが、動転してしまってそんなことは考えられなかった。 「はあ……、す、すぐに、はあ、包帯…、はあ、を、お出しします!」 「はあ、……はあ、は…っ。……む、無茶するなアンタ、意外と……っ」 力哉はその場に座り込み、強ばった表情でそんなことを言っている。聞き流して麗は救急セットを漁った。そして応急処置の道具を手にして振り返ったところで、足を痛そうに押さえる力哉に気がついた。そのときになってようやく、体が痛む彼をここまで引っ張ってきてしまった自分の愚かしさに思い当たる。さあっと血の気が引いていった。 「りっ……、力哉さん! 申し訳ありません、こんなところまでお連れして……! わ、私ときたら、何ということを! ごめんなさい!」 がばりと腰を折り、心から麗は謝罪した。力哉が自分にとって憎い相手であるとか、そんなことは何の関係もなかった。 幸いにして力哉が何ともないと言ったことは真実だった。だからこうして走らされたことも、辛くはあったけれど決して致命的ではなかったらしい。彼は苦笑してひらひらと手を振っている。 「あー、いいって、いいって。気にすんなよ。でも、ちょっち今のは、酷かったよなあ……」 「申し訳ありません……!」 力哉は笑っているが、麗からしたらただ事ではない。そうこうしているうちに葉弥翔も追いついてきた。彼も苦しそうに息を切らしながら、力哉と麗のことを心配している。ふわふわとした彼の柔らかな髪は走ってきたことで乱れ、顔はぐしゃぐしゃだった。自分の不注意で大切な葉弥翔にそんな顔をさせてしまったことが辛かった。けれどそれと同じぐらい、力哉に対して、申し訳が立たなかった。 「俺は大丈夫、包帯とかほんとにいらねーって。っていうか、何で落っこちた伊月さんじゃなくて俺が心配されてんだよ。ほら、泣くなよハヤト。この通り俺はピンピンしてっから」 力哉は何でもなさそうにそう言っている。葉弥翔は未だ心配そうなまま頷いて、次に麗を見た。 「麗。麗も、大丈夫……? ごめんね、僕が下からあれこれ話し掛けたりしたから」 「私は平気です。それより力哉さん……」 「だーから、俺は大丈夫だって! もう、何だよこの心配のし合いは!」 言っている途中でおかしくなってきたのか、力哉は吹き出した。当の本人がそう言って笑うので、葉弥翔も麗も、どう反応すればいいのか分からなくなって彼を見た。 「ともかく伊月さんが無事で良かった。ヒヤッとしたぜ、見てて」 「申し訳ありませんでした……」 落ち込んで麗は答えた。その頭を、ぐしゃりと力哉が掴む。荒々しい手つきだった。けれどそれは決して、怒ってのものではなかった。その逆だ。力哉はまた明るく笑った。 「しおらしいのもいいけどさ。せっかく助けたんだから、やっぱ、ありがとうって言って欲しいよな!」 麗は何とも言えずに力哉を見つめる。あまりに彼が邪気もなく笑うものだから、麗の心の中でまで、固い何かが解れていってしまいそうだ。 その変化に胸がざわめくような感覚を覚えながら、麗はぽつりと言った。 「……ありがとう、ございました」 嫌みを口にする気など全く起きてくれなかった。 |
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